武部隊 「幸運の武兵団第九師団」~「幸運無傷の兵団」

 

幸運の武兵団第九師団(沖縄、台湾)

「幸運の武兵団第九師団(沖縄、台湾)」石川県 蕪城直勝 

労苦体験手記 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編) 第4巻 – 平和祈念展示資料館(総務省委託)

第九師団は、満州、沖縄、台湾と転戦し、結果的には幸運無傷の兵団といわれますが、蕪城さんは何年徴集ですか。

 

私は大正九年生れ、昭和十五年徴集兵、同十六年一月現役兵として、敦賀の歩兵第十九連隊補充隊へ入営です。一週間で満州でしたが、南方はおろか、台湾、本土も危ないというので、在満の主力師団は続々と南下していったのです。

 

...  (中略)  ...

 

第九師団が沖縄に配備された時、本島には、我が師団を中心として、第二十四師団(山)、第六十二師団(石)の三個団と、一独立混成旅団が主力となっていました。

 

第九師団は沖縄の中核として、首里糸満に主陣地を構えていて、摩文仁の丘などにもいた。ある時、11月だと思うのですが、軍司令部は那覇の女学校でしたか、軍司令官は牛島満中将、長勇参謀長でした。第九師団は首里師範学校にあって、師団長原守中将、参謀もおられました。偉い人、最高幹部が一緒にいた時です。

 

私は師団司令部の暗号担当でしたので、その時の様子を窺い知ることが出来たのです。参謀本部から電報で「最強師団を抽出して台湾に移駐させよ」という内容だったと思います。第32軍では、「一兵も出さぬ、沖縄を見捨てるのか。(参謀が卓を叩いていた) 」という強い返電だったと記憶しています。軍と参謀本部だか第十方面軍(台湾軍)との電報の応酬だったか、結局は参謀本部の命令に従わなければならなかった。その時、我々の原師団長閣下も同席されていたと思います。

 

抽出師団は第32軍に委ねられ、結果は第9師団が行くことに決定したのです。師団は満州からそのまま無瑕、完全装備、現役三~四年兵主体の「虎の子師団」だった。その間の空気は下部には全然知らされなかった。私は暗号翻訳が任務だったから、その間の事情を知ったわけです。

 

満州から沖縄の時もそうでした。上陸せず幾日も船の中で待機していた。部隊の幹部でも判らない、参謀でも良く判らなかったらしい。鹿児島で滞留中に沖縄と判った。

 

【解説】昭和十九年になると、南方各戦線への兵力転用が盛んに行われ、特にフィリピンのレイテ戦が天王山といわれていて、満州から第一師団はじめ数個師団が、また、満州から台湾に移駐した第十師団が、十一月二十日にフィリピンに転用、第二十三師団も北満からフィリピンに移駐をした。(十月二十三日、台湾軍第十方面軍隷下編入が発令されていた)。

 

このように台湾の防備用師団がフィリピン転用、そのため本土上陸の前に危険視された台湾が手薄になった経緯がある。そのため、11月23日、大本営陸軍部服部卓四郎作戦課長は、台湾台北に第32軍参謀八原大佐を招致して、第十方面軍(台湾軍)幕僚とともに第32軍から一兵団抽出に関し会議を開いている。そして、11月13日、第九師団の台湾転用を内定している。従って蕪城さんの述べた、師団抽出に関する大本営との応酬を裏付けている。

 

ーいよいよ沖縄から台湾転出ですが、昭和十九年内に出発したのですか。沖縄、台湾間の航路は危険極まりない状態だったと思いますが、犠牲はどうでしたか。

 

台湾へ移動とは始めは判らず、「フィリピン」かという噂もあったが、12月28日頃出帆したと記憶します。目的の港は基隆でした。半分やられると覚悟していたが一兵も損せず、一艦、一船もやられずで、途中警報はあったが、空襲も、雷撃もなく、唯々幸運の一言です。

 

上陸して新竹へ行き陣地構築した。師団司令部は新竹の中学校だったが、戦闘司令所は八紘台と師団長が命名した山の中へ入った。

 

司令部付近には綺麗な竹が多く、それを割って山の中で兵舎を作った。陣地は、参謀部、副官部、電報班もみな横穴式のものだった。はじめ司令部は先に申した通り、新竹の十八仙山という所の中学校だったが、空襲を受けたら松山は禿山になってしまった。

 

台湾への連合軍上陸は無かったが、戦後の戦友会で師団参謀は、「武運に恵まれた」と感激していた。なにしろ師団はほとんど無傷だった上に、沖縄逆上陸の話も実施せずだったということです。

 

終戦の情報は無線、暗号だったから早くキャッチしたのではないですか。また戦後の状態は如何でしたか。

 

ポツダム宣言受諾用意あり云々」の機密電報が入ったのは八月十日頃だったと思います。しかし「ポツダム宣言とは何か」が判らなかった。その前、受信する南方からの電報は、戦勝ではなく、負けている悲惨な情報だったので、大本営の発表とは全然違ったものだということは知っていた。

 

電報は、下部や兵隊には知らせない。暗号班が翻訳、解読したものは、そのまま幕僚部へ行くから一般には判らない。だから兵隊にとっては、海の向う側の沖縄玉砕の情報も耳に入っているから、旗色が悪くなっていると推測は出来ても、まさか敗戦、無条件降伏とは考えてもみない、大ショックだったわけです。

 

連合軍で上陸して来たのは米軍ではなく、後になって中国軍だった。その姿は、銃を天秤のように担いで、菅笠を背負っている。こんなのに負けたのかと思った。我々の収容所も米軍ではなく中国軍が管理した。

 

終戦後、「四年程帰れぬ」というので、部隊は自活のため分散した。私は山へ登り、米を持っていって畑を耕した。兵舎は自分たちで作り、米、味噌、缶詰は部隊から貰っていた。

 

中国軍は、我々を非常に自由に生活させてくれた。

 

私は部下三〇人ぐらいと一緒だった。三ヶ月もしたら急に帰れるということになったと、司令部から命令が出て「現地を始末して来い」という。四年ぐらいは帰れぬと思っていたので、米などを現地人に分け与えて帰った。現地人は日本人に好意を持ってくれていたので、生活しやすかった。

 

我々の俘虜生活(抑留)は基隆港埠頭の倉庫にいた期間だけだった。その間は砂糖倉庫の使役で、監視は中国兵だった。

 

帰国が決まったのは昭和21年 (1946年) 1月1日だった。正月の無言の万歳だった。東方、宮城を遙拝し、声なく、お互いに肩を組んで無言で泣いた。復員船は砕氷船「宗谷」だった。1月17日鹿児島港で復員完結し、家に帰り着いたのは1月20日で、奇しくも父の命日であった。

 

想えば、我々が台湾へ移駐してから四ヵ月後米軍は、座間味、嘉手納海岸に、抵抗も無く上陸した。まさに昭和二十年4月1日のエイプリルフールである。兵力は第七、九六師団と、第一、第六海兵師団であったという。伊江島へは4月16日上陸、21日夕刻までに全島占領。守備隊長小川少佐以下は城山山頂で玉砕した。米新聞記者アーニーパイルは18日に戦死した。これを記念し、戦後、東京有楽町にアーニーパイル劇場があったことを記憶する人も少なくなっているでしょう。

 

5月23日夜、牛島軍司令官は、師団長会議で、首里複師陣地をもって主力の最後とすべきかどうか、慎重に討議の結果、南部喜屋武-摩文仁地区に後退することに決し、新たに各部隊の部署を決めた。首里戦線後退時の傷病者は約一万人と推定された。

 

六月二十三日、摩文仁の丘で牛島軍司令官、長参謀長は自決し、米軍上陸以来八十余日にして、沖縄玉砕、戦いは終結の形をとった。第六十二師団長は六月二十二日、第二十四師団長は六月三十日それぞれ自決した。米軍が沖縄占領を布告したのは七月二十二日である。

 

玉砕後、沖縄各地、特に北部国頭地区においては、ゲリラ戦が続けられ、米軍掃討戦で生き残った幾多の集団があったことは忘れられている。

 

沖縄戦の悲惨さは官、民を巻き込んだ戦闘であったことである。防衛召集を受けた青壮年男子はもとより、男子学徒一、二九六名中、戦没八五一名。女子学徒五四三名中、戦没二六三名。その他一般義勇隊は食糧供出、運搬その他作戦に側面的に協力した。

 

なお、第九師団の台湾移駐後の日本軍兵力概数は陸軍10万五、〇〇〇人(第三十二軍司令部直轄部隊、第五砲兵団司令部、第二十四師団、第六十二師団、第四四旅団、第十一船舶団司令部)。海軍約五、〇〇〇人(沖縄方面根拠地隊)。合計十一万人である。

 

米軍兵力概数は艦船約一万五〇〇隻、海兵隊三個師団、陸軍六個師団、空軍五○○機。合計約十八万三、〇〇〇人である。

 

損害。(戦死)日本側、軍人軍属約九万人、一般住民死亡約九万二、〇〇〇人(内戦闘協力者五万人余)。米軍側戦死一万二、五〇〇人。

 

もし、第九師団が沖縄戦の主力戦力となっていたことを想定すると、米軍に対し多大の損害をあたえたであろうし、無抵抗で、米四個師団を嘉手納海岸に上陸させず、沖縄戦の様相は相当変化を来たしたことでしょう。

 

また、沖縄玉砕の時期は終戦間際まで延引出来たろうし、あるいは終戦までも...。と憶測するむきもあろう。その反面、第九師団玉砕の悲劇や官民のさらなる犠牲も予想される。

 

仮説の上の推測は別として、幸運の第九師団の編成は次の通りである。

第九師団 金沢編成 終戦時駐地 台湾新竹。

歩兵第七連隊(金沢)武一五二四部隊、

歩兵第十九連隊(敦賀)武一五二八、

歩兵第三十五連隊(富山)武一五三三、

山砲兵第九連隊武一五四六、

工兵第九連隊武一五五九、

軸重兵第九連隊武一五六四、

第九師団通信隊武一五六〇、

同兵器勤務隊武一五六八、

同第一野戦病院一五八二、

同第二野戦病院一五九五、

同第四野戦病院一五九五、

同制毒隊一五三七部隊