読売新聞 2022年7月3日「元語学将校のドナルド・キーン氏が読んだ日本兵の日記「仲間が死んで一人」「腹減った」 」

 

 

元語学将校のドナルド・キーン氏が読んだ日本兵の日記「仲間が死んで一人」「腹減った」

読売新聞

2022/07/03 09:23

 

神奈川近代文学館の入り口に掲示されているドナルド・キーン100年展の案内

 

【英字版】THE JAPAN NEWSでも公開中

 三島由紀夫川端康成谷崎潤一郎――。昭和の文学界を彩る歴々たる作家たちと親交を深め、日本文学と日本文化の魅力を世界に伝えることに一生を捧げたドナルド・キーン氏(2019年2月死去。享年96歳)の生誕100年を記念する展覧会が、横浜市中区の神奈川近代文学館で開かれている。キーン氏が日本文学研究の道を歩むことになった原点のひとつは、太平洋戦争時代に語学将校として日本兵の日記を翻訳したことだ。戦後77年の夏がやってきた。戦争と平和について、キーン氏の言葉を振り返りつつ考えたい。(編集委員・森太)

 

語学将校として従軍した太平洋戦争時代の展示

 

戦時中は日本語の語学将校だった

 横浜・山手の高台にある「港の見える丘公園」は、アジサイが咲き誇っていた。横浜ベイブリッジを望みながらその庭園を抜けると、懐かしい顔が現れた。それは、文学館の入り口に掲示されたキーン氏の大きな写真だった。
神奈川近代文学館の入り口に掲示されているドナルド・キーン100年展の案内

 戦後60年(2005年)の8月、私はキーン氏にインタビューした。読売新聞社会部で戦後60年の連載を担当していた私は、そのひと月前に米国に渡り、太平洋戦争中、ガダルカナル島サイパン島で命を落とした日本兵の日記や遺書を、ワシントン郊外の米国立公文書館別館で見つけた。約3週間かかってそれら約150点すべてを電子データで保存し、日本で判明した何人かの遺族のもとに届け、連載記事を書いた。その取材過程で、キーン氏が戦時中、日本語の語学将校としてハワイに駐在し、太平洋の島々から米軍によって集められた日本兵の日記を翻訳していたことを知ったのだった。

 当時83歳のキーン氏は、米国と日本を行き来する生活をしていて、日本では東京都北区のマンションで一人暮らしをしていた。キーン氏は、私を温かく迎え入れてくれ、旧古河庭園の見える居間で話を聞いた。

 

遺品から収集した日記で決意

 「日本人は、小さな出来事を日記につづっていました。文章はつたなくても、胸を打つ言葉でした」。キーン氏は、当時を思い出しながらゆっくりと語り始めた。大きな木箱に入っていた日記は、米軍が戦死した日本兵の衣服や遺品から収集したもので、塩水や泥水、血の入り交じった嫌なにおいを発していた。それでもキーン氏は、日記を積極的に読み進めた。

 

語学将校として従軍した太平洋戦争時代の展示

 「早く故郷に帰りたい」「豆が11個あるが、3人いるので、どうやって分けたらいいか」「仲間がみんな死んでとうとう1人になった」「腹が減った」――。ページを繰ると、兵士たちの胸の内が伝わってきた。インタビューでキーン氏は「そこには、自分たちと同じ人間がいました」と語った。

 

 和英辞典と漢和辞典を駆使し、夢中になって訳すうちに、難しい字も読めるようになった。短歌、漢詩、さらに、文学的価値の高い日記もあった。キーン氏は、「3年間で、いい日記が100ぐらいありました。平安期から日記をつけていた日本人の奥深さを知りました」と話した。そして、この経験が戦後、日本文学研究者として生きていくことを決意するきっかけになったのだと教えてくれた。

 

国立公文書館に今も眠る日記

 米国立公文書館別館に今も眠るそれらの日記は、戦時中の米海兵隊の資料の一部として偶然残された。

 

 当時取材したカリフォルニア州の元語学将校によると、戦後、不要になった日記を含む文書や資料はハワイで焼却処分され、それはトラック50台分もあったそうだ。公文書館によると、なぜか海兵隊だけがこれらをずっと保管し、1987年、同館に移管されたという。この元語学将校は「米軍は、兵士が日記をつけることを禁止していたし、その習慣もなかった。ところが日本兵はみんな日記を書いているので、驚いた」と語った。

 

国立公文書館に保管されている日本兵の日記や遺書。雑誌の写真を切り抜いて張り付けた日記もある。上は米軍が翻訳した英文

 

 

 

 なぜ米軍は日本兵の日記を集めたのか。日本軍が1941年12月に真珠湾を攻撃した時、米軍は、日本について何も知らないことに気付いた。日記は、軍や作戦に関する情報だけでなく、日本人の思考、国民性を知るための貴重の情報源となった。米軍にとって情報の宝庫だったのだ。
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 このため米国は、ハーバード大スタンフォード大の学生、日本で育った宣教師の子息ら、全米から優秀な若者を集めて、1942年6月、海軍日本語学校を開校した。教師は日系人だった。元語学将校によると、授業は読書、会話、書き取りの1日4時間。食事の時も会話は日本語で、日本映画を鑑賞したり、童話を読んだりもした。生徒たちは12~18か月かかって修了し、語学将校となった。当時は日系人に対する偏見と不信感があり、語学将校になれるのは白人に限られたという。

 語学将校の数は、最終的に1000人を超えたという。

小さな字でびっしり「妻よ子供よ」「帰りたい」

 米国立公文書館別館で60年余り前の日本兵の日記を手にしたときの衝撃は、今も忘れられない。

 小さな字でびっしりとつづられた手記を読むと、故郷に思いをはせ、背中を丸めてペンを走らせる兵士の姿が目に浮かんだ。

 日本兵の日記や遺書は、閲覧申請すると、手押しカートに載せられて出てきた44のファイルボックスの中にあった。ボックスには、陣中日誌、兵器の取り扱い説明書など、米軍が太平洋の島々で集めたあらゆる資料計446点が入っていた。このうち148点が日記や遺書だった。

 300ページ以上の分厚い日記もあれば、1片の紙切れもある。どれも古い紙のにおいがした。糸がほつれてぼろぼろだったり、表紙がとれて氏名不詳のものも。銃弾が貫通したとみられる日記もあった。先が丸くなった鉛筆や分度器も挟まっていた。

 

国立公文書館に保管されている日本兵の日記や遺書。雑誌の写真を切り抜いて張り付けた日記もある。上は米軍が翻訳した英文

 

  「一日も早く帰りたいなあ」「妻よ子供よいつ 迄 も健在で父帰る日を待って居てくれ」。多くの兵士が、家族や恋人、故郷への思いを記している。短歌もあった。わたしはそこに、「日本兵」という言葉の響きとはかけ離れた、豊かな感情を持った日本人を感じた。読み進めていくと、兵士が次第に追いつめられていく様子がわかる。「乾パンをかじる」「水が飲みたい、水が飲みたい」。丁寧な字が、なぐり書きになり、ある日、ぷつりと途絶える。

兵士の多くは餓死、ガタルカナル島

 

 多くの日記は、ガダルカナル島で戦死した兵士のものだった。米軍は1942年8月7日、約1万1000人の大部隊を上陸させ、日本軍が建設した飛行場(現ヘンダーソン国際空港)を奪った。密林に覆われた島は、四国の3分の1程度の小さな島だが、当時の日本領最南端の要衝だった。

 

 日本軍の任務は、米軍から飛行場を奪還することだった。だが第1陣約900人は、8月20日夜から総攻撃をかけ、翌日昼までにほぼ全滅した。防衛省の資料によると、ガダルカナル島作戦では計約3万1400人の日本兵が上陸、66%の約2万800人が戦死。日本軍は1943年2月、撤退した。

 

 死者のうち約1万5000人は、戦闘による死ではなく、餓死と病死だった。
原点となった「戦争は不幸」

 

 キーン氏と再会したのは、戦後70年の2015年3月9日だった。2013年に開館した新潟県柏崎市の「ドナルド・キーン・センター柏崎」で、私はキーン氏と、市のホールで「日本文学研究者としての原点、それは、日本兵の日記」と題する対談を行った。キーン氏は会場を埋めた市民に語学将校としての経験、その後の日本文学研究のエピソードを語った。

 

  そして、3度目は2017年6月3日、ロンドンの大英図書館だった。キーン氏は養子のキーン 誠己 さんの古浄瑠璃公演に同行し、ロンドンを訪れた。私はこの時、読売新聞欧州総局長としてロンドンに駐在していた。当時94歳、亡くなる2年前のことだった。車いすに乗っていたが、 明晰 な頭脳は衰えていなかった。

 日本が愚かな戦争を遂行して、いいことがあったとすれば、膨大な著作を残し、日本文学に多大な貢献をしたドナルド・キーンという傑物を得たことだろう。2011年の東日本大震災の翌年、日本国籍を取得。平和主義者のキーン氏は語っていた。「戦争は不幸でした。でも、互いをよく知れば、戦争は避けられます」。私たちは、その言葉を肝に銘じなければならないと思っている。

 

お酒とオペラが好き、三島由紀夫と酒酌み交わす

 

 ドナルド・キーン氏は、1922年6月18日にニューヨーク・ブルックリンで生まれた。それからちょうど100年後の6月18日、100年展が開催されている神奈川近代文学館で、キーン氏の養子となったキーン・誠己さんと、翻訳家の角地幸男さんが対談し、キーン氏の思い出を語った。
語学将校として従軍した太平洋戦争時代の展示

 気さくで温かい人柄で、お酒とオペラが好きだったと、2人とも口をそろえた。若い頃は日本酒も飲んでいたが、晩年はワインを好んで飲んでいたという。長く交流のあった三島由紀夫とも酒を飲んだが、三島は酒が弱く、酩酊するとキーン氏のベッドを借りて寝たというエピソードを、誠己さんは父から聞いた話として紹介した。

長年交流のあった角地さんは、キーン氏から作品の日本語訳を依頼されたときの思い出を振り返った。「キーン氏の作品の翻訳なんてとんでもない。わたしには無理です」と断ると、キーン氏が目を大きく開いて角地さんをじっと見つめて言った。「あなたならできます」。角地さんは「その一言で、まじないにかかったように、『はい』と返事をしていました」と笑いながら話した。
生誕100年にあたる6月18日、キーン氏の思い出を語るキーン誠己さん(右)と角地幸男さん

 2012年に養子になった誠己さんによると、キーン氏は夕食後、書斎に入り、いつも午後11時頃まで仕事をし、時には午前1時頃になることもあったという。誠己さんは、キーン氏との生活を記録した貴重な動画も紹介。亡くなる10か月前に自宅でロッシーニのオペラを楽しそうに聴く姿や、決して人には焼かせず自分で料理したという牛ヒレステーキを調理する姿が会場のスクリーンに映し出され、満員の聴衆は見入っていた。

ドナルド・キーン展、7月24日まで

 神奈川近代文学館で開催中の「生誕100年 ドナルド・キーン展 日本文化へのひとすじの道」は、キーン氏の生涯にわたる業績とエピソードを豊富な史料とともに紹介している。キーンさんが生前求めていた通り、展示説明にはすべて英文も表記されている。

 作家たちとの交流は多くの手紙や写真で残されており、日本文学界で揺るぎない存在感があったことがわかる。自決するまで長く親交のあった三島由紀夫とは多くの手紙を交わしており、その一部が展示されている。「日本文学史」「奥の細道」「百代の過客」など膨大な著作の紹介、 愛嬌 のあるプライベートな写真などもある。私が2005年に米国立公文書館別館で保存した日本兵の日記も展示されている。キーン氏が生きた姿を通じて、日本の近現代を知ることにもなる。

 7月24日まで。開館時間は午前9時半から午後5時。月曜休館(18日は開館)