ウイラード・A・ハンナ少佐(1911~1993年)

ウイラード・A・ハンナ少佐

(1911~1993年)

沖縄テレビ「沖縄の歴史的建物が“シロアリ”“老朽化”で取り壊しへ…」

 

米軍は軍事占領とその後の軍政のため、一部、大学の優れた研究者を登用した。特に米海軍。日本語のできる情報将校や語学将校だけではなく、軍政の教育部門などを担った。

一九四五年四月の沖縄本島上陸から翌四六年七月まで、米軍政府には軍政についての特別な訓練を受けた若いインテリ将校たちが何人かいた。ジョージ・P・マードックをはじめ、ジェームズ・T・ワトキンズ、ジョン・コールドウェル、ウィラード・A・ハンナ、ヘンリー・ローレンス、ポール・デニングなど。なかでも戦後の軍政に深くかかわったのは、マードック中佐(のちにエール大学人類学部長)の後をついて政治部長になったコールドウェル中佐(のちにアーカンソ大学学長)、その後任のワトキンズ少佐(のちにスタンフォード大学教授)と文化、教育部長をしたハンナ少佐(英文学教授)である。

宮城悦二郎『占領27年・為政者たちの証言』(2014年) より

 

不幸中の幸い

 終戦直後、戦争がすんで、米軍の占領行政の第一歩が踏み出された。その時不幸中の幸というか、当時の米軍政府に就任されたハンナ少佐が東洋文化造詣深く、沖縄の古代文化財に理解と関心が深く、早速沖縄の古代文化財の収集、保存に絶大な努力を払い…

琉球史料 第10巻 (那覇出版社, 1988年) 88頁

 

LT. COMMANDER HANNA WAS THE SUPERVISOR FOR THE MILITARY
GOVERNMENT SECTION OF EDUCATIONAL AND CULTURAL AFFAIRS

rememberingokinawa.com HIGAONNA MUSEUM pdf

 

1945年9月17日 - 恩納博物館

教育部長のハンナ少佐らは沖縄県立博物館のもととなる「沖縄陳列館」(後に「恩納博物館」に改称) を設置する。

1945年、海軍軍政府ウイラード・A・ハンナ少佐(1911~1993年)とジェームス・T・ワトキンス少佐(生没年不詳)は、米軍人と米国の政治家に沖縄の歴史文化を紹介するため、「沖縄陳列館」と称し、石川(現うるま市)の東恩納の民家に仏像や陶器・漆器などを陳列し、公開しました。特にハンナ少佐はフィリピンにあった円覚寺楼鐘を返還させ、さらに沖縄の歴史教科書の作成を指示し、劇団結成、画家たちへ物心両面の援助を行うなど、戦後沖縄の教育・文化の再興に尽力されました。戦後、1955年と1990年の2度ほど来沖しています。

博物館の沿革 | 沖縄県立博物館・美術館(おきみゅー)

 

「(ハンナ)先生は学者ですから、文化は大事にしないといけないと…ハンナ博士はよく知っていました。首里城円覚寺の焼け跡からハンナ博士がトラックに載せてこっちに持ってきたんです… 」

戦争の大きな犠牲を被った沖縄の文化に深く同情していたというハンナ少佐。ハンナ少佐が尽力した博物館の存在は、文化財がバラバラになり行方が分からなくなることを防ぐことにもつながった。首里城の近くにあった円覚寺琉球における臨済宗の総本山で第二尚氏王統の菩提寺だった。緑に映える荘厳な寺院で1933年に国宝に指定されたが沖縄戦で破壊された。ハンナ少佐は旧日本軍の第32軍が南部に撤退した直後から首里に入り、がれきの中から文化財を集め、その中には首里城円覚寺の部材も含まれていた。

沖縄テレビ「沖縄の歴史的建物が“シロアリ”“老朽化”で取り壊しへ…」

 

宮城悦二郎『占領27年・為政者たちの証言』(2014年) より

ウィラード・A・ハンナ

(軍政将校・一九四五年四月四六年七月)

 

一九四五年四月の沖縄本島上陸から翌四六年七月まで、米軍政府には軍政についての特別な訓練を受けた若いインテリ将校たちが何人かいた。ジョージ・P・マードックをはじめ、ジェームズ・T・ワトキンズ、ジョン・コールドウェル、ウィラード・A・ハンナ、ヘンリー・ローレンス、ポール・デニングなど。なかでも戦後の軍政に深くかかわったのは、マードック中佐(のちにエール大学人類学部長)の後をついて政治部長になったコールドウェル中佐(のちにアーカンソ大学学長)、その後任のワトキンズ少佐(のちにスタンフォード大学教授)と文化、教育部長をしたハンナ少佐(英文学教授)である。

 

不思議なことにこの三人は一九四四年に米海軍省が台湾と沖縄に関する「民事ハンドブック」を作成していたころ、のちに「琉球の歴史」を著わしたジョージ・H・カー(彼は台湾のハンドブック作成の主任をしていた)と知り合い、その後も長く親友として交際している。カーも含めてこの四人はマードックとソリが合わなかった点でも共通している。マードックはかなり気むずかしい学者であったらしい。

 

ところで、ハンナについてはごく一部の人しか知っていないと思われるので、その略歴を紹介しておこう。

 

彼と東洋とのかかわりは一九三二年に来日したときに始まる。翌三三年には英語教師として中国に渡っている。一九三七年に帰国、ミシガン大学で一九世紀英文学で博士号を取得(学位がほしかっただけ、と本人は言う)、日米開戦の一九四一年まで大学で教鞭をとる。一九四二年、コロンビア大学の軍政要員養成所に入り軍政と日本語を学ぶ。

 

一九四五年四月三日沖縄本島に上陸、難民の保護にあたる一方、戦後の学校教育をスタートさせ、文化財の保護などに携わった。一九四六年七月、沖縄の軍政が最終的に陸軍の手に移ったあとに帰国、陸軍大学で教鞭をとる。一九四七年か一九五四年まで国務省の海外情報・文化関係担当官としてフィリピンで一年、インドネシアで五年、東京で一年つとめている。

 

その後、アメリカン・ユニバーシティー・フィールドスタッフ(AUFS)の一員として各地の大学を訪問、米国東部の由緒あるアイビーリーグの大学のなかでもハーバード、エールに次ぎ三番目に古いダートマス大学でも教えている。一九五五年、再びインドネシアに戻る途中、沖縄に立ち寄り沖縄諮詢会の古い友人たちと再会している。

 

著書に一九三〇年代の中国を舞台にした小説「運命は八つの目をもつ」、その他マリアナ、カロライン、パラオ群島等に関する「民事ハンドブック」に含められたレポートなどがある。

 

軍政府時代、東恩納の軍政本部の近くに民家を改造して博物館”をつくり、そこに“長”として住み込み、ネリ"というニックネームの沖縄メードの手づくりの料理で博物館を訪れる将校たちをもてなし、K・レーションを主食にテント住まいを強いられていた連中をうらやましがらせた。ワトキンズの日記には毎日のように「博物館にてハンナと食」と記されている。仲間の間では“レッド・ハンナのニックネームで親しまれていた。

 

ハンナ夫人もミシガン大学の教授であった父親とともに一九三〇年代に三年ほど中国で過ごしている。大学院では中国語を専攻卒業後は国会図書館の東洋部に勤め、戦後は国務省の文化担当官として中国へも行っている。一九五三年にハンナ氏と結婚、一九五五年には夫とともに沖縄を訪れている。

 

ハンナ(敬称略)は、エール大学のあるニューヘイブンから二百マイルほど北にあるホワイトリバー・ジャンクションという小さな町のはずれに夫人と二人で静かな隠居生活の日々を送っている。

 

夫妻が住んでいるパインウッドは小高い丘の上にある新しい住宅地。赤いタイルの屋根と白い壁が木立ちや芝生にまばゆいばかりに映えて美しい。年中、核だのB3だのと心配している沖縄が同じ地球上にあるとは信じられないほど、全く別の世界である。

 

到着したその日にインタビューの予定であったが、あいにくその晩は急な来客があるとのことだったので翌朝に延期。そのかわり、ホテルへ送ってもらう途中、彼がかつて教鞭をとったことのある近くのハノーバー市にあるダートマス大学へ案内してもらった。運転をしながらハンナは遠い記憶をたぐり寄せるかのように、どもりながら語りはじめた。しかし、いったん話しだすと三十九年前のことがいっきょに堰を切ってあふれ出たかのように早口にしゃべり続けた。なにから先に話したらいいのかわからないように、話題は次から次へと飛んだ。

 

ハンナが沖縄に上陸したのは一九四五年四月三日。占領現地における軍政の最高責任者であったW・E・クリスト准将(軍政府副長官)ほか十数人の将校たちと一緒だった。上陸後、日本軍の抵抗もなくコザへ侵入、軍政本部キャンプを設営。ハンナはそこではじめて沖縄の住民たちを見る。

 

「まったくあわれな姿だった。食料はないし、家もない。全くなにもない。米軍は家屋など片っぱしから破壊したが、ひどいことをしたものだ。こんなことは予想もしていなかった。だから具体的な対策などたてようもない。とにかく難民をどこに収容するか、彼らをなんとか生かしておくにはどうしたらいいか、といったことで手いっぱいだった。難民はふえるばかりだし・・・」

 

ハンナがコザにいたころ、軍政本部には二十人の軍政将校と数十人の二世通訳たちがいた。彼らは読み書きのできるものと会話の上手なものとが二人一組になって活動した。ハンナ(当時大尉)はこれら二世たちの指揮監督をしながら軍政に必要な情報を収集して副長官(クリスト)に報告していた。

 

占領初期、米軍は米軍人が敵国民間人と親しくすること(フラタナイゼーション)を固く禁じていたが、二世通訳たちのなかにはその禁を犯して軍法会議にかけられるのもいたりして、ハンナを悩ましたとのこと。ある文書によると、そのような状況下で沖縄の女性と結婚したいと許可を願い出て他の部隊に配置がえになった二世さえいる。

 

「ところで、ある日、陸軍の将校がキャンプへやってきて、ここの近くには飛行機用燃料貯蔵のタンク・ファームを設置するから立ち退けという。そこで誰かが石川がいいというから、ジョージ・スカリアと一緒に行って調べてみると安全で便利な場所とわかったので移ることになった。石川に移動したのはそんな理由からで、政策とか方針といったものではない。・・・それにひどい雨で谷間にあった軍政本部のテントもみな水びたしになったりして・・・」

 

当時の軍政要員たちが残した記録には、実戦部隊の軍政への無理解のために苦労させられた話が書かれている。戦闘中だからしかたがなかったとしても予想外の数の難民の投降、救援物資の遅配などで要員たちは苦労させられたうえ、再三にわたり予告なしに一片の命令で収容キャンプの移動を命じられたりしている。実戦部隊には戦闘訓練さえろくに受けてない大学出のインテリ集団であった軍政要員たちへの反感もあったようだ。コザから石川への移動命令にもそのような感を抱かせるものがある。それに当時の軍政最高責任者に対する評価は軍政要員の間でもかなり低かった。

ニミッツ布告?そんなもの見たこともなかった」とハンナは言う。「ポリシー(政策方針)なんてものはなかった」。しかし、これは彼の思いちがいと思われる。コロンビア大学での軍政要員訓練所の時間割表をみてもわかるように、占領地における軍政に関する一般的なことは十分に教えられていたようだし、「フィールド・マニュアル」とか「テクニカル・プレティン」といった軍政の具体的な問題への対応のしかたについての手引参考書が一九四四年にはすでにできていた。また、ニミッツ布告の内容を土台にした軍政に関する文書南西諸島及び近海の占領地における軍政府に対する政治・経済・財政に関する指令」などもニミッツから第十軍司令官あてに一九四五年三月一日の日付で出されている。

 

ハンナが言いたかったのは、彼が学校で習得した軍政に関する一般的な知識や計画と上陸後にみた現実とがあまりに違いすぎて、具体的な対応に苦慮したということであろう。

 

「I never saw such a thing. こんなことは初めてだった」と彼が強調したのもそのせいであった。「われわれは現実に直面してただ決定を下しただけだった」

 

「(軍政府副長官の)クリストはといえば、毎朝将校たちとのスタッフ・ミーティングに顔を出して難民の数がいくら増えたとか、死者が何人、使用可能な家屋が何軒といった報告を受けるだけで、あとは影も姿もみえない······彼は何も知らなかったし、知らないことを部下に知られることを恐れて、何も言わなかった」

「彼は無能だった」とまでハンナは酷評する。

 

まず人材探し

届かなかった本

毎朝のミーティングの議事録を読むと、これらの会議でクリストは各将校たちから持ち出された部隊や難民に関するこまごまとした問題トラックの使用、通訳の配置、洗濯物の処理、兵隊たちのシャワーのことや水虫のこと、住民のカロリーが少ないこと、家畜の無許可屠殺等々についていちいち細かい指示・命令を与えている。しかし彼は細かいことにこだわりすぎて部下たちからあまり信頼も尊敬もされていなかったようだ。

 

クリストを酷評するのはハンナだけではない。当時同じキャンプにいた一兵士の手記には「夜間の敵機の時の将軍のあわてかたはキャンプの笑いぐさになっていた」と記されている。

 

それによると、准将は自分のテントの裏に防空壕を掘らせてあった(空襲時のスタッフ・ミーティングのためにらしいが一度もそのためには使用されなかった)。ある夜、友軍の米軍機がキャンプの上空を飛び去ったあと、准将は「敵機来襲!全員避難!」と叫びながら一人だけに飛び込んだという。またある夜、弾薬置き場の近くで機関銃の音がして、すぐにやんだが、将軍はあわてふためいてテントから出てくると「敵襲!全員位置につけ!」とふれまわったが、声が低いので、目をさましたのは、うたたねをしていた歩兵だけだった。「全員起こしましょうか」と歩哨が聞くと、「いや、それには及ばぬ。本官の運転手を呼べ」と指示し、その運転手を夜通し自分のテントの前で歩に立たせたとのことである。

 

ハンナも敵機来襲のときにはよく准将のテントに呼ばれて日本語の教授をさせられたが、将軍は上の空だったという。クリストは三カ月ほどでフィリピンへ転任するが、将校たちとの最後のミーティングのあと彼がテントを出ていったとき、拍手をするものはだれ一人いなかったという。

 

上官がこうだから、部下も自分たちの判断にもとづいて場当たり的に事を処理する以外ない。

 

「ある日、キャンプの子供たちのことが問題になった。何の対策もとられていないので何とかしなければと思い、クリストにそのことを報告したら「君がやれ」ということになった。つまり、これが政策だ。僕のような若造(当時二十七、八歳)に大丈夫だろうかとは思ったが、できることだけでもと思い、やることにした」

 

ハンナは軍政府副長官のクリストに「君がやれ」といわれて教育再興を引き受けたわけだが、本もなければ、印刷機ももちろんない。そこで古い教科書探しと新しい教科書の編纂および文教行政組織作りのための人材探しを始める。中部の野嵩の収容所にいた山城篤男を石川に連れてくる。山城夫人が北部にいることをつきとめ、ついでに田井等、今帰仁方面収容所からも教育関係者を集めてきて、軍政府内に教科書編纂所を設置する。山城篤男をはじめ、仲宗根政善(琉大名誉教授)、安里延、嘉味田宗英、島袋全発といった人たち十余人が集められ、ガリ版刷りの原紙切りに喜久里真秀、大田昌秀など若い人たちも加えられた。

 

戦火でほとんどの学校や図書館が焼失していたため、本探しが大変だったとハンナは言う。

 

「コザの近くの、米軍が道路を円にしたところ(カデナロータリーか)の地下室に本がたくさんあると聞いて行ってみたが、米軍のブルでしきならされていて、跡かたもなかった。

 

首里へも行ったが、使えるような本は見つからなかった。しかし、那覇の近くの町だったと思うが、そこの図書館には不思議に多数の本がほとんど無傷のまま残っていた。島袋全発氏の歴史の本をみつけたのもそこだ。これはしめたと翌日か翌々日トラックで取りにいったら一冊も残っていなかったのにはびっくりした」

 

ハンナは本を探しに東京や上海まで行っている。(ワトキンズ日記には「一九四六年二月六日、ハンナ東京より帰る」とあり、同年五月二十九日には「ハンナ上海へ」と記されている。)

 

 

彼が東京や上海に行けたのは、彼が監督をしていた博物館"を訪れた空軍司令官をKレーションならぬネリー(沖縄のメード)の手作りのごちそうでもてなし、飛行機に乗せてもらう約束をとりつけたからであった。しかしせっかく苦労して集めて東京や上海から送った本も軍政府に届けられなかったという。

 

結局、教科書編纂所では宜野座国民学校に残っていた小学校用教科書やの中から焼け残ったものをひろい集めてきて、これらを参考に新しい教科書を作った。

 

「私はこの人たちを信頼していたし、検閲もしたくない。だが、(超国家、軍国主義的な)プロパガンダだけはだめだといった。必要な用具、物資は軍政府が供給するから、まず読み書き、算数、それにもしよければ英語もといったが、英語のことはあとで大問題になった・・・。ある人が英語で教育をしたいといってきたからだ。これは問題だと思ったし、心配にもなった。戦争も終わっていないのに国語を変えるとなれば大変なことになる。・・・

宮城悦二郎『占領27年・為政者たちの証言』(2014年) より

 

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