田井等収容所 ~ 日本兵に殺されるより収容所に (琉球新報 2021年07月22日)

 

戦世刻んで 戦後74年 ~ 米軍拘束恐れ 

壕を転々/収容所脱走で射殺「3度見た」/名護・田井等の島袋さん

2019年5月11日


 【名護】「これが田井等アサギ下に掘られた防空壕。ここから200メートル離れた拝所・ヤトバラ裏の斜面にも同じ造りの防空壕があった」。そう説明するのは田井等区の島袋徳次郎さん(84)。徳之島に出稼ぎに出ていた島袋さんの家族は、1943年12月に田井等に戻って来た。

 

 島袋さんは伊仙町面縄尋常高等小学校から、羽地尋常高等小学校に転入した。家族が住んでいたのは、田井等の旧公民館近くの借家だった。家から半径1キロ以内にはいくつもの防空壕があり、庭にも縦穴の防空壕が既に掘られていたという。

 

 2年生に進級した44年10月ごろには田井等の上空を何度も飛行機が飛んだ。「名護湾方面から2、3機の飛行機が来た。空襲警報も出ていた」と振り返る島袋さん。戦争の足音は田井等にも近づいていた。

 

 「空襲警報掛かったら 今は僕たち小さいから 大人の言う事よく聞き 慌てないで 騒がないで 入ってみましょう 防空壕

 

 島袋さんが今も覚えている歌だ。「公民館でムラの先輩から教わった。当時は流行歌のように歌っていた」。歌いながら防空壕への避難訓練を繰り返した。

 

 集落からの避難を余儀なくされたのは45年5月。両親と姉、妹の5人で「ヤトバラ」と呼ばれる拝所裏の防空壕へ急いだ。壕はすでにムラの人で満員状態だった。中から「子ども連れの家族は出しなさい」という声が聞こえた。

 

 壕に入れなかった島袋さん家族は、羽地大川沿いにあった炭焼き窯に一晩隠れ、タガラ山(現羽地ダム方面)の「ヒルクブ」「マタキナ」へ移動したが、そこも避難民であふれていて、さらに「カズラマタ」へ移動した。

 

 「そこで1カ月は過ごしたかな。静かだと思ったが6月には米軍が来て、父の寛明は捕虜として連れて行かれた」と話す島袋さん。

 

 家族はこのままでは危険だと「イッキノー」へ移った。「イッキノーには4世帯14人がいた。今度は父と同じ年代の男性が捕まった」。幼心に恐怖と、悔しさを感じたという。

 

 山を下りたのは7月。田井等と川上の集落には既に収容所ができていた。

 

 民間人は収容所の施設の作業に駆り出されたが、脱走すると収容所近くで射殺されたという。島袋さんはその光景を3度、目にした。「かわいそうだった。やっと生き延びたのに」。収容所では炊事班として働いていた父親と再会することができた。

 

 25歳の時に、同い年の美代子さんと結婚して子ども3人、孫7人に恵まれた島袋さん。当時の苦しい気持ちを思い出し「子や孫に苦しい思いをさせてはならない。戦争は絶対にさせてはいけない」と平和の大切さを訴えた。(玉城学通信員)

 

(写図説明)集落に残る防空壕のそばで、沖縄戦当時のことを説明する島袋徳次郎さん=名護市田井等

[戦世刻んで 戦後74年]/米軍拘束恐れ 壕を転々/収容所脱走で射殺「3度見た」/名護・田井等の島袋さん | 沖縄タイムス

 

 

琉球新報 ~ 山の戦争

日本兵が女性を殺害 當銘幸吉さん <読者と刻む沖縄戦

2021年07月22日

 母や弟と共に山中をさまよった當銘幸吉さん(86)=糸満市=は飢えに苦しんだ日々を今も忘れることはありません。

 

 「喜如嘉では桑の葉など何でも食べました。食べないと死んでしまう。人の畑から作物を盗んだこともある。有銘ではバッタを捕まえ、焼いて食べた。よく生きていたと思います」

 

 「大宜味村史」によると村に割り当てられた疎開者の受け入れ数は1万人余りで、そのうち1400人は喜如嘉の受け入れです。山に造った避難小屋だけでは足りず、500人余が民家で雑居しました。食べ物を巡る争いも起きました。

 

 家族はその後、名護へ移動します。そこで日本軍による住民殺害を目撃します。

 

 《米軍が大浦湾より来るとのことで、2~3世帯別れて名護方面へ逃げた。 その途中、名護の東の山の中で、もんぺ姿の若い女性が2人の日本兵に射殺されているのを目にした。あまりの怖さに名護の北東の山中をさまよった。》

 

 當銘さんの記憶では女性が日本兵に殺害された場所は名護の中心地から東に500メートルほど離れた名護岳の周辺です。

 

 「日本兵に『何かあったんですか』と聞いたら『アメリカ兵と歩いていたので殺した』というのです。なぜアメリカ兵でなく女性を殺すのか、と恐ろしくなりました」

 

 日本軍に恐怖を感じた家族はその場を離れ、名護の山中を逃げ続けます。

日本兵が女性を殺害 當銘幸吉さん 山の戦争(32)<読者と刻む沖縄戦> - 琉球新報デジタル

 

日本兵に殺されるより収容所に 當銘幸吉さん

2021年07月23日

 當銘幸吉さん(86)=糸満市=の家族は日本兵による住民殺害を目撃した2日後、米軍に捕らわれます。日本兵に強い恐怖を感じ、自ら羽地村(現名護市)の田井等収容地区に向かったのです。母カメさんの判断でした。

 

 「もんぺ姿の女性を殺した日本兵に驚いてしまい、日本兵に殺されるくらいなら、米軍に降参して捕虜となった方がいいと母は考えていました。端にタオルを付けた棒を持って田井等に向かいました」

 

 當銘さん家族はその後、宜野座村祖慶の収容所を経て1945年末、豊見城村に戻ります。

 

 《羽地村田井等より宜野座村祖慶に移される。昭和20年末、豊見城村伊良波、そして保栄茂(びん)部落の馬場へ。米軍野戦用テントで戦後の生活が始まる。

 

 南部島尻は家屋、役場、学校など全てが焼け、焦土と化した。爆弾穴、艦砲穴があり、不発弾もごろごろ。まさに地獄だった。》

 

 「豊見城村史」によると、伊良波には南部一帯で捕らわれた人々が短期間過ごす収容所や中北部から帰郷した人々を受け入れる収容所が置かれました。ここで住民がテント小屋で生活しました。

 

 保栄茂の馬場は集落の南側にありました。46年3月までに保栄茂住民は集落に戻り、家造りなど生活の再建に取り組みます。しかし、當銘さんの苦難はその後も続きました。]

日本兵に殺されるより収容所に 當銘幸吉さん 山の戦争(33)<読者と刻む沖縄戦> - 琉球新報デジタル