テニアン島の

 

南の島々と戦争の記憶|戦争|NHKアーカイブス

 

テニアンの戦闘

琉球新報の記事より

沖に米軍艦が集結 ~ 水求め、艦砲射撃の犠牲

南洋群島慰霊墓参団の一員として今月3日、テニアンを訪れた喜友名朝啓さん(69)は慰霊碑のあるカロリナスの岬に腰を下ろした。小型のテープレコーダーを取り出しスイッチを入れると戦前の歌謡曲がスピーカーから聞こえてきた。

「同級生7人いましてね…。『影を慕いて』とか、僕らの青春の歌ですよ」

サイパンの戦闘が7月上旬に終息し、米軍はテニアンに攻勢をかける。7月24日、米軍はテニアン北部周辺に上陸、10日足らずで南端のカロリナスまで攻め込み、8月2日、日本軍の組織的戦闘は終わる。

喜友名さんは当時、サイパンで気象台の職員を務めていた。同僚と共にテニアンの海軍司令部に文官として出向。サイパンに米軍が上陸し、そのままテニアンで任務を続けることになった。

 

テニアンに上陸した米軍は、またたく間に喜友名さんらをカロリナスに追い込んだ。がけにできた自然壕から喜友名さんは岬で繰り広げられた惨劇を目の当たりにする。

「沖合を米軍艦が埋め尽くして、こちらが丸見え。米軍の見ている中、岬から家族が帯で体をくくって、飛び込んでいきました。修羅場です。水がないから、その苦しさに紛れて、飛び込んだんですよ」

文官7人のうち6人が犠牲となり生き残ったのは喜友名さん1人だった。

 

仲松庸盛さん(59)は空襲を避け家族と共に6月はじめから壕に避難した。空襲のない夜間、壕を出て炊き出しをしたり、水くみをする生活が続いた。

米軍上陸後、艦砲にさらされながら仲松さんらはカロリナスのがけの横穴に身を潜める。食糧、水も底をついた。水を確保するため父親が7月30日、攻撃の合間を縫って壕を飛び出した。そこに米軍の艦砲が襲い犠牲となった。

 

「食糧や水を求めるために家族の働き手が行くでしょ。帰ってこなかったら死んでいるんですよね。また、次の人が行く。それを繰り返してどんどん死んでいくんです」

 失意の中、母親は日本軍から手りゅう弾を譲り受け自決を決意するが、それを思いとどまり家族は8月中中、捕虜となる。がけの上から米軍にスピーカーで呼び掛けられ投降した。

 

当時、テニアンにも「捕虜になったら耳を削がれ、目をえぐられ…」という話が流布していた。しかし、「生きたい」という一心で白旗を掲げ、がけ上に登っていった。

(「玉砕の島々」取材班)1993年6月27日掲載

 

海兵隊: Marines of the 4th Marine Division supervising the civilians as they called to the Japs and civilians in the hill to surrender themselves and come out of hiding peaceably. This was done by means of a powerful public address system.【訳】 隠れている場所からおとなしく出て投降するよう丘にいる日本兵や民間人に対して呼びかける民間人を監督する第4海兵師団の兵士。呼びかけは強力な放送システムを用いて行われた。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

投降呼び掛ける米軍 ~ 岬から次々と身を投げる

 今月3日、テニアン・カロリナスで行われた慰霊祭で追悼の言葉を読んだ森山紹一さん(68)が、テニアンの戦闘を「地獄の絵巻」と例えた。

 

 沖合の艦砲や既に米軍の支配下にあったサイパンの長距離砲がテニアンを攻撃する。上陸した米軍は軍民ともども南へと追い込む。その地獄の絵巻の中を、森山さんは家族とともにさまよい続けた。

 

 「あちこちで自決した人々を見ました。艦砲の破片で体が裂けた人が木の枝に引っ掛かっているのを見て、逃げたことも。大木に押しつぶされて『助けてくれ』と一晩中、叫び続けていた人もいた。どうすることもできない。自分まで気が狂いそうでね」

 

 森山さん家族を脅かしたのは米軍の攻撃だけではなかった。7カ月の5男が艦砲の衝撃で耳の鼓膜を痛めた。耳から血を流し泣き続ける赤ちゃんを抱える家族に向かって、日本兵は「うるさい」「殺せ」とば声を浴びせた。

 

 いたたまれなくなり、母親はわが子の命を奪ってしまう。

 

 森山さんらは南端のカロリナスに追い込まれる。沖合の艦隊からは「米軍は民間人を殺しません。皆さんの命は保障します。水も食糧もあります」と投降を迫る。先に捕虜になった日本兵や邦人の呼び掛けだ。

 

その声を振り切って民間人が次々と岬から身を投げる。サンゴ礁にパッと血が広がり、海が真っ赤に染まる。

 

「そんなことはしないでください。飛び降りてはいけません」。沖合から呼び掛ける捕虜たちと、死を目前にしている人々との、ぎりぎりの対じが続いた。

 

森山さんは家族を避難させ、1人で戦場逃げ回るうち。「生きて捕虜となることは恥じゃない」という在郷軍人や海軍の1等兵曹の説得で捕虜となる。

 

森山さんには、戦後も悔いても悔い切れないことがある。弟のことだ。弟は軍とともに戦闘に参加していたが、いったん避難している家族の所へ戻って来たことがある。再会を喜んだものの、森山さんは「最後まで戦うべきだ」と軍に戻るように促した。

 

捕虜になった森山さんは、米軍人と投降勧告をしながら弟の行方を追った。しかし、弟の姿を見つけることはできなかった。「もしや」という思いで1968年の初の南洋群島墓参の時もテニアンを訪れ弟を探したが手掛かりはなかった。

 

「すまなかった」。森山さんは生き別れとなったままの弟にわびた。

(「玉砕の島々」取材班)1993年6月28日掲載

 

しかし、日本はサイパンテニアンの捕虜・生存者については何も伝えず、人々には鬼畜により虐殺されたと伝え、沖縄戦プロパガンダとして利用された。

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