沖縄戦を記録した軍医ヘンリー・スタンレー・ベネット「沖縄の民間人における侵略と占領の影響」(1946)

 

スタンレー・ベネット  (1910-1992) について

沖縄にむきあったひとりのアメリカ人軍医

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Bennett, Henry Stanley : Photographic Archive : The University of Chicago

Henry Stanley Bennett, dean of the division of Biological Sciences, and professor of Anatomy at the University of Chicago.

 

StanleyBennett 博士は1910年(明治43年)鳥取に生まれた。両親が米国伝道会の宣教師として鳥取に根をおろしていたからである。両親は鳥取教会(鳥取市西町1丁目)を拠点として伝道を続け鳥取幼稚園(現在の愛真幼稚園)を創設、幼児教育にも力を入れた。父ヘンリー・ベネットの活躍は「近代百年鳥取県百傑伝」にも郷土の誇りうる鳥取県人として紹介されている。この書からでも父ヘンリーが鳥取の土地にいかに馴染んでいたかが想像される。スタンレー・ベネット博士は13歳まで鳥取で過ごした後、米国での教育を受けるため鳥取を去ったが、両親の厳しい日本語教育と幼な友達との会話の中から、日本語会話の基礎はその時までに身につけていた。ベネット博士は後にハーバード大学医学部を卒業、解剖学者、細胞生物学者として研究の道に入った。太平洋戦争中は軍医中佐として戦争に参加し、戦争末期には沖縄本島に上陸した。

書評 - 鳥取大学付属図書館報 pdf

 

スタンレー・ベネット海軍中佐(1911-1992)は、宣教師の子息として鳥取県に生まれた。本国に帰還後、オバーリン大学を卒業し、1936年、ハーバード大学から生理学・薬剤学修士号を取得している。同大学で教鞭をとって間もなくベネットは、1936年、海軍医療部軍医に任命された。太平洋戦争下では、海兵隊医療班の指導に当たるとともに、情報部将校として沖縄戦で活躍している。特に沖縄戦では、第3海兵軍団司令部参謀付き情報将校として、各種の住民対策や医療計画に当たっている。スタンレー中佐には、それ以外にも軍医として医療・医薬品の残留物調査の任務があり、さらに日本関係図書調査員としての任務も課せられた。本来なら彼は、上級将校として配下部下にその仕事を委ねることもできたであろうが、実際の彼は、四輪駆動ジープを駆使し沖縄本島中を走り回っている。ベネット中佐は、沖縄戦開始前の1945年3月から同年7月、グアムに転出するまで、ほぼ毎日本国の妻(アリス)宛てに手紙を書き送っている。

《保坂廣志『沖縄戦集合的記憶: 戦争日記と霊界口伝』紫峰出版 (2017) 173頁 》

 

軍医であり、かつ情報将校でもある

軍医ヘンリー・スタンリー・ベネット海軍中佐は、アメリカ人の宣教師の息子として鳥取県に生まれる。ゆえに日本語は堪能。ハーバード大卒の医学者・細胞学研究者、沖縄戦では軍医、また情報将校として活躍。そのバーサタイルなポジションから、沖縄戦についての貴重すぎる報告書を残している。

 

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Bennett, Henry Stanley : Photographic Archive : The University of Chicago

 

彼が沖縄戦の翌年1946年に記した沖縄戦と占領は沖縄住民にいかなる影響をおよぼしたか」は、米軍の中にいながら沖縄住民の立場によりそった一人の人間から記した、誠実な沖縄戦記録である。今回、米海軍のアーカイブスから原典を手に入れることができたので、巻末に原典とざっくりとした意訳をのせておきたい。

 

スタンレー・ベネットと八原博通

沖縄戦に関連し、鳥取県生まれ、ということで想起されるのが、もう一人存在する。沖縄守備隊第32軍の作戦参謀の八原博通 (1902-1981)である。

 

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「昭和史の天皇」取材テープ公開 : 昭和史の天皇 :読売新聞

 

ベネットと同様に八原も、鳥取県に生まれずば抜けた秀才で、アメリカに留学し、そして軍人で、沖縄戦に関わった。一方は米軍として、一方は日本軍として。

 

八原高級参謀が身バレした時、その沖縄人に「犬」と言い放ったこと、震えながら「犬」という文字を大きく紙に書いたことは、彼の自伝にもある。

 

ここの漫画、かなり面白い。

第二次世界大戦軍事録 第98回「八原博通 沖縄脱出」 – Hobby JAPAN Web

 

しかし、何も通訳将校は「犬」の漢字を知りたかったわけではない。なにせ、米軍はベネットのようなネイティブ級の語学将兵や日系、沖縄系の語学兵を取り揃えて尋問をおこなっていたからである。

 

八原を担当したこの時の語学将兵が誰だったのかは語られないが (後の調書作成にはドナルド・キーンが拘わった) 、「犬」の漢字と意味ぐらいは分かっていて、尋問官は冷静に八原に「犬!」と言い放つその真意を問うたのだ。その証拠に後日、八原の沖縄人「犬説」は、諜報報告書に詳しく記載され報告されている。

 

1945年7月26日 八幡の尋問記録

Central Intelligence Bulletin

日本軍大佐、逮捕の際、米軍協力者である沖縄人を非難する』

「もちろん知っていることだが」と、彼は第310対敵情報隊分遣隊尋問官にぶつぶつと話し出した。「貴官が、自分を逮捕できた唯一の方法は、貴官らの沖縄人スパイのなせるわざである。我々は、いつも沖縄人は日本人だと考えてきた。我々は、彼らを日本人の兄弟のように扱ってきた。今自分は、沖縄人全てを話しているのではなく、貴官らのために働いている沖縄人について述べているが、これら沖縄人は、真の日本人ではない貴官は、米国の将校であり、兵士でもある。貴官は、自分の任務を遂行している。自分の方が賢明で、貴官をばかげた者と見なすことも可能だが、思うに貴官の方が自分より賢いのだろう。もっとも貴官だけでは、絶対私の変装を見破ることはできなかったはずだ。貴官は、自分の任務を遂行するに際して、賢明にも沖縄人の犬たちを用いた。自分は、貴官が自分を逮捕したやり方について強い憤りを感じている。自分は沖縄人の犬たちについて少し話してみたい。長い期間、中国は彼らの主人であり、彼らが主人の時は、沖縄人は中国に忠実な犬であった。中国人が、彼らに何かするよう持ちかけると、いつでもそのように振る舞った。その後、我々(日本人)が主人となり、我々が力を持っているときは忠実な犬として我々に従った。現在、貴官らが主人で、沖縄人は我々から寝返って犬のように貴官ら(米軍)に奉仕している。しかしそれらは真実ではない。貴官らがこの島を離れたあと、彼らは再び犬のように我々にかしずくだろう。自分は、日本に帰還することになるだろうが、これら沖縄人の背信行為は忘れないだろう。」

《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言-針穴から戦場を穿つ-』紫峰出版 (2015年) 33頁》

 

さて、一方でベネットは沖縄戦を、沖縄人を、どう見たのか、それは巻末における彼の報告書を読めばよくわかる。

 

そもそも、軍内で軍に批判的な厳しい報告発表ができるというのも、日本ではいまだにありえないことだろう。

 

『戦場から送り続けた手紙』

 

米軍は日記をつけることを諜報の関係から厳しく禁じており、日記の代わりに手紙という手段を使うこともあった。

 

医療は沖縄戦で米軍がもっとも住民の信頼と敬意を勝ち得た分野であったが、そこにはジュネーヴ条約を遵守する米軍の規範と、軍医や衛生兵として沖縄戦にかかわったスタンレーのような人々がいたからである。

 

四月六日(金)
この辺りの住民は今では私のことをよく知っていて、敬意を表してくれる。「先生」と日本語で呼んでくれるし、彼らの援助に力を尽くす我々に感謝している。住民は日本軍より、ここの方が自分たちをずっと大切に扱ってくれると病院の軍医に言ったそうだが、よくわかる。何か困ったことはないか尋ねようと、私も何回か足を運んだが、二、三人が出てきて丁重にお辞儀をし、謝意を表す。彼らのことを「すばらしい人々」だと、今朝リヴィングストン軍医が言っていたが、確かに皆穏やかで感謝の心に満ち、忍耐強い人々だ。

《スタンレー ベネット『戦場から送り続けた手紙―ある米海軍士官の太平洋戦争』 ジャパンタイムズ (1995) 》

 

この種の手紙形式の日記記述は、一般将兵に通常見られることで、特段ベネット中佐が特異なわけではなかった。

《保坂廣志『沖縄戦集合的記憶: 戦争日記と霊界口伝』紫峰出版 (2017) 174頁 》

 

沖縄というトラウマ

ベネット元中佐は、戦後、米国内外で著名な細胞生物学者となるが、戦時中妻のアリス (Alice Bennett) に送った手紙は、二度と開封されることはなかった。また、妻アリスが戦場に送った手紙の所在も不明なままだったという。それが夫スタンレーの死後、妻のアリスが思い出の記憶を辿っているとき、自宅二階の屋根裏部屋を思いだし、そこを探すと段ボール一杯の手紙が見つかったという。

戦後になってスタンレー自身が、沖縄戦や戦時下の沖縄県民に触れた言動や著述は今のところ見つかっていない。その他の沖縄と関わりのある元軍人や研究者と比較しても、やはり彼の心中には、乗り越えられない何かがあったかもしれない。

《保坂廣志『沖縄戦集合的記憶: 戦争日記と霊界口伝』紫峰出版 (2017) 175頁 》

 

『日本を愛した科学者』- 家坂幸三郎との友情

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スタンレー・ベネットと共に写真に写っているのは沖縄の医師、家坂幸三郎。

 

家坂幸三郎について

1878年新潟県見附市に出生。早稲田大学の前身、東京専門学校、英語政治科卒業。外交官になりたかったが、既に医師になっていた五兄の勧めにより医学に進む。1906年に熊本医学専門学校を卒業後、同校実習病院、牧野研究所(東京)、芦屋町立病院(福岡県)に勤めた。1922年、沖縄県衛生技師としてマラリア予防に従事、1930年にアメリカの大学から沖縄県に「沖縄におけるらい事情」についての照会があったが、家坂が書いた報告書は高い評価をうけ、これを基にした論文で細菌学博士を贈られた。これで、ハンセン病に関心を深めた。1933年10月、宮古療養所所長を務めた。妻が病弱で単身赴任であった。1938年に同職を辞任後、沖縄県健康保険医をしていたが、戦災で那覇市若狭町の自宅は被爆。時期は不明であるが国頭郡久志村へ移動した。沖縄本島沖縄県健康保険課の嘱託。コザ中央病院研究室長。1946年9月12日から1951年10月12日まで、国立療養所沖縄愛楽園三代目園長に就任。ついでコザ中央病院に入院。1952年、没する。

家坂幸三郎 - Wikipedia

 

おそらく、沖縄戦那覇から久志の収容所 (大浦崎収容所) に送られ、米軍野戦病院の日本人医師として働く医師の1人となる。そのなかでスタンレーと交友を深めたと思われる。

 

このスタンレー・ベネットはアメリカ人の解剖学者です。鳥取で生まれ、十三歳でアメリカに渡り、やがて戦争。戦争中はアメリカの海軍士官として日本と戦います。ところが、自分が生まれた国である日本と戦うことについて、ひじょうに苦しんだ。そして戦争が終わってからは、日本の解剖学者を自分のところへ次々と呼び寄せて一生懸命に教えたのです。彼が亡くなったとき、日本のお弟子さんたちが、先生の伝記を残しておきたいということで、團ジーン先生の伝記(引用者注:『渚の唄―ある女流生物学者の生涯』講談社 1980(昭和55)年を指す)を書いた「あの人」に頼もうということになり、私に依頼がきたのです。

加藤恭子『日本を愛した科学者 スタンレー・ベネットの生涯』 p.116.

 

沖縄戦後、高名な生理学者として名を残す。沖縄戦当時の妻への手紙は残されているが、その後はほとんど沖縄戦について記したものは見当たらない。1992年に亡くなった。

 

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Prof. H. Stanley Bennett, 81, Dies; Advanced Cell-Structure Analysis - The New York Times, August 22, 1992, Section 1, Page 10

 

「沖縄の民間人における侵略と占領の影響」(1946)

米国海軍予備役、ヘンリー・スタンリー・ベネット司令官(MC)より
1946年2月 議事録 Vol. 516/2/72

 

< やっと海軍のアーカイブスが公開され入手できたので、時間のある時に訳出していきます。正確な情報は原典からご覧ください >

Henry Stanley Bennett, The Impact of Invasion and Occupation on the Civilians of Okinawa (1946) - 歴史の記録

 

侵略と占領は沖縄の民間人にいかなる影響をおよぼしたか (1946年2月)

この報告書は、我々の侵略とそれに続く作戦と占領が沖縄県民に与えた物質的、心理的影響、また我々の最初の上陸後3ヶ月間に沖縄県民が経験することとなった政策と実践のいくつかの影響を提示することを目的としている。

背景 - 沖縄の歴史

背景。— 沖縄の人々は人種的に日本人に近いにもかかわらず、何世紀にもわたって平和を愛し、善良な農民で、文化的先達を中国に見出していた。その島々は、1609年の短時間でそれほど破壊的ではない薩摩侵攻、その際に日本の統治が確立されるのであるが、その期間を除いて、6世紀以上にわたって戦争によって損なわれることはなかった。

1871年の日本による併合の後も、状況は平穏で物騒なものではなかった。我々の島への攻撃の時まで、人々は従順に日本の徴兵法に服従し、狂信的ではないにしても息子らを戦争に送り、彼らの生き方とおもむきとをわずかに変えたのみであった。

疑いもなく、沖縄郡島における我が国の軍事作戦は、この列島におけるこれまでの暴力的な歴史的出来事よりもはるかに大きな混乱、破壊、死傷者を引き起こしており、住民にとっては悲惨な災害以外の何物でもないとみなされざるを得ない。

 

沖縄人と日本人の類似点と相違点

沖縄と近隣の島々の人々の特徴。―沖縄は日本の不可欠な部分として組み込まれ、国民には本土の日本人と少なくとも法的または理論的平等が与えられていたにもかかわらず、沖縄人と日本人の2つのグループの間には一定の違いがあることが今では明らかになっています。

沖縄人と日本人の類似点は、どちらのグループも同じ倹約と勤勉さ、そして既成の権威に対する従順さを示すという点で見られるかもしれない。

沖縄人と日本人との相違点は次のように示すことができる。

(1) 沖縄には軍事的伝統がない。日本は何世紀にもわたって平和でしたが、日本は先史時代から戦争と戦士を知り、戦争を称賛してきました。

(2) 沖縄では、中国に対するかつての文化的志向が多く残っており、そのため、日本特有の武功や功績を称賛することが人々に深く植え付けられていない。この考えが最も深く染み込んでいる沖縄県民は兵士であり、その大部分は島内ではなく海外におり、懲罰を受けた捕虜として以外に、兵士の多くが沖縄に戻る可能性は低い。

(3) 神道天皇崇拝の国家主義的な方向性は、現存する人々の記憶の思い出せる限りでは最近になってに沖縄に持ち込まれてきた。根づいたが根は浅く、すぐに枯れるはずだ。先住民や古代の迷信的なアニミズムと精霊崇拝は今も根強く残っています。

(4) 沖縄県民は、現在、彼らが受けてきた誤った日本のプロパガンダと教化の多くを否定せざるをえない事実に直面している。これまで培われてきた概念は破壊された。つまり、日本軍は無敵であること、世界を統治することは日本の神聖な運命であるということ。日本が被支配者を守ってくれるだろうこと。日本の国土は決して侵されることはなく、米軍は女性を強姦し住民全員を殺す野獣であること、である。

沖縄県民全体が、この戦争の問題について、私たちが見ているのとさほど遠い地買いがあるわけではないことは明らかです。19 世紀後半の日本による島々の併合の結果、台湾人とともに沖縄人も受動的に巻き込まれるようになった。彼らに攻撃的な性向や戦争罪があると正当に帰すことはできず、沖縄県民全体に対して復讐的または懲罰的な態度をとることに特別な正当性はないとおもわれる。

※ ベネットはこのプレゼンテーションで米軍が沖縄人に対して決して懲罰的な措置をとることがないよう説得している。

 

兵力として奪われた沖縄の人口 - 犠牲者数の算定

人口と性比に対する作戦の影響 - 1940 年の沖縄郡島の人口は475,000人をわずかに上回っていました。沖縄本島には43万5千人。沖縄島の人口密度は1平方マイル当たり901人でした。これは日本本土の人口密度のほぼ2倍、米国本土の人口密度の20倍以上に相当します。沖縄の男女比は男性100人に対して女性115人だった。

過去25年間、沖縄郡島の人口は減少傾向にあります。この減少は、沖縄県民の日本本土、日本の委任諸島、ハワイ諸島などへの移民に起因すると考えられる。ここ数年、軍需工場に労働力を提供するために日本への移民が特に増えている。この移住により女性よりも多くの男性が奪われ、上記の男女比が生じた。

大東亜戦争」の勃発後、日本の陸海軍への徴兵により、多くの健常者が沖縄から切り離された。1944年10月10日以前は、そのようにして徴兵されたより多くの男性が帝国内および征服された地域全体に散らばっていた。おそらく15,000人の男性がこのようにして島を離れた。この徴兵により、沖縄の民間人口はさらに42万人に減り、いびつな性比は男性100人に対して女性125人に増加している。1944年10月10日の沖縄に対する最初の大空襲の後は、特に人口の破壊的な不均衡が顕著になった。

富裕層や著名人、行政関係者の多くが日本への逃亡を図った。途中で沈没したものもあった。おそらく5,000人が逃亡目的で沖縄を離れることに成功したが、沖縄人とは対照的にそのほとんどが日本人だった。

1945年初頭以降、事実上、兵役年齢に達した健常な沖縄人全員が徴兵され、その大部分が防衛隊(郷土警備隊)に徴兵された。これらの一部はその後、正規軍部隊に導入された。いずれの場合も、追加で約30,000人の徴兵が民間人から引き離されされ、その大半は島の防衛のために殺害または捕虜となる運命にあった。

逃亡と最近徴兵された人々の喪失の影響により、沖縄の民間人口は40万人未満に減少し、性比は男性100人に対して女性約140人となるだろう。

したがって、男性の徴兵と沖縄やその他の場所での戦闘での徴兵の喪失により、人口は完全に10パーセント減少し、男性に対する女性の比率が大幅に増加し、人口は一世代で健常者の男性の人口ほぼ完全な激減にさらされたようである。

人口の総減少の程度は現時点では推定することしかできない。軍隊や防衛隊に徴兵された人口の10パーセントは沖縄から引き離された。おそらく5,000人が逃亡した。爆撃、砲撃、その他の戦争の緊急事態による民間人の死傷者数を正確に見積もることはできないが、特に戦闘中に日本軍の前線の背後に閉じ込められた人々の被害が非常に大きかったことは間違いありません。乏しい食料と劣悪な衛生環境で長期間洞窟に隠れていたため、特に幼児や高齢者、虚弱者に病気の被害が増えた。おそらく、一定数の民間人が洞窟に封印されていたと考えられるが、民間人の埋葬を避けるための努力が払われている。

7月12日、沖縄では約26万5,000人の民間人が収容されている。まだ徹底的に調査されていない地域の落伍者を考慮すると、30万人を超える沖縄人が島に生き残ったとは考えにくく、おそらく人口の4分の1にあたる7万5千人から10万人の民間人が行方不明になっている。この損失が未知の大規模な移民によるものでない限り、彼らのほとんどは敵対行為から直接的または間接的に生じた何らかの原因で死亡したと結論づけざるをえない。

7月中旬時点で我々の戦線内にいた民間人のうち、12歳未満の子供と45歳以上の老人が総数の大部分を占めていた。成人女性の数は成人男性の数を 2 対 1 をはるかに超えていました。このグループには家族を生む年齢の男性はほとんどいなかった。

 

民間人の強制移住

人口分布に対する作戦の影響。

― 生き残った民間人は完全に土地から切り離され移送された。10月10日空襲により、那覇市の80パーセントが破壊され、おおくの民間人の犠牲者がでたがその数は不明である。生き残った者の多くは、自分たちが標的になる可能性が高い地域にいると考え、そこを去り、田舎の方に避難場所を探し、それはしばしば家から数マイルも離れた土地であった。1945年4月の第1週に我々米軍の前線内におかれた民間人の中には、もともと那覇の住民であり、1944年10月からずっと壕で暮らしていた住民もいたのである。

 

この大規模な十・十空襲をへて、民間人は真剣に防空壕や壕を掘りこととなった。これは軍によって行われた大がかりな陣地構築とは別になされたものだった。こうして何千もの壕がくり抜かれ、場合によっては、避難所として利用できるように墓や自然の洞窟が準備され、改造された。これらはそれぞれ防衛陣地としても構築されていたが、実際には、島の北 4 分の 3 にある洞窟のうち防御的に使用されたものはほとんどなく、その大部分はもっぱら民間避難所として機能し、少数は物資や弾薬の保管に使用された。

 

十・十空襲以降、那覇および南部の他の地区の自主的な部分避難は、その地域の民間人の大部分を排除しようとする軍側の試みによってさらに加速した。首里那覇地域以南に住む民間人に対し、島北部への退去を命じる県令が出たという。この背後にある主な目的は、民間人自身の安全のためと、防衛軍が利用できる食料供給の需要を減らすために、予想される主な防衛地域から民間人を排除することであった可能性がある。一部の民間人は、家屋や敷地が軍に使用されるため、自宅から強制的に立ち退かされた。いずれにせよ、これらのかなりの数の住民が問題の地域のより多くの住民が北へ向かいました。

 

1944 年末から 1945 年初頭にかけて、民間人の移動は主に南部地域の住民に限定されていました。しかし、3月中に島への空爆が再び活発化し、3月20日には海上封鎖が開始され、艦砲射撃と空襲による組織的な防衛力の縮小が始まった。攻撃が集中したのは、上陸海岸または陽動上陸の海岸の背後にある地域、および砲陣地、トーチカ、兵舎、特攻艇または特殊潜水艦基地などの実際ある場所や、あると想定される場所である。これらの実際の、あるいは想定された軍施設の多くは村や町の中やその近くにあり、この頃から那覇北部の居住地域は大きな被害を受け始めた。


この段階で民間人に死傷者が出始め、地域への脅威が現実化すると、住民は丘への移動をせかされた。それにもかかわらず、銃撃や空襲を受けなかった町や村は、進軍部隊が近づいてくると、後になって避難することが多く、上陸から何日も経ってから避難することも多かった。その結果、家屋が広範囲に被害を受けたかどうかにかかわらず、我が国の軍隊が制圧した居住地域は事実上無人状態となった。したがって、実質的には、すべての沖縄県民が、我が国の軍事活動により、数日から数ヶ月の期間、故郷を離れて別の場所に住むことを余儀なくされたと言っても過言ではありません。

 

前線での民間人の避難

着陸後 1 ~ 2 日以内に、民間人が前線に現れ始めました。最初に連行された人々のほとんどは、衰弱して遠くへ旅行することができず、村近くの洞窟に隠れていたところを発見された高齢の沖縄人であった。住民が私たちを恐れているのは明らかで、多くの人が私たちの前進の前に逃げ続けました。しかし、1 週間以内に 10,000 人の民間人が私たちの拘留され、4 月末までにその数は 120,000 人に達しました。

 

軍事政権は一時的に楚辺とコザに民間人集中地区を設置し、その後、石川、宜野座、田井等などに恒久的な集中地区を設置し、大多数の民間人がそこに配置された。これらの大きな村にはかなりの被害がありましたが、居住可能な住居が多数ありました。女性、子供、老人はそのような村に置かれ、通常は非常に混雑した状況に置かれていました。健常者は安全上の理由から柵に閉じ込められた。どのような集中している人々も、その地域の住民を代表しているわけではありません。完全な脱臼と作戦中の人々の徘徊が非常に不安定だったため、各収容所には島の多くの地域から来た住民が無差別に混在していた。

 

軍事政権下での初期調整の後でも、かなりの人口移動があった。かなりの数の民間人が集中して、設立から数週間または数か月後に完全に移動させられました。これらの動きは、基地開発に利用できる土地を増やすため、または敵の空襲による危険な地域から人々を排除するために必要でした。

 

わが軍によって引き起こされた占領後の人口変動の中で注目に値するのは、戦災による家屋の被害が比較的軽微であり、激しい戦闘も発生しなかった本部半島北部および西部の住民の場合である。4月上旬から中旬に軍隊が最初にその地域を通過したとき、住民のほとんどは村を出て丘に隠れた。多くの場合、近くに軍隊が野営していたにもかかわらず、数日以内に彼らの恐怖は克服され、自分たちの家に戻った。人々は村での生活を再開し、できる限りの植樹と収穫を行い、2か月半の間侵略前とほぼ同じように平和に暮らし、島で唯一これほど幸運なコミュニティとなった。組織的な抵抗活動が停止した後、復興のためにその地域に軍隊を投入する必要が生じ、それに応じて民間人も避難させられた。これらの人々を移送先の地域で受け入れるための準備はほとんど行われず、そのうち約2万人がトラックで東海岸地域に運ばれ、野原に放置された。最小限の雨風をしのぐ場所さえ、与えられるまでには数日かかる状態だった。


こうして、事実上、沖縄島のすべての住民が我々の侵略によって住居から立ち退かされ、混沌の中に離散させられた。生存者は、元の居住地に関係なく、かなり小さな密集地域でを受ける運命にあります。沖縄郡島の一部の離島では、移動の程度はそれほど大きくありません。

 

 

共同体の破壊 - 家族の離散

家族の離散。

他の戦争と同様に、沖縄作戦に付随して非常に哀れなことは、人々の混乱と性急な逃亡の中で多くの家族が離散したことである。いくつかの例では、私たちの機関によって意図せず家族が引き離され、初期の混乱期に時々沖縄の女性たちを丘の上から安全と思われる場所に連れて行ったが、パトロールの誰も理解できなかったために子供たちが取り残されたことを知った。乳児を迎えに洞窟に入る機会もなく連れ去られたときの女性たちの抗議。多くの家族が一時的な別居後に再会しており、他の離散世帯に対しても同様の措置を講じているが、完全な成功が達成される可能性は低いようだ。

 

資産に対する操作の影響。— この作戦中、沖縄の建築はうまくいきませんでした。1944 年 10 月 10 日の空爆では、那覇市の 80% が破壊され、他の地域にも甚大な被害が生じました。その後の空爆、艦砲射撃、砲撃により大きな破壊がもたらされました。10月10日の時点で生き残った那覇市の20パーセントは、今や消滅している。人口1万8000人の首里町は完全に破壊された。すべての町とかなりの規模の村が甚大な被害を受けました。いくつかの辺鄙な小さな村と多くの孤立した農家が戦闘からほぼ無傷で生き残った。ほとんどの町や村では、ほとんど、またはまったく被害を受けずに残っている家が数軒あります。

 

私たちの空爆と艦砲射撃任務では、学校やその他の大きな建物に特に念入りに行われた。「兵舎の可能性がある」とみなされたのかもしれない。屋我地島の愛楽園ハンセン病患者コロニーは一連の攻撃で破壊され、ハンセン病患者が最低限の人道的ケアを受けられるよう、施設を部分的に修復するために資材を提供する必要性に直面した。多くの学校も同様に、何の抵抗もせずに数日後に占領された地域で破壊の対象に選ばれた。名護市は町が完全に避難された後、また我が軍政府当局者が町に入って偵察した後、大砲によって非常に広範な損害が与えられ、軍政府関係者は敵がいないと判断したが、我々の大砲のせいで退役を余儀なくされた。

 

 

破壊された家屋、破壊された町

しかし、おそらく建物の破壊の大部分は、戦争に伴って必然の、あるいは不可避の破壊だった。特に、楚辺、嘉手納などの上陸海岸付近や、首里那覇など、敵が防衛に利用した町では、このような状況が顕著だった。

*1
沖縄の建物の推定60-70%は、沖縄作戦の直接的な影響で、破壊または深刻な損傷を受けた。しかし戦闘後に無傷またはわずかに損傷したまま残っていた家屋も、無傷ではありえなかった。おびただしい数の家屋が、道路や飛行場、その他の施設の用地のためにブルドーザーで破壊され、あるいは破壊されることになっている。こうして嘉手納村は現在、重要交差点のロータリーの下に埋没した。取り壊された家屋からの瓦礫は道路の舗装に使われた。比謝の場合のように、たとえその建設過程で村全体が消滅する可能性があるとしても、居住地域を通る道路は、既存の史蹟を切り倒し、損傷した建物や無傷の建物をブルドーザーで破壊することを気にもかけず、拡幅または直線化された。

 

多くの損傷を受けた建物や無傷の建物が、建築資材を回収する目的で、私たちの監督の下、住民によって取り壊された。こうして回収された木材と石材は、過密状態の住民のための収容所を建設するため、収容所の過密地域に輸送された。

 

戦闘地域の前線とは離れた後方の地域では、火災による住居のかなりの破壊行動があった。これらの火災の多くは偶発的、または不注意によって発生した。中には、健康被害の疑いのある場所を除去したり、他の目的で場所を空けようとした兵士によって意図的に焼かれたものもあった。可能なすべての建築資材をサルベージする必要があるため、この行為は禁止された。北部で活動していた日本のゲリラ (註・護郷隊) によって多くの家が焼かれた。合計すると、これらの損失はかなりの額になる。

 

現在、民間人のほとんどは、以前はごく一部の人々しか住んでいなかった地域に集中している。人口の再分配が必要になるだろう。日本との敵対行為が停止した時点で、事実上すべての沖縄県民の家が必要となった。彼らは長い間、仮設の住宅に住まなければならないし、その仮設住宅すらほとんどがまだ建設されていないのである。

 

戦時中の沖縄の家屋破壊は実質的に完全におこなわれた。神社や古代の歴史的建造物は数少ないが生き残り、特に注目すべきは 14 世紀に築かれた古代の中城城だ。

 

 

 

個人の資産および家財

ここでも破壊の程度は圧倒的だが、すべて破壊されたわけではない。戦争中または戦争後に火災が発生し、大部分が家屋で焼失した。

 

人々が家を出て丘の洞窟に逃げるとき、彼らは食べ物や衣類を手にもって運べるかぎり持ち歩いた。丘陵地で長期生活する必要性が明らかになると、物資を補充したり衣類を取りに行くために村に戻る必要があった。多くの人は、洞窟のほうが宝物が安全だと考えて、漆器や陶磁器、その他の貴重品を洞窟に持ち込んだ。住民が丘陵で使用するために村から物品を持ち出す際に完全に慎重だったわけではないようで、住民自身によるかなりの量の家屋の略奪があったことは明らかである。戦争で家から遠く離れ、あるいは家を焼かれた那覇出身の男性が、家族のために遠く離れた洞窟で食べ物や衣服を探し求めて人のいない空き家に入るのは抵抗がないかもしれない理由は非常に理解できうる。

 

洞窟に持ち込まれた物品のうち、大部分が失われたか、役に立たないほど損傷しました。人々が洞窟から洞窟へ逃げたり、最終的に私たちの戦列に加わったりするにつれて、その大部分は放棄されました。私たちの軍隊が前進するにつれて、彼らは大量の衣類、ベッドカバー、豆の入ったポット、米、食器、家庭の貴重品などを含む何百もの洞窟を蹂躙しました。

 

私たちの軍隊は、村や洞窟を通過する際にそのような物品の損失に多少なりとも貢献しました。土産物ハンターは漆や陶磁器を持ち帰ったが、使える衣服や装備品は比較的少なかった。しかし、床に使われていた数百枚の藁畳は、米軍が住民にとってその価値をまったく理解しておらず、住民がそのうえで寝るものであったことにも気付かなかった兵によって燃やされたり、破壊されたりした。これは人々にとって深刻な損失でした。

 

原住民が我々の拘留下に入り、集中地域が組織された後、軍政府によって残存装備を回収する組織的な取り組みが開始された。女性と年長の子供たちのパーティーは議員の保護を受けて外出し、元の所有者に関係なく、食料、衣類、覆い、その他の有用な物品を持ち込んで、荒れ果てた家屋や破損した家屋を捜索した。たとえ島に残っているすべての生活用品が完全に回収されたとしても、人々のための衣類や覆いは不十分であり、冬までに状況が改善されなければ大きな困難が続く可能性がある。私たちが着陸する前にヤード用品の在庫は枯渇し、新たに織物を作り始めるための織機や紡績機はほとんど残っていません。現在着ている服はあまり長く着ることは期待できませんが、畳やその他の生活用品を、普通の生活に落ち着く前に整理します。

公文書の喪失

公式記録、証書等

1944 年 10 月 10 日の大空襲により、那覇沖縄県庁をはじめ、警察署、市役所、税務署、郵便局などの重要な公共建築物が破壊された。これらの建物の記録が以前に削除された可能性は低く、おそらく完全に破壊されました。したがって、沖縄に関する最大の公式記録の保管庫は私たちに拒否されています。

 

さらに、私たちが他の町を制圧すると脅したため、日本軍が他の町のすべての公式記録を組織的に破壊しようとしたという多くの証拠があります。責任ある将校は突撃部隊に先立って、または突撃部隊とともに名護市、恩納村、および他の特定の町や村に入った。彼らは、市庁舎、郵便局、その他の公共の建物がわが軍によって何らかの形で妨害される前に、それらを調査する機会を得た。大部分の記録が破壊されているか、ほとんど価値がなくなるほど破壊されていることが判明した。

 

糸満市では、いくつかの民事記録と警察記録が良好な状態で発見された。

名護では、特定の新聞アーカイブと公式記録の保管庫が当初は良好な状態で回収されましたが、後に我が軍によって侵入され、ひどい形で土産物にされていました。

 

これまでのところ、完全に無傷の公式記録ファイルを提出した町や村はない。日本軍がこれらの論文への我々のアクセスを拒否することに主に成功したことは明らかであるが、この点において日本軍が多少なりとも支援した可能性はある。


小規模世帯主が自分自身の権利書、財産証明書、税金領収書、通帳、郵便貯金口座などを保存しようとする、むしろ哀れな努力が明らかでした。そのような書類がきちんと束ねられた束や箱が、洞窟や国内の防空壕の隅、あるいは埋められた瓶やその他の安全と思われる場所で発見されている。その後、より深刻な緊急事態が発生したため、ほとんどの場合、これらの文書は完全に放棄されましたが、いずれにせよ、銀行の破壊と我が国の侵略の影響により、そのような文書はほとんど価値がなくなってしまいました。

このようにして、私たちは行政や経済の継続の基盤となるすべての文書が事実上完全に失われるという事態に直面している。戦後の財産紛争を公平に解決できる可能性がある適切な記録は入手できません。政治記録や徴兵記録などが欠落している。全く新たなスタートを切らなければなりません。

 

土地: 我々が上陸する以前、沖縄は主に農業経済でしたが、農業は漁業によって補われたとしても、人口が必要とする食料を提供できず、米、小麦、豆、その他の主食の多くは輸入されました。

 

漁船の破壊や軍令による禁止により漁業は停止した。私たちが島に侵入したとき、畑では小麦、豆、サツマイモ、その他の作物が実っていました。私たちの拘留中の民間人は、利用のためにこれらの作物を収穫するためにパーティーに連行されました。しかし、集中地域に近い限られた地域を除いて、新たな植林や畑の栽培はほとんど行われませんでした。これらの作物でさえ完全に収穫される可能性は低く、沖縄の農業は少なくとも1年以上は目に見える復興の見込みがほとんどなく、実質的に停止する運命にあるようだ。

 

機会があれば沖縄県民が農業を再開できれば、その目的に利用できる面積は大幅に減少するだろう。飛行場、道路、港湾施設、その他の施設に対する旺盛な需要により、島の主要な農業資源を構成する平坦な地形の大部分が占められています。トラックやトラクターなどによって多くの畑がひどく引き裂かれ、埋め立てるためにある程度の土が削り取られている。かつては流出と浸食を制御するために機能していた排水と小さなダムの精巧なシステムは、多くの地域で損傷または破壊され、他の地域では無視されており、基地開発に直接利用されていない多くの田畑は表土の大幅な損失と浸食に見舞われるでしょう。


この損害の多くは修復不可能になる可能性があります。海に流された表土は取り替えることができません。たとえ飛行場や道路の一部がその目的を終えて放棄されたとしても、ハードサンゴで満たされた帯に肥沃度を回復する見込みは何年にもわたってほとんどありません。私たちの作戦と基地開発が、農業によって人命を支える沖縄の将来の能力を深刻かつ永久に低下させたという事実を直視しなければならない。

 

住民の健康への影響

今のところ、戦闘で実際に死傷した人を除いて、我々の侵略に伴う要因が我々の拘留中の原住民の健康に深刻な悪化を引き起こしたという兆候はない。住民たちが洞窟に住んでいた当時の生活環境を考えると、これは実に驚くべきことである。それは、その地域の風土病に対する高度な自然抵抗力を示している可能性があります。しかし、疥癬、さまざまな皮膚感染症、シラミ、ノミなどが、洞窟での生活とその後の過密状態の間に蔓延しました。集中地域の混雑した状況は病気の蔓延につながり、将来的には結核や他の特定の病気の発生率が増加する可能性が考えられます。

 

侵略と占領が沖縄人に与えた心理的影響― 日本併合の数日前に沖縄を訪れた東洋人や西洋人は、島の人々はもてなしで礼儀正しいと一様に報告していた。ペリー提督は、日本での経験とは対照的に、沖縄では親切に迎えられました。日本の歴史の長い間特徴づけられてきたような、外国人に対する敵意の伝統はないようだ。

日本人は沖縄人に自分たちの思考パターンを押し付けようとしてきました。この事業において彼らが大きな成功を収めていないことは今や明らかである。

 

私たちの侵略と空襲が島にこれほどの大混乱と混乱をもたらしたという事実にもかかわらず、私たちが拘留されている沖縄の人々は私たちを特に憎んでいるようには見えません。実際、島に散らばった日本軍人や、沖縄県民を扇動しようとする一部の残留日本当局者の存在がなければ、彼らが私たちに重大な問題を引き起こすかどうかは疑わしい。


沖縄の人々は、もしアメリカ人が上陸したら、人々は徹底的に残虐に虐殺されるだろうと日本側から知らされた。どうやら敵は、我々が島に与える物理的変化の程度を予想していなかったし、それが民間人に与える影響を理解していなかったし、あるいは敵がこの要素を認識していたとしても、それをプロパガンダ目的で利用しようとする努力はほとんどなかった。沖縄の人々は、新聞、ラジオ、口頭を通じて、私たちが予想される肉の残虐行為について知らされました。

 

我々の侵攻前の砲撃には、沖縄県民に与えられたプロパガンダを信じさせないような内容は何もなく、我々の軍隊が上陸して前進すると、戦わずして島の大部分が制圧されたにもかかわらず、住民はほぼ例外なく命の危険を感じて逃げ出した。

 

拷問や死への深い恐怖が彼らのほとんどの心の中に最上位にあったことは、特に最初の数日から数週間、民間人が私たちの拘留下に入るのを見ていた人には明らかでした。沖縄の高齢のオバサンたち洞窟で発見された(祖母)たちは、頭と足をキルトで覆い、深い窪みに隠れていることが多く、海兵隊員に覆いを暴かれると、何度も甲板にひざまずいて額を下げ、両手で祈りを込めて手のひらを前に合わせ、発見者に哀れみ深く懇願した。彼らの太古の命を救うために。安心させられ、親切に扱われたときの彼らの安堵感は、彼らが表現した感情の正当性には疑いの余地がないほど顕著で明白でした。同様に、洞窟生活の耐えがたい状況のため、母親や老人たちは、最初に接触する部隊にしばしば体が震えるほどの不安と恐怖を示したため、絶望的に戦列に入る。しかし、集中地域の安全な場所で 1 ~ 2 日過ごすと、彼らの態度は目に見えて変わり、リラックスして笑顔でキャンプの日課に楽しく協力するようになりました。

 

沖縄の平均的なアメリカ軍人や海兵隊員は原住民、特に子供たちに対して心優しく友好的であることが判明し、陽気な挨拶やジープやトラックから道端の民間人旅行者に大量のGI食糧、キャンディー、さらにはタバコさえも注がれた。彼らは私たちに対する最初の恐怖を克服し、この恐怖を互恵的な友好関係に変えるために多くのことをしてくれました。

 

このように、沖縄県民のほとんどは、わが軍との最初の接触で、身体的危害に対する恐怖は根拠がないことがわかり、その結果得られた安堵感によって、故郷を失うことを考える彼らの落胆はかなり軽減されたようだった。


民間人集中地域に連行されると、沖縄県民はアメリカ人との主な接触が軍事政府関係者であることに気づいた。先住民と日常的に接触している軍事政府の人々の多くは、彼らの世話を受けている地域社会の福祉のために多大な献身的に働いてきました。人々はこれに応え、感謝の気持ちで恩返しをしてきました。疑いもなく、人々のために設立された病院や診療所が、人々の好意を得る最大の唯一の要因となっている。

 

多くの観察者は、沖縄県民が行政上の不手際や戦争の必然性から生じる不快感、不便さ、苦難を哲学的に受け入れているように見えることに驚くべきことを感じているが、同様の経験が西洋の人々を沸き立つ憤りと不安に陥らせることになる。例えば、2万人の民間人を本部半島の村から最低限の避難所さえも利用できない地域に強制移動させたが、何の事件もトラブルも引き起こさなかった。

 

この点は、日本軍の戦線後方の南で捕らえられた民間人の経験をある程度詳細に語ることによってさらに強調されるかもしれない。これらの人々は、一般の人々よりも深刻な苦しみを受けました。おそらく5万人以上が自らの選択か偶然か、こうして罠にはまったのでしょう。日本軍は彼らの福祉を増進する努力を一切せず、食糧も医療も物資も提供しなかった。それどころか、ニップの兵士たちは、乏しい民間備蓄の中から食料やその他の必需品を没収することが多く、終盤には、嫌がらせを受けた兵士たちが切望する洞窟シェルターから当惑した原住民を追い出すことさえあった。不運な民間人は偶然の銃撃で危険にさらされただけでなく、敵軍と混同された結果、砲撃、艦砲射撃、空襲の標的になることもあった。

 

6月下旬、島南部で敵の組織的抵抗が崩壊したため、数万人が我が国の前線に突入した。彼らの数はすでに死者によって大幅に減少しており、その時点で出現した人々のうち約4分の1が治療を必要とし、多くが重傷を負い、中には何日も放置されていた負傷者もいた。沖縄南部には、戦術前線部隊の激しい攻撃から逃れられる施設を除いて、民間人のための医療施設が提供されていなかった。その結果、負傷者の大部分は、最初に戦列に到着したときに十分な治療を受けられないか、まったく治療を受けることができなかった。人々は負傷者を含めてトラックに詰め込まれ、荒れた道を通って北の集中地域へ送られ、中には60マイル離れたところもあった。この跳ねるガタガタの道中は、副木が取り付けられていない骨折の場合には特に困難だった。トラックに積まれた民間人の輸送経路は混乱していたようで、トラックの運転手は荷物を運ぶよう命じられたキャンプが人々の受け入れに消極的であることに気づき、住民を別の地域に連れて行くよう指示が出されることが多かった、多くの場合、このたらいまわしプロセスが繰り返されました。そのため、トラックの運転手は、荷物を届けるためにあちこち買い物をする立場に置かれることがよくありました。乗車中や事件の遅延により、人々には十分な食料や水、治療が提供されず、多くが最終目的地でトラックから降ろされ、死亡したり、回復不可能なほどの状態になった。負傷した小さな子供たちは、旅行中に特に脱水症状を起こしやすかった。トラックの運転手たちは、荷物を運ぶように命じられた収容所が人々の受け入れに消極的であることにしばしば気づき、原住民を別の地域に連れて行くよう指示が出されたが、多くの場合そこでこのプロセスが繰り返された。そのため、トラックの運転手は、荷物を届けるためにあちこち買い物をする立場に置かれることがよくありました。乗車中や事件の遅延により、人々には十分な食料や水、治療が提供されず、多くが最終目的地でトラックから降ろされ、死亡したり、回復不可能なほどの状態になった。負傷した小さな子供たちは、旅行中に特に脱水症状を起こしやすかった。トラックの運転手たちは、荷物を運ぶように命じられた収容所が人々の受け入れに消極的であることにしばしば気づき、原住民を別の地域に連れて行くよう指示が出されたが、多くの場合そこでこのプロセスが繰り返された。そのため、トラックの運転手は、荷物を届けるためにあちこち買い物をする立場に置かれることがよくありました。乗車中や事件の遅延により、人々には十分な食料や水、治療が提供されず、多くが最終目的地でトラックから降ろされ、死亡したり、回復不可能なほどの状態になった。負傷した小さな子供たちは、旅行中に特に脱水症状を起こしやすかった。そのため、トラックの運転手は、荷物を届けるためにあちこち買い物をする立場に置かれることがよくありました。乗車中や事件の遅延により、人々には十分な食料や水、治療が提供されず、多くが最終目的地でトラックから降ろされ、死亡したり、回復不可能なほどの状態になった。負傷した小さな子供たちは、旅行中に特に脱水症状を起こしやすかった。そのため、トラックの運転手は、荷物を届けるためにあちこち買い物をする立場に置かれることがよくありました。乗車中や事件の遅延により、人々には十分な食料や水、治療が提供されず、多くが最終目的地でトラックから降ろされ、死亡したり、回復不可能なほどの状態になった。負傷した小さな子供たちは、旅行中に特に脱水症状を起こしやすかった。

 

旅の終わりには医療、食料、水が手に入るようになり、そのような援助を受けた人々はありがたく感謝しました。どうやら彼らは、私たちが彼らを助けなければならない理由をまったく理解していなかったので、旅行の終わりに親切な扱いを受けたとき、それを人道の下で彼らに与えられるべき権利としてではなく、予期せぬ幸運だと考えました。


民間人収容所内では、民間人は従順で協力的であることが判明し、当面は戦争が強いた条件を遵守することにそれなりに満足しているように見えた。私たちが直接管理している沖縄県民の敵意や暴力行為、裏切りの証拠はほとんどありません。捕虜から逃れるために民間人と交流しようとした日本兵は、通常、民間人自身によって国会議員に引き渡された。首長たちはためらうことなく出てきて、通常は期待どおりに職務を遂行しました。主に衛生規制の施行などに困難が生じた。

 

この状況は、敗北した敵軍の残存者からなるゲリラ集団によって時々わずかに妨害されました。彼らは我々の作戦や哨戒によって散り散りになった後、集まって組織し、集中地域の一部に侵入しました。このようなゲリラ集団は一部の首長を殺害し、他の首長を脅迫し、民間の備蓄品から食料を持ち去り、情勢に不調和な意見を投げかけた。多くの首長が恐怖を感じて辞任し、軽い不安の顕著な騒ぎが明らかになった。注目すべきは、これらのゲリラ活動が沖縄県民を敵に回すのではなく、むしろ日本人自身に対する憤りをもたらしたことである。

 

純化しすぎの危険を承知で、平均的な沖縄人の態度を次のようにまとめることができるかもしれない。沖縄人は自分の土地を耕作するために平和的に放置してもらうことを望んでいるようで、どのような庇護の下で働くかについてはこだわりを持っていない。沖縄人には、私たちは滞在するために沖縄に来ているように見え、沖縄の人々が養われ、世話され、医療を受けられるようできる限りのことをするつもりであると理解しているように思われます。沖縄人は我々のもとで耐えられる生活が送れる可能性を予見しており、それゆえに日本人によるこれ以上の干渉は望ましくない、と考えている。沖縄人は現在の収容所生活の混雑した不便な特徴が改善されることを望み通常の家族の日常が回復されることを望んでいます。沖縄人は医療と食料の提供に感謝している。彼は上記の目的を視野に入れて協力するつもりであり、彼の悲惨な懸念がすべて現実になる可能性が低いことを認識して安堵しています。

 

これまでに西洋人と接触したことのある一部の沖縄人の反応は多少異なります。入植者として、あるいはハワイ、ペルー、ブラジル、あるいは西半球の他の地域にしばらく住んでいた先住民も何人か現れた。彼らは最初から、アメリカの残虐行為が予期されていたという日本の物語が誤りであることを知っていた。彼らは戦役の早い段階で恐れることなく我々の前線に加わり、場合によってはテロに苦しむ原住民に我々が彼らを守ると説得し、首長として奉仕する上で多大な支援を行った。

 

教養と知性を備えた一部の沖縄人と、「知識人」とも言える日本人の反応も注目に値する。おそらく、この反応の顕著な特徴は、家坂博士によって例示され、彼が作成して提出した署名済み声明文の中で表現されたのでしょう(付録を参照)。簡単に言えば、そのような教育を受けた人々は西洋の自由主義的かつ科学的な考え方にある程度接触しており、それらに感銘を受けていました。この初期のリベラルな印象は、戦いでの継続的な日本の成功によって強化された正統的な日本哲学の路線に沿った度重なるプロパガンダによって沈められ、多くの人が日本は確かに世界を支配する運命にある神聖な国であり、継続的な勝利が続いていると信じそうになったようである。この概念を実証しました。


東洋人は周囲の支配的なグループと思考パターンを一致させる必要性を深層心理で感じているようだということはよく指摘されている。現在、私たちの考えが沖縄で優勢になっているため、この要素は私たちにとって有利になります。

現在の状態

現在の傾向。――今(7月10日)までに、戦争による暴力的な混乱は完了し、人々は何か月も続くであろう収容所経済に落ち着きつつある。行政組織、裁判所、配給システム、警察システムなどが集中地域で効率的に機能している。現在の非常に深刻な過密状態を部分的に改善するのに十分な量の新しい住宅が建設されている。土着の手工芸品が再び再開され、集中地域によって設定された制限内で人々が可能な限り自立できるようにする取り組みが行われています。おそらく驚くべきことに、人々は現在の状況下ではそれなりに満足しているようだ。

 

沖縄県民が沖縄島の長距離軍事利用に潜在的に有利であることは明らかである。適切に扱われれば、彼らをグアマニア人やフィリピン人と同じくらい忠実な先住民に変えることができない理由はないようだ。あらゆる兆候は、沖縄県民が健康と物質的および心理的福祉に対する十分かつ同情的な考慮を組み込んだ啓発的なプログラムに好意的に反応することを示しています。このような計画は、島の現在および将来の軍事利用と適切に統合されれば、この戦争後にその地域で敵対行為が発生した場合に、何倍にもなって私たちに報われるかもしれません。

 

付録.—次の声明は、日本の帝国大学医学部で訓練を受け、その後沖縄に渡り、島北部の村で長年開業した日本人医師、家坂幸三郎博士によって自発的に作成されたものである。彼は領土が制圧されてから数日以内に私たちの前線に現れ、すぐに働き始め、私たちが拘留している多数の傷病者の世話を手伝いました。

 

この声明は1945年4月中旬、外部当局からのいかなる形での促しや要請もなく、完全に彼自身の主導で書かれた。オリジナルの声明は、英語の不完全な点も含めて、家坂博士が書いたとおりにここに記載されています。声明の原本は沖縄戦中に報道機関に発表され、全国のさまざまな新聞にその全部または一部が掲載された。

 

家坂医師の声明

紳士たち:

名誉ある陸海軍軍医の皆様。アメリカのキャンペーンの高官はこちら:

親愛なる医師の皆様へ:

 

この戦場でお会いするこの機会に、少しお話しさせていただきますことを、お許しください。日本とアメリカの間の戦争について私がどのように感じたか、いや日本の知識層の大部分が何を考えているかを示すのは、あなたにとって少し興味深いかもしれません。三千年の輝かしい歴史を持つ大日本帝国の崩壊の前兆を覆い隠す日本軍の正確な敗北を肉眼で見るのは非常に残念なことである。私たちの祖国である日本が滅亡したというようなデータは、私たち日本人には決して考えられない最も悲劇的で恐ろしい事実です。なぜなら、私たち日本人は皆、日本は決して他国に踏みにじられることのない神の国(神国)であると考えているからです。

(1) 6世紀前、偉大なモンゴル軍との戦い。
(2) 50 年前、偉大な中国軍と対戦。
(3) 40 年前、偉大なロシア軍と対戦して、我々は崩壊の危機の瞬間に毎回大きな勝利を収めた。
(4) さて、今度は偉大なアメリカ軍に対して、日本は戦争を仕掛けているが、それは私が肉眼で見ることができ、科学的調査によって冷静に考えることができる。神が私たちを救う!他の 3 つの簡単な方法とはまったく異なる、悲しく最も嘆かわしい結論が訪れるようです。


大国に対するこれら3つの奇跡的な勝利は、私たちの先祖たちの古い時代から受け継がれてきた伝説と伝統の価値を増大させ、悪化させる結果となりました。こうして私たちは、日本のあらゆる階級、さらにはインテリ階級に至るまで、うぬぼれ、迷信深い夢想家になったのです。

真の政治学の見地から自らの自由な思想を主張した帝国大学の一部の教授は重罪に処せられた。ご存知のとおり、「2x2 = 4 は真実」です。夢想家にとって、2x2 = 6 は真実のように思えます。神の国の支配という考えは、これらの初歩的な数学的公理に反しています。偉大なアメリカ軍に対する戦争は、虚偽と真実との戦争であり、伝統と理論との戦争であり、制限と自由との戦争である。

ここで、沖縄の人々について振り返ってみましょう。彼らの健康状態は実に嘆かわしく哀れな状況にあります。琉球地区の若者たちは病気で悲惨な状況にあり、

(1) 十二指腸阴瘻症(陪口症)。
(2) フィラリア・バンクロフト(フィラリア症、象皮病、胆汁または乳尿)。
(3) 肺、骨等の結核
(4) あらゆる種類のハンセン病

沖縄島はハンセン病罹患率が最も高いため、兵士やその他の労働者としての能力が大幅に奪われ、弱体化しています。ローチューにおける日本陸軍軍団の敗北は、日本本土の敗北を覆い隠す悲劇的かつ正確な事実である。この小さな島の人々は食料を自給することができず、飢えに瀕しています。しかし、彼らの大部分はこの緊急事態において無罪で純粋であり、何をどのように戦っているのかは不明である。彼らの息子、家、生きた資材、それらはすべて死んだか焼かれました。あちこちの山の洞窟や川辺をさまよっては泊まって、泣きながら泣いている彼らは、恐ろしい疲労感に圧倒され、瀕死の状態にあります。アメリカ軍は兵士だけでなく、赤ん坊も老人も弱い者も全員殺すべきだという誤ったプロパガンダ

しかし事実は逆でした。アメリカ兵たちが、この貧しく無力な平和人に対して、会うたびにタバコやケーキを与えてくれるなど、いかに親切で誠実であるかが分かりました。プロパガンダとはまったく異なるこの事実に彼らは驚愕した。特に、多くの優秀な専門家と経験豊富な陸軍および海軍の軍医が一般のすべての病人や負傷者の治療に熱心に取り組んでいる赤十字病院の設立は、確かに神秘的な驚異です。

しかし、戦場での悲惨で哀れな戦争の光景をこれ以上見るのは耐えられませんでした。沖縄の戦争が早く終結し、飢餓に苦しむ沖縄が救われることを祈っています。なぜなら、もし戦争がさらに続けば、1か月後の今日、彼らは本当に飢え、病気が悪化し死んでしまうと思われるからです。神が沖縄を助け、あなたを祝福してくださいますように。最後に、私の不十分な英語を話す許可を与えていただき、深く感謝いたします。

/s/ 家坂幸三郎博士

 

 

 

 

 

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*1:An estimated 60 or 70 per cent of the buildings on Okinawa appear to have been destroyed or severely damaged as a direct result of operations. Those remaining intact or slightly damaged after the fighting have not been left undisturbed. A great number have been or are destined to be dozed under to make room for roads, airfields, or other installations. Thus the village of Kadena is now buried in the traffic circle at an important intersection. Rubble from the houses contributed to the fill used in the roads. Roads leading through inhabited localities have usually been widened or straightened without regard to the necessity for cutting through existing ruins or through damaged or intact buildings, even though the process might wipe out an entire village, as was the case at Hiza.