沖縄の「震洋」~ ベニヤ板の特攻「震洋特別特攻隊」

 

こぶしで穴のあくようなべニア板の船に若者を乗せ、敵艦に追突させようとした日本軍の「秘密兵器」震洋特別特攻隊。その「戦果」は、米軍記録によるとわずか四隻だったが、2500人の隊員が命を落とした

 

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志願もしていないのに、意志の確認もないまま、おまえたちはこれから特攻隊だから遺書を書けって言うんだから…

海の墓標は特攻艇「震洋」か - 戦跡 薄れる記憶

  

海軍の震洋と陸軍のマルレ

震洋は、日本海軍が太平洋戦争中盤以降に開発・実戦投入した海上特攻兵器。小型のベニヤ板製モーターボートの艇首部に爆弾を搭載し、搭乗員が操縦し目標艦艇に体当たりするもの。(一方、マルレは日本陸軍が開発・実践投入した海上特攻兵器。)

 

生還を想定しない文字通りの特攻だった震洋

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《伊藤秀美『沖縄・慶良間の「集団自決」: 命令の形式を以てせざる命令』紫峰出版 (2020) 7頁》

 

沖縄の震洋配備

 

金武町 - 第22震洋

1945年(昭和20)1月から日本軍の震洋特別攻撃隊金武屋嘉に駐屯していました。

金武町移動展 – 沖縄県公文書館

 

ベニヤ板にのせられた若者のいのち。

金武の占領後、米軍が発見した震洋の秘匿壕。

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海兵隊: Jap Suicide Boat Base south of Chimu Town on east coast of Ishikawa Isthmus.金武町の南にある日本軍特攻艇基地 1945年6月

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

そらベニヤ板やろ。それもあんた、ベニヤ板を運ぶリヤカーやろ。リヤカーの芯がピクリンピクリンと前が、真っすぐ行ってくれんが。こないギコギコ鳴っとればあんた、真っすぐいこう言うたって行けるわけがない。それ途中でギコギコってこうやって、「ほらこれで動けんわい」。これが実態や。そんなもんに乗ってかて戦争せい言うがいで。あんたどう思う。

久保 守人さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

 

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無邪気な特攻隊員「沖縄の歌を教えてください」 道が通り跡形なくなった出撃拠点 構築に多くの住民動員 | 沖縄タイムス

 

志願という名の強制

僕が海軍入るときに、母親は泣いたわね。学問、僕も高等学校、大学の推薦をもらっとってね。で、何も大学終えてから、戦争に行っても、遅くはないんじゃないかと、母親が言われたんだけども。17歳、16歳か、17歳だな、の時の学校へ行くと、朝、すぐ校長室へ呼ばれてね、それで、校長と、担任と、それから生徒係と、それから配属将校ちゅうのがおってね、あの各学校へ軍隊から、将校が配属されとったんですよ。で、4人が「どうだ、どうだ。もう、お前しかおらん」というようなことを言われてね。僕は目も良かったし、体も良かった。次男坊だった。思想的にも、どっちか言うと、まあ、さっぱりしとるほうで。ま、軍人向きだったなと、自分では思っとるんですけども。そんな関係でね、とにかく「どうだ、どうだ」って。で、4回目に「行きます」と。もう陥落しちゃったんだわね。

土屋 貞智さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

 

あんなベニヤボートで戦争がつとまんのか、つとまったのかとね。それを知らずに、わたしらは一心不乱に尽忠報国にね、燃えて、そして訓練されたとね。何もかも分からない若者をね、これだけ訓練して、そして鉄砲弾に使った上層部。これを恨むっちゃなんだけども、何たる考えしてたのかね、上層部はね。本当に。もう少し根本は、人間を鉄砲弾に使ったということに間違いがあった。うん。 

上野 寿さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

 

石垣島 - 第38震洋

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石垣島の川平湾に残る「特攻艇秘匿壕」、日本軍の特攻兵器を隠すための壕です。
日本軍は、川平湾の海岸線に壕を掘り、特攻艇の出撃基地にしました。壕の入口は高さ3メートルほど、奥行きは25メートルあまりあり、昭和20年2月に完成しました。配備されたのは海軍の特攻艇「震洋」。ベニヤ板の船体の先に250キ口の爆薬が積みこまれ、兵士1人が乗り込み、体当たりして自爆します。1隻5メートルの船が、ひとつの壕に5、6台隠されたといいます。
海の特攻作戦では、宮古島陸軍 (註・マルレ) が、石垣島海軍 (註・震洋) が、敵を待ち受けることになっていました。このうち川平湾には、50隻の特攻挺が配備されましたが、結局、川平湾から、特攻艇が出撃することはありませんでした。

石垣市 特攻艇秘匿壕【放送日 2009.3.25】|戦跡と証言|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

 

[証言記録 兵士たちの戦争]“ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~

NHK 戦争証言アーカイブス

 

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“ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~

[1]ベニヤボートの特攻兵器
[2]もろすぎる特攻兵器
[3]戦局悪化にともない始まった特攻兵器の開発
[4]戦場にたどり着くことさえできなかった若い搭乗員たち
[5]スーサイドボートが抱えていた欠陥による大事故
[6]コレヒドール島でのわずかな戦果と凄惨(せいさん)な地上戦
[7]沖縄でも出撃できずに死を遂げる若者たち
[8]敵の動きがつかめず、空振りに終わる決死の特攻出撃
[9]震洋隊、最後の戦果
[10]今振り返る、人命を軽視した特攻

太平洋戦争末期、敗色濃厚となった戦局を、一挙にばん回するために開発された秘密兵器、長さ5メートルほどのモーターボート。太平洋を震撼させるという意味で、震洋と名づけられた。船首に250キロの爆薬を搭載し、敵艦に体当たり攻撃をする特攻兵器である。船体を軽くし、量産を可能にするために、ベニヤ板で造られていた。搭乗員として集められたのは、予科練を卒業したばかりの若者たち。戦闘機乗りを志していた彼らを、ベニヤのモーターボートが待っていたのである。

 

終戦までに震洋の体当たり攻撃で沈んだ連合軍の艦船は、アメリカ側の資料によれば4隻。その一方、命を失った震洋隊員は、基地隊員も含め、2500人にも上る。爆発事故や空襲などで、多くの若者たちが敵艦に突入することなく命を落としていった。

出撃することもできず死んでいった多くの特攻隊員たち。太平洋戦争末期、モーターボートで行われた水上特攻作戦の真相に迫る。

 

第22震洋隊 隊長の手記

豊廣稔「わが敵は湊川沖に在り」から抜粋

1945年1月13日朝、沖縄に到着

… 昭和二十年一月十二日、第二十二震洋隊は、震洋艇五十隻、兵員百八十名、兵器、部隊資材を豊栄(とよさか)丸(三千五百トン)に積載して、佐世保軍港を出港した。…

… 私は司令官の前から二、三歩離れたところに立つと、もう一度、四十五度の礼をしっかり行なって申告をはじめた。
「第二十二震洋隊長・豊廣中尉、部下百八十名を引率、震洋艇五十隻ならびに部隊基地資材一式を伴い、ただいま着任致しました」
 第三種軍装に身をかためた丸顔、小肥り、中背の大田司令官の顔が徐々にほころぶのが感じとられた。
「うん、ご苦労だった。待っていたぞ・・・。
実は、私もつい三日前(一月二十日)に着任したばかりだ」
それから独り言のように、
「これで安心だ」
とも言われた。司令官の直率の部隊として、震洋隊に大きな期待を寄せておられることが、ひしひしと伝わってきてうれしかった。
これが戦後、「仁愛の提督」と敬仰され、また戦時中は、支那事変における上海陸戦隊指揮官、ミッドウェー海戦における攻略部隊の陸戦隊司令官として有名で、一方、「陸戦の神様」あるいは「海軍歩兵中佐」などの称号を奉られた大田実少将の実像とのはじめての出合いであった。…

金武基地

第二十二震洋隊豊廣部隊の基地は、沖縄本島東海岸にある二つの大きな湾のうち、北側の金武湾の湾内にのぞむ金武村の海岸にあった。金武湾の南には与勝半島を境にして中城湾という、むかし、わが連合艦隊が入泊したほどの、いちばん大きな湾があった。また、与勝半島の先端から薮地、浜比嘉、平安座、宮城、伊計の各島がつらなり、金武湾口を扼している恰好になっていた。

… われわれが基地に到着したとき、あまりにお粗末な基地設営に唖然となった。立派な格納壕でもできているかと思ってきたが、基地とは名ばかりであった。わずかに海岸線に直角に誘導路がつくられており、その行きづまりに「鰻の寝床」みたいな細長い萱ふきの小屋がつくってあるばかりだった。必要のない魚雷艇置場だけが、海中に伸びたレール敷設とともに、一応立派そうな設備の恰好を呈していた。

 

…技術中尉以下十名ばかりの海軍設営隊(山根部隊)が、金武村に駐留していて、地元の勤労奉仕隊(主として若い婦女子)を使って、われわれの基地づくりをしていてくれた。

 

… このころ、西海岸の運天港にあった第二十七魚雷艇隊(白石部隊)や第二蛟竜隊(鶴田部隊)は、すでに昭和十九年七月ごろには沖縄進出を終え、同じく山根部隊の手により、立派な基地の設営を終了していた。そこで一日、それを見学に行き、また、一日小禄の飛行場から飛行機(九七式陸攻)に乗せてもらって、上空から基地の擬装化について研究させられたりした。こうして、准士官以上も含めて数班に分かれ、交替制をとって昼夜兼行の壕掘りにとりかかったのは、金武基地到着後、四、五日してからである。 


痛恨の3月14日

痛恨の三月十四日が訪れた。隊員たちは明けても暮れても昼夜兼行の単調な壕掘りに終始していた。内地出撃まで練度を上げてきた震洋艇のハンドルさばきの冴えも、陣形運動の勘も打ちつづく土方作業のために、どこかに忘れ去られたようであった。

 

… このころになると、毎日のごとくB24が那覇や北、中飛行場に偵察にきていたのだが、ただの一度も金武の空には姿を現わさなかった。また、部隊全員が「モグラ」となり穴掘りに熱中していたので、空に注意が向いていなかったともいえる。また、まったくといってよいほど、米偵察機の情報が欠けていたことがいちばんの問題である。

 

…「コンソリだッ!」思わず私は声をあげた。

… 数十分とも数時間とも思われる、白昼夢のような一方的な戦闘がやっと終わり、私たちは基地から救助に来た震洋艇に救助された。

 

… この空襲で先任将校以下十五名の搭乗員が戦死、それに四名の大発乗員、あわせて十九名の戦死者を出した。搭乗員の戦死者の大部分は、大発に乗っていた偶数艇隊の搭乗員である。

 

… 私が急ぎ救護所に行ったとき、すでに戦死した者は白布がかけられていたが、半数は重症者でまだ息があった。しかし、意識のない重症者が多く、小野寺二飛曹は、
「八紘一宇、八紘一宇」の四文字、すなわち当時、軍国少年として育ち、教えられたスローガンを口ずさみながら息絶えていったという。重症者は戦友に見とられながら、つぎつぎに戦死していった。本当の出撃を待たずして、一方的に丸腰のまま撃ち殺されてしまった彼らの無念を考えるとき、私は事の重大さになかば呆然とならざるを得なかった。大発の乗員四名は、大発と運命をともにしたらしく、遺体さえ上がらなかった。

 

震洋の特攻攻撃

確認されている震洋の特攻攻撃は2回あった。

 

1回目は、20年2月15日深夜に出撃した。フィリピン・コレヒドールに配備された第12震洋隊の松枝義久隊長以下50隻が出撃、数時間の戦闘の末、敵船数隻を沈めた。そして全員帰らなかった。

 

それから1カ月半後、震洋はもう一度、最後の出撃を行った。沖縄の金武湾に配備された第22震洋隊(豊廣 稔 部隊長ら乗員50人、基地隊員110人)である。米軍が沖縄本島に上陸して3日目の4月3日夜豊廣隊長は僅か2隻を率いて金武湾を出た湊川沖敵船団を攻撃せよ」との命令だった。

 

この1月、45隻で金武に上陸した豊廣部隊は、既にさんざん痛めつけられていた。まず3月14日早朝には、訓練中に敵機に襲われて乗員15人、基地隊員3人が戦死。

 

27日、初めて出撃命令が出るが、めざす敵がみつからない29日には隣の井本隊(第42部隊)が出撃するが、敵を見つける代わりに逆に敵に見付かり、空襲を受けて隊は壊滅。30日夜、今度は豊廣隊が出撃するがこれも空振り。然もやっと基地に辿り着いたところを敵機に発見されてしまう。20隻が破壊された。

 

4月2日、3日には、この基地の息の根を止めようという勢いの徹底的な絨毯爆撃。その壊滅状態の基地に又も出撃命令が出たのだ。やっと出撃出来たのは、たった5隻。しかも2隻はエンジン故障ですぐ脱落してしまった。陸上エンジンのため、水を被るとすぐエンストしてしまうのだ。

 

敵艦のUターンが運命を変えた。敵に会えなかったのは、夜になると沖合に避難していたためである。敵はフィリピンの経験から沖縄方面の全艦艇に、「特攻ボートの手引き」といったパンフレットを配り、対策を講じていたのだ。

 

が、この晩、特攻ボート基地は十分叩いたから大丈夫と判断したのだろうか。外海に出た豊廣隊は約10キロ東に1隻の艦影を見付け、すぐに接近する。月を背にして絶好の形だった。やがて艦影に約3キロと迫った。駆逐艦らしい。豊廣隊長はついてきた2隻に攻撃を命じた。

 

「自分は明日残りの艇を率いて出撃するから、一足先に行ってくれ」

「はい。判りました」

 

2隻は航跡を残して消えた。豊廣艇は後退して、艦影をみつめた。2隻とも1人乗りだが、2人ずつ乗っている。空襲で自分の艇をなくした者が相乗りしているのだ。1人乗りに何も2人もと思うが、最前線の特攻隊心理とでもいおうか。死ななければ済まない。

 

岩田昭郎艇には中村統明、市川正吉艇には鈴木青松が一緒に乗り組んでいる。なかでただ一人生き残る岩田兵曹の話では、隊長は、「岩田艇突っ込め。市川艇は戦果を確認せよ」と命じたといい、豊廣隊長とやや記憶が異なる。

(中略)

 

「指揮官は最後まで生残り、最後に突撃する」というのが豊廣隊長の考えだった。しかし敵艦の撃沈を確認して戻ってきた基地には、すでに米軍の上陸部隊が迫っていた。最後の攻撃は極めて困難とみて、豊廣隊長は基地を爆破。残りの部隊を率いて陸軍と合流。敗戦まで山岳地帯でゲリラ戦を展開、右腕に負傷した。

 

(中略)今も生き残った負い目を抱いて沖縄の豊廣部隊の生き残りが敗戦を知ったのは、8月も末近くなってからだった。降伏の勧告を受けた将兵は順次山を降り、捕虜収容所に入った。海で、陸で、豊廣部隊160人の中ほぼ半数の76人が戦死していた。

 

敗戦の時、僅か22歳の豊廣隊長の戦後は、限りなく重かった。特攻隊の隊長でありながら、多くの部下を失いながら、自分は生きて帰ったという負い目である。激戦の沖縄から生きて帰ったことを強運と喜べず、死期を逃したことをむしろ悔やんだ。

「こんな自分は、幸せにならなくてもいいんだ」とまで思いつめた。

 

その感情がやっと整理出来たのは、22年後の昭和42年。川棚訓練所跡にできた特攻殉国の碑の除幕式で、涙を流してからだった。連絡を絶っていた部隊の部下と、顔を合わせる決心もついた。生き残りと遺族で作った戦友会・金武会の集まりも、今年で13回目になる。46年には金武の基地跡に鎮魂碑も建てた。しかし、なお、悲しいしこりは残る。

コレヒドール・沖縄震洋戦概要 豊廣稔

 

基地撤収、陸戦へ

私と宮本兵曹は、ついに見覚えのある金武基地の海岸に帰ってきたのである。艇を砂浜に乗りあげて海岸にとび降りたとき、その付近には誰もいなかった。私は大声で、

「誰もいないのか!」

と怒鳴った。私と宮本兵曹の声を聞きつけてやって来た二人の隊員を見て、私はびっくりした。陸戦の武装身をかため、銃を持っているではないか。

「どうしたんだ」

と私が開くと、興奮した面持ちで、そのうちの一人が、

「このへんに怪しい奴がおります」

といいながら、魚雷艇置場として設営隊がつくってくれていた切割りの方へ走って行った。そして銃を二、三発発砲したのである。ただごとでない気配があたりにただよった。

やがて寺本基地隊長(兵曹長)がやってきて、大部分の基地隊員は陸戦に移行すべく武装させて、かねて指示された名嘉(なか)真(ま)岳に向かって先行させたということであった。

 

… 私の最後の出撃の青写真が、やっと決まったところであった。私は基地隊長としばらく押し問答をした。

「山に移動した基地隊員を呼び戻して、艇を出してほしい。いまからでも出撃する」

と私が言うと、基地隊長はそれをさえぎって、

「隊長、それは無理ですよ。とても出来ません。明るくなったら敵がやって来ます」

このとき、基地隊長と一緒に数名の者が私をかこんで押し問答をしていたのだが、これをそばで見ていた出原兵長(整備)と山西兵長(整備)の二人は、当時の状況を次のように証言する。

 

「隊長が基地に帰って来たとき、顔が真っ黒になっていた。そして、さかんにロケットをぶっ放してきたと言っていた。ロケットを撃つとき、飛行眼鏡をかけ忘れて、火焔を顔に浴びたと言っていたが、いまにもまた、出撃しそうな口吻(こうふん)であった。海岸で数人のひとにかこまれて、何やら話していたのを覚えている」

 

私はその後、砂浜に座り込んでしばらく頭を抱えて考えこんだ。私の頭のなかには、秘密兵器の震洋艇を敵手に渡してはならない、というもう一つのやっかいな考えが存在した。

 

たとえ出撃ができたとしても、輸送船の二、三隻を撃沈するのが精一杯であろう。それぐらいの戦果なら、陸戦に移ってから別な方法でだって、それに匹敵する打撃を敵に与えることはできる。そんな考えが浮かんだところで、私はついに震洋艇攻撃を断念、基地を破壊、陸戦に移行することを決心したのである。

 

陸戦に移ってから、陸戦の難しさを思い知るのだが、もはや、それをくわしく書くには紙数が尽きてしまった。われわれは恩納岳の第四遊撃隊の遊撃拠点である、名嘉真岳に最初たてこもった海軍の二階堂隊と一緒だった。

 

第二護郷隊に合流

私が部下二名とともに恩納岳の岩波大尉のところに連絡兼挨拶に行ったときは、恩納岳がちょうど四月十二日の米軍の大規模攻撃を受けたときであった。それで陸上戦闘の様相をつぶさに観戦させてもらった。

 

そのとき、私は恩納岳の深い谷間に占在する萱ぶきの兵舎に、兵員があふれているように見受けた。それはどうも敵の上陸地点の嘉手納に布陣していた、飛行場守備部隊であるように思えた。つまり、その部隊が敵地上軍の進攻を防ぎつつ後退してきて、岩波大尉の指揮下に入った風に見えたのである。

 

そのような情況下で、小銃は五人に一梃(ちょう)、しかも軽機関銃一つ所持しない。海軍の小部隊であるわれわれが、恩納岳に行って何のお役に立とうかと思った。それよりも、まだ諸事緩慢と思われる北方の久志岳にいる陸軍部隊に合流して、およばずながらお役に立たせてもらおうと考えた。

 

名義真岳の食糧が尽きはじめた段階で二階堂隊に別れを告げ、わが隊が小グループに分かれて久居岳に移動をはじめたのが、四月の半ばすぎであった。

 

私は久志岳が第三遊撃隊の系列下であることを、まったく知らずに移動してしまったのである。久志岳を護っている小隊長は、わが隊が久志岳の系列下に入るのを拒絶した。私はたいへんムダ骨を折ったような気がして、少し腹立たしく思った。

 

それでは、所定のとおり岩波大尉の指揮下でお役に立とうと思い、ふたたびまた来た路を戻り、恩納岳の麓である喜瀬武原部落まで辿りつき、夜営をすることにした。

 

そして空き民家に入ったが、このときは私の部下グループと、途中から合流した甲標的・鶴田隊の連中、合わせて十五名ほどであった。

 

そのうちの八名が土間で焚火をはじめた。その直後に大爆発が起きた。私は直感的に土間に仕かけてあった敵の地雷が爆発したものと思った。円陣をつくっていた八名のうち、二名が即死、他の三名が重傷を負い、のち戦死した。私以下三名が脚に破片が入り、中傷。他の七名は座敷の方にいて助かった。

 

事実は、私の部下の一人が、敵の手榴弾を分捕って腰にぶら下げていたのを、誤って安全ピンを抜いてしまった(注、敵の手榴弾はピンを抜けば、数秒後に爆発するようになっていた)、その結果のことであった。彼は腰部を無惨にえぐられて即死していた。

 

私は恩納岳に行くことをやめた。私が恩納岳に行きさえすれば、いったんはバラパラになった部下グループも三々五々、恩納岳へ集まってくると思ったが、それもかなわなくなった。

 

私の負傷は、手榴弾の亀甲模様のごとき一片が足の甲の部分で、しかも脚部に連結する屈伸部分に入ったので、日がたつにつれて化膿し、歩行ができなくなった。激戦地なら、歩けない者は自決と相場が決まっていたが、国頭地区はその点、まだ余裕があった。

 

私は、部下四名と鶴田隊の先任伍長以下五名とともに、喜瀬武原から名嘉真岳に近い山中に入った。そして、そこに民間人が避難小屋としてつくっていた萱(かや)ふき小屋に、傷が癒(いえ)るまで留まることにした。時は五月初旬のことで、間なく雨季が訪れ、小屋は脚部を濁流に洗われた。すぐ近くまで米兵の巡察隊が自動小銃を撃ちながら入ってきたが、われわれのところまでは近づこうとしなかった。

 

第二護郷隊、国頭へ

六月二日、岩波大尉の第四遊撃隊は、恩納岳での戦闘に区切りをつけて、国頭の方へ移動した。その折、味方も、そしてそれを追う敵も、私たちがいた地点のすぐそばの草を押し倒し、踏みかためながら、風のように移動して行ったのを覚えている。

 

そのとき、鶴田隊の元気のよい兵曹が、敵を一人たりとも殺傷しょうと銃を構えて出て行き、逆に撃たれて戦死してしまった。味方は夜陰に乗じて、また、敵は昼間に風のごとくに移動する。だから、鶴田隊の先任伍長以下は、まばらな潅木の林にかくれて、ひそかに軽機関銃を据え、引き金に指をかけて構えていた。その数メートル先を、敵の部隊が通りすぎて行った。

 

私は、まだすっかりなおり切らない脚をかばいながら、安仁堂の方に避難しており、難をのがれた。

 

私の負傷は、部下たちの献身により徐々によくなっていった。歩けるようになった時点で、付近にいたわが隊の部下グルトプをあつめて、勝手知った金武村にある、敵の急造の飛行場を襲撃することを企図した。

 

夜になると、展望台と称するところに主だった者が集まり、画策した。しかし、実行する寸前で、また私は米軍の執拗な山狩りに引っかかり、「右肘関節貫通銃創複雑骨折」という重傷を負った。つまり右腕肘関節を自動小銃で撃ち抜かれ、右手がブラブラになった。

 

至近距離から撃たれたので、出血多量でもうタメかと思ったが、またもや、部下たちの手厚い介護を受けて生き延びた。

 

伝説の第一護郷隊 村上大尉

付近にいた部下のなかで、元気のよい者はたびたび斬り込みに参加、金武の米軍基地をおびやかした。そして岩田二飛曹などは、山を降りるときまで米が五俵、砂糖が石油カンに三杯、味噌、醤油はもとより、米軍キャンプから失敬してきた洗濯機までそろえ、一年ぐらいは籠城(ろうじょう)しても大丈夫なほどだった。こうして頑張っていれば、そのうち関東軍の精鋭が救援にやって来るだろう、と本気に考えていた由。

 

そういう場合の斬り込みの指揮は、誰がとったのであろうか。時期的に七月に入ってからのことと思われるので、その指揮をとったのは第三遊撃隊長の村上大尉であったらしい。

 

伝聞であるので、間違っていたら申し訳ないのだが、岩田兵曹の回想によれば、北の方から、風のようにやって来た一人の西部男のような将校・村上大尉が、付近にいた陸軍や海軍の兵隊を集めて、「オイお前ら、食糧欲しいか。それだったら俺について来い」と言って、斬込隊を編成しては、金武になぐり込みをかけた。大尉は人も知るゲリラ戦のベテランであった。

 

聞くと、その采配ぶりは、まことに見事であった由。たとえば、「この時点で擲弾筒(てきだんとう)を撃ち込め、そしておいて、こちら側からこう攻めよ」と、まるでその指揮は掌を指すがごとくであった由。そして斬り込みがひとまず終わると、いつの間にか付近から姿を消して、どこかへまた、風のごとく行ってしまった由。まことに胸のすくような話である。

 

8月28日 第22震洋隊の投降

私の近辺にいた第22震洋隊の生き残った隊員たちは、屋嘉収容所のパトロール隊の勧告を受けて、昭和20年8月28日、ついに下山することにした。金武村中川部落の入口のところで、武装解除を受けることになったのである。

 

わが方の人数は30名ぐらい。われわれは申し合わせて、武器はすべて山中に埋めて出た。米軍の大尉と数十名の米兵が、ジープとトラックを持って迎えてくれた。米軍大尉は終始にこやかで、私をジープに乗せ、わざわざ金武の飛行場のど真ん中を走って、屋嘉収容所に向かった。金武飛行場には、色とりどりの飛行機が翼を折りたたんで静かに休んでいる風であった。

 

戦争はすでにこの飛行場からだいぶ以前に退去してしまっているかに見えた。あとでわかったことだが、私は米側から金武周辺の山にいる日本兵頭目(ボス)と目されていた節がある。その私も六月十五日には大尉に進級していた。

 

米軍大尉はやっとこれで平静になってくれると、その任を果たした。

わが敵は湊川沖に在り 豊廣稔

 

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  1. 特別攻撃隊一覧表(海軍)震洋隊

番組

  1. 証言記録 兵士たちの戦争 “ベニヤボート”の特攻兵器 ~震洋特別攻撃隊~
  2. 「演習で泥まみれの日々」 加藤 芳郎さん
  3. 「二人乗りの特攻兵器」 田 英夫さん
  4. 「特攻兵器に爆装せよ」 田 英夫さん
  5. 「特攻兵器を海に沈めて」 田 英夫さん
  6. 「8月15日の思い出」 田 英夫さん

証言

  1. 「死から逃れられない兵器」 西村 金造さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(長崎・川棚)
  2. 「少年を死に追いやる軍隊」 二階堂 悌二郎さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(長崎・川棚)
  3. 「沖縄上陸の米艦艇目指して」 土屋 貞智さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(沖縄・金武)
  4. 「沖縄の山中で生き抜いた」 上野 寿さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(沖縄・金武)
  5. 「黙ったままでは死ねない」 石崎 幸男さん 震洋特別攻撃隊 戦地:フィリピン(コレヒドール)
  6. 「ベニヤボートに身を託す」 大家 和博さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(長崎・川棚)
  7. 「米機空襲で重傷を負う」 辰巳 保夫さん 震洋特別攻撃隊 戦地:フィリピン(コレヒドール)
  8. 「米軍上陸で陸上戦闘へ」 久保 守人さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(沖縄・金武)
  9. 「沖縄の震洋隊指揮官として」 豊廣 稔さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(沖縄・金武)
  10. 「布張りの練習機での特攻」 原田 文了さん 海軍特別攻撃隊 戦地:台湾
  11. 「特攻出撃・会敵せず帰還」 柳井 和臣さん 海軍特別攻撃隊/第721海軍航空隊/ゼロ戦搭乗員 戦地:日本(鹿児島)
  12. 「偵察用練習機での特攻」 田尻 正人さん 海軍特別攻撃隊 戦地:日本(鹿児島)
  13. 「玉音放送後に特攻で出撃」 川野 和一さん 海軍特別攻撃隊 戦地:日本(大分)
  14. 「“赤とんぼ”で特攻した友」 庭月野 英樹さん 海軍特別攻撃隊 戦地:日本(徳島)/日本(沖縄・石垣島)/台湾
  15. 「特攻出撃30分前」 粕井 貫次さん 海軍特別攻撃隊 戦地:日本(鹿児島)
  16. 「思いやりを含んだ戦果報告」 木下 顕吾さん 陸軍航空隊 戦地:フィリピン(レイテ島)
  17. 「陸軍特攻隊の援護で出撃」 有川 覚治さん 陸軍航空隊 戦地:台湾/フィリピン
  18. 「過大に報告されがちな戦果」 生田 惇さん 陸軍航空隊/ラバウル航空隊 戦地:ラバウル/満州(奉天)
  19. 「夜間出撃で帰路喪失の恐怖」 坪井 晴隆さん 海軍特別攻撃隊 戦地:日本(鹿児島)
  20. 「有効な特攻方法を考え抜く」 堀山 久生さん 陸軍航空隊 戦地:日本(群馬)
  21. 「8月16日に死んだ仲間」 神保 公一さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(高知)
  22. 「生と死 交錯する思い」 茂市 光平さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(高知)
  23. 「終戦後の出撃命令」 吉野 三夫さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(静岡)
  24. 「8月16日の出撃待機」 倉持 信五郎さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(高知)
  25. 「特攻で死んだ者への思い」 村上 孝道さん 震洋特別攻撃隊 戦地:中華民国(アモイ)
  26. 「若き特攻隊員として」 山口 健三さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(高知)
  27. 「終戦翌日の出撃準備命令」 堀之内 芳郎さん 震洋特別攻撃隊 戦地:日本(高知)
  28. 戦跡を歩く 沖縄県石垣市 特攻艇秘匿壕