『佐敷町史』佐敷町 (1999年)

《『佐敷町史』佐敷町 (1999年) 》

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米軍は、沖縄攻略作戦を実施するに当たり、多くの軍政要員を実戦部隊とともに送りこみ、住民対策に当たらせていた。

米軍は、沖縄上陸作戦と同時に本土進攻に備えて航空基地を建設し、中南部の平野部と港湾地帯を無人地帯とした。このため、中南部で米軍の管理下に入った住民の大部分は、北部の東海岸地域へ移された。現在の石川市金武町中川、宜野座村全域、旧久志村の大浦崎(久志・辺野古)から嘉陽までの範囲である。

米軍は、捕虜(軍人・軍属)と民間人(非戦闘員)をえりわけ、それぞれ独自に収容した。捕虜収容所と難民収容所である。捕虜はPW(PrisonerofWar)と呼ばれ、民間人はシビリアン(Civilian)と呼ばれた。両者を識別するために特に作業現場などでは、上着の背中に、捕虜はPW、民間人はCIVとペンキで書かれた。

民間人の収容所では、米軍によってメーヤー(市長)とCP(CivilianPolice民警察)が任命され、物資の配給、作業の手配、軍命令の伝達などに従事した。CPは米軍から支給された軍服に防暑用ヘルメットをかぶり、米軍のMP(MilitaryPoliceman憲兵)とともに治安維持に当たった。

 

民間人収容所

難民収容所は、境界をカナアミで囲われていたところもあったが、一般には集落単位に収容所が設置されていて集落の境界にMPが立っていた。収容所問の往来は原則として禁止され、米軍の通行許可証を携帯しない場合は「越境」として処罰されカナアミに入れられた。カナアミというのは、仮の拘置所」や「営倉」(Stockade)のことである。カナアミ(有刺鉄線)をはりめぐらし、脱走を許さなかった。転じて刑務所のことをカナアミと言うようになった。

捕虜収容所

沖縄本島と周辺離島で米軍に捕まり捕虜となった軍人・軍属は、金武村屋嘉のPW収容所に隔離収容された。PW収容所は読谷山村、北谷村、浦添村にもあったが、屋嘉が最大のPW収容所で約一万人余が収容されていた。その内訳は本土出身兵約五千人、沖縄県出身兵約四千人、残りは朝鮮人軍属(軍夫)であった。

なお、那覇の奥武山(現在の奥武山公園一帯)には、南部戦線で捕まった捕虜と宮古八重山から移送された捕虜がおり、米軍の指示で那覇軍港の港湾荷役に使役されていた。

米軍は、一般の難民収容所でも軍人(正規兵、防衛隊員)と軍属(学徒隊員など)を摘発し、PW収容所へ送った。南部戦線で戦闘が続いていた六月に、PW収容所から沖縄出身者約三千人が選抜されて、ハワイへ送られた。これは、本土決戦を想定して、捕虜交換用にハワイに隔離しておいたものだという指摘もあるが、真偽のほどは定かでない。

八月には日本はポツダム宣言を受諾して降伏、沖縄出身捕虜は、一〇月から帰村が許された。朝鮮人戦勝国なみの待遇を受けて故国と北九州へ送還された。日本本土出身兵は一九四六年夏に送還が始まり、年内に送還が完了した。中南部で戦闘が続いていた四五年五月、六月、七月にかけて、米軍は保護下に入った住民をトラックやLST(上陸用舟艇)で沖縄本島北部の東海岸地域へ移した。住民は中南部の臨時収容所を転々とさせられていた。島尻(南部)には糸満・知念半島・豊見城村伊良波などに臨時の難民収容所があった。中頭では宜野湾村野高・中城村安谷屋・同島袋・越来村嘉間良・北谷村砂辺などに臨時の難民収容所があった。

佐敷村・玉城村・知念村などは、敗戦直後は「知念地区」と呼ばれる行政地区となっており、難民収容所ともなっていた。収容地域は、玉城村百名、仲村渠、下茂田、知念村志喜屋、山里、具志堅、久手堅、佐敷村屋比久、伊原、佐敷、などであった。この収容所から宜野座地区へ移された難民も多数いた。

 

宜野座地区の難民収容所〉

宜野座地区(旧金武村・旧久志村)の難民収容所の概要は、次のとおりである。ただし、難民収容所は、いずれも毎日の人口移動が激しく、その実数を明確につかむことは難しい。

 

漢那(現在の金武町中川と宜野座村漢那・城原)

五月中旬頃、地元住民(金武・並里)と中南部からの避難民(沖縄戦直前の疎開者)を収容した。なお、金武村伊芸と屋嘉の住民は石川の難民収容所へ移された。その後、中南部戦線で米軍の保護下に入った住民が、糸満豊見城村伊良波・宜野湾村野高・中城村安谷屋・北谷村などの臨時収容所を経て送りこまれた。収容所は漢那の本部落と城原・中川地区に分かれていた。難民の数は約三万人。中川地区には、沖縄戦終焉の地である島尻方面から移された難民が多かった。

 

宜野座(現在の宜野座村宜野座・惣慶・福山)

五月中旬頃、地元の住民と玉城村・佐敷村・東風平村・南風原村・大里村などからの避難民(沖縄戦直前の疎開者)を収容した。その後、中南部戦線で米軍の保護下に入った住民がいくつかの収容所を経て送りこまれた。収容所は、宜野座・大久保・惣慶・福山のブロックに分かれていた。

難民の数は約四万人。宜野座には米軍の野戦病院が置かれ、収容所の人びとは病院の看護助手として徴発され、男性は死者の埋葬作業に追われた。福山の共同墓地死亡者名簿で見ると、六〇三人の死者が確認されている。宜野座・惣慶・福山の収容所で死んだ難民は、中南部全域の市町村の出身者であった。

 

古知屋(現在の宜野座村松田)

五月中旬頃、地元の住民と玉城村・佐敷村・東風平村・南風原村・大里村などからの避難民(沖縄戦直前の疎開者)を収容した。その後、中南部戦線で米軍の保護下に入った住民がいくつかの収容所を経て送りこまれた。収容所は、潟原・古知屋・高松・前原・兼久のブロックに分かれていた。難民の数は約三万五千人。六月から一二月にかけて、多くの飢餓難民が死んだ。死没者名簿で確認されただけでも四二七人、死者の八割は幼児と高齢者であった。大浦崎(現在の辺野古基地一帯から旧久志村久志)

地元の住民(久志・辺野古)と、本部半島で米軍の保護下に入った今帰仁村民・本部町民、今帰仁村疎開していた伊江村民・宜野湾村民などを収容した。その後、中南部戦線で米軍の保護下に入った住民が送りこまれた。難民の数は約三万人。

 

瀬嵩(旧久志村の二見・大川・大浦・瀬嵩・汀間・三原・安部・嘉陽)

七月中旬頃から、旧久志村の住民と、中城村西原村などからの避難民(沖縄戦直前の疎開者)を収容した。収容所の中心は瀬嵩であった。その後、中南部戦線で米軍の保護下に入った住民が送りこまれた。八月一〇日頃に佐敷村の馬天港から瀬嵩にLSTで移送された難民もいた。

瀬嵩には中南部の三〇余の市町村民が収容されていて、瀬高市那覇村、瀬嵩市具志川村などといった臨時の連絡機構もできていた。旧久志村の各集落は、それぞれ市となり、一時期は市長もいた。難民の数はおよそ三万人。

よく知られた民謡の「二見情話」は、首里出身の照屋朝敏が、二見を去るにあたって、運命をともにした人びとへの思いをこめて作詩作曲した新民謡で、老若男女の哀感をさそった。なお、二見は「楚久」と「杉田」という二つの小集落からなる行政区であるが、六千人以上の難民が収容された時期もあり、一時期「東喜」と呼ばれた。

これらの難民収容所から中南部の人びとが帰郷したのは、四五年(昭和二十)10月以降であった。それも、すぐに故郷に帰るのはまれで、石川地区・コザ地区・前原地区など、いくつかの地域を経て帰郷したのである。越来村・北谷村・宜野湾村などの中部地区では、米軍基地に囲いこまれてしまって、他市町村に滞在を余儀なくされた人びとも多い。また佐敷村民も大里村や玉城村・知念村に数か月滞在させられた。