『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言 ~ 大東島篇

 

コンコーダンス用のテキストを公開しています。誤字脱字などがありますので、必ず下記から原典をお確かめください。沖縄戦証言 大東島沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》 

 

 

 

大東諸島戰時日誌

昭和

九年九月 南大東島に海軍飛行場設定。

 

十八年七月 大城中尉指揮の下に防衛隊が組織される。

 

十九年

二月二五日 米潜水艦、沖大東島(ラサ)を砲撃。

三月十二日  北大東島碇泊中の大仁丸が魚雷攻撃を受け沈没。

四月一日 北大東島にて貨物船南丸雷撃を受け沈没。

七月四日 歩兵第三六連隊(鯖江連隊)を三二軍編入

七月十九日 江連隊主力、大東島に上陸。第一大隊(原少佐)は南大東南地区、第三大隊(吉田少佐)は 新東区、第二大隊(須永少佐)は北大東に各々 駐屯。続いて海軍部隊、設営隊が来品。島民一四〇〇名に対し軍隊は約四〇〇〇名に達し、島内食種事情が憂慮されるに至った。

七月二十日 第一回引揚者約三○○名が東京向け出発

八月 西港で荷揚中の小型船団が魚雷攻撃を受け沈没、大破。島民の最後の頼みとする米五百石を失う。このころ軍の指導により義勇団が結成され四団に分れて各々部落の指導に当る。

十月三日 B24沖大東島に来襲、銃撃。

十月十日 グラマン延六機来襲、爆撃及び機銃掃射。駆潜艇拓南丸が爆撃を受け、飯田大尉他二20名が戦死。民に被害なし。 このころからB29が偵察のため飛来するようになる。

十月二四日 鯖江迎隊の軍旗祭。この日早朝東西滑走路から出撃した陸軍戦闘機が故障のため墜落。

 

二十年

一月 このころB29の低空飛行はげしくなり地上陣地からの対空砲火も一段と熾烈となる。

二月十六日 現地防衛召集実施。 中隊編成。隊長原少尉。

二月十七日 この日より小隊、棲息塚、戦車壊構築などの作業に従事。

二月十八日 B24一機、低空で米遇。飛行場付近に爆弾三個投下。地上砲火により撃破。

三月一日 大空襲。延九七機。大日本精糖の砂糖倉庫、木工室倉庫など焼失。軍は、戦果、撃墜八機撃破二九機と発表。

三月七日 警戒警報発令。近海に米機動隊溢動の模様。

三月十日 陸軍記念日。午前八時、グラマン20機編隊来襲。第一波、機銃猟射及び焼夷弾投下。第二波 爆弾による本格的攻撃。砂糖倉庫に焼夷弾落下 約三万俵(一五〇斤入俵)が九日間にわたって 燃え続け、ガスが発生して近寄れず。鉄道線路上は一面アメの池と化し交通不能となる。

三月十二日 輸送船団出帆。(十口に入港したもの)

三月十六日 空襲警報。一機来襲。

三月十七日 電探感度によりウルシイ在の米機動部隊北上の算大との報告あり。

三月二一日 米艦載機二二機米殿。機銃揃射を受ける。この日友軍戦闘機四機、着陸。

三月二三日 友軍機四機、出繋。北大東島に米機来襲。

三月二四日 早桐より米機米硬。製糖工場、倉庫など焼失。

三月二五日 米機来襲、飛行場を爆撃。一機撃墜。

三月二六日 米機来襲。観測所、第一農場焼く。

三月二七日 早暁より米機来襲。午前中退続爆撃。夕刻、上陸用舟艇二隻を含む三、数隻の艦隊が 塩谷方面沖に出現、七時ごろ照明弾を打上げ約 三時間にわたって艦砲射撃。 部隊本部から、敵の上陸算大、婦女子は三日間 の食糧を持って新東方面に避難、働ける男子は戦闘に参加するよう指示があった。

三月二八日 午前四時ごろから砲撃再開。六時ごろ止む。艦船数十隻南西海岸沖を近よく。 上陸に備え防衛隊、響備隊は弾薬を分配して待機。

三月二九日やや平穏。大型機沿岸を旋廻。情勢の悪化に伴って連隊本部は新東地区の大洞窟に移動。軍旗、御真影も洞窟内に安置。

三月三〇日 午前、米機米拠、銃爆撃あり。午後、ふたたび来襲。延十一機。

三月三一日 空襲警報数回、米機米襲二回。学校付近銃爆繋。

四月一日 写真館、大束守焼失。米機米拠。沖縄本島に敵上陸の情報はいる。(嘉手納に二、三個師団。港川に一個師団とのこと)

四月二日 米機来襲、燃~二回

四月三日 空襲管報のみ。

四月五日 米機米殿、午前、午後数回銃燃採。

四月六日午後、米機百機による大燃喉を受ける。地上建造物大破。

四月七日 米機七機、来場

四月八日 空襲。秋葉砲台一門破壊。

四月九日 空襲、三〇機以上。在所に火災。二機撃墜。

四月十日 第二回目の艦砲射修を受ける。艦船二八隻、艦機と緊密な迷絡の下に地上の諸施設を次々と破壊。

四月十一日~十四日 連日B24による空襲を受ける。

四月十六日 友軍機一機飛来。警報が数回出るが来襲なし。このころより食糧生産のため警備隊員は麦刈りなどに出る。

四月十七日 米機米吸、銃爆撃。

四月十八日 米機米殿、二機撃墜。このころ、連日の空襲の下で、警備隊は自作園の工作、 食器製作、線路補修、便所の設置、漁撈などに従事。

四月十九日 西海岸沖方面 (沖縄本島方面)で艦砲の音が終日雷鳴の如く漸く

四月二十日米機来襲、銃撃を受ける。自作園作業続く。

四月二一日 米機来襲、約三時間銃爆撃の後、米艦隊南北大東島を砲撃。艦砲射熾烈となり池之沢、在所の社宅はほとんど全滅状態となる。

四月二二日 米機来襲。このころ洞窟内では原因不明の熱病(大東熱)が流行する。

四月二三日 との日より六月九日まで戦況平織。食類確保の作業続く。 過去の空襲と艦砲射撃により、住民二名、軍人四O余名戦死(南大東のみ)。

六月十日 最後の敵襲。早朝より大空襲、引続き艦砲射撃熾烈、約二時間続く、四二センチ主砲に島全体 が震動した。飛行場、社宅地帯、学校、観測所 など壊滅状態となる。この日以後、空襲は漸次おとろえていく。

六月二二日 沖縄本島最終段階に入る。軍司令官以下玉砕との報がはいる。

六月二三日 海軍の食糧輸送のため友軍潜水艦が来航。御真影、書類などを広島へ向け送還する。

七月一日 艦砲射撃の公算大の情報が流されたが異常なし。これ以後、砲爆蝶は一切止む。 警備隊、連日、軽機、擲弾筒、肉攻などの訓練を行い敵上陸に耐える。

八月十六日 紹書伝達式 (無条件降伏)。三か月に及ぶ洞窟内の生活からふたたび地上生活へ移る。

八月十七口 警備隊、分隊闘訓練。午後、自活園耕作。

八月十八日 勅書伝達式。

九月一日 兵器返納完了。守備隊、解散。

九月  米軍占領部隊進事。武器弾薬海中投棄。北、秋薬、南の西北の海面砲陣地、北海岸、南海岸の野砲陣地など行砲台座地爆破。

十二月二六日 航空母艦カツラギが米航、陸海軍将兵と住民の一部が本土に引揚げる。鯖江連隊は南北大東島駐屯地の間総計112名の戦没者をだした。 (備中隊々長原少尉の陣地日誌による)

 

南大東島の戦時状況

字旧東 松田 秀夫(八歳) 現旧東区長

字所 宮里 清 一(九歳) 生徒

字社所 西浜 良 修(二二歳) 教員

字 南 沖山 淳一郎(三十三歳) 防衛隊員

字所 菊池 密 井 (十四) 生徒

(本文は右五氏の終会をもとに南大東村の戦時状況をまとめ たものである。)

食糧事情と疎開

昭和十八年、十九年ごろまでは大日本製糖会社の専用船で米を移入して会社の売店で売っていたのでそれほど食糧には困りませんでした。船便は内地直通ですから、その頃の食糧事情もやはり沖縄本島とは違って、大東亜戦争ぼっ発からじわりじわりと恐くはなっていましたが、会社の力で何とか確保されていたわけです。当時砂糖の生産は国策によったものでした。砂糖からブタノールをとっていました。だから、米は会社から買うようにして、さつまいもは家畜を養うために少しはつくりましたが、あまり多く作らないように制限されていました。とにかくお国のために製糖をやろうという意気込みですから、食糧は民問のたくわえとしてはありませんでした。主食として麦をつくったのは終戦直後で、戦時中は味噌用のほかは作っていません。ここはずっと最後まで砂糖だけです。

 

十九年の三月ごろ、北大東の燐鉱船(大仁丸)が魚雷を受けて沈没した。南大東には加納丸が就航していましたが、これは大日本製糖の契約解でした。大東島へは、東京から大東へと、東京から大阪、門司、大東という経路がありました。大日本製糖は東京に本社があって、大阪工場と、門司に第二工場がありましたからそこに寄港してくるわけです。沖縄に行くのは、その頃年に一回ぐらいで、ほとんど内地でした。この船が、軍に徴用されて、やがて日糖の船は途絶してしまうわけです。加納丸が疎開船の最後の船になり、その後大東島は戦時体制に入るわけです。

 

私(菊池)の姉さんが帰ったのが最後の船でしたので十九年の七月ごろだったと思います。最後の船が来たとき、原先生の奥さんがはるばるやってきたんですが、上陸して、荷物もほどかないで、そのまま帰りなさいと云われて、泣きながらひっ返していきました。この第一回の引場者が約300名ですが、そのあとはもう軍用船ばかりです。十九年の体の製糖はやったんですが、これは懐出しができず、砂糖はそのままで、空襲で大部分焼けてしまったんですが、この砂糖でずい分助かりました。会社の船便がなくなってからは、軍の食糧をもらって適当にやっていました。特別食盤生産がありましたが、空襲がはじまって、そんなに作る余ゆうもありませんでした。家をうためにデンプンがありましたので、その頃の貴重な食掘となっていました。米はまったくなく、車から分けてもらう程度でした。

 

戦前大東には四千五、六百名の人口がありましたが、そのうち、最後まで島に残ったのは千四百名ですから、疎開者の数は三千二百名ぐらいになります。軍命で、年寄、婦人、子供はなるべく疎開をしてくれときていました。行く先は、自分の本籍地とか、船団によっては九州の大分とか宮崎などでした。会社の人たちは皆自分の故郷へ帰るわけですから、引揚げという感覚で内地に行きました。強制疎開ですから、残っている者はわずかです。

 

疎開船船は船団を組んで二回きました。十・十空襲のとき、ちょうどこの疎開船団が奄美大島の沖で空を受けて沈没しました。船は古仁屋に乗客を降ろし、乗客は山の方に逃げていきました。二隻は無事乗客を上陸させて、一隻は沈没しました。

 

私(菊池)と父は島へ残って、家族は無事疎開しました。九月の第二回目の疎開で、軍用船の船団で行ったわけですが、これがちょうど奄美大島で空襲にぶっつかったわけです。母などの話によりますと、船団はいったん沖縄に向い、そこから北部へ行って、奄美大島の名瀬に寄港して、そのときに危険情報がはいって、船団を組み変えて、警戒態勢をとりながら敵の目をくらますためにいくつにも分れて出港したのですが、名瀬を発って二時間後に空襲でやられたそうです。船は沈まずにヨタヨタしながら何とか陸にのりあげて、みんなは上陸して山に避難していったそうです。その時の犠牲者は五、六人ぐらいではないかと思います。疎開が沖縄よりも早いということは、軍が相当はいってくるという予定があって、最初から軍命です。あなた方は帰りなさいと半分は強制で追い出したわけですね。もうひとつは、籍が向うにある人が多かったからでしょうね。籍が向うにない人を強制疎開させようとしても、そう早くはいかなかったでしょう。

 

球部隊が十九年の四月に来て、七月には疎開がはじまったわけです。十八年には大城中尉がきて、私(加山)らも防術隊に現地召集されました。ですから、部隊が入ってくるのはわかっていました。そうすると、人口と食秘の問超がでてきます。民家でも、「あしたから使うから出て行きなさい」と云ってきました。当時は一億一心で総力をあげて眠時体制に協力するという情勢でしたから、そう云われても別に文句も云わず、「どうぞ、使いなさい」というぐあいでした。

 

残った各家庭では、非常用の食雅確保とかいうのはやっていませんでした。味噌などは自給でしたのでたくわえはありました。塩も島内で炊いていましたし、購入することもできました。野菜類は夏野菜などはなく、ナス、ロックン、キャベツなど作っていましたが、多くは、カズラの若い葉が呼楽がわりになっていました。お酒はアルコールでした。こちらでは佐藤からアルコールを和水してお酒にするんです。水で割るんで淡い味でした。煙草は十六年か十七年頃、配給制になり、十七年以後、戦時中は配給もありませんでした。だから、みんな自家製の煙草を作っていました。昔から農家の人たちは葉煙草を巻いて、税関もいるのですが、隠れてすったりしていました。それでしたので、煙草はどうにか喫えました。それから、軍から仕事をしたりした後に他箱をもらえました。まきは豊富にありました。水は戦前から問い水タンクに天水をためて使用しています。壕生活はいつも城の山にかくれていたわけではなく、空襲警報が鳴る時にかくれるわけですから、水は各家庭のタンクからドラム缶に入れて馬車で壕に運搬してきて、普通生活は家でしていますので塚の水がきれるということはありませんでした。

 

ラジオは、東京からのNHK放送で聞けました。学校で放送を聞いて、先生ががり版刷りにして、ちょうど新聞みたいに住民に流していました。戦時中の電波も東京からキャッチして、十二月八日の大本営発表もここで聞けました。電気は会社の従業側とか在所一帯の家に入っているだけで、一般の人々はランプで生活をしていました。

 

船が戦時体制でストップして米村ったのは病人が出たときでした。戦前には会社経営の病院があり、外科、内科、産婦人科の名医者が三名いました。内地までかなくても音勝手術もできたから今よりもよかったわけです。時体制になってその医者が引揚げてしまって、部隊の野戦病院に一般住民も収容されることもありましたが、そこでは米のかわりに乾パンを炊いておかゆがわりにすすらせていました。

 

米は、徴用されて以後は軍からの配給がありましたが、ほとんどは貯えにして、ふだんはさつまいもや代用食で食いつないでいました。農家も、軍と一緒になって、さつまいもや野菜づくりをやり、家畜なども養っていました。土地の者は畑仕事に慣れているので、自活班では彼らが指導者になって一緒に畑を耕やしていました。

 

住宅はたいへんなもので、ちゃんとした家は軍にとられてしまって、私(松田)たちは小さな物置小屋に入れられていました。兵舎といっても民家を徴用したもので、強制疎開というものもそういうところからきたんでしょう。徴用作業は自活班のほかに飛行場建設などもありました。

 

私(宮里)の家は陸軍の管轄地区でしたが、その前に航空隊が家をとってしまいました。それで、航空隊は陸軍とは違って別に兵舎をつくって、民間の家はとりこにしていませんでしたから、わりかし他の人たちよりはよかったと思います。他の所では、住家をとられて、家族は物置や畜舎を改造して寝とまりしていました。二十年の三月ごろまではそうやって、第一回の艦砲が始ってからは洞穴に避難しました。陸軍管轄の洞穴があって、航空隊とは分れてそこで生活していました。この洞穴には、陸軍の方から研日のように人数を調べにきました。もっとも、その時分からは、役に立たない女、子供は洞穴に行き、手伝いのできる者は全部買の手伝いをしていたと思います。父や姉たちも手伝いをしていたと記憶しています。私(宮里)たちは無邪気に遊んでいました。男の人たちは自活班とか漁撈班とか、女の人では炊事、洗引など、手伝いのできる者は全部でていました。

 

工場が正式に閉鎖されたのは空襲で焼けてからです。十九年の春まで操業して、後十・十空襲がはじまって、工場は焼けて、二十年の春には製糖はできませんでした。閉銀ではなく操業停止でした。会社はキビ代の支払いは最後までやっています。積出しができなくなって残った砂糖はおおかた焼けてしまいましたが、会社は砂糖を各部隊に売りつけて分散していましたので、焼けのこったのもあります。それは軍への協力と安全を保つためだったんでしょう。会社はバックが大きいから軍からだいぶもらっていたようです。会社がひきあげた後は、残っている社宅の人たち(会社員)は畑も何もないので軍に頼らないと食べていけなかったようです。軍から配給が少しずつありました。

 

大東で軍と民間のトラブルが少なかったというのは、ひとつには離島ということと、また、民同人にも軍隊にも本土の人が多かったせいだと思います。現に、私(西浜)の先認もここに来ていて、おかげでだいぶたすかりました。-私(松田)の家族は兄弟が多くて、耳から強制疎開の命がきたわけですが、船がいっぱいで乗れない。次の便まで待ってください、次の便まで待ってくださいとやっているうちに、非常事態になってしまって、とうとう疎開ができなかったと母は話していました。私たちは家は車にとられていますが、食糧は何とか島内で求められました。でも、疎開していった人たちは、知らない土地で食べ物にはたいへん困ったそうです。

 

当時、旧東部落から疎開をしなかったのはごくわずかです。部落に残って住んでいたのは三世帯だけでした。食無事情を考えてみんな疎開したのだと思います。残った人々はみんな軍の自活隊(班)で仕事をしていました。会社が閉銀されてからは、畑は砂糖キビをとっぱらって芋やカボチャや麦、野菜畑などに変わりました。水稲はやっていません。自活隊の金耕作面積は、市隊ごとに分けて、およそ中隊でどれくらい必要かというのを見通した広さでした。終戦になって軍の作った芋や野菜がある程度民間の人の助けにもなりました。終戦直後、島に残っていた住民は一、四六四人でしたが、自活隊のおかげで、沖縄にくらべると生活は楽ではなかったかと思います。

 

私(沖山)は設営隊の防衛隊員だったので、会社の長屋をこわして、壕を掘って、彼ら(球部隊)に与えました。その時は大工なんかはみんな徴用されて陣地構築の作業をやらされていました。ビ口ウとか松とか、木材は豊富にありました。ビロウ樹は防風林としてありましたが、陣地構築のために使いやすいし、乱伐で、文化財(天然記念物)としてのこるものもだいぶ失われました。社宅で空家になっているところはこわして材料として使いました。民家を兵隊が占領して、住民は洞癌で生活しているのもありました。

 

慰安所

この島に部隊が来たのは、最初は昭和十六年ごろで、海軍の飛行場を建築したわけです。作業人夫として朝鮮人がたくさん来島しました。慰安所もあり、慰安婦が六人ぐらいいました。毎日トウガラシを取りにきたので党えています。慰安婦朝鮮人のほかに沖縄本島から来た人もいました。

 

奉奇 (ペ・ポンギ) さんら51人は鹿児島から軍の輸送船で10・10空襲後の那覇に来た。焼けた無人の病院でそれぞれの行き先が決められた。那覇に20人、大東島に10人、慶良間の座間味、阿嘉、渡嘉敷に7人ずつである。

商学論纂(中央大学)第58巻第5・6号(2017年3月)『70年余を経た複郭陣地跡と「慰安婦」の写真』川田文子》

 

部隊

工事は、海軍の警備隊のほかに、川砂の土木関係の人たちもきていて、警備隊が朝鮮人労務者を指揮して働かせていました。こちらの青年団も動員されて、そのほかにもだいぶ多くの人たちが飛行場設営に出ています。

 

工事は、海軍の警備隊のほかに、軍属の土木関係の人たちもきて いて、警備隊が朝鮮人労務者を指揮して働かせていました。 こちら の青年団も動員されて、 そのほかにもだいぶ多くの人たちが飛行場設営に出ています。

 

飛行場は、球部隊がくる前は、東西コースだけできていました。 攻撃には使ってなく、連絡とか、たまに不時着するときなど使う程 度でした。爆弾なども置いてなくて、 航空基地という機能はなく、 中継所というようなもので燃料補給はやっていました。 特攻機が 一、二機きたこともありますが、目的地まで行けなくて不時着して きたようです。

 

飛行場には本格的な航空隊は別に配置されていませんでしたが、 十七、八年ごろからはしょっちゅう敵の定期便がやってきました。 定期便というのはアメリカの偵察機のことです。こちらには航空機 そのものはありませんが岩隊という航空隊がありました。球部隊が 来てから(昭和十九年四月中旬)、飛行場は南北コースと、ずっと 奥にもう一つ、三コースの滑走路に拡張されました。 飛行機はそん なにないが、上陸されれば飛行場は米軍に利用されるということは 当然わかっていますから、防備はわりと厳重にやられていたわけで す。

 

球部隊は大隊ですが、そのあとから、十九年の七月ごろ、三六連隊がやってきています。 三六連隊は歩兵三個大隊できて、一個は北大東、ここには二個大隊がいました。島内を各中隊が分けて直轄にして、徴用とか訓練とか自活)など各中隊ごとにやっていました。

 

このほかに、防術隊が組織されましたが、これは沖縄の防衛隊などとは違って遊撃隊のような性格をもっていました。これが組織されたのが十八年の夏ごろです。私(沖山)も現地召集でこれに入れられたわけですが、大城中尉とほか二人が組織したもんですから大城隊と呼ばれていました。

 

私(沖山)はちょうどこの三人がのりこんできたときに門司から船が一緒だったんですよ。「どちらからですか」ときくと「久留米」とだけ答えました。「どちらへ行くのですか」ときくと「大東」とだけ云っていました。名前をきいても答えず、それ以外は絶対に云いませんでしたので、何んで大東に行くのかなあと不思議に思っていました。ところが、船が那覇に寄ったときに、さっと船をおりて上陸してしまいました。「ふしぎだなあ。ぼくでさえも那覇はわからないのにどこへ行くのかなあ。」と思っていると、波止場へ帰ってきて沖縄語でベラベラやっているので、沖縄の人だなあとわかったわけです。また船へ乗りこんできてやっぱり大東へ行くというんです。後で聞いたら、名前は大城中尉と、越来さん、比嘉さんの三名で、特命を受けてきたということでした。大城中尉は東風平の人です。大城部隊は球部隊と少し関係はしていましたが、牛島中将のひきいる三二軍の直属ではなくて、大本営直轄の部隊でした。

 

大城隊は中隊と同じ規模で、私たちは正式に召集されて入隊したわけです。武装もしています。訓練は球部隊から毎日二人の将校が来て戦闘訓練を受けました。敵が上陸してくるとか、戦車があがってくるときのことを想定して、爆薬や機関銃の操作などやりました。短期間にいろんなことをやりました。まだ軍隊に行ったことのない人が多かったので、在郷軍人なんかよりはもえていたようです。全員兵舎に寝泊りして週に一度は家に帰れました。空襲とか忙しい時のほかは家族とも連絡できました。だが、主な任務は、母部隊の授助が必要だということで、部隊の壕を掘ったり、雑役係みたいな仕事が多かったんです。大城部隊は八月十五日まではそうやって部隊に協力しました。八月十五日になって武装解除してから家に帰されました。

 

住民は大城隊とは関係なく、肌のサイレンやラッパの相図で避難するだけでした。一般住民の竹槍訓練とか、住民組織というものはありませんでした。ただ、学校には一人だけ配属将校がきていて、青年団とか在郷軍人の訓練はやっているようでした。沖細のような防衛隊というものもありませんでした。会社にだけは団体を組んで協力していましたが。

 

空襲と艦砲

戦闘の話にはいりますが、私(西浜)が深く印象に残っているのは燐鉱船の大仁丸がやられたときです。十九年の三月ですね。そのとき、大仁丸は南大東の心池港に避難していたわけです。港に避難すると荷揚げができないから、物、会社から2話がきて、荷揚げをやるから向う(北大東)へまわせと云ってきて、合図をして錨を上げたんだそうです。

 

私が学校へ行こうとして役場の踏切りまで来たとき、ガーンという音がするので、会社でボンベか何かやりそこねたのかと思っていましたら、そのときやられていたんです。南(大東)と北(大東)の間で、北寄りのところで、潜水艦がうようよしていたわけです。そんなことも秘密だったと思います。何も知らないでやられてしまったんです。

 

私(菊池)は当時五年生でしたが、学校は十九年の夏休みまでは普通に授業をやっていました。六、七月ごろだと思いますが、ちょうど園芸の時間で芋畑にいるときにBBの偵察機が来て園芸の時間を中止したことがあります。偵察機は十・十空襲まえに何回も飛んできています。定期便と云っておりました。弾を落すことはしないで偵察だけしていくんです。島の三か所に高角砲陣地があって、そこから飛行機をねらって射撃するんですが、向うは一万何千メートルも上空を飛んでいるので届きませんでした。あるとき、私たちは海で釣をしていたら、その高角砲からの弾がまっすぐ上にあがって、そのまま海にチャポンと落ちてきてびっくりしたもんです。

 

十・十空襲など沖縄を攻撃するために、向うでは空中からよく調査していたと思いますよ。鳥は緊張していて、定期便がくるたんびに警戒態勢についていました。向うから空襲がこなくても空襲警報を出して皆壕にかくれていました。

 

私(菊池)は、十・十空襲の日は、戦争のことなんか何にも知らないから、当通通りカバンをしょって学校へ行っていました。飛行機が来たので、いいところへ来たなあと営んでいたら、いきなり空襲がはじまってどぎもをぬかれた状態でした。どうやって家に帰ったかも知りません。学校で避難訓練なんかやっていましたが、実際その場に立たされたらおろおろしてしまいました。その後、学校は危険だというので、学校近くの松林の中に机をもっていって、学年ごとに山の中で授業をやるようになりました。

 

私(西浜)たちがいた独身宿舎が最初の空襲で徹底的にやられたのには驚きました。しかし、幸いそのときは警戒態勢で軍機は移動してありました。宿舎はこっぱみじんにやられて、さらに、私たちが掘ってあった壕は擬装してあったのですがもののみごとに直撃弾が命中してしまいました。道路は50キロ爆弾でメチャクチャになっていました。

 

この日はすぐに警戒僧報が発せられ、住民はほとんど壕に避難していましたので被害はなかったんですが、港にいた拓南丸が爆撃を受けて兵隊が二〇名ぐらい戦死しました。

 

次に激しい空襲を受けたのは二十年の三月十日、ちょうど陸軍記念日の日でしたね。刺早く、グラマンが二〇機の編隊できて、午前の第一回目は機銃和射と焼夷弾、午後の第二回目は燃弾を投下してきたんです。この空襲で工財の六ルがやられて、三万代の砂糖が焼けてしまったんです。砂棟が燃ているんですね。消そうにもガスが発生して近寄れない状態なんです。そのうち砂糖が溶けだして、アメのように流れだして、一而アメの海ですよ。線路まであふれだしてきて、鉄道が助けなくなりました。あれからずっと燃え続けて九日間ずっと燃えていました。

 

いよいよ艦砲がきたのが三月二日です。夕方に谷方面沖に艦隊が現われて日が楽れて夜になってから艦砲が始まったわけです。私(沖山)が海の方の陣地に行ってみたら四二炎の軍艦がいました。最初、敵艦だとは思わず、最後の決戦で味方の艦隊が来たのだと思っていました。

 

七時ごろから照明弾がうちあげられて、その後三時間猛烈な艦砲射撃が続いたんです。艦戒機が空から照明して全体が明るなりました。このころは、もう味方の陣地は空襲でたたかれて、抵抗もできないくらいになっていました。艦砲が始まってから、島じゅう避難しました。住民には三日分の食糧をもって洞窟壕に避継するようにという命令が出ました。部隊は壕にかくれて反撃もできない状態でした。艦砲は飛行場に集中していました。東西にのびた大きな滑走路が完成していましたが、これが一回も使わないうちにめちゃくちゃにされていました。今から考えると米軍は沖縄に行く前にまずこちらの飛行場を使えないようにして、それから沖縄に集中しようとしたんでしょうね。

 

後でアメリカの将校が云っていましたが、南大東島には特攻機が四○機ばかり待機していると考えていたようです。実際には飛行機は一機もいなかったんです。同じアメリカ将校の話ですが、米軍は沖縄本島を先にやってから九月一日に南大東へ行上陸しようという作戦だったらしいです。本土上陸の拠点にするつもりだったんでしょう。だから、日本が八月十五日に降伏したからわれわれの命は助かったんだなあと思います。

 

ところが、軍の命令ではその次の日に上陸は必至ということでした。実際、海上には上陸用舟艇がきているわけです。車の命令では、働ける男は戦闘に参加し、「女子は新東方面に避難せよということだったんです。部隊ではその夜酒を出して最後のサカズキをあげました。艦砲は十時ごろいったん止んで、四時ごろからまたはじまり、いよいよ夜が明けたら上陸だろうと思っていたら、六時ごろ、 艦隊は沖縄方面へ立ち上っていってしまいました。この点は、地形 が上陸には不適だから、上陸れるには相当の犠牲が出る、それでい ったんはあきらめたのだろうという見方をしました。

 

この艦砲があってからはずっと自然環にかくれていました。壊は 何百という数ありましたから自分らの近くの壕に隠れていました。 それからは空襲はほとんど毎日のようにありました。四月十日には 第二回目の艦砲があって、宿舎とかそのほかの施設を吹きとばして いきました。ちょうど沖縄本島がやられているころでした。沖縄本 島方面から雷の音のように艦砲の音が叫こえてきました。日本の艦 砲がきて戦っているのだろうと思っていました。

 

三月から四、五月まではずっと、壕生活でした。栄養失調と壕生活 で皆顔色が青白くなっていました。

 

五月ごろからは空襲がなくなり、そろそろ壕から出てきて自活班 の作業になります。戦争は勝っているんだろうと思っていました。 それで、毎日食擁産で追われていたわけです。

 

八月十五日の降伏はラジオで叫きました。大城隊はこの日のうち に武装解除して解散になりました。米軍が来島したのは九月になっ てからですが、外との巫絡はまったくないし、島には配民 て、五〇〇名もいますから、占領がおくれた おかげで、食紙不足でかえって苦しい状態にありました。

 

さいわい、島民でこの点で死したのは、金川励作さんと喜納信 さんのふたりだけで済みました。 

 

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