沖縄戦を記録した軍医ヘンリー・スタンリー・ベネット (1910-1992) について

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Bennett, Henry Stanley : Photographic Archive : The University of Chicago

Henry Stanley Bennett, dean of the division of Biological Sciences, and professor of Anatomy at the University of Chicago.

 

 

沖縄戦と一人のアメリカ人軍医

軍医ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐は、アメリカ人の宣教師の息子として鳥取県に生まれる。沖縄戦では軍医として従軍。沖縄についての貴重すぎる報告書を残している。

 

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Bennett, Henry Stanley : Photographic Archive : The University of Chicago

 

宣教師の息子として日本の鳥取で生まれ育ち、ハーバード卒の軍医、また日本語にたけた第3海兵軍団司令部参謀付き情報将校として、彼が沖縄戦の翌年 1946年に記した「沖縄戦と占領は沖縄住民にいかなる影響をおよぼしたか」は、米軍の中にいながら沖縄住民の立場によりそった一人の人間の誠実な沖縄戦記録である。

 

ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐の報告書

軍政府の保護下に置かれたあとも住民は収容所を転々と移動させられた。収容所に落ち着いたかと思ったその2、3週間後、あるいは2、3ヵ月後に集団移動させられたこともある。基地建設のため住民を移動させる必要が出てきたからである。あるいは日本軍の空襲から住民を守るために集団移動させることもあった。

忘れてならなのは、本部半島の北部や西部では戦禍はそれほどひどくなく、多くの住居が破壊を免れたが、アメリカ軍の占領後に強制移動させられたことである。ここでは、4月上旬から中旬にかけてアメリカ軍が侵入してくると、ほとんどの住民は村を捨て、山へ逃げた。2、3日経つと、アメリカ軍に対する恐怖心は消え、自分の住居に戻ってきた。アメリカ軍がすぐ側で野営しているにもかかわらず、住民は平常の生活に戻り、農耕収穫に励んでいた。2ヵ月半もの間、戦闘の始まる前と同じように平和に暮らすことができた唯一の幸運な共同体であった。だが、日本軍の組織的抵抗が終了すると、アメリカ軍は休養のため、本部半島に移動してきた。(ブログ註・正確には、本部半島はリクリエーションだけというのではなく、本部飛行場など数カ所の飛行場建設、また兵站基地として軍事拠点化された。) そのため、住民を移動させることになった。本部半島の住民を受け入れる施設は全く用意されていなかった。約2万人の住民がトラックで東海岸に運ばれ、何もない原野に放り出された。数日してようやく仮の宿舎が与えられるという始末だった。

こうして沖縄住民は一人残らず、アメリカ軍の上陸の結果、家を失い、村を離れ、全くの混沌の中に放り投げられてしまったのである。多くの住民が死に、生き残った者は出身地がどこであるにしろ収容所に入れられ、アメリカ軍の保護を受けることになった。沖縄群島のいくつかの離島でそこの住民が散り散りになることが余りなかっただけである。

… 空襲、艦砲射撃、砲攻撃は大規模な破壊をもたらした。…アメリカ軍の空襲や艦砲射撃は特に校舎や大きな建物を狙い射ちにした。それは兵舎の可能性があるからだ。

… 無抵抗のまま占領された地区に残っていた校舎も片っぱしから破壊された。住民全てが避難し、人っ子一人いない名護の街に砲弾の雨を浴びせ、街はほとんど全壊した。軍政府将校が街の偵察に出て、無人の街だと知ったとたん、味方の砲弾が飛んできて、あわてて退却するという一幕もあった。このように不必要な破壊の結果アメリカ軍は利用できる建物を失い、住民は狭い収容所の建物にぎっしり詰め込まれることになった。(290頁)

《「沖縄戦トップシークレット」) 第5章・第15話「ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐著の「沖縄人は何を失い、何を得たか」288-289頁》

 

日本兵は沖縄人に、アメリカ兵が上陸すれば、島民は一人残らず惨殺されると教えた。どうやら日本軍はアメリカ軍が島の様相を一変させるほどの猛烈な攻撃をかけるとは予期できず、また、住民がどう反応するかまでは予期できなかったらしい。予期できたとしても、アメリカ軍の猛攻をどう宣伝に利用するのか手の打ちようがなかった。沖縄人は新聞、ラジオ、口伝えにアメリカ軍の極悪非道ぶりをふきこまれていた。

上陸前の猛烈な艦砲射撃と空爆は日本軍の言う通り、アメリカ軍は恐ろしいということを沖縄人に思い知らされた。だから、アメリカ軍が上陸し、進軍すると住民は一人残らず、惨殺されるかと思い逃げだした。実際には島の中北部では大した戦闘はなかったにもかかわらず、この始末だった。アメリカ軍の保護下に入ってくる沖縄人の様子を目にした者にははっきりわかったが、沖縄人は心底、惨殺の恐怖に怯えていた。惨殺されるのではないかという恐怖は保護されて2、3日あるいは数週間たっても消えなかった。オバーサン(お婆さん)たちはたいてい洞窟の奥に毛布にくるまって身を隠しているつもりだったが、アメリカ兵に発見されると、跪いて、両手を合わせ、幾度も頭を地面にこすりつけて、「ハンマヨー(どうか命だけは助けてくれ)」と哀願した。心配しなくてもよいと言っても、両手を合わせたまま、命乞いを続けた。

言葉は通じないながらも、何度も「心配せんでよい」と告げ「オバーサン」たちに親切にしてあげると、ようやく安心し、喜びを満面に表して感謝した。同じように、洞窟の悲惨な生活に耐えきれず、アメリカ軍前線に出てきた母親や老人も、アメリカ軍に出会うと恐怖のあまり、ガタガタ身を震わせていた。だが、1日、2日経つと、住民収容所での身の安全を確信し、住民は目に見えて態度を変え、気をゆるめ、笑いを取り戻し、キャンプのうるさい手順にも気持ち良く協力した。

《「沖縄戦トップシークレット」第5章・第15話「ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐著の「沖縄人は何を失い、何を得たか」294-296頁より》

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EASTER--Marine Cpl. Fenwick H. Dunn, 19, of 55 Marianna St., Lynn, Mass., gives the candy from his K rations to an aged woman on Okinawa. The Japanese fled as Marines landed on Easter morning, abandoned the aged, infirm and small children. Although neither can understand the other's language, the Leatherneek's gesture and the woman's smile as she raises herself on the stretcher, say more.

老女にK配給のキャンディーを分け与えるダン海兵隊員。イースターの朝に海兵隊が上陸すると、日本軍は老人、子供を見放し逃亡した。どちらも互いの言葉は理解できないが、ジェスチャーと笑顔でやり取りをする。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

たいていのアメリカ兵は住民に親切を尽くし、特に子供たちをかわいがった。チューインガム、キャンデー、携帯食料、あるいはタバコまで、ジープの回りに集まる子供や大人に分配した。こうしたことがアメリカ兵に対する恐怖心を打ち消し、友好を生むことになった。こうして、アメリカ軍に初めて接したほとんどの沖縄人は残虐な目に合うという話が嘘であることを知り、その安堵感から、家を失ったことなど大して気にしていないらしい

住民収容所にはいると、沖縄人が収容所で毎日接したアメリカ兵は一般兵ではなく、軍政府要員であった。かれらは担当地区の住民の福祉に懸命に尽力した。住民は軍政府要員の真摯な努力に感謝の気持ちでこたえた。とりわけ、住民診療所を設置したことが住民の信頼を得る最大の要因となったことは間違いない。

アメリカ人にとって驚きだったのは、沖縄人は軍政府の混乱した行政や戦争の結果から生じた辛いことや苦しいことを冷静に受け止める人生哲学を学んでいたことである。これが西洋なら、住民は怒り狂って大騒ぎになっていたことは間違いない。

その良い例は、アメリカ軍の身勝手な都合で、本部半島の2万人の住民を強制移動させ、何もない原野に放り出しても混乱や騒乱が起きなかったことである。

《「沖縄戦トップシークレット」 第5章・第15話「ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐著の「沖縄人は何を失い、何を得たか」295-296頁より》

 

現存する日本語訳ではなく、原典を確認しながから訳しなおしたいとおもうがオープン・ソースにはなっていない。

 

侵略と占領は沖縄の民間人にいかなる影響をおよぼしたか (1946年2月)

The Impact of Invasion and Occupation on the Civilians of Okinawa | Proceedings

February 1946 Vol. 72/2/516

This report seeks to present certain features of the material and psychological effect on the Okinawans of our invasion and the subsequent operations and occupation, and of some of the policies and practices with which the people have come in contact during the first three months following our initial landings.

この報告書は、私たちの侵略とその後に引き続く作戦と占領による沖縄人への物質的および心理的影響、および私たちの最初の上陸に続く最初の3か月の間にかかわることとなったいくつかの政策と実践されたことについての幾つかの特徴を提示することを主眼としている。

Background.—The people of Okinawa, though racially akin to the Japanese, have for centuries been peace-loving and law- abiding agrarians looking to China for cultural leadership. Their islands have been unmarred by war for over six centuries, except for the brief and not very destructive Satsuma invasion of 1609, when a Japanese protectorate was established.

背景。— 沖縄の人々は人種的に日本人に近いにもかかわらず、何世紀にもわたって平和を愛し、善良な農民で、文化的先達を中国に見出していた。その島々は、1609年の短時間でそれほど破壊的ではない薩摩侵攻、その際に日本の統治が確立されるのであるが、その期間を除いて、6世紀以上にわたって戦争によって損なわれることはなかった。

 

Conditions remained tranquil and undisturbed until well after the Japanese annexation of 1871 The people submitted with docility to Japanese conscription methods, sent their sons to war without enthusiasm, and changed their ways and outlook but slightly right up to the time of our assault on the island.

1871年の日本による併合の後も、状況は平穏で物騒なものではなかった。我々の島への攻撃の時まで、人々は従順に日本の徴兵法に服従し、狂信的ではないにしても息子らを戦争に送り、彼らの生き方とおもむきとをわずかに変えたのみであった。

 

以下、ロックがかけられている。時間ができたら、何とか資料を入手する手続きをしたい。

 

スタンレー・ベネットの経歴

スタンレー・ベネット海軍中佐(1911-1992)は、宣教師の子息として鳥取県に生まれた。本国に帰還後、オバーリン大学を卒業し、1936年、ハーバード大学から生理学・薬剤学修士号を取得している。同大学で教鞭をとって間もなくベネットは、1936年、海軍医療部軍医に任命された。太平洋戦争下では、海兵隊医療班の指導に当たるとともに、情報部将校として沖縄戦で活躍している。特に沖縄戦では、第3海兵軍団司令部参謀付き情報将校として、各種の住民対策や医療計画に当たっている。スタンレー中佐には、それ以外にも軍医として医療・医薬品の残留物調査の任務があり、さらに日本関係図書調査員としての任務も課せられた。本来なら彼は、上級将校として配下部下にその仕事を委ねることもできたであろうが、実際の彼は、四輪駆動ジープを駆使し沖縄本島中を走り回っている。ベネット中佐は、沖縄戦開始前の1945年3月から同年7月、グアムに転出するまで、ほぼ毎日本国の妻(アリス)宛てに手紙を書き送っている。

《保坂廣志『沖縄戦集合的記憶: 戦争日記と霊界口伝』紫峰出版 (2017) 173頁 》

 

米軍は日記をつけることを諜報の関係から厳しく禁じており、日記の代わりに手紙という手段を使うこともあった。

 

四月六日(金)
この辺りの住民は今では私のことをよく知っていて、敬意を表してくれる。「先生」と日本語で呼んでくれるし、彼らの援助に力を尽くす我々に感謝している。住民は日本軍より、ここの方が自分たちをずっと大切に扱ってくれると病院の軍医に言ったそうだが、よくわかる。何か困ったことはないか尋ねようと、私も何回か足を運んだが、二、三人が出てきて丁重にお辞儀をし、謝意を表す。彼らのことを「すばらしい人々」だと、今朝リヴィングストン軍医が言っていたが、確かに皆穏やかで感謝の心に満ち、忍耐強い人々だ。

《スタンレー ベネット『戦場から送り続けた手紙―ある米海軍士官の太平洋戦争』 ジャパンタイムズ (1995) 》

 

この種の手紙形式の日記記述は、一般将兵に通常見られることで、特段ベネット中佐が特異なわけではなかった。

《保坂廣志『沖縄戦集合的記憶: 戦争日記と霊界口伝』紫峰出版 (2017) 174頁 》

 

沖縄というトラウマ

ベネット元中佐は、戦後、米国内外で著名な細胞生物学者となるが、戦時中妻のアリス (Alice Bennett) に送った手紙は、二度と開封されることはなかった。また、妻アリスが戦場に送った手紙の所在も不明なままだったという。それが夫スタンレーの死後、妻のアリスが思い出の記憶を辿っているとき、自宅二階の屋根裏部屋を思いだし、そこを探すと段ボール一杯の手紙が見つかったという。

戦後になってスタンレー自身が、沖縄戦や戦時下の沖縄県民に触れた言動や著述は今のところ見つかっていない。その他の沖縄と関わりのある元軍人や研究者と比較しても、やはり彼の心中には、乗り越えられない何かがあったかもしれない。

《保坂廣志『沖縄戦集合的記憶: 戦争日記と霊界口伝』紫峰出版 (2017) 175頁 》

 

家坂幸三郎とスタンレー・ベネット

 

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スタンレー・ベネットと共に写真に写っているのは沖縄の医師、家坂幸三郎。

 

家坂幸三郎について

1878年新潟県見附市に出生。早稲田大学の前身、東京専門学校、英語政治科卒業。外交官になりたかったが、既に医師になっていた五兄の勧めにより医学に進む。1906年に熊本医学専門学校を卒業後、同校実習病院、牧野研究所(東京)、芦屋町立病院(福岡県)に勤めた。1922年、沖縄県衛生技師としてマラリア予防に従事、1930年にアメリカの大学から沖縄県に「沖縄におけるらい事情」についての照会があったが、家坂が書いた報告書は高い評価をうけ、これを基にした論文で細菌学博士を贈られた。これで、ハンセン病に関心を深めた。1933年10月、宮古療養所所長を務めた。妻が病弱で単身赴任であった。1938年に同職を辞任後、沖縄県の健康保険医をしていたが、戦災で那覇市若狭町の自宅は被爆。時期は不明であるが国頭郡久志村へ移動した。沖縄本島沖縄県健康保険課の嘱託。コザ中央病院研究室長。1946年9月12日から1951年10月12日まで、国立療養所沖縄愛楽園三代目園長に就任。ついでコザ中央病院に入院。1952年、没する。

家坂幸三郎 - Wikipedia

 

おそらく、沖縄戦那覇から久志の収容所 (大浦崎収容所) に送られ、米軍野戦病院の日本人医師として働く医師の1人となる。そのなかでスタンレーと交友を深めたと思われる。

 

このスタンレー・ベネットはアメリカ人の解剖学者です。鳥取で生まれ、十三歳でアメリカに渡り、やがて戦争。戦争中はアメリカの海軍士官として日本と戦います。
 ところが、自分が生まれた国である日本と戦うことについて、ひじょうに苦しんだ。そして戦争が終わってからは、日本の解剖学者を自分のところへ次々と呼び寄せて一生懸命に教えたのです。彼が亡くなったとき、日本のお弟子さんたちが、先生の伝記を残しておきたいということで、團ジーン先生の伝記(引用者注:『渚の唄―ある女流生物学者の生涯』講談社 1980(昭和55)年を指す)を書いた「あの人」に頼もうということになり、私に依頼がきたのです。

加藤恭子『日本を愛した科学者 スタンレー・ベネットの生涯』 p.116.

 

沖縄戦後、高名な生理学者として名を残す。沖縄戦当時の妻への手紙は残されているが、その後はほとんど沖縄戦について記したものは見当たらない。1992年に亡くなった。

 

Prof. H. Stanley Bennett, 81, Dies; Advanced Cell-Structure Analysis - The New York Times

August 22, 1992, Section 1, Page 10

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Dr. H. Stanley Bennett, an internationally known anatomist, cell biologist and professor emeritus at the University of North Carolina at Chapel Hill, died Aug. 9 at the Quadrangle retirement community in Haverford, Pa. He was 81 years old.

 

He died after a long illness, his family said.

 

Dr. Bennett was known for his work on the molecular structure and dynamic behavior of membranes and for advancing methods for the structural analysis of cells and tissues. He also contributed to the use of the electron microscope in the field of biology.

 

His medical career as a teacher and researcher took him to Harvard University, the University of Washington Medical School and the University of Chicago Medical School. He retired in 1980 from Chapel Hill as the Sarah Graham Kenan Professor of Biological and Medical Sciences. Son of Missionaries

 

Henry Stanley Bennett was born in Tottori, Japan, the son of missionary parents. A graduate of Oberlin College, he received his M.D. in 1936 from Harvard University, where he then taught anatomy and pharmacology.

 

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