ベニヤ板の特攻「震洋」
わずか四隻の「戦果」、2500人の犠牲
べニア板のボートに若者を乗せ、敵艦に追突させようとした日本軍の特攻「秘密兵器」震洋。その「戦果」は、米軍記録によるとわずか四隻だったが、2500人の隊員が命を落とした。
太平洋戦争末期、敗色濃厚となった戦局を一挙に打開しようと、大規模な特攻部隊が海軍で組織された。その名も「震洋特別攻撃隊」。“太平洋を震撼させる“と謳い、6200隻を製造、およそ5千人をこの作戦に動員した。その多くは、航空機搭乗員を目指していた予科練出身者や学徒兵の若者たちだった。しかし、秘密兵器「震洋」の実体は、ベニヤ板製のモーターボート。長さ5メートルの船首に250キロの爆薬を積み、敵の艦船に体当たり攻撃をしかけるという兵器であった。
長崎県の川棚で訓練をした「震洋」の部隊は、米軍の侵攻で上陸が予想されたフィリピンや、沖縄本島や石垣島、奄美大島などの離島や本土各地の海岸などに配置された。しかし、作戦がはじまってからは、輸送中の爆撃や設計の不備によると見られる爆発事故が続出し、特攻作戦の前に多くの若者が命を落とした。狭いボートの中に、燃料タンク、4トントラック用エンジン、そして爆薬が詰め込まれていたのだ。
しかし、海軍軍令部がこうした事態の改善に乗り出すことはなく、「震洋」による特攻作戦は終戦まで続行される。結局特攻に成功したのは数隻のみといわれている。5000人の兵士のうちおよそ半数が命を落とした。
■ ブレーキ不在の国の戦争 ■
— 沖縄戦、79年前の今日 (@ospreyfuanclub2) 2024年5月21日
海上特攻 #震洋
- 輸送時点で900人の犠牲者
- 重い弾薬を前部搭載のため時速50km
- エンジンが海水を被り沈みやすい
- 燃料引火から大爆発リスク 250人以上の犠牲者
- 敵に見つかりやすいため集団攻撃でまぐれ当たりを期待
海軍は一切の対策を行わず終戦まで続行 https://t.co/FVMh6Zjqou pic.twitter.com/3RNvYtGyjw
海軍の震洋と陸軍のマルレ
震洋は、日本海軍が太平洋戦争中盤以降に開発・実戦投入した海上特攻兵器。一方、マルレは日本陸軍が開発・実践投入した海上特攻兵器。二つの海上特攻は、あわせてマルハチと呼ばれた。
生還を想定しない文字通りの自爆攻撃だった震洋。
《伊藤秀美『沖縄・慶良間の「集団自決」: 命令の形式を以てせざる命令』紫峰出版 (2020) 7頁》
小型のベニヤ板製ボートの艇首部に250キロもの弾薬を搭載し、搭乗員が操縦し目標艦艇に体当たりして爆破させるもの。その身重さゆえ、時速は50kmも難しかった。爆弾が重すぎて前部が海に沈み進めなくなるのも多かったといわれている。
Explosive Head of Jap Suicide Boat.【訳】日本軍特攻艇の爆弾をしかけた船首 (1945年5月1日)
「志願」させられ
特攻のための航空機は不足していた。当たり前だ。搭乗員の命と航空機の両方が湯水のように使い捨てにされる。そのためベニヤ板とトヨタのエンジンで安価に生産できる震洋に望みをかけ、1944年から量産体制に入った。ほとんど「戦果」が存在しないのにもかかわらず、である。
搭乗員はその多くがパイロットになることを目指していた海軍飛行予科練習生(予科練)の若者だった。若者たちは「震洋」に「志願」し、立派な「遺書」を書いたといわれる。しかし、若者たちは大人たちに「志願」を強いられ、テンプレを下敷きに「遺書」という名の特攻誓約書を書かされたのである。( ゆえに特攻隊の「遺書」はメタ言語として解読しなければいけない。よく博物館で展示されている「遺書」であるが、実際には、文字通りに読むことができない、あまりに複雑な規制とディレンマと苦悩に満ちた「暗号化された」声なのだ。)
志願もしていないのに、意志の確認もないまま、おまえたちはこれから特攻隊だから遺書を書けって言うんだから…
僕が海軍入るときに、母親は泣いたわね。学問、僕も高等学校、大学の推薦をもらっとってね。で、何も大学終えてから、戦争に行っても、遅くはないんじゃないかと、母親が言われたんだけども。17歳、16歳か、17歳だな、の時の学校へ行くと、朝、すぐ校長室へ呼ばれてね、それで、校長と、担任と、それから生徒係と、それから配属将校ちゅうのがおってね、各学校へ軍隊から、将校が配属されとったんですよ。で、4人が「どうだ、どうだ。もう、お前しかおらん」というようなことを言われてね。僕は目も良かったし、体も良かった。次男坊だった。思想的にも、どっちか言うと、まあ、さっぱりしとるほうで。ま、軍人向きだったなと、自分では思っとるんですけども。そんな関係でね、とにかく「どうだ、どうだ」って。で、4回目に「行きます」と。もう陥落しちゃったんだわね。
あんなベニヤボートで戦争がつとまんのか、つとまったのかとね。それを知らずに、わたしらは一心不乱に尽忠報国にね、燃えて、そして訓練されたとね。何もかも分からない若者をね、これだけ訓練して、そして鉄砲弾に使った上層部。これを恨むっちゃなんだけども、何たる考えしてたのかね、上層部はね。本当に。もう少し根本は、人間を鉄砲弾に使ったということに間違いがあった。うん。
沖縄の震洋配備
沖縄には、陸軍特攻艇「マルレ」に加え、続々と海軍特攻艇「震洋」の秘匿基地がつくられた。しかし、その実態はその計画同様に、立派なものとは言えなかった。
- 第19震洋隊 沖縄県石垣島川平湾
- 第22震洋隊 沖縄県金武 (金武) 50隻
- 第23震洋隊 沖縄県石垣島宮良
- 第26震洋隊 沖縄県石垣島(竹富小浜島)
- 第38震洋隊 沖縄県石垣島宮良
- 第41震洋隊 沖縄県宮古島(宮古島平良)
- 第42震洋隊 沖縄県金武(屋嘉) - 人員、船舶ともに輸送中に爆撃され過半が沈没
金武町 - 第22震洋隊 (金武)
… 昭和20年1月12日、第22震洋隊は、震洋艇50隻、兵員180名、兵器、部隊資材を豊栄(とよさか)丸(三千五百トン)に積載して、佐世保軍港を出港した。…われわれが基地に到着したとき、あまりにお粗末な基地設営に唖然となった。
リヤカーで運ぶ日本の「秘密兵器」
そらベニヤ板やろ。それもあんた、ベニヤ板を運ぶリヤカーやろ。リヤカーの芯がピクリンピクリンと前が、真っすぐ行ってくれんが。こないギコギコ鳴っとればあんた、真っすぐいこう言うたって行けるわけがない。それ途中でギコギコってこうやって、「ほらこれで動けんわい」。これが実態や。そんなもんに乗ってかて戦争せい言うがいで。あんたどう思う。
米軍の記録写真から。リヤカーに乗せられた「震洋」。
米海兵隊: Jap Suicide Boat Base south of Chimu Town on east coast of Ishikawa Isthmus.【訳】金武町の南にある日本軍特攻艇基地 1945年6月
4月4日、米軍の進攻に伴い特攻隊は陸戦への移行を決定。演習中に負傷し、洞窟に避難していた隊員は米軍の攻撃で全員死亡し、山中に拠点を移したその他の隊員の生死は分かっていない。…「快活でりりしく、あどけなかった姿を二度と親に見せることができなかった宿命を考えると気の毒でならない」。
金武町 - 第42震洋隊 (屋嘉)
第42震洋隊は、米軍上陸間近の1945年2月に二回に分けて沖縄に派遣された。第一陣の2月28日、震洋艇17隻と隊長・井本中尉以下85名が無事到着。第二陣は3月1日に佐世保を出港した「三喜丸」「道観丸」「慶山九」すべてが沈没、慶山九に乗っていた震洋艇30隻、人員95名が失われた。つまり、特攻艇わずか17隻という、実質的に作戦不可能な状態で沖縄戦に入った。爆発事故等などを経て、最終的には井本隊は小禄の海軍基地に合流し、そして壮絶な陸上戦で全滅したといわれる。
震洋の「戦果」と「事故死」
震洋の出撃「戦果」
2500人が犠牲となった特攻兵器「震洋」だが、証言されている震洋の実質的な「出撃実績」は、驚くほど少ない*1。
昭和19年9月父島進出に始まり各地に配置された104個の震洋隊の中で、出撃命令を受け出撃したのは、フィリピンのコレヒドールに進出していた6隊と沖縄本島金武湾岸の2隊だけである。あとは上陸米軍との陸戦に巻きこまれた。
1945年2月15日深夜、フィリピン・コレヒドールで第12震洋隊 (松枝義久隊長) 50隻が出撃、日本軍によれば巡洋艦1、駆逐艦1、輸送船2撃沈させたとあるが、アメリカ軍側の記録によると揚陸艇3艇が沈没したとある。とても巡洋艦や駆逐艦には到達できなかったようだ。この特攻で30人全員が犠牲となる。特攻が成功すれば二階級特進となるが、震洋隊には二階級特進者はいない *2。
1945年4月3日 - 金武第12震洋隊
1945年4月3日、金武の第22震洋隊が湊川沖の敵輸送船団への攻撃命令をうける。構造的問題で50隻など並べて出撃できる状況ではなく、出撃できたのはわずか5隻、途中2隻が機関故障で脱落。レーダーもなく暗い海をさまよい、4日午前2時頃、駆逐艦らしき艦影を追うが、1隻は脱落、1隻が体当たりに成功し、小型輸送船1隻を撃沈させたといわれる。
震洋あるいはマルレが撃墜したとされる船舶は、戦艦クラスではなく、小型輸送船クラスである。
Landing Craft Infantry LCI-82 / Landing Ship Medium LSM-12
欠陥だらけの計画 - 震洋自体が「戦禍」
戦果どころか、ほとんど出撃実績すら少ない震洋だが、2,500人の戦死者・・・。なぜこれほど犠牲者数が多いのか。
出撃しないまま、震洋隊は日常的な爆発や巨大な爆発事故を連発し、内側から崩壊した。防水性のない自動車エンジンに神風特攻隊一機分の弾薬250kgを乗せる。大雑把な作りでガソリンがタンクからもれる、原始的な配線でスパークが飛ぶ、引火する、次々とボートが連鎖的に大爆発を起こす。
ベニヤ板のボートで重い爆弾とエンジンを支えることができず、波をかぶり前が沈む、海水でエンジンが止まる、時速50kg 出ないから敵艦に追いつけない、暗闇でレーダーなし。
例えば、1944年12月23日、第7震洋隊は、コレヒドールで51隻の爆発事故を起こす。
それはもう、ちぎれてね、人の顔もあまり分からん。4~5人の顔が見えるぐらいだけだったです。あとは埋まったりね。胴が半分になったり、手だけ残ったり、足だけが飛んでいっちょったりね。それは無残なものでした。… まあ地獄でもあんなじゃないでしょう。地獄以上です。… 戦死は97名。
また、1945年8月16日、高知県の土佐清水基地では「玉音放送」後に出撃命令をうけた第132震洋隊は、準備段階で一隻の爆弾に引火し月次と大爆破、出撃せぬまま隊員111名が死亡している。
しかし、その後に20隻ほどの震洋艇が次々と誘爆を起し、大爆発・大炎上が地獄絵巻のように広がった。特攻隊員や本部隊員、整備員など 111 名が死亡する悲劇が発生したのである。
あまりにもずさんな構造上の欠陥。しかも、「米軍艦隊接近」の知らせは誤情報だった。しかし、もし米軍艦隊が高知沖にいたとして、また、万が一にでも海上特攻が出撃したとなれば、終戦すら遠のく、目も当てられない展開になったことだろう。
このようにして、震洋に配属された若者たちは、実戦に入る前に移送や準備の段階で事故にあい、あるいは出撃することもなく陸に揚げられ、武器もなく戦死していった。
震洋の「戦果」を語るどころではない、
震洋じたいが「戦禍」なのである。
基本的な「費用-便益分析」(cost-benifit analysis) もできない上層部の、グダグダの「思いつき」が、あたかも天啓のように賞賛され、国民の膨大な予算をつかい、現場を血まみれにして、最後の最後まで続行される。アベノマスク現象である。
ブレーキ不在の国の特攻 - 海上特攻の拡大
ベニヤ板に自動車のエンジンと爆弾を乗せただけの、コストのかからない「行き当たりばったり」の特攻は、出撃実績も2回のみでほとんど戦果を挙げることができなかったにもかかわらず、「連合艦隊なきあとの決戦兵器の一つとして期待」*3されていた。
こうして日本海軍は、4000隻のベニア板「自爆ボート」を本土決戦に備えた。国民を総特攻させる腹づもりであった。
昭和20年3月1日以降突撃隊が編成され、南は九州南端から宮崎、四国、駿河湾、伊豆半島、三浦半島、千葉南岸から宮城県野々浜に至る海岸線に特攻隊が配備された。終戦時には海外の基地を合わせて震洋艇約4,000隻が配備され敵の来寇にそなえた。
ベニヤ板の小型ボートで敵艦に突進…見つかった水上特攻艇“極秘写真; 元隊員が語る戦友の記憶【長崎発】|FNNプライムオンライン
まさにブレーキ不在の国だ。
盛られた「戦果」と特攻の拡大
金武公会堂の「鎮魂碑」
さて、沖縄の第22震洋隊は金武公会堂に駐屯し、震洋秘匿壕はメーヌ浜に数個構築された。金武鍾乳洞 (日秀洞) はまた住民と震洋隊の避難壕でもあった。
金武鍾乳洞から公会堂へ下る小道のそばに第22震洋の「鎮魂碑」がある。道すがら碑文を読んでみてほしい。少なからず驚かされる内容がそこにある。
この鎮魂の碑は、金武に駐屯していた第22震洋特別攻撃隊 (豊廣部隊)の戦死者74人の御霊が祀られている。
昭和20年1月26日、同特攻隊は部隊本部を興亜会館(現・金武公会堂)に置き、金武の前の浜を前線への発進基地として、日々激しい攻撃訓練が展開された。
昭和20年3月末、米艦沖縄接近に伴い、同隊は幾度となく敵艦に攻撃を加え、多大な戦果を挙げた。米軍上陸後は陸上戦へ移行、北部山中に立てこもり、夜襲を敢行、しかし、戰うに武器なく、食もなく、次第に多くの戦友が尊い生命を絶っていった。
この碑は、隊長・豊廣稔外、生存戦友の尽力によって建立された。
「同隊は幾度となく敵艦に攻撃を加え、多大な戦果を挙げた」とは、どういうことだろうか?「金武町遺族会」とは、金武町の住民が建てたのか?・・・ もし歴史を知らなければ、書かれた「鎮魂碑」の碑文をそのまま信じてしまうだろう。実際には「敵艦」に到達できたのはほぼ一隻といわれているはずにもかかわらず。
碑文からも察することができるが、この慰霊碑は、第22震洋隊の隊長、豊廣稔氏らが中心となって建立した慰霊碑である。
元隊長の、「詫びる」気持ちと「功績」を認めてもらいたい気持ち。
… そうね、やっぱりわびる気持ちだね、おれだけ生き残って悪かったねと。ただそういう詫びる気持ちはあるけど、君らのね、その頑張った功績はね、やっぱり将来にね、将来の人にわかってもらうように努力しようじゃないかと。
… 金武町のあの慰霊碑を建てたのは僕ですからね。僕の中学の同級生にああいう御影石の専門職がいて、その人が手伝って、そしてつくったんですね。で、あれを運ぶについては、もう既に亡くなったけど岩田君というのが僕らの部隊にいましてね、名古屋の、土屋君の同期生ですね。そういう人たちの努力もあってね、沖縄まで船に積んでいって、それでつくった。で、つくって金武町にお願いしたんですよ。お願いしますって。金武町の役場とか住民の方にお願いして、そして現在があるわけだね。
慰霊碑の建立は、豊廣隊長の戦後の心の回復過程で必要なプロセスだったのだろう。
敗戦の時、僅か22歳の豊廣隊長の戦後は、限りなく重かった。特攻隊の隊長でありながら、多くの部下を失いながら、自分は生きて帰ったという負い目である。激戦の沖縄から生きて帰ったことを強運と喜べず、死期を逃したことをむしろ悔やんだ。「こんな自分は、幸せにならなくてもいいんだ」とまで思いつめた。
その感情がやっと整理出来たのは、22年後の昭和42年。川棚訓練所跡にできた特攻殉国の碑の除幕式で、涙を流してからだった。連絡を絶っていた部隊の部下と、顔を合わせる決心もついた。生き残りと遺族で作った戦友会・金武会の集まりも、今年で13回目になる。46年には金武の基地跡に鎮魂碑も建てた。しかし、なお、悲しいしこりは残る。
しかし、碑文に書かれている内容「同隊は幾度となく敵艦に攻撃を加え、多大な戦果を挙げた」は、まったく真実とは異なっている。それは彼自身の詳細な手記と比べても明らかなことである。
ではなぜ、日本の戦果報告や碑文には、粉飾された「戦果」、真実とは異なる記述があふれてしまうのだろうか。
粉飾の伝統と特攻の誕生
日本の特攻は嘘と粉飾と権力者の見栄によってブレーキを失った。日本軍では、虚偽の報告や記録が横行した。公文書はいくらでも思うように改ざんされ、あげく燃やされた。噓の報告でもしないと制裁される、あるいは「同期を思いやって」「犬死にと思いたくなくて」といった悲しみの気持ちが、そのまま報告に反映される。報告は事実 (ファクト) と異なっていても許される「空気」が充満した*4。
なぜなら、嘘の報告はまた報告される側にとっても好都合であったからである。ひとつづつ上に上がるたびに報告は耳障りのよいものになる。その虚偽情報を基にして、さらにまた壮大な「思い付き」が練られ、現場を血だらけにしながら実行されていく。新聞は真実を虚飾し、建前という嘘に沈み、権力側が発表するままを書くことが日常となる。特攻という化け物はこのようにして虚偽を餌にして拡大したのだ。
さて、金武の慰霊碑に話は戻るが、それが真実とは異なる碑文であっても、「幾度となく敵艦に攻撃」「多大な戦果を挙げた」と慰霊碑に記すことが、はたして戦死者を慰霊することになるのだろうか。真実と異なる碑文であっても、お願いされれば設置し管理維持することが地元沖縄に求められることなのだろうか。
アメリカなどでは、南北戦争後の南軍を称える「立派な」石像やモニュメントが、各地で見直され撤去されている*5。なにかと「立派な」石碑を尊ぶ日本では、やはり石碑の解体とまでは抵抗があるかもしれないが、何らかの形で真実を記すことは必要と思われる。
沖縄にはおびただしい慰霊塔や石碑があり、老朽化とその管理と維持は県にとっても深刻な問題である。日本のように立派な石塔を作らなくても、例えはイングランドでは、街の各所に小さな青いプレートが歴史を伝え、人々に愛されている*6。金武町の震洋慰霊碑も、プレートを併設し、震洋の真実を伝える試みをしてみるのがよいかもしれない。
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番組
- 証言記録 兵士たちの戦争 “ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~
- 「演習で泥まみれの日々」 加藤 芳郎さん
- 「二人乗りの特攻兵器」 田 英夫さん
- 「特攻兵器に爆装せよ」 田 英夫さん
- 「特攻兵器を海に沈めて」 田 英夫さん
- 「8月15日の思い出」 田 英夫さん
証言
- 「死から逃れられない兵器」 西村 金造さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(長崎・川棚)
- 「少年を死に追いやる軍隊」 二階堂 悌二郎さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(長崎・川棚)
- 「沖縄上陸の米艦艇目指して」 土屋 貞智さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(沖縄・金武)
- 「沖縄の山中で生き抜いた」 上野 寿さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(沖縄・金武)
- 「黙ったままでは死ねない」 石崎 幸男さん 震洋特別攻撃隊 戦地:フィリピン(コレヒドール)
- 「ベニヤボートに身を託す」 大家 和博さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(長崎・川棚)
- 「米機空襲で重傷を負う」 辰巳 保夫さん 震洋特別攻撃隊 戦地:フィリピン(コレヒドール)
- 「米軍上陸で陸上戦闘へ」 久保 守人さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(沖縄・金武)
- 「沖縄の震洋隊指揮官として」 豊廣 稔さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(沖縄・金武)
- 「布張りの練習機での特攻」 原田 文了さん 海軍特別攻撃隊 戦地:台湾
- 「特攻出撃・会敵せず帰還」 柳井 和臣さん 海軍特別攻撃隊/第721海軍航空隊/ゼロ戦搭乗員 戦地:日本(鹿児島)
- 「偵察用練習機での特攻」 田尻 正人さん 海軍特別攻撃隊 戦地:日本(鹿児島)
- 「玉音放送後に特攻で出撃」 川野 和一さん 海軍特別攻撃隊 戦地:日本(大分)
- 「“赤とんぼ”で特攻した友」 庭月野 英樹さん 海軍特別攻撃隊 戦地:日本(徳島)/日本(沖縄・石垣島)/台湾
- 「特攻出撃30分前」 粕井 貫次さん 海軍特別攻撃隊 戦地:日本(鹿児島)
- 「思いやりを含んだ戦果報告」 木下 顕吾さん 陸軍航空隊 戦地:フィリピン(レイテ島)
- 「陸軍特攻隊の援護で出撃」 有川 覚治さん 陸軍航空隊 戦地:台湾/フィリピン
- 「過大に報告されがちな戦果」 生田 惇さん 陸軍航空隊/ラバウル航空隊 戦地:ラバウル/満州(奉天)
- 「夜間出撃で帰路喪失の恐怖」 坪井 晴隆さん 海軍特別攻撃隊 戦地:日本(鹿児島)
- 「有効な特攻方法を考え抜く」 堀山 久生さん 陸軍航空隊 戦地:日本(群馬)
- 「8月16日に死んだ仲間」 神保 公一さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(高知)
- 「生と死 交錯する思い」 茂市 光平さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(高知)
- 「終戦後の出撃命令」 吉野 三夫さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(静岡)
- 「8月16日の出撃待機」 倉持 信五郎さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(高知)
- 「特攻で死んだ者への思い」 村上 孝道さん 震洋特別攻撃隊 戦地:中華民国(アモイ)
- 「若き特攻隊員として」 山口 健三さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(高知)
- 「終戦翌日の出撃準備命令」 堀之内 芳郎さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(高知)
- 戦跡を歩く 沖縄県石垣市 特攻艇秘匿壕
*1:アメリカ軍の報告ではマルレと震洋の被害を一緒に合算しているため、震洋のみの被害は判然としない。
*3:豊廣稔「わが敵は湊川沖に在り」~ 金武 第32震洋隊 隊長の記録 - Battle of Okinawa
*4:日本の公刊戦史はこうした「思いやり」の不確かな戦果報告がそのまま反映されている場合があり、読むのに注意を必要とする。
*5:一例は、南軍リー将軍の銅像撤去、米バージニア州リッチモンド 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News / 衝突と死者の原因になった南部将軍の銅像、4年経て撤去 米シャーロッツヴィル - BBC
*6:Blue plaques: Official English Heritage scheme could expand across England