語ることのできない「恐ろしい話」とは / 治安戦から沖縄戦へ / なぜ歴史修正主義は沖縄戦を盗用するのか
兵隊たちの中国での体験談
沖縄戦で戦った日本の部隊は多くは、中国戦線をへてやってきた。
ゆえに、日本軍による住民虐殺や、「集団自決」とよばれる強制集団死や斬り込みなど、沖縄戦と、沖縄戦のただなかに置かれた住民のさまざまな状況を理解するためには、どうしても、日本軍が中国大陸でやってきたこと、を知る必要がある。
そういう意味では、第32軍の牛島司令官や長参謀長もまさに南京攻略戦を指揮し、特に長は南京虐殺にかかわったと自慢していた*1。また、彼ら二人の推しで沖縄県知事として赴任した島田も、上海での「在上海内務書記官・日本大使館中支警務部副部長」として内務の治安業務にかかわっていた*2。日中戦争と治安戦の延長に沖縄戦があった。
祖国に復員すれば、表立って語ることができない、
おぞましい治安戦の記憶・・・。
しかし、大陸の戦線から沖縄の島々にやってきた10万の兵士たちは、住民の家に分宿することも多く、最悪の場合、「捕虜」となったらどうなるのか、住民はさまざまな話を兵士たちから聞いたのだった。
伊江島の女性の証言
そのころからだったでしょうか、島は危険だとさとり、本島への疎開を考えはじめました。そこで、家に分宿している兵隊たちに相談して見ました。ところが、兵隊たちは、絶対に大丈夫だ、疎開の必要はない、というのです。兵隊たちは、口々に、絶対に負けることはない、といって私たちを安心させようとしました。そして、また、負けてはならない、といい、負けたらどんなに惨めなことになるか、と自分たちの中国大陸での体験を引きあいに出して話していました。その内容は、今でも口にしたくないのですが、とにかく、この兵隊たちは中国の人たちにたいして、ずい分とひどいことをしてきたのですね。それをとくとくと話しながら、負けたらこうなるのだ、だから、もし、万が一負けるようなことにでもなれば、婦女子を殺して、自分たちも死ぬのだ、などといっているのです。そのとき、私は、兵隊たちの中国での体験談にたいして、もう止してくれ、それが人間のすることか、そんな話は聞きたくない、といってやりました。
語ることのできない「大変ひどいこと」。しかし住民はそうした話の一つ一つを、比喩ではなく、具体的なリアリティーを持つ実体験として、直に彼らから聞いていた。
中国大陸から帰ってきた在郷軍人の人たちから、日本軍が、支那人を「チャンコロ」と呼んで、大変ひどいことをしてきた話をきいて、軍隊というのは、非常に恐ろしいもんだと思っていました。それで、沖縄にアメリカ軍が上陸してきたら、私らはアメリカ兵に日本軍が支那人 (ママ) にやったような目に会わされるんではないかと思っていました。
股裂きにして殺される、と比喩的な表現でしか語ることのできない何か。それらは、実体験として住民に伝えられ、そして捕虜にならぬよう、住民に自死のための手榴弾が渡された。
伊江島の17歳の女性
「米軍に捕まったら股裂きにして殺され、女性は辱められる」などと兵隊から聞かされた。「捕まるより自決しなさい」と各家庭に手りゅう弾が渡されていた。
伊江島 サンダタ壕の「集団自決」 ~ 伊江島・女子救護班140人のうち生存者は9人 ~ - Battle of Okinawa
住民には、日本兵から手榴弾が配られていました。「鬼畜」のアメリカに捕まったら「男は八つ裂きにされ、女は強姦されて殺される」だから捕まる前に潔く「自決しなさい」と。
復員後、彼らが決して日本で語らなかったこと、語ることのできなかったこととは、何か。
中国での「治安戦」~ 焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす
燼滅掃討作戦 - 殺戮、放火、略奪
戦後の代表的歌人、宮柊二は、4年間中国山西省で治安戦に従事、歌集『山西省』は、その記憶を歌にしるしたものである。
落ち方の素赤き月の射す山を
こよひ襲はむ生くる者残さじ
華北での「治安戦」のなかで、拡大する八路軍に手をこまねいた日本軍は、村もろとも殲滅する計画を立てる。これを日本軍は「燼滅掃討 (じんめつそうとう = 燃えかすがなくなるまで徹底的に滅ぼす) 作戦」と呼んだ。
北支那方面軍の第一軍参謀長の田中隆吉少将は、1940年8月26日 …「敵をして将来生存する能わざるに至らしむ」ように「燼滅掃蕩」せよ、つまり、抗日根拠地にたいして燃えかすも残らないほど徹底的に殺戮、放火、略奪して生存不可能な状態にせよと指示した。
これを中国側では「三光作戦」つまり、焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす作戦と呼んだ。戦後、宮柊二の上官であった相楽圭二は、戦犯裁判において、地元住民の略奪、逮捕、拷問、撲殺、刺殺、射殺、放火を命じ、公然と強姦、輪姦を容認してきたこと、自分自身も女性を囲い強姦したことを自筆の供述書にまとめている*3。1956年の戦犯裁判では、彼の供述を含め、45人の供述が記録に残されている *4。
焼き尽くす。
やっぱり兵隊と言えばマッチ1本だよね、… やはり家焼く場合には、普通は日本ではできへん。戦場いるとな、火はマッチ1本で出来るし。
奪い尽くす
こっちは討伐に行っても、もう住民は誰もおりませんだで。ただ、略奪って言うんか、物を盗ることが主でした。食料盗ったり、金銭を、金を盗ったりしてな、ええ。
そして、殺し尽くす
八路軍の捕虜処刑を初年兵の刺殺訓練に。
初年兵が呼ばれ、順番で銃剣で捕虜を突き殺したり、軍刀で首をはねる訓練をやらされる。そうやって感覚は完全に麻痺し始める。
首が前をコロコロコロと転がって。何度斬っても転がる。… 面白いっていう感覚と、「あっ、首って転がっているのがこういう状況か」っていう、そういう簡単な感覚。そういうことでして、人を殺して何も思わないような兵隊に仕立てあげて、それを「立派な兵」として、中隊に入らせます。
《近藤一・宮城道良著『最前線兵士が見た中国戦線・沖縄戦の実相』(学習の友社 2011) 18頁》
近藤一さんは三重県出身で、京都から独立混成第4旅団大隊に編成され、初年兵として華北で治安戦に参戦、その後、62 師団独立歩兵第13大隊に編成され対馬丸で沖縄へ、嘉数の戦いなどを生きのびた。
複数で刺殺する、軍隊内ではそれを「肝試し」と呼んでいた。女性も犠牲となる。
刺突か、そういうのは「肝試し」としてやりました。… 女性かな、女性の人に、自分で模範かな、そういうのしてやったことあります。… 日本から来られた初年兵ですね。…「肝試しをやること自体、強い兵隊さんになる」と。
捕虜の生命と人権が守られるというハーグ陸戦条約は、日本軍では何の意味も持たず、学徒らにも米軍パイロットを刺殺させた石垣事件や、司令部壕でスパイとして捕らえられた無実の女性を慰安婦や学徒らに刺殺させるなど、こうした教練としての捕虜の残虐な処刑は沖縄戦でも連続して行われた。
米軍は進軍と同時に懸命に捕虜の捜索にあたるが、沖縄戦から生きて米兵が保護されることは、ほとんどなかったのである。
性暴力、そして証拠隠滅のために殺害する
軍隊では、戦場で強かんはつきものでした。日常茶飯事というくらいでした。日本軍は中国の地域を、治安地区・準治安地区・敵性地区と3つに分けていました。治安地区はうるさいので強かんはできませんでしたが、八路軍が沢山いる敵性地区では、強かんはやりたい放題でした。というのは、敵性地区に入った時、指揮官がここは敵性地区だから何をやってもよろしい、という指示を出したのです。
女性を襲い、証拠隠滅のために殺す。
村を襲った場合は、まず金目のものやロバ、牛などの略奪を行いました。女性がいれば輪姦し、その後で、憲兵に知られないように殺害することが普通に行われていました。
鬼になってしまっていた。
私の目の前で起こった出来事ですが、何日も行軍しても山また山の山西省。前日、敵地区部落掃討戦のとき、30歳前後の乳飲み子を抱いた主婦を捕らえて、その日も例のごとく輪姦ということをみんな競ってやって、普通はやれば後は殺すんですね。殺すが逃がすことはないんです。その方は若いせいで殺さずに同じように行軍させた。… 逃げないよ うに裸にして行軍のなかに入れ、連れ歩いたことがあります。その女性は弱っていました。… 古兵さんが、もうあの者たちは弱ってきたのでどうしようと相談をしてま した。 そしたら、そばにいる古兵さんがパッと立ち上がってきまして、抱いている赤ん坊を谷底へパーッと投げ捨てたんです。… 投げ捨てたとたんにそのお母さんもパッと赤ん坊の後を追って谷底に身を投げてしまった。それを私は2~3メートルこちらで見ていたんですけど、それに対して「あっ、かわいそうだ」そういう感情が当時は頭のなかにないんですね。もうそういう恐ろしい人間にさせられてしまってた。… それは東洋の鬼そのものでした。
《近藤一・宮城道良著『最前線兵士が見た中国戦線・沖縄戦の実相』(学習の友社 2011) 》
別の中隊にいた田村泰次郎は戦後『裸女のいる隊列』を記す。一度読めば忘れられないほど衝撃的であり、風俗小説の形態であるが、それは実体験を基にしていると考えられている。黄土のなかをカーキ色の軍隊が行軍する、その列に白いものが揺れている。下士官は「貴様たち、この姑娘たちが抱きたかつたら、へたばるんじやないぞっ」と怒鳴る。そこに「娘を返せ」と老婆がしがみついてくるが・・・。
地元の人々は、日本兵を東洋鬼(トンヤンキー)と呼んだ。
そういうふうに、散々悪いことをした兵隊は1944年の4月に黄河の流域に行きました。洛陽とか、鄭州、観光地で有名なんですけど、ここの周辺の大作戦があって、そのなかで一つ自分が目撃したこと。敵が逃げた家々で、敵がいない所へ踏み込んで、そのなかの一軒の家にパッと数人の兵隊を連れて入ったところが、老人が2~3人丸くなって真ん中に布団が敷いてある。何故かなと思って見ましたところ、老人が一生懸命私の方へ手を合わせて泣いていた。で、なにごとかと思いましたら、老人がパッと布団をめくりあげるとそこには10歳か11~12歳の女の子が寝かされていた。見ますと強姦の後で股間が血まみれになっていました。子どもに対してでさえそういうことをやってしまう、日本の兵隊。それが「皇軍」。天皇陛下に直属している軍隊。「天皇の軍隊」だということで、差別意識を持って他民族に対して向かっていく。… だから戦争は怖いんです。恐ろしいんです。
近藤一・宮城道良著『最前線兵士が見た「中国戦線・沖縄戦の実相」(2011)
隊が女性を幽閉する。
その女性が候冬娥という名で、当時は脳梗塞を患うなど体が弱かったが、若いころは「盖山西(山西省の中で最も美しい)」とあだ名されたほどの美人で、日本軍侵略時に進圭社の日本軍トーチカに連行されて性暴力を受けた被害者であることを聞いた。
女性たちが「監禁され、性暴力を受けた」と証言した中国・山西省の住居「ヤオトン」(ドキュメンタリー映画舎 人間の手提供)
「真っ暗なヤオトンに監禁され、用をたすときだけ外に出られました。」
治安戦を指揮した45人の対日戦犯裁判の自筆供述書には、多くの証言が残されている。長期収監中であるとはいえ貴重な証言であり、今後も両国で歴史検証を進めていくことが必要である。
中国治安戦から沖縄戦へ
沖縄にやってきた日本兵の多くが、こうした大陸の治安戦部隊から転属されてきた。
昭和18年、日本軍は太平洋での戦局の悪化に伴い、部隊を中国から南方へ次々と転出させました
近藤氏は、大陸では「ひどいことをした」が、沖縄ではそんなに悪いことはしていないという。
悪い日本兵っていう、マスコミがずっと流されて。沖縄にいた日本兵は悪い事ばっかりしたと。それがもう、日本国中になんか、色んな伝わり方で伝わった、いうような事で。そういう悪い兵隊もいたかわかんないけど…
しかし、「沖縄は華北よりマシだった」と言われても、一体それに何の意味があるだろうか。
慰安所の建設
実際、中国戦線から沖縄に来た部隊がそれぞれ最初にとりかかった事は、慰安所を建てるということだった。それは「地元の女性たちを (兵隊から) 守るため」とか「お国の為」などと説明された。多くの女性たちを大陸から連行するだけでは足りず、辻のジュリたちも徴発した。
愛人を囲う隊長
そして、すぐに風紀は乱れ始める。雨後のタケノコのように沖縄だけで 150を超える慰安所が建設され、さらには「現地妻」を囲い、連れまわる隊長たちがいた。対する米軍では、とても考えられないことである。
沖縄が「内地」から「外地」と化す
また、久米島の鹿山隊は、米軍の久米島上陸の日の夜から、とたんにタガが外れ、治安戦なみの暴走を始める。16歳の少女を囲って妊娠させる、住民を鉄線でくくり赤子まで虐殺して火を放ち焼き払う。一応「内地」だった島が、鹿山の中で「いち植民地」になった瞬間だった。
ワシは悪いことしたとは考えていないから、良心のかしゃくもない。日本軍人として当然のことをやったのであり軍人としての誇りを持っていますよ
久米島住民虐殺 ~ 鹿山正「私は悪くない」 (1972年琉球新報インタビュー記事) を再読する - Battle of Okinawa
日本軍兵士による住民虐殺には、彼らが大陸の治安戦で経験してきた日本軍の暗部がそのまま再現されていく。
一番怖ろしかったのは、基地隊といってね、支那事変から帰ってきた連中でした。朝鮮人軍夫が、この連中に斬られるのなんか簡単だった。渡嘉敷の住民も虐殺された。僕の記憶では、七人殺されている。
鉄線で住民を縛り、小さな赤ちゃんですらめった刺しにし、家に火をつける。首を切り取り持ち帰る。
久米島の住民虐殺
3人の遺体は、焼き払った家の真ん中に黒焦げになっていたが、… 多量の血痕があって妻のシゲは、裏へ逃げるところを捕まり殴り殺されたことが分かっています。あの現場を見た時は恐ろしくて、人間の仕業とは思えない悲惨な状況でした。
圧倒的な火力の差で敗走を強いられる日本兵。略奪、拷問、身体切断。彼らの武器は、米軍ではなく、住民へとむけられていったのだった。
渡野喜屋の住民虐殺
首に短刀を三つ突き刺され、両方の膝の裏側を「日の丸だ」といって、五〇〇円玉ぐらいの大きさで、丸くくりぬかれていたそうだ。日本兵は、それを「勲章だ、勲章だ」と言って持って行ったとのこと。父は「おかあ、おかあ」と言いながら死んだそうだ。周りは血の海だったそうだ。
《読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所》
1945年5月12日 渡野喜屋の住民虐殺 ~ 住民38名が集められ殺された ~ 4歳でも「スパイ」 - Battle of Okinawa
なぜ沖縄戦は歴史修正主義の標的になっているのか
日本が戦争を語るとき、国境の外「外地」ではなく、内側での戦争「内地」の戦争を語ることに終始する。そこでは主に戦争の犠牲が語られ、加害としての植民地支配と戦争が語られることは少ない。
歴史を書き直そうとする者たちは、ゆえに、加害としての戦争をもみ消すため、沖縄に標的を絞ってやってくる。「歴史戦」という言葉を使って沖縄戦を上書きし、搾取的に利用あるいは盗用*5 する。
最後に、鉄血勤皇隊の生き残りで沖縄戦の研究者であった大田昌秀元沖縄県知事は、沖縄の言葉を引用します。
『チュニクルサッテン、ニンダリーシガ、チュクルチェ、ニンダラン』~ 他人に痛めつけられても眠ることはできるけれど、他人を痛めつけては眠ることはできない。
自分の今と明日を知るためには、歴史を知ることが大切だ。でも歴史を知るために、もっと大切なことがある。
他者の痛みを感じ、
他者の痛みに誠実に向き合うこと、
そのこころがなくては、いくら、付け焼刃の歴史の知識で誇りを持とうとしても、
所詮は「無知と傲慢」で終わるのです。
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日本軍の治安戦/笠原 十九司|シリーズ 戦争の経験を問う - 岩波書店
*1:See. 読谷村史 「戦時記録」上巻 序章 近代日本と戦争
*2:See. 伊佐 眞一 講演録 「沖縄戦時の知事・島田叡と戦争責任」 - Battle of Okinawa
*3:See. 日本軍の治安戦/笠原 十九司|シリーズ 戦争の経験を問う - 岩波書店 p. 5. pdf
*4:See. 笠原十九司「日本軍の治安戦と三光作戦」pdf
*5:Historical Appropriation 歴史の盗用とは
【訳】文化の盗用があるように、歴史の盗用もある。つまり、少数の人々の英雄的な歴史的行為を主張して、多数の人々の残虐な行為を目につかないようにする試みだ。歴史の盗用は、より勇ましい過去の歴史を作り出すために、どの歴史上の人物や出来事を主張するかを取捨選択することを含む。
from Beware of Historical Appropriation - by Jemar Tisby, PhD