『沖縄県史 第9巻 / 第10巻』 沖縄戦証言 ~ 旧中城村村役所 篇

 

コンコーダンス用の書きおこしです。誤字などがありますので、必ず原典をお確かめください。《沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

旧中城村村役所(PDF形式:838KB)

 

防衛召集は、ちょうど前の赤札みたようなものでした。学徒隊が出ているような状況になってからは、十五・六歳、十六・七歳あたりからは、全部召集されたのではないでしようかね、村役場を通し

 

宮城盛輝 動員は、島尻にも国頭にも、それから害薬(戦車防害の石垣)とか、構築とか、地均しとかに特殊の技能を持ったあの熱田のセイゼン、ああいう人は、八重山にもやられた。特殊技能の人ばかりではない、あちこちの飛行場にやられた。今宮城さんが言われたのは、おもに翼賛会の関係、瑞慶覧さんの、その方はほとんど中飛行場だけで、そういうことでした。


飛行場づくりは、芋を食べますね。ところが小さいものを、乱暴な態度で「食へ」、というんです、尽忠報国の精神だというんでやるんだが、足もちょっと引けないくらい、へとへとになるのです。顔も三日くらいは洗わなかったというのは、宮城さんのお話しと同じです。


寝るところは、飛行場の中にバラックがあって、床の上にゴロ寝ですよ。仕事は、土を掘るもの、それを運ぶことです。兵隊はそんなことはしないんです。


動員は、無料奉仕です。手間賃を取るということはないです。それから、動員関係もそうだし、山の木ですね、壕をつくったり、それから戦車をつくったり、戦車が通るのを停めるというので松の木を伐って来て、縄できびるのですね、わしなんかも墓地から山の木を相当伐られていますがね。一銭も代といってはくれません。それから供出も、芋や何や出したけれども、やはり一銭もくれません、金を取った覚えはありません。最初の食糧営団に納めていた頃は多少くれていたんです。それから、日本軍が、竪穴を掘るでしよう、それでわたくしなんか、うちも新しかったが、雨戸を無理に脱いでですね、壕を蔽うてあったですよ。それで戸が無いでは眠れないので、そこは浜辺の近くに掘ってあったですがね、行って、それでもいいのかとかけ合ったら、やっと一、二枚戻してありましたが、返さないですよ。そういうことも当り前のようにしていた。

 

それから日本軍への協力ということですがね、十五、六歳から上の適齢のものは、男女全部が召集されました。あれは四月の一日であったか、三月の三十一日か、三月の末です。女の子供(女子少女)は全部引率されて、中城城趾へ行ったんです。軍からの召集で適令の子たちは。うちにも娘がいましたからですね。軍からの召集というので、壕の中で、区長を通じてですよ。現実に区長から通知があったので、壕の中で、鶏をつぶしてくれてやったから、よく憶えています。適齢期の男女青年は、全部召集されて、中城城趾に集ったと思いますよ。それからずっと島尻の方へ軍といっしょに行って、戦争が終るまでは、全然はなればなれで、あいませんでした。


宮城善八 それはそうであったでしょうね、わたしが棚原戦線へ下っていた時でした。うちの部落の、今、比嘉光吉の家内のエミ子ですね、あれはあの時十六歳でした(今の日本でいうとまだ十四か十五歳である)。その子が、軍の野戦病院で、かいがいしく働いていました。


安里永太郎 あさって敵が上陸するという三月の三十日 (3月30日) にですね、屋宜原に、ズリガマという洞窟がありますがね、八十名くらい入れる壕なんです。そこへ中城の在郷軍人の幹部が集まりましてね、一死もって報国の誠を尽そうという決意のもとに団結し、中隊をつくって参加しようということになった。翌三十一日には、令状が来てですね、校庭に、あの時は喜舎場国民学校といいました。その校庭に集って、そこで賀谷部隊に配属されて、瑞慶覧中尉が隊長に命じられて、歩武堂堂と校庭でやったんです。そうして屋宜原の今の将校倶楽部ですね、東がわに兵舎がありました。そこに守っていたところが、上陸とともに、四月一日、中城へ召集、それから行動を起し、具志(?)棚原(西原村)・浦添(村)ですね、ああいうところに配置していたんです。

 

そうして上陸した兵隊がですね、三日目にはもう島袋を襲っているのです。そこで壕にたてこもっていた連中は、非常に恐怖を感じているところに、もうこれはおしまいだ、この世の見おさめだということで、そうですね、約千五百名のものが、うろたえてしまったんです。泣き叫ぶものもいるし、なかなかおさまらない。その時この先生が(喜納昌盛さんを示す)立たれて、戦争というものは、兵隊と兵隊との戦いであって、お前たちを殺すことはない。アメリカは紳士の国だ。もし万一のことがあったら、わたしが真先に立って犠牲になろう、ということで、もうその時は、アメリカの兵隊が鉄砲を向けて来たんです。

 

註、中城村といっしょであった関係で、動員、供出、防衛召集、現地召集等をくわしく具体的に、かつ組織的に順序立って語って貰えなかった。しかし、供出の場合は、安谷屋部落で委細に実状がわかり、奉仕動員、防衛召集、現地召集等、また戦闘協力、などについても、中城村と合せて、各部落の地域座談会の出席等によって、ほとんど遺漏なく記録ができたので、ここでは出席者の発言によって、記載し、項目を立てて、まとめることを避けた。多少たりとも、事実を歪めることが文章のあやによって出はしないかを惧れたからである。


また、動員、軍への協力、現地召集、防衛召集、義勇兵勤労奉仕等は、全県下が組織的に、同一であることが、調査ではっきりしている。したがって、あちこちで、くわしく語られて記録される。

 

喜納昌盛

(六十二歳) 村会議員

中城村村議会議員として - 疎開を拒む

教員を三十三か年やりましたが、その後、住民から村会議員になれと推されて、村会議員になったわけです。そうして村会議員になったら、中城村全部で二十四名です。そうして上陸当時になったら、村会を召集して、全会一致で久志村の瀬嵩に移動するようになったんです。その時にわたしひとり立って、出来ないと断ったんです。そうしたら皆、わたくしに顔を向けて、小奴はいけない奴だ、どうしてそんなことをいうか、全会一致しているのにどういうわけか、善良の議員ではないではないかと、強く言われたんです。

 

それでは理由を言いましよう。国頭(沖縄本島北部の総称)に行ったら食料がない。それから、アメリカがこっちに上陸するにしても、戦は、兵隊と兵隊がやるのである。それからあっちに上陸しないと誰が保証するか。今度また四番目に、同じく死ぬなら、なぜあっちで死ぬか、これまではあたりまえに言ったが、おしまいに強く出て、もしアメリカ兵隊が鉄砲を向けたら、わしが真っ先きになって見せるといったんです。そうしたら大馬鹿、これとは相手にならんといって、議会を解散してしまったんです。それからその翌日、村長、助役、収入役、県会議員、駐在巡査、議員全体、島袋(中城村)に押寄せて来たんです、わたしは島袋出身の議員だから。そうして吟味集会をして、あなたがたが出した議員は、どうもいけない、全会一致で移動を決議したが、ただひとり反対しているよ。だからわしたちがいうとおり移動するように、こうとき聞かしたですよ。その時にわたしはまた立ったですよ、行くな、わしがいう通りやれ、今いう通り食糧がない、同じ死ぬならこっちで死ね、兵隊と兵隊の戦さであって、人民は殺さない、そうわたしがいったんです。

 

そうしたらみんな怒っているんですよ、役所から来た人たちは。皆さん、心配するなというけれど、われわれ二十三名がいうのがほんとうか、これ一人がいうのがほんとか、どっちにつくかと、いろいろとひどいんです。二時間ぐらい自分たちのいうのがいいよ、どうのこうのいうんです。それでわたしはまた立って、もしアメリカ兵が殺すようなことがあるなら、わたしが真先きに立つ、それでも皆が行くというなら行きなさいといったんです。そうしたら、皆おちついてしまったです。それで村長や駐在巡査たちは帰ってしまったんです。それでその後まあ、安心したといって、そのまま誰も行きませんでした。

比嘉太郎との再会

それから四月一日もどうもない。二日目もどうもない。三日目は午後の二時頃だったですが、アメリカ兵が鉄砲向けて来た。ああわたしの意見が間違ったかな、殺されねばならんかな、と思った。それに英語知らんでしようまた、兵隊の前に行って頭こうして(おじぎをする)、おかしいんです、まあ芝居です。それでおしまいに、「ユー、アメリカ、ゼントルマン」、といったんです。そうしたら変った手真似をしたんです。何かな、と思っていたら、二世をつれて来たんです。その二世がこれです (写真を示す) 比嘉太郎。これが、ああ、喜納先生といって手を取ったんですよ。その時にアメリカ兵は銃を引いたんです。それで安心して、人民にももうどうもない、どうもない、安心しなさいといって、これが教え子の比嘉太郎 (先に示した写真を出す) 裏に書いてある。戦争中あったということを。ここで学校出て、ハワイへ行っていたんです。それでその後、皆おちつかしたので、比嘉太郎に、教会を建ててくれといって、これがはじめの教会で、これです (写真を見せる) 。

 

 

そうしてこのことが、リーダスダイジェストに出たそうです。それをアメリカから各国にやったらしいんですね。そうしたらイギリスからもドイツからも、イタリーからも、各国から「君は人を助けた」そうだなという手紙が来ておりました。これみんな貼ってあるんですがね、手紙も写真も、すべて持っています、これです。そうしてそれを昨年の八月に、アメリカのデリー大学のロッジ博士がですよ、これをごらんになって、珍らしいな、沖縄にもそんなのがいたかなといって、手紙をわたしに下さったんです。

 

その手紙を書かれるために、その先生の教え子に沖縄の人がいないかということになって、金城というのがいたそうですが、喜納昌盛という人知らないかときいたがしらない。友だちにいないかと問われたらしいんです。ああいます。比嘉俊夫というのが、それで比嘉俊夫が来ていろいろ訊ねるんです。君なぜそんなにわたしのことをきくかとたずねたら、デリー大学のロッジ博士から頼まれたというんです。あ、そうか、それじゃ書きなさいといってそれを送ったんです。送ったら、君あいたいとまた来ておるんです、手紙が。困ったな英語は知らないし、と思っていたんですが、比嘉俊夫というのが、わたしが案内しますから、英語の心配もするなといって、そうしていっしょに訪ねました。この方がこれです (写真を示す) 裏に英語で何か書いてあるでしょう。昨年の八月でした。また手紙が来て、君のことを著書に書いてあるが、牧師は何というか、ただハイラーではわからんからな、ということで牧師を連れて来て、人民を集めて、そうして講話を聴いたんですよ、第一回目の。これが第二回目(写真)これが第三回目。(写真)この写真は戦争当時、比嘉太郎が写したものです。

福山への移動

その後島袋の前に大砲をすえて、首里にどんどんやっていたんですよ。それからアメリカの日本語知っている、何といったかな、ああミヨヘンという副領事が見えて、ここは危険だから、金武の福山に、移動することになったんです。千五百名の住民全部、アメリカの軍のトラックで移動したわけです。それから福山で集団生活を始めたんです。それで昨年(一九六八)は住民皆で、ご招待して、歓迎会をやりましたよ。副領事です、日本の(駐日の意)

 

福山は、漢那(金武村、現在宜野座村)を越えて、宜野座字の上にありますよ。移動したのは、六月の中旬だったですかな、それまでは、島袋にいたんです。福山は今は金武から分村しているので、宜野座村になっているんですね。そこに約一か年いたんですが、戦争は、行ってじき終ったので後悔したですよ。早くおしまいになれば、移動させられなくてよかったのになあ、といって、後悔したですよ。

島袋民間人収容所

そうですな、四月三日から六月下旬に、金武村の福山に移動するまでの島袋での生活はですな、製糖工場がありましたからね。避難民は、東方面ばかりではない。島尻からも、首里那覇の方からも大分来たんですよ。でその方がたにも、砂糖をだいぶ積んであるから、全部分けて上げたんですよ。それから軍の米も沢山積んであったですよ。それも分けて上げたんですなあ。それで皆喜んで、島袋での生活は、ゆっくりでした。島袋の建物は、部落にいる間は、一軒もこわされてはいなかったんです。全部完全に残っていたんです。

 

ところが、福山から帰って来た時には、一軒も残っていませんでした。島袋の字の一般住民で、部落に残っていた者には犠牲者はありませんでしたな。

福山民間人収容所での生活

福山に行ってからも、マラリアはありましたよ。それで亡くなった人はいません。子供がハブに唆れたのはいましたね、福山で。マラリアは軽かったですから。

 

福山での生活は、最初は楽でしたが、最後は海の藻(ほんだわら)や芋の葉も食べたし、それさえもなくて、いっときは非常に困りましたよ。


註、宮城盛輝さん発言。「先生のおっしゃるのは、島袋の部落はですね、戦争による戦争被害はほとんどないといっていいぐらいですね。ほかはですね、村でもですよ、疎開しています。働き得ないものは全部あそこへ行っておれといって、疎開してですね。今お話のあった久志に行ったのは (司会者の質問) 皆犠牲になっています。そうして、島袋が疎開しているのは、戦争が終ってからですよ。この人(安里永太郎さんを示す)わたしといっしょに、喜屋武の福地ですね、あそこで六月の十九日捕虜になりましたのでね、

この人はアメリカ帰りで英語を知っていたので、出て来いといったから出って行った。それでその時まで島袋という部落は、疎開も何もしていないから、いわゆるそこでの戦争被害というのは何にもないぐらい。でわたしたちは、福地で十九日に捕虜になって、伊良波(豊見城村)に移されて、それからまたコザに行きましてから、島袋はそれから移されています。戦争がも終ってからですよ。わたしたちが捕虜になったのは十九日で、コザに来てからですから、戦争地域になる、危いから移せ、あるいは軍の施設をするかどうかという意味で移されたんですよ。

僕等は、伊良波の甘蔗の中で、CIDということで、あっちに一週間くらいいてからコザには来たんですからね、島袋の移動は、完全に戦争が終ってからですよ」。

 

わたしは、聖書をずっと見ていましたから。戦前からわたしはクリスチャンです。あの時に、比嘉太郎が来たことは、神の助けだったかもしれませんね。世界各国から手紙は、沢山貰いましたな。


註、喜納さんのそれは、クリスチャン精神による強固な信念を持っていられたからだと、ほかの同席の方の発言が最後にあった。戦火の中に追いつめられて生き残った住民が、終戦後北部に移されて、飢餓による栄養失調とマラリヤのために、砲爆撃の犠性に劣らない人命が失われているが、それに反して、島袋部落千五百余の生命が、一年間の疎開生活にも何んの犠牲もなかったことは、戦争中、三月の間、衣食住にそれほど不自由なく平穏に過して、移動の時には、米軍のトラックで、可能の限り衣食を持って行ったからではないかと思われる。

 

宮城善八

(三十一歳)村戸籍係

今、永太郎さんが話されたのは、残っている村民自体がです。伊舎堂(中城村)に瑞慶覧朝敏といって、兵隊上りの若い中尉がおりましたが、その人が、役場吏員と消防団関係の方がた、学校の先生がたを集めて、一個中隊つくって、石部隊ですね、そこに入隊志願をしてですね、そうしたら、あなた方は住民だから、帰り度い人は帰っていいという話をしていました。

 

それでさっき話のあった屋宜原(現北中城村)の壕で、そういうことでも参加しようということで、それで三十一日の晩です、先生方、消防団、役所の吏員方。そうしてその晩、そこへ行ったら、銃とか弾薬を渡してですな。あなた方は、屋宜原の守備につけということで、三十一日の晩、今の将校官邸のあの山ですな。翌る日は、上陸というので、一旦また夜明け前に壕に帰って来て、そこでの話し合いは、夕方までに、めいめいで、役所のあったそこへ集れというように中隊長から命令が出て、そこからめいめいで下ったんですね。あの屋宜原、あっちへ行きながら一人怪我してですな、安谷屋の棚原正吉というものが足をやられて、今の中城の村長と三名行ってですね、そうして、その人を避難に預かってくれと頼んだら、入らないというんですね。多分、わたしたちが、そのまま預けっぱなしで逃げると思ったのでしよう。収容する病院があるから、行って見て来る間預ってくれといって預けて、それで役所まで行って見ると、部隊はいないんですな。それでたそがれ時を待っていたんです。

 

それから、荻道に大きな壕がありますな、あれは野戦病院だったんです。むこうにも行ったんですが、そこも全部出て行って人ひとりいないんです。それから民家に入って、モッコと棒をさがし出して、足をやられている棚原を預けたまで戻って行って、城間盛栄さん(現在の中城村村長)と二人で、怪我しているのを担いでですね、行ったんです。夕暮れになると、まあ、どんどん、どんどん、蟻がはい出るようにですな、騒いで南へ向かって出て行くですな、民間人も、兵隊も。

 

それで少し後戻りになりますが、最初に配備した今の将校倶楽部では、三十一日の晩、そこで過して、翌る日は、中城城趾でした。それでわれわれは、地理がくわしいというのでよく斥候に出されましたな。われわれは、前にもいいましたが防衛隊ではなくて、自分たちで志願したのです。大体三十五六名くらいだったですな。
仕事は、死体収容、弾薬運び、食糧運びです。食糧がどこにあるということで、それを担ついだり、そういったものがおもでした。それから新垣(中城村)の線から、西の棚原にですな、棚原の部落の上に高台があるでしょう。そこが石部隊の本部だったんです。


そこで斥候に出ましたがな、兵隊でわたしが階級が上でしたから、斥候になって、出かけたんです。わしが前になって、上等兵二人を真中にして、棚原の人で小橋川といったんですがね、それを一番後にして出かけたんです。相当に前進してからでしたが、一番後になっていたその人が来ないんですね、はぐれてしまったらしいんです。それでわたしは上等兵二人を残して、さがしに戻って行きました。見当らないんですね、それでまた引っ返して、われわれは、できるだけあちこちを偵察して、いろんな情報をつかまえて帰って来たんです。そうすると、翌る日の夜明け方になって、その小橋川が帰って来ましたが、ここを(左肩)をやられていましたな。それで、棚原には野戦病院がありましたので、そこに連れて行ったんですが、それから三日くらいして死んだんですね、わたしたちは、立ち去った後で、死ぬのは見ませんでした。

 

もうその辺からは、食べるものは甘蔗だけですな。少し配給がある時もあったが、ほとんどキビだけです。兵隊といっしょに飯を食べるのではないんですな。われわれは、志願して自分たちで、来たんですから、食物は、兵隊からはありませんでした。沖縄戦の場合は、甘蔗がなければ、もっと死んだ人が出たんじゃなかったですかな。
負傷者も野戦病院に運びましたし、死体収容をして最初の中は、

 

 

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