サイパンの北端に追い詰められた住民 ~ 琉球新報「忘れられない2つのがけ 次々投身、艦砲の跡今も」
1944年7月。住民は、サイパン島では北に追い詰められ、テニヤン島では南に追い詰められていった。
サイパン島の北端に追い詰められた住民の多くが、マッピ山の断崖「スーサイドクリフ」や、海側の崖「バンザイクリフ」から身を投げた。日本からの移民の半数以上が沖縄系住民であった。慰霊の「沖縄の塔」はマッピ山にある。

玉砕の島々 南洋群島50回忌 第2部
忘れられない2つのがけ 次々投身、艦砲の跡今も
容赦なく日差しが照りつける。干ばつで枯れかかった木々。石灰岩大地に延びる真っ白な道を車が通るたび、土煙が巻き起こる。50回忌を迎えたかつての戦場、サイパン。島の北端に位置するマッピー山のふもと。多くの沖縄出身者が追い詰められ、命を落としたこの土地に建つ「おきなわの塔」で2日、合同慰霊祭が行われた。
遺族を代表し追悼の言葉を読んだのは上地賢勇さん(64)だった。上地さんはサイパンで母親と姉を失った。
祭壇に向かって用意した原稿を読み始めたものの、思うように言葉が出ない。戦前の平和の日々、戦場を逃げ惑った苦しみが頭をよぎる。絞りだすような声で、一言、一言。「今、到着しました。長い間のごぶさた申し訳ありません」。込み上げてくるものを押さえ切れず上地さんは塔の前で、深々と頭を下げた。
バンザイクリフ、スーサイドクリフ。サイパンを襲った戦火を逃げ惑った者は、島の北端にある2つの崖(がけ)の名を忘れることができない。米軍の猛攻に追い詰められた住民が命を落とした場所。艦砲に倒れ、飢えに苦しんだ。そして恐怖と絶望の中、この崖から多くの住民が身を投げた。
上地さんの家族も安全な場所を求めて、島の北側をさまよった。その途中、母親と姉が亡くなった。
上地さんは1929年、サイパンの中心地。ガラパンで生まれた。軍国教育を受け、少年航空兵にあこがれる普通の少年だった。
日本の勝利を疑わず、勤労奉仕に明け暮れる日々。しかし、戦況は厳しさを増し、44年6月、米軍はサイパンに上陸する。
島の中央部にあるタッポーチョ山に上地さん家族7人は逃げ込んだ。頭上から激しく艦砲が撃ち込まれ、姉が行方不明に。さらに7月上旬、母親が撃たれた。その時の母親の姿が上地さんの脳裏にしみこんでいる。
「母が腰を撃たれて、亡くなるまでの1時間が忘れられない。父の刻みたばこを傷口に当て、タオルで押さえた。10分ぐらいは話しもしたが、そのうち言葉がなくなった…」。
スーサイドクリフの岸壁には、今も艦砲の跡が生々しく残る。バンザイクリフの下には紺ぺきの海が広がる。この海は投身した人々の血で真っ赤に染まったという。
悲劇の地に立つ遺族。平和な日々がうち砕かれた悔しさ、家族を失った悲しさを抱え、遺族の焼香が静かに続いた。
(「玉砕の島々」取材班)
1993年6月10日掲載
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
