「義烈空挺隊」とは
読谷・嘉手納の飛行場
1945年4月1日、米軍が読谷・嘉手納に無血上陸、半日で日本軍の北飛行場 (読谷) ・中飛行場 (嘉手納) を数時間で確保した。沖縄守備軍の中核を担っていた第九師団は半年前に台湾に抽出され、軍はすでに持久戦にシフトしていたからである。
しかし、大本営は、米軍に読谷・嘉手納を占領された途端に、その両飛行場を奪還すべく文字通り血眼で特攻をおくり続ける。今更ながらそれが「本土にとって」とても不都合であることに気づいたからだった。
義号作戦「義烈空挺隊」
日本軍の北飛行場と中飛行場がもはや米軍の飛行場となってからニか月近くもたった5月24日、日本軍は総勢136人の特攻「義烈空挺隊」12機を読谷と嘉手納に送り込む。しかし、4機は故障、1機をのぞき、すべての機体が撃墜される。
奥山大尉以下136人は、熊本の健軍飛行場で最後の別れをします。長距離飛行が可能なこの精鋭部隊には、着陸後、ゲリラ戦に突入するための訓練を受けた陸軍中野学校生10人も含まれていました。日暮れ時の6時に出撃した12機。夜10時11分、「只今突入」の無線が最後でした。
義烈空挺隊は、もはや爆撃機として役立たなくなった97式重爆撃機12機に分乗、諏訪部忠一大尉指揮下の第3独立飛行隊員もこれに搭乗した。同隊は、北・中飛行場に胴体着陸をなし、特攻隊員を出撃させて可能なかぎり数多くの米軍機を撃破する作戦をたてた。… しかし義烈隊には当初から不運がつきまとった。12機のうち4機が故障で九州に引き返し、その他は、隊長の奥山機をふくめ出撃はしたものの北・中飛行場に到達する前に米軍のレーダーに探知されて一瞬のうちに2機が撃墜され、乗員は全滅した。そのほか3機が目的を果たさないまま対空砲火の餌食になった。だが1機だけは午後8時37分、読谷飛行場に胴体着陸を敢行、中から飛び出した12名の隊員と3名の搭乗員が手榴弾などで滑走路付近の7機の米軍機を破壊、20機に損害を与え、その晩と翌25日は飛行場の機能を麻痺させた。だが、生き残れた空挺隊員は一人もいなかった。
詳しくは下記を参照。
日本ではいまだに当時と同様、敵地に送り出す「義烈空挺隊」の演出された「雄姿」を称賛する者たちが多い。しかし実際に彼らの無残な特攻と死を見届け埋葬したのは、むしろ読谷や嘉手納にいた米兵や工兵隊の隊員である。
今回は、読谷にいた海軍工兵隊の記録から、義烈空挺隊の最期をたどっていきたい。
米海軍建設工兵隊がみた "Giretsu"
第87海軍建設工兵隊 (87th CB)
重爆撃機 B-29 の滑走路建設を専門とする第87海軍工兵隊 (87th CBs) が沖縄入りしたのは4月27日だった。手狭な現状の読谷飛行場の超過密運用を妨げることなく、5月15日、彼らはまず読谷の滑走路の一本を重爆撃機用に拡張し、6月19日からは、さらに広大な重爆撃機専用の「ボーロー飛行場」を建設開始、なんとわずか30日でそれを完成させた。
日本軍は、いつもの近視眼的な建設計画で、水はけが悪く、戦闘機の運用にしか適さない薄い舗装の長さ5,000フィートの滑走路を建設した。 … 大型機の運用損失を少なくして運航できる一時的な手段が優先された。この計画に従って、第87米海軍工兵隊はこの (北飛行場の) 滑走路の 1 つを1,000フィート延長する工事を開始した。
第87海軍建設大隊 (87th NCB) - Basically Okinawa
海のミツバチ seabees とよばれる彼らは、沖縄入りするとすぐさま残波岬 (Bolo Point) にボーローキャンプを設置し、読谷の海岸から、長浜の採石場にいたるまで、それこそ読谷すべてを巨大な米軍基地にすべくひしめいていた。そんな時、Giretsu がやってくる。
その夜、読谷空域のすべてが高射砲の幕を上げた。レーダー誘導砲は、その射角が危険なほど低くなるまで攻撃を続けた。 … 突然、月明かりに照らされた空に大きな機体が迫ってきた。まったく意味がわからなかった。機体は滑走路に着陸するところだったのだ!トラブルがあろうがなかろうが、この砲火の嵐の中では航空機は何の役にも立たない。次の数分間は悪夢だった。飛行機は着陸装置が上がったまま、滑走路の中央で腹ばいになって横滑りした。
それは日本の双発エンジン「サリー」(註・九七式重爆撃機) だった!空挺侵攻!これが敵の驚くべき自爆兵士である「ギレツ」の登場だった。日本兵は、サンゴの滑走路に沿って軋む音を立てながら、この大きな機体から飛び降りた。彼らは側転競争のようにさかさまに回転し、立ち上がって暗闇に向かって走りだした。
突然、全方向から目もくらむばかりのフラッシュが駐機場を照らした。ガソリンタンクが爆発し、駐機中の飛行機が炎上した。地獄の炎上。日本兵はマグネシウム手榴弾と白燐弾で米軍機を破壊していたのだ!
この時までに、米兵、工兵隊、海兵隊が小型機関銃を手にもって走りだしていた。滑走路は昼間のように明るかった。他の4機の日本軍機が咆哮を上げて突入してきた。今度は高射砲が的を絞った。全てが墜落し炎上し、各機体に15名ずついた侵入者をすべて焼いた。しかしながら、破壊工作員が全滅する前に、20機の米軍機が完全に破壊された。巨大な燃料集積所も炎上し、地平線が数マイル先まで明るくなった。
… 夜明けが訪れ、一帯は荒れ果てていた。死んだ日本兵がいたるところに横たわっていた。唯一乗り込んできた日本軍機はまだ滑走路の上に止まっており、焼け落ちた米軍輸送機の残骸はまだくすぶっていた。
【訳】ミッション終了。これは、5月下旬のある夜、自爆テロ弾が当時沖縄で最も重要だった飛行場を破壊しようとしたとき、読谷飛行場に着陸しようとして胴体着陸した日本の双発機「サリー」である。これが唯一着陸できた機体だった。他の全ての機体は飛行場近くで撃墜された。ここでは、第87工兵隊のドーザーが牽引する「チェリーピッカー」が、その迷彩色飛行機を滑走路からひきずりだしているところ。
太平洋線のベテランがこれまでに経験したことのないとんでもない夜を過ごした後、翌朝になっても警備隊は依然、ギレツの生存者を捜すため読谷周辺を捜索していた。この若い日本兵は二つの弾薬ベルトを身につけ、自分の生命を売る覚悟だった。
破壊現場から逃げ出す前に撃墜された、もう一人の自爆兵が天皇のためにすべてをささげた。明らかによく訓練された破壊工作者で、彼はダイナマイトをたくさんのヒューズとともに小さな雑嚢にいれていた。
着陸前に空中で爆破された別の自爆機の残骸が、この旧日本軍飛行場一帯に散らばっている。空挺破壊工作員を満載した敵機は胴体着陸しようとしていたところ、高射砲の射程に入り、真正面から飛行機の残骸とその乗員の遺体を広範囲に散らばらせた。ここでは、ブルドーザーとモーターグレーダーが重い瓦礫の撤去を開始した。たくさんの C-54 輸送機が破壊された。
日本の途方もない特攻兵士の特別空挺攻撃部隊「ギレツ」(比類のない忠誠者) は、読谷飛行場を操業不能にする試みには失敗したが、上の写真が示すように、着陸に成功した一機は天皇に元をとらせた。このような大切な時期の読谷の喪失はアメリカ軍にとって多大な犠牲を払うことになっただろう。死んだ日本兵数名から最新の建設計画を含む飛行場全体の詳細な地図が発見された。
日本兵の遺体から見つかった地図から、地元の避難民が日本軍に情報提供したと疑われ、その後、さらに米軍の住民隔離政策が厳しくなる。
隊員の遺体から回収した地図には、アメリカ軍機の配置やどのテントにパイロットが寝ているかまで書かれていて、驚いたアメリカ軍は翌朝、スパイ対策を命じています。
読谷の「義烈空挺隊」最後の一人とは
120人もの若者が全滅。
米陸軍の公刊戦史には、「義烈空挺隊」で唯一胴体着陸に成功した一機から走りでた10人が銃撃されたほか、隊員の一人が、翌日まで逃げのびて残波岬で殺されたことが記されている。
最終的に調査が行われたとき、日本軍は読谷で10人が戦死、13人が飛行機のなかで戦死したまま発見された。これは、明らかに飛行中、米軍の対空砲火にやられたものと思われる。〝義烈空挺隊〟の他の4機には、各機とも14人ずつ乗り組んでおり、全員とも火を吹いて撃墜された機のなかでそのまま死んでいた。死体は69体をかぞえた。つぎの日に残波岬でやられた兵が日本軍空挺隊最後の1人となった。
地平線が数マイル先まで照らされ、海兵隊も工兵隊も、兵という兵が小型機関銃を手に駆けつけ銃撃戦となったあの騒動の中、どうやってその「日本兵」は逃げ延びることができたのだろうか。
実は「義烈空挺隊」の中には遊撃戦 (ゲリラ戦) に特化した陸軍中野学校の10名が含まれていた。
着陸後は地上戦に参加しないで、すぐジャングルに駆けこみ、通信を確保する。 とくかく彼らは生かさねばならない。それで、技倆の一番確かな一番機に四人とも乗せているんです。攻撃のあと、支援班が彼らに協力する。英語に堪能な者(石山俊雄少尉)が、敵の兵舎などに潜入して、情報を得る。もう一人は医大を卒業した者(原田宣章少尉)で、負傷者らの治療にあたることになっていた。(嘉瀬秀彦「義烈空挺隊・読谷飛行場を急襲」より)
あの包囲と銃撃戦と捜索のなかをひとり脱出した兵士とは、「地上戦に参加しないで」生き抜くことに特化した中野学校の将校であったかもしれない。胴体着陸に成功した4号機は、上記の中野学校「原田宣章少尉」が指揮をとっている*1。
ジャングルに駆け込むとあるが、北東の山側のそのまた先には中野学校の将校が指揮をとる第二護郷隊が恩納岳に陣地を構えていることから、恩納岳で合流することを目的としていたとも考えられている*2。
義号作戦 作戦計画 其一、第一期攻撃
目的達成せば我が爆撃隊の制圧爆撃下一斉に戦場を離脱し、北飛行場東北方220.3高地東側谷地に集結し、第二期攻撃(遊撃戦闘)を準備す。
第32軍が壊滅したあとも彼らがそこで遊撃隊となって第3遊撃隊・第4遊撃隊。その人たちと一緒になって、また32軍が壊滅したあとも遊撃隊となって後方かく乱をしていこうと」陸軍中野学校と沖縄戦の関連を研究している川満さんは、32軍玉砕のあとこそ、彼らの出番だったと指摘します。
しかし実際には義烈の「最後の一人」は、平たんな海岸沿いを北上、残波岬に向かった。彼の真の狙いは、恩納岳での合流ではなく、もしかしたら重爆撃機用滑走路を驚異的な速さで建設している「海のミツバチ」第87海軍工兵隊の「巣」(ビーハイブ) だったのかもしれない。
たった一人で、燃える火を背に、夜を走り抜けた。
彼の感情を想像することは難しい*3。
しかし彼の目が最後に見ていたものは推測できる。
波平から北谷の海岸まで延々と続く、圧倒的な補給拠点。
重爆撃機 B-29 の滑走路建設のためにやってきた第87海軍工兵隊。
モッコやツルハシや牛馬ではない、現在と変わらぬ重機やダンプカーで石灰岩を削り敷き詰め、今や見たこともない規模で米軍の巨大拠点となっていた読谷の「現実」だった。
ずらりと補給拠点となっている読谷の海岸。グリーンビーチはその北端になる。
米海兵隊: An aerial of an ammunition transfer point off Okinawa's beach Green 2.【訳】 第2グリーンビーチの武器輸送拠点 読谷村 (1945年5月1日)
第87海軍工兵隊のキャンプ地となっていた残波岬 (Bolo Point)。
日本の特攻はボーローポイントを目印にして飛行場を襲撃した。
そして彼は残波岬で殺された。彼のたった一人の逃避行と、そこでの破壊工作がおこなわれたかどうか、特に記録はない。
日本はなぜ読谷・嘉手納に固執したのか
いったい、連日連夜の特攻に戦略的意義はあったのか。
第32軍作戦参謀八原の回想
特攻部隊が、連夜敵艦船に突入しても、実のところ、地上戦闘には別に具体的な効果はない。戦術的に考えて、軍の戦闘に直接的に貢献したとはいえぬ。5月24日夜の義烈空挺隊の北、中飛行場への突入も、冷静に観察すれば、軍の防御戦闘には、痛くもかゆくもない事件である。むしろ奥山大尉以下120名の勇士は、北、中飛行場でなく、小禄飛行場に降下して、直接軍の戦闘に参加してもらった方が、数倍嬉しかったのである。
《八原博通『沖縄決戦 - 高級参謀 の手記』読売新聞社、1972年》
戦略や合理性、条約交渉よりも基地建設にのみ依存する日本。
従来の太平洋の戦いでは一生懸命に多数の飛行場を造ったが、わが方がこれを使用するに先立ってアメリカ軍に占領される場合が多い。まるで敵に献上するために、地上部隊は汗水垂らして飛行場造りをやった感が深い。しかも一度敵に占領されると、今度は敵に使用されぬために、わが地上軍は奪還攻撃を強行し、多大の犠牲を払い、玉砕する始末であった。
《八原博通『沖縄決戦 - 高級参謀 の手記』読売新聞社、1972年》
連日連夜の特攻、読谷に乗り上げ砲台になるという4月7日の海上特攻「戦艦大和」の奇想、酒を飲みかわしながら決めた5月3日の逆上陸計画、そして5月24日の「義烈空挺隊」・・・。天皇の一声やトップの感情的な思い付きで、いったいどれだけの命が無駄に死地に追いやられたのだろうか。
1945年5月24日に読谷飛行場で墜落した日本軍機の残骸と日本兵の遺体。
日本軍は、沖縄を救おうと読谷・嘉手納に固執したのではない。そもそも、軍は第九師団ですら沖縄から引き剝がしていたのだ。
そうではなく、
唯一、日本軍が恐れていたのは、
日本軍が沖縄に自ら建設した飛行基地から*4、ブーメランのように米軍の B-29 が本土に飛んでくるということ、
その一点だけだった。
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*2:ただし軍政府の中心となっている石川を抜けることができたとしても、恩納岳の山頂に陣地を構える第二護郷隊は、米軍に包囲され5月25日からに激しい攻撃を受け北上を余儀なくされる。まさに袋のネズミで出口はない
*3:義烈の隊員には特攻に際し内容不明の薬「熱地戦力源一錠、撃滅錠一箇、防吐ドロップ五箇」が数種与えられていた。日本軍は特攻隊員にある種の覚醒剤を処方していたとも言われている。沖縄「武田薬草園」とコカ栽培 ~ 日本軍の「軍用医薬品麻薬在庫」の行方 - Battle of Okinawa
*4:日本陸軍は1943年の夏に、北(読谷)飛行場建設を計画し、座喜味・喜名・伊良皆・大木・楚辺・波平の75万坪の土地を国家総動員法のもと強制接収、飛行場建設を急がせた。