比嘉太郎 (トーマス・タロー・ヒガ) - ウチナーを救ったウチナーグチ「んじてぃくみそりよー」(信じて出てきてください)

 

比嘉 Thomas 太郎

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比嘉太郎 (トーマス・タロー・ヒガ) さん。

 

海を何度も往復したひとりのウチナー。彼についての英語版の Wikipedia はあるが、日本語版のものが、ちょっと探しても見つからない。残念である。

Thomas Taro Higa - Wikipedia

 

また BS のドキュメンタリー『戦場の良心(ちむぐくる)〜沖縄を救った日系人』、現在は見ることができない。再放送を切に願う。

 

移民の世紀

比嘉太郎は、沖縄移民の歴史のなかでもユニークな人物といえます。両親が中城村字島袋(なかぐすくむらあざしまぶくろ)出身の移民一世で太郎がハワイで生まれたことから、沖縄・本土・米国と度々の往復をしたことで実に多彩な人生を体験しました。太郎はこの両国の文化や精神を知る経験から移民を語っているのです。たとえば戦争の語り部・戦災救援運動の推進・出版や映画などを通して移民の真実を深く伝えています。


 両親は1905年(明治38)にハワイに渡りました。太郎は1916年(大正5)に生まれ、二世であるゆえの人生を生きていくことになります。小さいころは、いったん沖縄の祖父母のもとに預けられます。それから、中学を中退して出稼ぎで大阪の紡績工場を最初に職を転々とします。その時、数々の就職体験から沖縄出身者への差別も感じました。やがて、ハワイの両親のもとに戻ります。1937年(昭和12)には電気技術の勉学のため再び来日、1940年(昭和15)にまた、ハワイに帰りました。まさに戦争勃発の前の年でした。


 大平洋戦争が始まると、太郎はアメリカ日系二世部隊として過酷な欧州最前線に送られました。「日系兵は前線でタマよけに使われるのだ」という偏見や差別の噂(うわさ)のもとでの召集でした。また、戦火が沖縄に及ぶと両親の郷里で通訳兵として壕の投降を呼び掛けるなどして恩師(おんし)を始め多数の人命を救いました。戦後も13万人余りの日系人の収容所を訪れ慰問しました。

 

 太郎は熱血漢と正義感にあふれる人で、戦後の沖縄の戦災復興運動や政治運動にも取組みました。戦争で破壊された沖縄救援の大運動をおこし、同郷人に応援を呼び掛け、多くの救援物資を送ることに努力を惜しみませんでした。

 

 さらに注目すべきは、1946年(昭和21)日本人だけに許されていなかった帰化権を米国の差別として抗議し、獲得に向けて大きなうねりをつくりあげたことです。当時、1946年の末から1947年(昭和22)の春にかけて米大陸の帰化権獲得期成同盟会は、ハワイの日系人たちの呼び掛けて応援運動を展開していました。このとき、太郎はハワイで発刊されたコロラドタイムス)の編集長でしたが、講演・宣伝・寄付募集などに駆け巡り、帰化権獲得(きかけんかくとく)に向けて奮闘しました。ハワイでの一大運動の展開も功(こう)を奏(そう)し、1952年(昭和27)には日本人の帰化が認められました。

 

 比嘉太郎ほど、愛郷心に燃えた不屈の開拓精神を貫き、移民の真実を伝えてやまない人はいないでしょう。ウチナーンチュ(沖縄人)の肝心(チムグクル)(暖かいハート)とハワイアンのホスピタリティー(歓待心(かんたいしん))を兼ね備えたハワイ移民二世といえます。

 

 

【TV】中江裕司監督が沖縄戦で地元住民を救った米軍日系通訳兵のドキュメンタリーを制作

沖縄島ガール

2015年7月21日

 

NHK BS1では、8月10日(月)、沖縄在住の映画監督・中江裕司氏が演出を手掛けたドキュメンタリー「BS1スペシャル『戦場の良心(ちむぐくる)〜沖縄を救った日系人〜』」(仮) を放送する。

同作は、太平洋戦争中、激しい地上戦が行われた沖縄で、アメリカ兵として従軍しながら、国家の枠を超えて数多くの命を救った、ハワイの日系二世、トーマス・比嘉太郎氏の知られざる物語を綴ったもの。

比嘉氏は、米軍情報部の通訳兵として活躍していた。太平洋戦争中、両親の故郷・沖縄に従軍することに。

 

艦砲射撃が降りそそぐ中、旧日本軍の抵抗が続く洞窟(ガマ)に丸腰で入り、住民の投降を沖縄の方言で、「ワンネー、ヤマグスクヌタルーヤイビーン。ンジティクミソーリヨー (私は中城村の比嘉太郎です。信じて出てきてください)」と呼び掛け続けた。時には、1日に3つの壕を武装解除させたという。

そんな比嘉氏の行動を支えたのは、心の底から相手を思いやる沖縄の真心「ちむぐくる」だった。番組では、比嘉氏が残した本や手記を手掛かりに、当時を知るハワイや沖縄の人々の証言を加え、一部をドラマ化。

ドキュメンタリー部分では、沖縄出身のお笑い芸人・ガレッジセールのゴリも出演し、日本人でもアメリカ人でもなく、一人の人間として戦争に従軍し、沖縄を救った比嘉氏の真実に迫っていく。

 

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 沖縄公文書館で比嘉太郎氏の足跡を追うゴリ

BS1スペシャル『戦場の良心(ちむぐくる)〜沖縄を救った日系人〜』」(仮)
2015年8月10日(月)  21:00~22:50 NHK BS1にて放送

 

命の恩人忘れず 元米軍通訳兵の長男来沖 北中城

琉球新報

2015年5月6日 06:08

 【北中城】米軍通訳兵として沖縄戦に従軍した比嘉太郎さんの長男で、米カリフォルニア州在住の県系3世、比嘉アルビン(愛作)さん(68)が4月24日、「帰米2世」の父が9歳まで暮らした北中城村島袋を訪れ、住民約120人が集まった。地元の島袋自治会は「戦時中、うちなーぐちで投降を呼び掛けた太郎さんのおかげで多くの命が救われた」と太郎さん宛ての感謝状を贈呈し、アルビンさんと抱き合った。

 

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 「太郎さんのおかげで今の自分がいる」と感謝されたアルビンさんは「父を覚えていてくれてうれしい」と笑顔を見せた。住民と固い握手を交わし、カチャーシーを一緒に踊ったが、「戦争から村民が苦労して生活していたことを思うと悲しい」と複雑な表情も浮かべた。


 「悲しい気持ちとうれしい気持ちがある」と話すアルビンさん。太郎さんは従軍中に目の当たりにした県民の生活を戦後ハワイの人々に「島に人影なし、フール(豚小屋)に豚なし」と伝えた。ハワイの人々を説得し、ヤギや豚、医薬品などを船で送る支援の先駆けとなったことで知られる。

 「父は自分の行いをほとんど話さなかった」が、多くの写真を撮り、詳細を書き残した。その資料は県立公文書館などに寄贈された。

 父について調べているアルビンさんは、太郎さんを主人公にした音楽劇の米国公演で、太郎さんの役を演じたこともある。

 大田昌秀元知事とも親子2代で付き合いがある。「大田先生には『まるでお父さんを見ているようだ』と言われる」と照れる。

 「いばってはいけない」という父の教えは今も生きている。「沖縄の友人を増やし、父がつくった関係をつないでいきたい」とほほえんだ。


 アルビンさんは今回、沖縄戦で父の軌跡をたどるため宜野座村などを訪ねたが、その前の晩、亡くなった父の声で目が覚めた。

「父は『うちなーぐちが沖縄を助けたが、今は話せる人が少なくなり危機的な状況だ。うちなーぐちを助けてほしい』と言った」

 

アルビンさんは「これからうちなーぐちを勉強したい。離島の言葉もいろいろ話せるようになりたい」と今後の目標を語った。(清水柚里)

 

 

比嘉太郎と喜納先生

それから四月一日もどうもない。二日目もどうもない。三日目は午後の二時頃だったですが、アメ リカ兵が鉄砲向けて来た。ああわたしの意見が間違ったかな、殺されねばならんかな、と思った。それに英語知らんでしよう、また、兵隊の前に行って頭こうして(おじぎをする)、おかしいんです、まあ芝居です。それでおしまいに、「ユー、アメ リカ、ゼントルマン」、といったんです。そうしたら変った手真似をしたんです。何かな、と思っていたら、二世をつれて来たんです。その二世がこれです(写真を示す)比嘉太郎。これが、ああ、喜納先生といって手を取ったんですよ。その時にアメ リカ兵は銃を引いたんです。それで安心して、人民にももうどうもない、どうもない、安心しなさいといって、これが教え子の比嘉太郎、(先に示した写真を出す)裏に書いてある。戦争中あったといぅことを。ここで学校出て、ハワイへ行っていたんです。それでその後、皆おちつかしたので、比嘉太郎に、教会を建ててくれといって、これがはじめの教会で、これです(写真を見せる)。

https://hb4.seikyou.ne.jp/home/okinawasennokioku/okinawasennosyougen/syougen39.htm

<1963年6月22日>

師弟愛は恩讐をこえて 救われた千三百人の命
北中城村島袋区 喜納さんとトーマス・比嘉


  あれから十八年ー。沖縄戦終焉の日がふたたびめぐってきた。昭和二十円六月二十二日ーこの日をもって三カ月にもおよぶ沖縄戦は事実上の終わりを告げた。戦争ははかりしれない幾多の悲劇を生み、数数の傷跡を人々の胸に残しはしたが、しかしすべてが血と涙でつづられた物語りだけではない。吹きまくる“鉄の暴風“に追われて人々が「生」を求めて逃げ回っているとき、中城村島袋(現北中城村島袋)の部落民は全員が部落にふみとどまったまま戦争の惨禍をほとんど知らずにぶじ助かった。そのかげには、一人の勇気と決断力にとんだ行動、そして敵・味方にわかれたかっての師弟が戦火で再会するという奇跡に近い偶然があった。これはきょう二十二日に「慰霊の日」におくるひめられた戦争佳話…。(コザ支局・山里将雄記者)

 逃避に反対の演説

 昭和二十年三月下旬のある日|中城村内にある村役所では、二十四人の議員たちが熱心に戦争対策を協議していた。戦局は日増しに悪化していく一方だった。米軍機は毎日のように飛来し、いよいよ上陸間近に思わせる空気が重く人々の胸におしふさがっていた。

 議員たちもまた例外ではなかった。村民の安全をはかるにはどうすればよいか…。村民の生命をあずかる議員たちの表情はきびしく、それに討議も真剣だった。開会後数刻、多勢はようやく全村をあげて久志村瀬嵩に避難することでまとまり、全回一致の決議にうつった。

 その時、字島袋選出の喜納昌盛議員(当時六十二歳)がとつぜんたちあがり、絶対反対の演説をぶった。喜納議員は反対理由として▽避難しても食料がないので餓死する▽国頭には米軍が上陸しないと保障できるか▽戦争は軍人間の戦いであり、住民をムゲに殺りくするはずがない▽またどうせ死ぬ運命にあるなら古里で死んだ方がいい、などをあげた。だが、残りの二十三議員はこの意見にはほとんど耳をかさなかった。むしろ、あまりにも無謀な見解だとして、はげしく喜納議員をつるしあげた。二十三対一、喜納議員は屈しなかった。ついには全議員が怒りだし、こんんあやつは住民の選良ではない、相手にしたってしょうがないと、うやむやのうちに議会は解散してしまった。

 全員部落にとどまる

 二日後、比嘉村長(故人)、与嶺県会議員(現北中城村園芸組合長)、議員、駐在巡査など村首脳が島袋部落にのりこんできてぜひ避難するようにと命令をだした。しかし、そこでも喜納議員は部落民に対して避難してはいけないと反対意見を出して、対抗した。村幹部と喜納議員の対決は部落民の間で三時間ぐらいもつづいた。脅迫めいたこともおこなわれたが、喜納議員の強硬意見についに幹部は席をけって帰った。部落民の中には避難したほうがよいかどうか迷うのも出たが、喜納議員は米兵がきたら真っ先に出る。部落民の責任はきっと私がとると説得、ただ一家族を除いては全家族(約三百世帯、千三百人)が踏みとどまることになった。

 遂に敵兵あらわる

 四月一日、米軍の上陸を迎えた。部落に踏みとどまることになったものの、不安はつのる一方だった。部落周辺の壕や墓に身をひそめて、高まる不安を忘れようとした。戦争をかけ離れたような静寂…。一日が無限につづくかのようだった。二日間が何事もなく過ぎ、三日目の四月三日、米軍がはじめて姿を現した。トラック数台に分乗した巡察隊が部落近くで車を乗り捨て、小銃をむけながらゆっくりちかづいてきた。部落内で息をつめてみまもってい喜納さんは仲村孟順区長(故人)と二人で米兵の前にとびでた。恐怖の瞬間が過ぎると、あとは無我むちゅだった。びっくりした米兵がきっと銃を構え直したのも気づかず二人はペコペコと頭を下げた。

 ミー・オキナワクリスチャン

 何かいわなければとあせった喜納さんは、とっさにしゃべった「ユー、アメリカ・ゼントルマン・ミー・オキナワ・クリスチャン」文字通りブロークンイングリッシュだった。しかし千三百人の部落民の生命に関する精一杯の発言だった。意思がつうじたのかどうかキョトンとする米兵。一分、二分…。いきづまるような緊張の数分がすぎた。米兵の一人が二世の通訳を連れてきた。つかつかと前にでてきた二世が、とつぜん「先生」と叫んで喜納さんの手をギューッと握り締めた。「先生、お忘れになりましたか、わたしは小学校で教わった比嘉太郎です」

 教え子と戦場で奇跡の再会

 喜納さんの記憶がよみがえった。たしかに喜舎場小学校時代に教えたかっての比嘉太郎、いまは米兵のトーマス比嘉だった。しまもこの教え子は部落も同じ島袋だった。「比嘉君!」喜納さんもぎゅっと握り返した。そこにはもはや戦争はなかった。敵・味方に分かれているとはいえ、師弟愛に変わりはなかった。あるのはただ一切の恩讐を超越した美しい人間性だけだった。ヒシと手を取り合い、涙を流して再会を喜びあう旧師と教え子。米兵もいつしか、銃をおろし二人に暖かい眼をそそいでいた。喜納さんにとっては単なる再会以上のものをもっていない。これでやっと全部落民が助かる|。この思いがひしひしと胸をひたしてきた。責任をとると明言して部落民をふみとどまらせたものの、それ以来ずっと胸をふさいでいた重苦しい不安が、すっと晴れるような気になっていた。

 「皆さん、もう安心です。私たちはぶじ助かったのです」と部落中をふれまわる喜納さんの声は、喜びにふるえていた。喜納さんは比嘉さんにつぎつぎと注文をだした。部落民は極度の不安におちいっている。それをなんとか落ち着かせるためにもぜひ従軍牧師を呼んで、キリストの話を聞かせてくれ|。その願いはまもなくかなえられ、ハイラー宣教師が週に一度やってきて、布教活動が行われるようになった。部落民はすすんで集会に参加、キリストの話に耳を傾けた。

 軍の布告文でる

 しかし、その間すべてがとどこおりなくいったわけではなかった。沖縄全島はあくまで戦時下だった。四月七日には沖縄米軍司令官の名で「さいきん、日本兵が変装して潜入している事実がある。それを知りながら届けないときは断固たる処置をとる」との布告文がだされた。五月に入ると移動命令が出された。現在のゴルフ場近くの丘に重砲がすえられ、戦場に向かって絶え間なく砲弾が打ち込まれるようになり、部落周辺にもようやく危険が迫ってきたからだ。五月初旬、全部落民が米軍の差し向けたトラックに分譲、金武村福山に移った。そして一カ年|再び部落に帰ってきたときには、部落は影かたちもなく、ブルドーザーで敷きならされていた。

 リーダーズ・ダイジェストで紹介

 喜納さんはいまコザ市比嘉区に居を構え、何不自由ない気楽な生活を送っている。空手、古武術のサイをよくし、八十歳の高齢とは思えないかくしゃくぶり。喜納さんのこの沖縄戦にまつわる話は、いくらか角度をかえて六○年十月号の英語版リーダーズ・ダイジェストにも載り、全世界に紹介された。そのときには遠くドイツ、イギリス、アメリカなどから十四通の手紙がよせられた。過去の資料を丹念に整理している喜納さんはときどきそれをとりだして思い出にふけっている。「私は長い教員生活を送ったが、昭和七年に引退後も大過なくすごせたのもそのおかげだっ思っている。比嘉太郎君はいまハワイで健在です。戦争中のできごとは、いま考えてもまるで夢のようなものです」と語っていた。

沖縄タイムス平和ウェブ 過去の「慰霊の日」特集

 

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DVIDS - Images - Okinawa, Hawaii reflect on postwar relief efforts, reaffirming spirit of Yuimaaru [Image 4 of 7]