『沖縄県史』 9-10巻 戦争証言 中頭郡編
《沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》のコンコーダンス資料としての書き起こしです。正しくは原典をご確認ください。
2007年時点での米軍基地 (ピンク) と返還された地所 (赤)
産業戦士
美里村稲福○○ (四三歳)
戦争直前の泡瀬
戦争直前、私は泡瀬に住んでいました。当時の泡瀬は、首里、那覇、泡瀬といわれていたとおり、大変にぎやかな町でした。砂糖樽(タルガー)生産の中心地で、与那原から中城、北中城、具志川、読谷、勝連村などから、人々がそれを求めて沢山やってきたものです。そのほかに衣料品店も立並び、劇場も二か所、銭湯も数か所にあり、時にはサーカスもやってくるほどの小都会でした。それで、農作業が一段落つくと、近くの村から、泡瀬でソバを食べて、銭湯にも入り、そして芝居を観て楽しもうという人たちが大ぜいやってきました。泡瀬を起点に、宮城バス、泡瀬バスの路線があり、汽車も与那原直行があり、交通も大変便利でした。
七月(金)、正月の買物は、中部の人たちは殆んど泡瀬で済ますほどでした。ゲタ作りもさかんで、製材所が各所にありました。
農閑期になると、北谷、勝連方面から「タルガーゆい」―樽のわくどめ作りーのために沢山の人が出稼ぎに来ました。私達のうちも、砂糖樽生産業をしておりましたので、私は学校から帰えるといつもタルガーの帯(竹で得のわくどめ)作りを手伝いました。タルガーを作るのは大変難かしく、ある程度までの手伝いをするだけで、後は職人にまかせた。職人は、「くりた職人」といって、相当な技術が要るので、当時としては、高給取りでした。だから「タルガー職人」というと、普近の大工よりも社会的地位も高かった。
泡瀬の住民の多くは、漁民、カマボコ製造、「タルガー職人」などとして現金収入が多く、農業は殆んど営んでいなかった。
それで附近の村から、イモ、田イモ、野菜売り、その季節になると今のコザ市の山内、北中城村の地袋あたりから着物姿に姉さんかぶりの山桃売りの「アングッーター(娘遂)」が、沢山やってきたものでした。
それらの人たちが、「アシビナー」といって、セリ市を泡瀬で行なっていました。いわば、商業都市、消費都市として、中部の中心地になっていたのです。
私の家は、タルガー生産業以外に、母がカマボコ製造をやっており、更に父は網元で、六対四、あるいは七対三の割合で漁網を貸して、当時泡瀬漁業組合長もしておりました。
たるがー (砂糖樽) つくり
食糧供出
しかし、戦争が緊迫してきて、日本軍が沖縄にやってきてからは私達の生活の歯車が狂い出しました。沖縄戦の直前になりますと、泡瀬にも部隊が配置されて、私達の家にも、日本兵が十名位、寝泊りしていたそうですが、最初のうちは、北中城村の仲順、喜舎場方面に部隊がおかれていました。その部隊が泡瀬に、食糧の供出を強制的に割当ててきました。ここには魚の供出が割当てられましたが、住民の間には、相当の批判がありました。というのは魚が獲れるのは、天気が良い時だけで、ちょっとでも天気がぐずつき、風でも出たら、海はすぐに時化てさかながとれません。陸上では、たいしたことがないように思える天気でも、海上では大変ですから。また泡瀬では、その殆んどが、くり舟の漁ですから、なおさら大変でした。
日本軍の横暴
ところが、中山という部隊長は、サイドカー付きオートバイに乗ってきては、漁業組合長の父にむかって「海が荒れていても、さかなはいるから取ってこい。一日の供出量は決められている。それには絶対服従だ。住民は食わんでもいいんだ。兵隊が食わなかったらどうなるんだ」ということをいつも会っていた。だから私の父は、オートバイがやってくるといつも顔色を変えてビクビクしたものでした。その部隊長は私に対しても「きさまはいくつか」「十五歳です」と答えると「もうすぐ兵隊に行けるから、軍隊の訓練を受けておけ」といらんことまで云って帰っていきました。
十・十空後、戦争が緊迫してくると軍の横暴ぶりは、ますますひどくなってきました。時化るとさかな自体、本当にとれないので、供出が遅れると、父に対してその部隊長は、私の目の前で、日本刀を抜いて、首筋につきつけたり、刀をシャツの袖口につっこんだりして「さかなをとってこい。とりにいくかいかんか」と脅迫したので、大変とわかった。私はその後、学校を卒業すると産業戦士として内地へ渡りましたが、父はそれ以後も日本軍にいじめられて、大変つらかったそうです。戦争が終わった時は、本当にヤレヤレと思ったそうですよ。
学校生活
私は美東小学校を卒業すると、東京の日立製作所へ産業戦士として、美東小学校から八人、沖縄県内から二00人位希望して行きました。父は反対だったが、どうせ沖縄にいて死ぬよりは、内地へ行けば、何とか生きのびれるのではないかと思って希望しました。
学校は、六年の二学期頃からは、殆んど授業を受けたことはなく、もっぱら壕掘り、徴用、銃剣術の訓練にあけくれました。今の嘉手納飛行場作りにまで手伝わされ、二里半近い道のりを、オーダー(モッコ)を持って歩いて行かされました。それは一週間に一度位の割合だったか、大変苦しかったのを覚えています。銃剣術の訓練は、兵隊あがりが教練の先生として、私たち小学生を徹底的にしぼりました。かまえが出来ていないといっては後からくつでけとばしたり、ビンタを張るのも打った瞬間さっとその手を引くので、大変きつくあたり頭がくらくらして手の形が赤く顔に残るほどでした。その時の訓練のきつさは、言葉では云いあらわせない程の大変な苦しいものでした。
潜水艦の攻撃
こういう状況で学校を終え、昭和二十年の初め頃、内地行きの疎開船は、最後位だったと思うが、那棚から出発しました。学童疎開が主だったが、船団の内訳は、疎開船は三隻、駆逐艦がそれを囲むようにして、二隻、それに上空を飛行機が一機。船団が大島附近に近づいた時、突然、三隻並んで走っていた内の一隻が、潜水艦の攻撃を受けて、沈没しはじめたのです。私の乗った船は、三の内三番目でしたが、前方の船がやられてしまった。それをみていたら兵隊あがりの船員にしかりとばされて、船倉に押し込められて、出入口を閉められたので、今まで他人事のように船がやられるのをみていたのだが、急に不安になり、自分たちを死ぬのではないかと、恐怖感を覚えた。
沈められたのはその一隻だけで、残りは辛うじて大島の港にたどりついたが、危険なので、身動きがとれなかった。結局大島の港には四日間滞在して、鹿児島港に着いたが、那覇を出てから何隻かの船が半分沈んだままさびているのをみました。鹿児島から東京へ行くまでも空襲があったので大変でした。
産業戦士
日立製作所では、旋盤工に選ばれたから良かったが、「あんこ」に選ばれたのは大変でした。なにしろ、食概難で栄養失調気味のところで、大ハンマーを振り回わさなければならなかったものですから。また沖縄出身者は、いろいろ不自由な目に会いましたよ。ろくに標準語を使えないものだから、つい言いたいこともいえなくて、引込みじあんになり、それでヤマトンチュー(他府県出身者)にバカにされることにもなりました。私は、休み時間などにすもうをとって遊ぶ時、二、三歳年上の者でも投げ飛ばして、うっぷんばらしをしました。しかし「あんこ」に回わされたら大変だったと思います。私の学校出身者の内二人そこへ回わされたが、大変やせてしまって可哀相でした。産業戦士ということで、大和魂という字を染めぬいたハチマキをしめて作業をしておりましたが、旋盤工だけでも三百名位もバタバタ倒れましたよ。
両親との再会
私の両親は、国頭方面に疎開して、たいしたこともなく無事生きのびたようですが、兄が防衛隊にとられて、終戦まぎわに戦死したそうで、返骨もありません。私はひとり東京にいてヤマトゥー達にあつかわれてつらい時は、いつも両親のことを思い出して泣きました。父はチラチラ思い出す程度だが、母のことはいつも思い出しよったです。沖縄が玉砕したという新聞記事を読んで、ずいぶん泣きましたよ。
戦後昭和二十二年頃、誰か生き残っている人にあえるかも知れないと思い帰えってきましたが、両親にあえて大変嬉しかった。しかし、二、三か月いて、岡山の駅前でグリルを経営している姉を手伝うために、また本土へ渡りました。その後、昭和三十七年に引揚げてくるまでずっと本土で調理師をやっていました。沖縄は戦火でずいぶん荒れていましたので父と相談して、本土へ渡ったのです。
戦時下に製糖作業
越来村山内比嘉○○○(四八歳)
十・十空襲以後
私たちは十・十空襲以来、たびたび空襲にあいましたが、まさか沖縄が戦場になるとは夢にも思いませんでした。だから嘉手納の飛行場が空襲されている時でも、私達はガジマルの木の上や屋根に登って他人事のように高見の見物でした。
昭和十九年十月十日の朝六時頃、与那原方面上空から編隊をなした無数の飛行機が、嘉手納方面を空襲したのですが、最初はそれが敵の空襲とは知りませんでした。この山内部落に駐屯している友軍の兵隊すらそれに気がつかず見物していたぐらいでした。十・十空襲の時は、この山内部落には空襲はなく、恐ろしいものとは思えませんでした。だからそれ以後はたびたび空襲があり、この山内部落にも爆弾を投下されるようになりました。この山内の部落はずれに友軍の陣地が構築されていてその陣地やそこに通じる道路がねらわれました。そしてこの道の真中に大きな爆弾穴ができて雨水が溜まっていたので、それを私達は「爆弾クムイ(池)」と呼んでおりました。焼夷弾で家を焼かれてしまう被害も出てくるようになりましたが、それでもまだ、沖縄があんなに激しい戦場になるとは考えきれず、疎開命令がきてもほとんど応ずる者もいない程でした。
ところが、アメリカ軍が沖縄へ上陸する数日前の激しい艦砲射螺で、この山内部落のある民家に艦砲の直撃弾が落ちて村一番の美しい娘さんが即死しました。これまでは、空襲や艦砲射撃があっても、壕に避難していて、飛行機が去ってしまうと、十二、三位の子供達は何が落ちているかと我先に壊を飛び出してみにいったり、みんなも北谷の浜の沖合いに群をなしているアメリカの軍艦を木の上によじ登って見物したりしておりました。しかし三月二十九日爆死者が初めて出てからは、村の情勢が一変してしまい、「これは一大事だ」と悟って騒然となり、疎開せずに残っていた大半の住民が次々と避難をはじめました。
供出の強要と消極的抵抗
この山内部落には、昭和十八年に初めて友軍が配置されてきました。それは「ハザマ隊」といって100名以上の兵隊で編成されており、なにしろ初めての部隊ですから、村あげて大歓待しました。そして各家庭に数名ずつ泊まっていました。だがこの連中は大変タチが悪く、村では各戸割当てで農作物の供出をしているのに、部隊独自で部落から資材などを強要した揚句、全くその代金を支払わないということもありました。
一度は、喜舎場の部隊から竹を売ってくれときていたので、部落の人たちに竹を切らしてきて部隊に引き渡たしたら、なんと市価の十分の一の代金しか払おうとしませんでした。当時六円分の竹をたったの六十銭持ってきたのです。私は部落の人に対して申訳ないからそれ相当の代金を請求しようかと思いましたが、非国民扱いされるのがおそろしくて、消極的な抵抗をしました。六十銭受取るのはなんにも受取らないのと同じだから、私はその使いの兵隊に金は受取らないとかえしました。
するとその兵隊は、支払うように云われてきたからどうしても受取って欲しいというのだが、私は断固として受取りませんでした。それでは部隊まできて欲しいといわれて、かなり離れた北中城村の喜舎場の部隊本部まで連れて行かれましたが、そこでも、それは寄附するから金は受取らないとことわり続けたので、今度は屋宜原の部隊長の家まで連れて行かれたが、最後まで受取り拒否したことがありました。
そして、空襲が相次いで来るようになると当然農作業がこれまでのようには続けられなくなって、自分達の食べる分だけでも確保するのが難かしくなってきても、農作物の供出を強引に迫って住民は非常に難儀しました。空襲が続いてくる時にも区長を脅かして供出を迫るので、空襲のあい間にとり入れた農作物を供出しても、さらにその夜にも供出のために畑に出なければならないという程、友軍の態度は大変なものでした。この友軍は私達をいなか者といってこれほど馬鹿にしているのかと思っていました。この友軍の横暴さに抵抗して、その時の区長はやめてしまったら報復的にすぐに徴用されてしまい、配置先で結局戦死してしまいました。
当時、私は自治会長をしておりましたので区長職も兼務することになりました。経験の浅い区長では、こういう難かしい時期には勤まらなかったのでしょう。
私は割当てられた農作物の供出はなんとか確保できるように努力して軍隊に相当協力しましたが、しかし、それ以外にも部隊独自に供出を強要したことには本当にいやな思いをしました。その点は、その後「ハザマ部隊」が去って、「武田隊」が配置されてきましたが、彼等は、割当て以外に供出する分に対しては、その分の代金を私に支払っていました。勿論、それも私が部隊にかけあって、前みたいにただで取られないようにかけ合ったから代金を払ったはずです。そこの部隊長は私の家に寝泊りしており物わかりのよい人でしたから助かりました。
当時、山内部落では、ほとんどの家が、牛、馬、豚、山羊、ニワトリなどを飼っており、空襲の時にも避難壕にかくれながら、夜間に農作業をする傍ら、それら家畜類の飼料捜しもしなければならず、大変な苦労をしながらそれらも飼っていたわけです。友軍は、そのような家畜類の供出や資材の供出を無理にさせて代金も払わなかったが、私が区長になってからは、部隊もかわったのでそれらの代金は全部受取りました。アメリカ軍が上陸して来た時には、山内には「塩見隊」も配置されておりました。私は、この部隊に牛の供出を要求されたので、代金は受取って牛を引渡たそうとする時に、アメリカ軍が上陸しそうだという知らせで、大騒ぎになり、軍は牛も受取らずにどこがへ移動してしまいました。
米軍上陸直前の疎開
山内部落は、当時人口七〇〇名位でした。村は、この山内部落に国頭の「源河」を指定地域として疎開命令を出しましたが、しかし実際にそこへ」開したのは10名位でした。
私はあの三月二十九日の民間人の爆死者が出た翌日、三世帯一緒に国頭めざして荷馬車で避難しました。二世帯は疎開指定地の「源河」の方へ行くことにしており、私は今帰仁村に親類がいたので、そこへ行くことにしていました。もうその時は夜間行動しかとれない程空襲が激しく、また石川や恩納村の橋は友軍が自爆させてこわしていたので、荷馬車を通すのは大変でした。恩納村ではこわされた橋には、丸太を並べてあるだけでした。
恩納村で夜が明けてしまったので、私たち一行は恩納の山中に一時避難して、日が春れるのを待ちました。
そして三十一日の晩には、恩納を出発して、翌朝にはそれぞれの目的地へ無事到着したのです。しかし私は家族を七人は連れてきたが、しかし自分の母を一人残してあったので、母のところにその日の内に引き返えしました。しかし今帰仁の「オイド橋」がその日の昼に友軍がメチャクチャに破壊していてどうにも渡ることができず結局今帰仁村を出ることができませんでした。
そしてその日アメリカ軍が上陸したらしいという知らせを聞いて、これはだめだと思いました。というのは、以前北中城村の喜舎場で友軍の地区部隊のある会議に私達の部落に駐屯している武田隊長に連れられて参加した時、そこでは「敵軍を上陸させておいて一か所に追いつめて全滅させるのだ」と我々区長連中に話してきかせていました。しかし私の家に泊まっている武田隊長は、その会議から帰る途中、「もしアメリカ軍を上陸させたら沖縄はおしまいだよ」と話しておりましたので、私もこの隊長の話が本当だろうと思っていました。
今帰仁には私の娘の嫁ぎ先があったのでそこを頼りに訪ねていったわけです。しかしもう真暗になっていたのでその家を捜すことができずよその人に道案内してもらいました。馬はあまりにもくらいのでいなないて暴れるので、その人は「いなかの人はこんなところにまで馬を連れてきて」と冗談を言っていました。
着いた翌日から二日かけて山の入り口の方にやっと自分達が入れるだけの壕を掘りました。すると、敵軍が上陸して今ここへやってくるから山奥に逃げ込めという知らせがあって、その壕には一日も入らずに、馬と荷車をそこへつないで山奥へ避難しました。馬からはずしておいた鞭に弾丸が落ちて壊わされてしまいましたが、馬と荷車は大丈夫でした。
戦闘下の製糖作業
それで今帰仁がちょっと平穏になった頃、多分五、六月頃、今帰仁の各製糖工場が、戦争のために時間はずれではありましたが、採業を始めていたので、私と長女、嫁の三人は、荷馬車を修理して、近くの村の二、三か所の工場で加勢してあげました。工場側は賃金を出すといっていましたが「私らは金儲けに来たのではないから要りません」とことわって一銭も貰いませんでした。すると、馬の飼料としてサトウキビの葉や、黒糖は持たせてくれました。
日本軍の夜間斬込み今帰仁では友軍の夜の斬込みがさかんでした。私は謝名部落の山の麓の民家に泊っており、五百メートル先にアメリカ軍の部隊がありました。その部隊に夜間斬込みする友軍が、私の関わりのあったものだけでも三回はありました。
友軍の兵隊が夜中家にやってきて「明日の夜、斬込みをするから夜中の十二時に食事を用意しておけ」と云い残して山奥の方へ消え去りました。斬込みは五~十五人位の人数で行なわれるから、それだけの食事を準備するのは大変なことでした。私達自身避難民であり、何かと村の世話になっているわけですから。また彼等が斬込みした翌日は大変でした。アメリカ兵が大勢出て、畑や附近の山をしらみつぶしに捜し回わるし、私達も尋問されて非常にこわかったです。
三回目の時は、雨降りの時でした。例のごとく食事を用意しておくように云われ、その時は十五名分も準備しなければなりませんでした。雨降りのどろんこ道ですから、当然無数の足跡が山の方から私の泊まっている家まで続いている筈で、そうなれば翌日アメリカ兵に私が手引きしていると思われるから、彼等が立去った後、私は近所の人にも手伝って直って、池から水を汲みあげて、それを道に流して、この友軍の兵隊の足跡を消すのに必死になりました。案の定、翌日は沢山のアメリカ兵が捜索に来ました。村の青年で地下タビをはいている者が二、三人疑いをかけられて引っ張られました。しかしまもなく釈放されたようでした。
区長職の疎開
その頃隣り部落の平敷に宜野湾の大山で区長をしている人と知りあいました。私たちは、もしこの戦争で友軍が勝ったら、区長職にあるものが避難したという罪で殺されてしまうかも知れませんね、と話しあいました。私は、足に腫れ物があってアメリカ軍が上陸した後家族を連れて避難するのは非常に困難なので、上陸以前に家族を避難させなければいけないと思い家に泊めてある隊長に相談して荷馬車も自分のものがあるから、二、三日では必らず戻ってくるという約束で認めてもらい、そして母ひとりは家に残こして今帰仁へ向かったのでした。しかし、アメリカ軍は上陸したし、橋は壊されたからとうとう帰れなかったのです。
収容所生活
アメリカ軍は、今帰仁の私達のいた謝名、平数附近をキャンプにする予定だったようですが、一週間に一回位の割で友軍の夜間斬込みがあるので、そこを取止めて六月十九日私達は久志村の大浦崎に移動させられました。
大浦崎の収容所生活は、これまでに比べて食糧に乏しく苦労しました。そこには七か月もいました。福山の民間収容所に親類の者がいて、私の消息を知った時、自動車で迎えに来てくれました。福山には、村出身の者が沢山いました。そして大きな収容所なので、それぞれ各区、各班別に組織されていました。私は十二区に編入されましたが、村での実績があったのですぐに書記に推されました。そして十一区の方から毛布の配給を貴いました。
二、三日経って十二区の方からも毛布の配給がありましたので、私は、十一区で貰ったばかりだから、大家族で困っている人にあげて下さいといって返しました。知人には馬鹿なことをするもんだと笑われました。しかし後で救済部長によばれて「きみは配給の毛布を返したらしいな」というので、その事情を説明したら、今度は特別に私の家族全員にアメリカ軍払い下げの真新しい服を支給されました。ほとんど着のみ着のままの状態でしたから大変うれしかったです。毛布をかえして大変得しました。それから私は、福山で救護院の仕事をさせられました。すると各区長などが、わいろを使っていろいろな物をねだったりしよったが、私は「そんなことはできない」とはねつけました。そのかわり当然やるべき人には八方手を尽くしてやってあげました。収容所で火事があって九八名が焼け出されたことがありましたが、救済部では毛布が貰えず、私の方で支給したこともあったので、元の部落に引き揚げてきてからもその時のお礼をいいに来る人もいました。救護院で働いていたほとんどが、「戦果」と称して帰りしなカバンにいろいろな物を持ち帰るのが普通でしたけれども、私にはどうしても持ち帰ることはできず、一度も「戦果」をあげたことはありませんでした。救護院だからいくらでも物資はありました。
福山の収容所は、二区が一番大きく二千名位いました。十二区までありましたから一万人以上はいたはず。この福山に約四か月位住んでいました。その内、元の村役場から他村の者に牛耳られているから早く帰るようにと指名されて、六、七名はみんなより先に帰りました。その時は、越来村の嘉真良が中心になっていました。それから二か月位経って、福山からは、諸見の収容所の方に移動してきました。嘉真良では菜園部の方にいたので、人夫はいくらでもいたから一般作業というかたちで大蚊の野菜類を作らしました。大浦崎などではとても苦しかったが、嘉真良にきてからは食想も豊富にあったから本当に楽でした。
私が大浦崎の収容所にいる時は、ずいぶんアメリカ兵にこき使われました。毎朝、アメリカ兵が丈夫そうな人を適当に選んで、班を作って各班毎に道路補修、収容所を作るための伐採、歩いて数時間もかかる畑からイモ掘り作業などをさせられました。私は体格ががっちりしていたのでいつもきつい仕事を割当てられて閉口しました。夜通しイモを担いで歩かされたこともありました。
帰村後
山内部落に帰ってからは、アメリカ軍の風紀が非常に乱れていて大変困りました。特にこの辺は部落がすぐに林に面しており、畑もそのような中にありましたからよくアメリカ兵に女性が襲われたようです。林の中には、よくアメリカ兵が出入りしていたので、毛布などがそのままに置かれている場合がありました。私も二枚も拾ったことがありました。
戦時中の出来
事戦争というのは本当に恐ろしいもので、いろいろな出来事があったようです。この部落近くの人が、自分の妻の実家の方に子供三人連れて避難していたらしいが、妻の兄が、アメリカ軍の上陸直後、アメリカ兵に捕院されたら虐殺されるから自分達で死んだ方がよいといって草刈鎌で自分の妹やその夫、子供達三人を次々とノドを切って殺し自分も死ぬつもりが死に切れず、戦争にも生き延びて現在まで生きている人がいるそうでここらでは大抵の人がその事を知っています。
また私の近所の人で退役軍人でしたが、この人はいつもとぎすました包丁を隠し持っていて、私の家の壕に隠れていたそうだが、アメリカ兵がその人を見つけて、捕虜にしようとした時、その包丁で突き殺そうとしたので逆に射殺されたという人もおります。
今帰仁村の謝名部落の山中に避難小屋を作って隠れて生活している時、ある日アメリカ兵がいなくなる晩を待って山道に立っていると十名位の民間人に変装している日本兵の一団と一緒になりました。彼等は、日本刀やハサミのネジをはずしてこしらえた「槍」をそれぞれビンロウの葉などに包んで、これから塩屋の方へ行こうとしていました。彼等は私が何も持っていないのをみて「貴様は武器も持たずに山をおりるのか」といったので、私が「そんな槍でアメリカ兵と闘えますか」と逆に聞いたら物すごく怒り出して、ひどい目に会ったことがあります。本当に忘れられません。ハサミの槍なんて見たこともきいた事もありませんでしたからあれでは戦争ができるはずがないと思いました。
私たちにとっては、友軍がこの沖縄にきたから、アメリカ軍との戦争に巻きぞえにされて多数の住民が殺され、私たちのように生き残りはしたが、非常な苦しみを味わされたという考えが非常に強いです。私のように日本軍にいじめられた者にとっては、復帰して日本の自衛隊が沖縄へ上陸してきたら、また大変なことになりはしないかと心配です。
米兵に襲われて
越来村比嘉○○○(四八歳)
ペルーから引揚げ
私は二十二歳に結姉して、三八歳頃には夫と一緒に南米のペルーへ移民しました。そこでは農業を営み非常な苦労を重ねて夫婦で頑張ったおかげで、なんとか一応の生計を立てることができるところまでこぎつけました。
ところが、そこへ日本とアメリカの戦争が起きてしまったのです。そしてペルーにいる日本人は男性はアメリカに捕虜にされて、女性はみんな辱かしめられるといううわさが流れるようになったので、沖縄へ引き揚げる決心をしました。しかし一応の財産を築いてあったのでそれを捨てていくのは心残りがしたので、夫と長男はペルーへ残ることにして、落着くまではひとまず私と二男、長女、次女の四人が沖縄へ帰ることにしました。
実際に沖縄へ着いたのは、戦争前夜の昭和十九年の七月頃でした。まだその頃は空襲はなく、陸上は平穏そのものでした。私が沖縄へ引き揚げて三か月位たった十月から空襲が始まりました。
空腹の兵隊それで私は、避難壕を掘って、親子一緒にその壕で寝起きする日が多くなりました。私の家の後方は、ちょうど谷間になっていて、その谷間から山の方に、友軍が横穴壕を掘って、そこを「炊事場」(スイジャー)として使っていました。この山内部落に駐屯していた友軍は、馬を沢山飼っていて、いつも私の家の前から、号令をかけながら乗馬の訓練をしておりました。
公民館は部隊が事務所を倉庫として使用しており、供出米や砂糖がぎっしり詰め込んでありました。しかしそれは緊急のために貯えてあったのかそれには全然手をつけず結局アメリカ軍が上陸した時にも持出すことができず放置してしまいましたが、友軍は日頃は非常に節約しているようでした。カズラの葉っぱやその茎まで食べているようでした。それでいつも腹をすかしている様子で、上官の目を盗んでは、それぞれの民家にあがり込んできて「何か食わせろ」といって食べて行きました。空襲が激しくなって自分達の食概も少なくなっているのに供出は否応なしにとられるし、子供達のためにイモを炊いたり、油みそ(アンダインスー)を作っても、食事時間をみはからってやってくる兵隊に全部食べられてしまい本当にいやでしたが、しかしことわることはこわくてとても出来ませんでした。
艦砲射撃を見物昭和二十年の三月頃になりますと艦砲射撃や飛行機から機銃がパラパラと撃つ回数が増えてきました。私達の壕は、友軍の炊事場と山をへだてた所に作ってありましたが、砲撃が止むと子供達を壕に残こして家に食糧とりにでかけたり、イモを掘りに行ったりしました。ある日、謝刈の山の方に食糧捜しにでかけた時、林の中のあちらこちらに友軍の兵隊が海の方を見ていたので、私も木に登って海の方を見ますと、アメリカの大きな艦隊が沢山停泊していました。しばらく見ていると兵隊にいきなり引きずり降ろされ「キサマー」と言って顔をうたれて追い払われたことがあります。
夜の艦砲射撃は、全部の星が流れていくみたいな花火にも似ていてとてもきれいでした。恐らく首里、那湖方面に射撃していたのではないかと思います。
破片拾い遊び
その頃までは未だそれ程戦争が恐ろしいものとも考えられず、私達がひそんでいた壊の近くに艦砲の弾が「ドカン」と大きな木に命中して、木が吹っ飛んでしまいました。すると私の十二歳になる二男坊が「アレーワームンドー(あれは僕のだよ)」といって、いきなり壕の外へ飛び出していきました。多分その頃、子供たちの間では、爆弾が落ちた附近から、その破片を拾い集める遊びでもしていたのでしょう。その時はびっくりしましたが、それ程気にとめずほったらかしでした。
艦砲による犠牲者空襲が激しくなった頃、兵隊に安全な場所へ避難した方がいいよと忠告を受け、村の疎開命令に従って避難しようと考え親類の人たちとも相談したが、いろいろ話合って食紙のことを考えると子供達をかかえているから、結局は山内部落にいた方がいいということになり疎開するのは取止めにしていました。ところが、三月も半ば過ぎになると、この部落内にも大きな穴があく程の爆弾が「ドカンドカン」と昼夜の別なく落ちるようになり、とうとう三月二十九日には部落に犠牲者が出てしまい私もこれ以上ここには居れないと思い避難することにしました。
私は昼は危いから夜逃げるつもりで、三十日の朝早くから食糧確保のためにかけずり回わりました。その時この村に駐屯していた友軍は、アメリカ軍の上陸が間近だと感じたのか、どこかへ移動してひとりも見当りませんでした。それで、私の家の裏手の方にある軍の炊事場へ行けば残していった食糧があるかも知れないと思い昼過ぎにひとりで行って見ました。
その炊事場へ着くと、これまでみた事もない大変恐ろしい光景にぶっつかりました。多分部隊が移動する前に、直撃弾に当ったのでしょう。炊事当番の兵隊さん三人が、爆死していたのです。ひとりは、毛布に坐って雑誌でも読んでいたのか、雑誌のページがバラバラに飛び散っており、そこらじゅうに肉片が散らばって、それが附近の畑や木の幹にもへばりついていました。両手もちぎれてヘソの下から失くなっている兵隊さんもおり、またもう一人は、土手の方に吹き飛ばされてもたれたかっこうになっていました。誰かの足が木の枝にぶらさがっていました。私は今でもここを通る時は、この木の下に遺骨が落ちていないかすぐ目がそこへいってしまいます。このような生れて初めてみる恐ろしい光景にガタガタふるえながら兵隊さんの毛布をとって、胴体にかけてやりました。
そして壕の中に入っていくと、それまで沢山置いてあった米とイモはもう少ししか残っていませんでした。それを持っていたカマスに入れて持ち帰り、もう一度この食梱を取りに来るつもりで、それを親類の人に分け与え、今度は、夕方の四時過ぎに再びこの炊事場へ来てみると毛布をかけてあった死体は、その毛布ごとなくなっており、壕の中に残っていた米とイモも全部なくなっていました。
一体誰がここへ来たかは全くわかりませんでした。友軍の兵隊は私たちが避難する二日前ぐらいから姿を消していました。
避難開始
その日の夜、私達親子は避難を始めました。なにしろその日はみんな思い思いの所へ逃げていこうとしたので、大変な人出でした。それで私は夜のことだし子供達が迷い子になってはいけないと思い一本の綱を子供達四人の腕に結び合わせて、嫁から外へ出ました。真暗闇の山の中だから歩くのに難儀しましたが、照明弾があがる毎に「好都合だ、さあ今走りなさい」といって、道を捜したものです。私は以前から、夜間農作業をする場合、この照明弾があがると真昼みたいに明るくなるのでそれをたよりにイモ掘りをしたことがありましたが、後でその事を他人に話したら「あの明りは人を見つけて殺すために照らしているんだよ。あんたも機銃でうたれて殺されるところだったね。他人は照明弾があがるとかくれるというのに」といわれてびっくりしてしまいました。
日本軍の退去命令こうして島袋に出ました。そして胡屋の方へ向けて逃げようとしたら、そこへ友軍の兵隊が現われて、「もう胡屋方面へ行くのは危険だから、南の方へ行け」といわれました。しかしあんまり行ったこともないところへは行きたくなかったので私は比嘉部落を通って「トゥイシジ森」(今の「子供の国」がある中央公園)へ辿りつきました。そこは自然壊が沢山あるのを知っていたから、そこへ足が向いたのでしょう。
そこには友軍がだいぶたてこもっていて、民間人を追い返していましたが、その晩だけはそこで夜を明かしました。
私はこの先どうなるかわからないので持っている乏しい食糧を節約するため、子供たちには少しずつ食べさせても私は何も食べませんでした。初めての避難でしたから、緊張したせいか、ひもじさる感じませんでした。
友軍は、ここで敵を迎え撃つつもりなのか民間人は邪魔だからすぐ出て行くように命令したので、私達は翌日早く、自分の部落へ戻り、そこの壕で避難生活するつもりでいました。部落へ着くと、大きなガジマルの木が吹きとばされていて家もだいぶ焼けていました。
もう部落内は恐いので空いている壕にひそんでおりましたが、爆繫が一段と激しくて、その頃、まだ家に残っていた年寄り達が数人死んでいます。
米軍に捕虜こうして「トゥイシジ森」から追いかえされて二晩過した四月二日の昼過ぎ、突然壕の外で「カモン、カモン」という声がしたので外へ出てみるとなんとアメリカ兵が三人、鉄砲をかまえて立っておりました。
こうして私は上陸二日目に捕虜になったのですがそれからすぐに歩かされて、部落の西側の「クシアメク(後天久)」と呼んでいるところへ集められました。そこにはもう四、五十人も民間人が捕虜にとられておりました。
そしてまもなくみんな歩かされて、着いたところは、砂辺の浜でした。そこは民間人の捕虜収容所になっていました。なんにも敷いていない大きなテントがあってそこへ入れられました。もう夕方になっていました。
日本軍が持出すことができず残していった米をアメリカ兵が捜し集めてきて、それをすでに前日捕虜になった民間人におにぎりの炊き出しをさせてくれました。おなかもすいていたので大変おいしかったことを今でも覚えています。その晩は、テントの中の砂の上で寝かされました。テントに入れなかった人はそのまま露天に寝るしかありませんでした。
翌日、また歩かされて園田につれていかれました。その間、アメリカ軍の飛行機が飛んでくるとみんな草むらに飛び込んで身を隠し、アメリカ兵も私達同様に隠れていました。こうして園田に着くと、今度は泡瀬まで歩かされました。
収容所生活私たちは、泡瀬の海に放り込まれるのではないかとみんな不安な気持で歩いていきました。しかし泡瀬に着くとそこの部落は収容所となっており、もうかなりの人が入っていました。そこでは三、四週間位滞在しました。その間に班を作って自分の部落に食糧やいろいろな日用品を取りに帰ることも許されておりました。それにはアメリカ兵がひとりついてきて、他のアメリカ兵に乱暴されるのを防いでくれました。丁度その頃は山桃が熱する時期でしたので、私の屋敷の桃の木も鈴なりでした。それで私が木の上に登って取っているとアメリカ兵が怒り出しておろされてしまったこともありました。
配給には大豆もあったので、みんなに分けるとわずかにしかならないので、それで年寄り連中が豆質を作って、その豆腐を分けあって食べました。
五月の初め頃には、具志川の塩屋(マースャー)の収容所に移動させられました。そこでも食糧は乏しかったので、自分たちでイモや野菜を作ったりして自給するようにも働きましたが、とれるまでは時間がかかるので大変でした。
それで、ここでも十名ぐらいずつで班が編成され、そして各班毎に沖縄人ガードが一名ずつ付いて、イモ掘りに行きました。イモ掘りといってももう畑にはほとんどない時期には、畑や道端にポツンポツンと生えているカズラを捜し当て、そこを掘ってイモを掘り出すのですが、大きいので親指の三、四倍、普通は親指ぐらいのイモがたまたま見つかる程度です。
こうしてみんなが苦労して持ち帰ってきたイモは班長のところで一か所に集められ、各人に平等に配給され、自分がどんなに沢山集めた時でも、手許に配給されるのは、せいぜい四、五個ぐらいでしたから、子供達はいつもひもじい思いをしておりました。
それで私は一度、H・B・T(アメリカ兵隊服)にはあちらこちらにポケットが沢山ついているので、イモをこっそり持ち帰ろうとしたのを見つけられて取りあげられたこともありました。
そこで割当てられた私達の住まいは、一軒の小さなカヤブキの家で六畳と四畳半の二部屋に男女約三十人も収容されました。だから寝る時は大変でした。先ず男性が適当な場所を選んで投ころがると残こされた入口の方に私達女性と子供は身体を寄せあって、ひざも折り曲げて寝たものです。
それから諸見の収容所にしばらく収容された後に、元の部落にそれぞれ帰されました。
しかし元の部落での生活は、女性がアメリカ兵から身を守るための戦さでした。
米兵による暴行ある時、自分の畑で親類の比嘉カマさんと一緒にそれぞれクワを持ってイモ掘りをしておりますと、畑の近くに身をひそめていたのか突如白人兵が現れたかと思うとあっという間にかつがれて山の中腹あたりまで運ばれてしまいました。カマさんが一生懸命クワを持って追いかけてきてくれたが、どうしても人の背中にクワを立てることは出来なかったそうです。
私は、何がなんだかわからない内に山の中腹で肩からおろされました。そして前から準備してあったのかそこには、小麦粉やらタバコやら置いてありました。そしてその白人兵は身ぶりで、あれもこれも全部お前にやると示しました。
当時、食糧に困まっている女性が、食糧と引き換えに身体を許している人がかなりいるという話を聞いていたので、それを思い出したら私も幾分落ち着きました。そして身ぶりで、小麦粉もタバコも私のもの、ここは人目につくからヤブの方へ入りましょうという仕草をしたら、この白人兵は安心しきって自分から先にヤブへおり始めたので、しめたと思い一目散に家に逃げ帰えり難をまぬがれました。
戦争が終って、いろいろその当時の話を近所の人達とよく話しますが、友軍の悪宣伝にのってアメリカ兵に捕まったらむごい方法でみんな殺されると信じ込んでいた人がアメリカ兵に見つかった時、恐ろしさのあまり逃げようとして背後から撃たれて死んだ婦人がいます。
私なんかは非常にのんきな方で、「トゥイシジ森(中央公園)」から友軍に追い返えされて帰える時は、いつもと異なり、静まり帰えっていたので、中部での戦争はもうこれで終わったのかと思い子供たちに「イクサヤナーヤァカイケェーティサ(戦争はこれで終わったんでしょう)」といいながら帰ってきたもんです。だからあんまり友軍の宣伝を考えすぎた人は損をしたかも知れません。
手榴弾を投げつける日本兵
越来村山内内田○○○(四十歳)
避難中の恐怖
私はアメリカ軍が砂辺に上陸した日までこの山内部落にいました。その時私には二人の息子がいましたが、二人とも兵隊にとられていました。しかし一人娘が早い内に結婚していたので三歳になる孫と一歳の男の子の孫ふたりを私が預かっておりました。どうして良いかわからずマゴマゴしていたが、部落の人たちはほとんどどこかへ避難してしまったので、私も大事な孫を預かっているのでなんとか生き延びなければならないと思い、三人で安慶田の方へ向かいました。その部落の入口にさしかかった時、友軍の兵隊が飛び出してきて「嘉手納力面から敵軍がやってくるはずだからこの先へ進むな」と叫んで、いきなり私の方へ手榴弾を投げつけて爆発させました。
幸い孫にもケガはありませんでしたが、あまりの恐ろしさにふるえながら、一人はおんぶしてもう一人の孫の手をつないであわててもときた道を引き返しました。そして島尻の方へ逃げる以外には行き場がないと思い南下しはじめ、比姫部落にさしかかった時、知人のおじいさんに出会いました。おじいさんは消火用にといってバケツふたつに水を入れて運んでいる途中でした。私はこのおじいさんに島尻へ行くにはどの道が近道かと尋ねると「もう鳥尻方面は危険で行けないから、私らの家族の入っている場へ入れてあげよう」と親切にもいってくれたので私は「それでは私達をお助け下さい」と頼んで、このおじいさんについていきました。壕といっても墓のことなんですが、その入口までは行きましたが、私達には二人も幼な子がいるからかその家族が承知してくれず入れてもらえませんでした。それでこのおじいさんは別の知人の富田という家の弦に連れていってもらいそこではうまく入れてもらえました。
上陸二日目に捕虜その墓で私達は一晩過して、翌日(四月二日)早く起きると、墓の上にアメリカ兵が鉄砲を持って立っていて、私達みんなはその場で捕虜になってしまいました。それはアメリカ軍が上陸して二日目のことでした。
近くには沢山の墓が散らばってありましたので、それぞれの姑の上にアメリカ兵が立っていて「デテコイ、デテコイ」と大声で呼びかけて、墓の中にひそんでいた住民を、みんな集めておりました。
そして「新川橋」というところへみんなを集めて、そこへ坐るように命令されました。道の真中にみんなを並べて坐らされ、その向こう側には何十台もの戦車が並んでいましたので、みんなはこの戦車で押しつぶされてしまうんだと思い、恐ろしさにふたりの孫を抱きしめてガタガタふるえていました。その中には知っている学校の先生も混じっていましたが、「こんなに沢山の子供達もいるのに戦車でひき殺されてしまうのか」と大声で泣き叫んでいました。私はアメリカ兵に見つかってから泣き通しでしたので、その時は涙も出ませんでした。
実際、友軍の兵隊は、「アメリカ軍は民間人の捕虜でも戦車で下敷きにしたり、服を裂いたりするんだ」などと恐ろしいデマを飛ばしていたので、私達はそれをすっかり信じ込んで捕虜にとられた時はいよいよ大変な目にあうのだと思っていたのです。
島袋民間人収容所しかしアメリカ兵は別に何もせずに、ただ歩くように命令して連れて行かれたのは島袋部落の方でした。島袋が民間人捕虜収容所になっており、そこのまだ残っている民家にそれぞれ収容されたのです。ひとつの民家に何十名も押込められた収容所生活がこの日から始まりました。食糧はアメリカ軍が、友軍壕などから友軍の残していった米などを取ってきて配給してくれるのですが、それはわずかの量でしたので、空家から食物を収して来なければどうしても飢えをしのぐことはできませんでした。
それで、収容所の中で五~十人ぐらいの班を編成して、それぞれにアメリカ兵が設術についてきて各部落に食糧あさりへ行くことになりました。
私は捕虜になった三日後に、自分のシマの山内部落へ行きました。すると部落内に幼い女の子がウロウロしているので近づいてみると親類の比返カマさんの娘さんでした。話しを聞くと、「二、三日前、嫁の前の山桃の木に友だちと登って桃を取って食べていたら、母さんが『食糧とりに行くからおりておいで』と言ったが、夢中になっていたのでおりなかったら母さんと兄は家へ帰ってしまい、それっきりいなくなった」というのです。私は多分捕虜になったのだろうと思い、島袋へ迅れて帰りました。私と一緒に見つけた近所の人が預かることになりました。というのは私には幼ない孫を二人も連れているが、その人には子供がいなかったので親切にそうしてくれたのです。しかし数日経つとめんどうを見きれないから引き取ってくれと言われ、他人ではなくて私の親類の子供だから、誰もめんどうを見てくれる人がいなかったら私が引き取るほかはありませんでした。親元に引き取られたのはそれから六か月ぐらいも経った後です。私はそれからヤンバル(山原)の福山の収容所に連れて行かれ、それから数か月後に園田の収容所に戻ってきました。その頃にこの娘は親と再会したのです。
私が島袋の収容所にいて、山内部落に食糧とりにきた時、ある日、アメリカ兵が集団で乱暴しにやって来ているよというので食糧も捨てて山の方へ逃げ込みました。すると友軍の炊事場があった近くの私の家の桃の木に大きな黒いものがぶらさがっていました。豚の足に似ていると思い近づいてよくよく見ると人間の足のようでした。爆弾の穴もあり炊事場も吹き飛ばされていたので友軍の当番兵がやられたんだなと気がつきました。そこらに油が吹き出しておりました。
国頭の福山には六月頃にでかけました。そこでは食糧が乏しくよくイモを盗みに行ったもんです。そこでは私のおじいさんも一緒だったので、そのおじいさんに盗みをしてはいけないときつくしかられたもんです。
米兵の暴行収容所生活中は、私達女性が、食糧捜しに行く時や、作業する時はガードがついてくるので、はぐれない限りはアメリカ兵に乱暴されるというのは少なかったのですが、元の部落に戻ってからは大変でした。夜中にアメリカ兵が銃を持って集団で部落におしかけてきて家で寝ている女性を連れ出すこともあったので、部落では自替団を作って、彼らが部落に入ってきたら、半鐘を鳴らして各家に知らせて用心させるようにしておりました。鐘が鳴ったら女性は、天井や床下に隠れたもんです。
元の部落に帰ってからのことでした。ある日、私達二、三十人の男女が、共同で農作業をしていました。三時休けいの時、みんなは車座になり、お茶を飲みながら思い思いに談笑をしていました。そこへ突然鉄砲を持った白人兵が現われて、私の兄の十六歳になる娘を引っぱり出していやがるのを力ずくで山の中へ連れ込んでいきました。私達には鉄砲を向けるので手の出しようもありませんでした。
するとしばらくして班長が「あの娘は今殺される筈だから、自分は班長としての責任があるから見届けてくる」といって後をつけていきました。すると私のおじいさんが大声で「M・Pだぞ!M・Pだぞ!」と叫んで後を追い、それに答えて班長は「どこだ!どこだ!」と叫んだので、この白人兵は娘を置き去りにして山の中へ逃げ込んだそうです。連れ帰った娘の顔は、ひねられて真黒になっていました。
銃後の生活それにしても私達は島尻へ逃げた人たちに比べると苦労は少なかったようです。戦後島尻での戦さ話しを聞くと身振いしました。私たちも、比嘉部落で知人のおじいさんに引きとめられなければそのまま島尻へ逃げていたはずですから。そうなっていたら死んでいたかも知れないし、たとえ生き延びれたとしても大変な苦労をしたはずですから。
だから友軍とアメリカ軍の撃ちあいしている戦争はみたこともありませんでした。ただ私達が、島袋収容所にいる時、朝になると沢山のアメリカ兵が、首里、浦添方面に押し寄せていき、それが夕方から腕になると押し返されてくるようでした。ときたま小高い丘の上でアメリカ軍が出陣するのもみたことがあるし、又帰ってくるのをみたことがあります。まるで大波が寄せてはかえす感じでした。しかし戦争というのは、本当に二度とやってはいけないと思います。多くの罪のない人々が殺されてしまうんですから。
上陸前にも防火訓練や竹ヤリ訓練などをさせられましたが、全く時間の無駄使いをさせられたもんです。実際に空襲にあって家が焼かれてしまいましたが、家に火がついているのを見ても、消すどころか弾に当たらないように逃げるのが精一杯でしたから、何んのために多くの時間を訓練にさかれたかわかりません。
戦後は、アメリカ軍の基地が私たちのまわりにあって、軍用機が墜落したり、アメリカ兵が基地の近くで弾拾いをしたりしている婦人を射殺したり、女性を乱暴して殺したり、また去年は毒ガスの輸送をするからといって何十日も暑いのに疎開させられたりしているのを見たり聞いたりすると、戦争中や終戦直後のことが、きのうきょうのように思い出されて、本当にいやになります。
護衛つきの食糧捜し
越来村山内比嘉○○○(五十歳)
日本軍の壊追い出し
私は、三月三十日アメリカ軍が上陸しそうだと村中が大騒ぎになったので、持てるだけの食概を持って、十五歳の次男と九歳の長女の二人を連れて、「トゥイシジ森」(現在の中央公園)の自然環に避難にでかけました。その途中、島袋部落の青年二、三十人が、竹ヤリをそれぞれ担いで戦さに行くという集団にも会いました。
その「トゥイシン森」に着くと友軍が沢山いました。そして友軍には「お前らがここにいると邪魔だからどこかへ行け」といわれ、着いたその腕だけはそこの壕に泊まったけれども翌朝早く、また山内部落に戻りました。
部落の家はだいぶ焼かれており、私の家の角にも爆弾が落ちて半壊になっておりました。
それで自分たちの塚も危ないと思い安全そうな他家の墓をあけて壕代わりに使っておりました。そして食糧とりには家へ戻っておりました。
娘を残こして捕虜私が捕虜になったのは四月二日でした。その日九歳の長女は壕に残していて、十五歳の次男と二人で食継とりに家へ帰っている時、突然家の前に三人のアメリカ兵が現われて、「カモン、カモン」とついてくるように手招きしたので、それについていきました。午後一時頃でした。そして「後天久」というすぐ近くの場所に連れて行かれましたが、そこには沢山の住民が集められており、そして砂辺の浜まで、歩かされました。
私は、すぐに帰されると思い気軽について行ったのですが、遠くまで歩かされそうになった時、これは大変だと思いました。壕には九歳の娘をひとり残してあるし、着のみ着のままでもあるから、壊に引き返えして娘と着物を取りにいこうとしたら、すぐに銃を向けるし、言葉も通じないので後髪を引かれる思いで集団で歩いていきました。
そして砂辺に逃れて行かれ、そこで一晩夜を明かしたら次の日は園田を通って泡瀬の本部落の方へ連れて行かれました。
泡瀬収容所泡瀬は島袋と同様に民間人の捕虜収容所になっていたのです。そこでは、大きな民家には四、五十人も詰め込まれて、牛小屋や山羊小屋にも収容されました。食幅は殆んど誰も持っていなかったのでアメリカ軍の配給だけでした。一日に四、五人あたり米一合の割で、小麦粉は一日に一人あたり一合の配給はありました。しかしそれだけではどうにもならないので、アメリカの憲兵に護衛されて、各地に食糧捜しにでかけました。私は泡瀬から歩いて二回程、自分の山内部落まで食糧とりにきたことがあります。設術の憲兵の目を逃がれてしばらく自分の部落に帰って、自分の家で過ごす人もいましたが、そういう時に他のアメリカ兵に見つかったら乱暴されたりして大変だったそうです。
自分のシマ(部落)に帰ったりしている内に、娘の消息がわかり一安心しました。泡瀬の収容所からは具志川の塩殿の収容所に移されました。もう味噌や塩が欠乏していたのでなんとか手に入らんもんかと各部落を捜し回わりました。
戦々恐々の食糧捜しある日、北中城村の渡口部落の弦には、まだみそや塩が残っているらしいといううわさがあったので、女ばかりで十名ガードも付けずに出かけました。残っている民家やどの嬢も荒らされて何んにも残っていませんでした。しかし、イモやゴボウが実っている畑があったのでみんなそこの畑に入って一生懸命掘り出していました。
私がゴボウを引き抜いている時、そこへ黒人兵が近づいてきていたようだが、仲間の人達は「ウワァグワァガヒンギティチョンドー、ウワァドゥ(黒豚が逃げてきてるよ!豚よ!)」と大声で叫んでいたので、この人達は冗談をいっていると思い笑っていましたら、突然うしろから近づいてきた黒人兵に抱きつかれて、つかまっていました。
そして川原まで引っぱって行かれました。仲間の一人を除いてはみんな若い連中だったから大通りに逃げてしまいました。親類の一人がこの黒人兵の鉄砲を奪いとり、そしてその人が、「M・Pがきたよ!M・Pだよ」と叫びながら石を投げつけてくれたので、とうとう黒人兵は立ち去って行きましたので、助かりました。
その後も、農作業している時でも若い女の子を見つけたらアメリカ兵は、すぐに引っぱっていくから、戦争が経ってもビクビクしていました。
しかし、その点では友軍の兵隊にもたちが悪いのがいました。十・十空襲後のある晩、私は親類の家の庭先のガジマルの木の下で四、五人の近所の人達と世間話に花を咲かせていました。すると兵ばらしい足音がしたので、みんなは声をひそめていると私達のいる屋敷へ入り込んできました。私達が見ているのも気がつかずに、その家にそっとしのびこんでいきました。そこには十六歳になる娘ざかりの子がいたので、その子のつもりだったのでしょう。いきなり寝ているのを抱きかかえるようにして外へ飛び出してきたが、それがなんとおばあさんでした。おばあさんは肝をつぶして大声をあげ、私達もそこへ姿をみせたので、あわてて逃げていきましたが、その兵隊は上官でした。この兵隊は後では私達の物笑いの種になっていました。「いくら暗がりとはいえ孫とおばあさんを間違えるなんて」といわれておりました。
私は、避難する時に島袋部落の背年達が、竹槍を持って嘉手納の方へアメリカ兵と戦さに行くのを見かけましたが、これで本当に戦争に勝てるのかなあと思いました。あんな竹柏では姓でも刺し殺せないはずだろうになんでアメリカ兵が殺せるもんかと思ったからです。
アメリカ軍は、空からも海からも、一日中空襲したり艦砲射撃したりしているのに友軍は壕から壕へ逃げ回っていたのですから。「大和世(ヤマトゥユー)」になったら、また日本軍が入ってくるそうだが、また戦さが始まるんではないかと思います。
沖縄にあんなに大きな戦争が起きるとは夢にも思わなかったのに友軍が沖縄へ入ってきたために沖縄でも戦争が始まり、みんなが言葉では伝いあらわせないほどの苦しみを受けたのですから。
徴用から解放されて山中避難
国頭に避難、石川収容所、宮森小学校ジェット機墜落事故
美里村石川山城○○○(二三歳)
幼な子を抱えて徴用
私は、子供ひとりかかえていたけど殆んど毎日読谷飛行場に徴用にとられました。毎日切早くから読谷まで歩いて土運びなどさせられて、帰りは晩になってしまうのでクタクタでした。飛行場づくり以外にも近くの海岸で海軍の壕掘りをさせられました。
海軍塚掘りの時は、まだ二〇になるかならないかのとても若い兵隊達と一緒に塚掘りしました。当時私は今の宮森小学校の近くに住んでいて、そこは美里村字石川となっておりました。そして二五歳までの女性は「処女会」に入会しなければならず私はすでに結婚はしていたけれど「処女会」に入っておりました。そして処女会長が上からの命令を受けると、私達に明日はどこそこに奉仕作業があるから出るようにと連絡しておりました。
農作業中に空襲
十・十空襲の時は、私は海岸のすぐ近くにある畑でひとりイモ掘りをしておりました。すると編隊を組んだ無数の飛行機が飛んでいるのが見えたが、友軍が飛行訓練しているものと思い、気にもとめずに一生懸命イモ掘りをしていました。
しばらくするとすぐそばの砂浜にパッパッと光るものが見えました。なんだろうと思ってよく見るとその飛行機から機銃をバラまいていたのです。そこで初めて敵機の空襲にちがいないと思い、あわてて畑の側のみぞに飛びこんで身を隠して飛行機が去るのを待ち、イモ掘りもやめて家に逃げ帰りました。
国頭に避難
この空襲の後はたびたび空吸がくるようになったので、防衛隊にとられている兄が心配して家に帰ってきて、「早く避難しないと危ない」といって姉妹や母や子供たちを私達の本家の羽地の家に連れていってくれました。
羽地では屋敷の中にも大きな壕を掘って、いつでも避難できるようにしてありました。そこで三か月ぐらい過しましたが、しばらく平穏になっていたので、「もう戦争はすんだのでしょう」といって、私とすぐ上の姉は子供も連れて自分の家に戻ってきました。羽地には一番上の姉とその子供、祖母達が残りました。
石川岳に避難小屋
石川に戻ってからしばらくすると、又空襲や艦砲射撃が激しくなってきました。目の前の金武湾には、船が沢山停泊していたので、それらを目がけて、爆撃してくるので、部落の方も危くなり、部落に残っている人たちは後方の石川岳の山中に避難小屋を各所にこしらえ、そこで雨露をしのぎながら避難生活を始めました。
まだアメリカ軍が上陸する以前のことでしたから、爆撃の止む夜間にはみんな山からおりて部落に帰り、食事を炊いたり、食糧を避難小屋に持ち運んだりしました。
私達の避難小屋には、私の姉二人と母と幼ない子供たちが六人も入っており、主人達はみんな兵隊と防衛隊にとられているので男手が全然なく、大変苦労しました、特に妊娠八、九月目の姉と乳のみ子をかかえた姉がいましたから大変気を使いました。乳も出なくなってしまいミルクの抵も限度があったのでそれに代わるものとして「ウムクジ(でんぷん)」を溶かして飲ましたものです。
小屋を転々その上、姉の子供たちがわんぱく盛りであったから、艦砲が落ちてくる時でも山の中を遊びまわって、砲弾の落下する音をまねて近所のおばあさん達をびっくりさせたりするので、「あんたがたが近くにいたら私達まで殺されてしまうからここからはどこかへ行ってくれ」としょっちゅう文句ばかりいわれていたので、転々と小屋をかえなければいけませんでした。同じ部落の人に追い出されるのは非常に苦痛でした。
米軍上陸を目撃アメリカ軍が恩納村の仲泊から上陸するのを石川岳の方でみておりました。自分達の力に来るような気がして、あわてて更に山奥の方へ逃げ込みました。
山の中には、日本兵がウロウロしていました。民間人に変装していつもガサガサ音を立てながら雑木をかきわけて歩いているのをみかけました。そしてときたま小屋に入り込んできては、「今夜は、アメリカ軍に特攻をかけるから腹ごしらえをしなければならないので食事をくれ」といって私達の乏しい食糧をとっていきました。避難民はみんなこの手で被害にあっています。
しかし避難民に乱暴したという話はききませんでした。一度私に「姉さんアメリカ兵がこの山にもやってくるから、顔にナベのススを塗って外歩きしなさい」と云ってくれたのを覚えています。
山中で射撃戦実際にこの山中にもアメリカ兵が入って来るようになりました。そして私達の避難小屋の近くでも双方が撃ち合いしているのが聞こえました。その場面を見たことはありませんが、ただ「ポーン、ポーン」という音で確かめただけですが、それ以後はこの山中にも日本兵が手榴弾で殺されている者や鉄砲で撃たれて死んでいる者が増えてきました。
友軍の兵隊さんの中には親切な人もいました。私達が子供を沢山連れているのをみて「私達はこれから北部の方へ移動するから、私達の入っていた小屋がよいですよ」といってくれました。
親切だった米兵
アメリカ兵にも初めて出会った時は、非常にこわかったけど、大変親切な人でした。あちらこちらで女性が乱暴されたという話も聞きましたが、私の場合はカツオ節などをくれたりしたけれども失礼な態度はとりませんでした。
私達が捕虜にとられたのは、六月のなかば頃でした。一人のアメリカ兵が避難小屋にやってきて、「この辺の避難小屋は全部火をつけて燃やすことにしているからすぐに石川収容所の方へおりて行きなさい」という意味のことを手まねで話しましたので、私達も手まねで、「今昼ご飯を炊いているからそれを食べ終わって荷物も取りまとめてから山をおりるからそれまで待って下さい」と頼んだら、ちゃんと聞いてくれました。
多分各所に避難小屋があったら日本兵がそこを根城にするので全部焼こうとしているのだと思いました。アメリカ兵でも、どこにひそんでいるかわからない日本兵を恐わがっている様子でしたから。アメリカ兵が逃げていくのは私もみたことがあります。私達が山をおりる時は、このアメリカ兵はカマスに入れた私達の荷物を担いでくれました。大変良い兵隊さんでした。
避難生活で元気回復
こうして避難生活を終ったのですが、私達みんな無事でしたが、無事どころか私の場合、日本軍に徴用にとられ長女の芳枝の面倒を見ることができず栄養失調気味で大変やせ細っていました。
しかし、山中で避難生活を始めてからは、日本軍に徴用にとられることもなくなり、ずっと私が面倒をみるようになったので、捕虜になった時は、からだの調子を取戻しふとっているぐらいでした。だから私の場合は、避難生活の方が、そのような点ではかえってよかったです。
我が家は収容所
石川は部落全体が収容所として使用されていました。幸い私の家は元のまま残っていたので自分の家へ帰ったら、そこには何十人もの人がぎっしり入っていました。結局私たちは、四畳半の座に三世帯入ることになりました。自分の家だけど、全く自由には使えず、自分の家ではないのと同様でした。
姉のお産
こんなに老若男女がひしめきあって住んでいる自分の家の収容所で、数日後に姉がお産したのです。みんなが家にいる時でしたから大きな子供達もいるし私の方が本当に恥しかった。産婆もどこにいるかわからないので、自分たちで処置することにしました。誰かが、ヘソの緒を切る長さを知っていたので、それを切ろうとしたら道具がなく、仕方がないのでたったひとつあったサビだらけのハサミで切ってしまいました。しかしどうもなかったです。
軍作業生活の始まり
収容所生活では物資には困りませんでした。アメリカ軍からはいろいろな配給をもらいました。私の家の隣りが今の宮森小学校でそこはアメリカ軍の部隊になっていました。そこの上官が私達にミルクや離詰など特別によく持ってきてくれました。
収容所では各班別に組み分けして、各人がイモ掘り作業で拾い集めてきたイモをみんなが平等に分けあうことにしていました。いろいろなところまでいきました。遠くは天願までも行きました。
それから私は、軍作業に出るようになりました。最初は西恩納にある部隊の洗濯班に入り、食べ物も次第にぜいたくになり、山をおって本当によかったと思いました。
その部隊が本国へ引き揚げてしまったので、次は嘉手納の軍作業へ出ることになりました。そこでは炊事部、メスホールで働くようになり、私の場合は食粧難で苦しむということは全くありませんでした。
再婚話
これまで私は嫁ぎ先の家にいたのですが、主人はなかなか復員してこないので、私の母や姉達が、「あなたは未だ二三歳で若いのだから、いつまでも帰ってこない人を待っても仕方がないから家に帰ってきなさい。室も空いているから」というので子供を連れて実家に帰りました。嫁ぎ先にいつまでもいたら再婚できないからということでした。そして親類の人などがいろいろ再婚話を持ってきてくれましたが、私は主人の死亡通知がきたらしかたがないので再婚するつもりだったが、消息がわかるまでは絶対に再婚しないつもりで周囲の話には耳を貸しませんでした。
戦後四年目に夫と再会
戦後四年経った一九四九年、長女の芳枝が九歳の時に主人がひょっこり引き揚げてきました。私の同級生だった人に三名も主人が帰ってくるまで待てずに再婚した人がいるし、妊娠している時に外地から主人が帰ってきたという例は私の知っているだけでもかなりいます。
そして知らん顔して一緒にまた生活を始めても月があわずに主人の子ではない事がバレてうまく行かなくなったということがよくありました。これもやはり戦争のもたらした悲劇であり、戦争では生き延びることができても、戦争のツメ跡はいつまでも残ります。
戦争は終っても、アメリカさんが残ったために、宮森小校にジェット機が墜落して娘が手術を二回もする程の傷を負いました。戦争ではあんなに機銃や艦砲を撃たれても家族の者はみんな無傷だったのに。私は今でも飛行機の爆音が聞こえると、その音が消え去らない間は、落着きません。
戦争中に清明祭
長浜に残る → 石川収容所
読谷山村長浜知花シズ(三一歳)
自然壕生活
十・十空襲以後、ここ(長浜部落)にも米軍機が飛んで来て爆弾を落すようになったので、私は、長男の消(十歳)と母(五九歳)と一緒に、長浜真徳さん宅の上にある自然壕へ避難していました。その頃、夫はフィリピンへ出兵していたので一緒に生活はしていませんでした。
私達が、避難していたその自然塚には、まだ国頭へ疎開していなかった部落の四○~五〇世帯の人々も避難していました。
でも、その自然壕には一日中入っているというわけではなく、普段は、自分の家で生活し、加なども耕していました。そして、米軍機の爆音が聞こえてきた時は、急いで壕に避難しました。「米軍機は、いつも編隊を組んで飛んできたので、飛行機の爆音は遠くからでも、聞こえました。だから、飛行機の爆音が聞こえた時は、畑にいても急いで壕に走りました。
やがて、部落のほとんどの人々が、国頭へ疎開して行ったので、私達は取り残されたみたいで心細くなりました。
近所に、嫁いでいた姉さんが、国頭へ疎開するときに、私達家族も一緒に連れて行くつもりで、馬車で、迎えに来ていたらしいが、その日、ちょうど私達は、自然壕へ避難していたので、姉さんと巡うことはできませんでした。
あとで、隣のおばあさんから聞いた話によると、姉さんは、「私達は、これから国頭へ疎開するので、あなたたちは、これから、ここで、自分の身は、自分で守りなさいよ!」と隣のおばあさんに託して、国頭へ行ったとのことです。私は、そのことを隣のおばあさんから聞いたときは、「もう姉さんたちは、国頭へ避難して命も助かるけど、私達は、もうここで死ぬのかしら......」と思い、その夜は悲しくなって涙が溢れ、一睡もできませんでした。
しかし、後になって、国頭へ疎開した人々は、食糧不足で非常に苦しい生活を強いられていると知ったときは、「私達は、ここ(長浜部落)に残っていてよかったんだなぁ」と思いました。
ここ(長浜部落)は、芋も豊富に有りましたので、私達はそんなに食棍には不自由しませんでした。
空襲が、ひっきりなしにあるようになってからは、夜だけ家に帰り、翌日分の御飯を準備してから、また壊にもどるという二重生活をするようになりました。
その頃からは、艦砲射撃もあって、家畜小屋などに砲弾が直撃して燃えているのを見たときは、自分の家にも砲弾が落ちないかと心配で胸がドキドキ震えました。
米軍に捕虜
その後、米軍が上陸してきたときも、まだ壕で生活していました。その時、一緒に壊で避難していた部落の人が、壕の入口で上陸した米兵の様子を伺っているとき、運悪く米兵に見つかってしまいました。そして、直ぐ米兵が来て、日本語で「殺サナイカラ出テ来ィ、出テ来ィ」と壕の入口で合図していました。しかし、私達は米兵の捕虜になったら直ぐ殺されると教えられていたので、怖くてなかなか出て行きませんでした。その後、あきらめて年寄から順々に出て行くことに決めました。
最初に壊を出ることになったおじいさんは「コーサン、コーサン」と哀願しながら出て行きました。私達は、そのおじいさんの後に続いて出ました。そして、広場の一か所にみんな集められました。
私達は、「もう今日は、殺されるんだなあ」と思い、泣いていました。米兵の中には、そのような私達の姿を見て、おもしろがって鉄砲で撃つまねをしてからかう者もおれば、また恐怖で震えている私達に同情して、一緒に泣く米兵もおりました。
その米兵は、「殺サナイヨ、殺サナイヨ」と言いながら、私達に水や食べ物などをくれました。
しかし、私達はその食べ物や水に毒が入っていると思い、誰も手をつけませんでした。すると、その米兵は毒はいれていないということを証明するために、最初に自分から先に食べたり飲んだりしたあと、私達にその食べ物をすすめました。それから、「殺サナイカラ、ゴハンモ食ベナサイ」と言われたので、そこで、御飯を炊いて食べました。
捕虜になってから二晩はそんな生活でした。三日目からは、家が残っている人は自分の家に帰ってもいいと許可があったので、私達も家に帰り、そこで生活していました。
その後、米軍は渡慶次部落の近くにテントを張り、部隊を駐屯させていました。
戦争中の清明祭やがて、四月の末頃になって戦時中の混乱も治まってきたので、兄嫁のカマドーが「もう、戦争も治まったので、三月清明のお嬢参りにでも行きましょう」と言ったので、簡単なお菓子などの盛り合わせを重箱につめて、お墓参りに行きました。
ここ(長浜部落)では、昔から毎年旧の三月三日には部落一斉にサング『チャー(浜下り)と清明祭を行なう習口があり、それは、現在でも続いています。
長浜立退きのうわさ
清明祭を終えた時、その日の四時五時頃に、国頭へ立ち退きさせられるらしいと聞いたので、私達は、長浜部落に残っていた親戚五~六名と一緒に、その日のうちに石川(現在市)の親戚の家に行きました。
そのまま残っていた他の人々は、翌日の十時頃、みんな金武村の仲川部落へ立ち退いたそうです。
石川に行く前の、長浜部落での生活は、何ら米軍に縛られるということもなく、畑へ芋掘りに行くのもまったくの自由でした。
その頃は、部落のほとんどの人々は国頭へ疎開していたので、私達は主のいない畑からも芋を掘って食べていました。
石川の収容所
石川に移ったとき、もうそこは避難民収容所になっていたので、那覇市やいろんなところから大勢の人々が集まっていました。
その避難民収容所では、何区、何区と班に分けてあり、班ごとに芋掘り作業などがありました。そして、必らず一家から一人づつ出るようになっていました。
後に、米軍が洗濯する人を何名か出して欲しいと頼んできたので、各班から女の人を三名ずつ選んで洗溜に行かすことになりました。そして、私もその日から洗濯に行きました。しかし、最初のうちは米兵が恐くて、今日は、この人が行きなさい。明日はあの人が行くようにと言って、毎日交替し交互で行っていました。
でも、洗濯する人が毎日交替で来たら、米兵が洗濯する人の顔を覚えることができないので、これでは困るというので、その後は毎日きまった人が洗濯に行くことになりました。
その当時は、洗濯機はまだ普及していなかったので、ドラム確に石鹸を混入して、薪で煮えたぎらせる方法で洗濯していました。アイロンがけは、電気アイロンがありましたので、それでやっておりました。
その後、石川から米軍部隊が引揚げて行きましたので、もうその時からは洗濯する人も余るようになりました。
そこで、私は知花部落に駐屯していた部隊の方へ作業に出るようになりました。でも、給料というのはなく、かわりに配給で、米、罐詰、お菓子類などをもらっていました。
その後、仕事場は知花部落から牧港部落の方へ変わっていました。その頃、夫の兄から、「夫が外地から引揚げて、久場崎のヤードイというところへ来ている」という連絡を受けたので、すぐ迎えに行きました。夫と生活するようになってからは、もう牧港部落への作業も行かなくなりました。
米兵と野菜捜し
知花部落の部隊へ作業に行っている時から、米兵とは友達同士みたいなつきあいをしていたので、米兵に「明日は、日曜日だから車で野菜さがしに行こう」と誘って、東風平村に野菜をさがしに行ったこともあります。
そこで、生い茂っている野菜をみつけて取ったら、その下からは人骨がガラガラ出てきました。これは、戦争中に死んだ人の死体がそのまま放置されていたため、そこで質れて肥料になったので、野菜が生い茂っただろうと思います。
他の場所でも、野菜を見つけて取りましたが、生い茂っている野菜の下からは、必らず人骨が出てきました。その、人骨を見つけた時、「どこの人だろうー、こんな所に放置されたままで...」と哀れに思いました。
でも、せっかく野菜を取りに来たので手ぶらで帰ることもできないと思い、また、当時は野菜がほとんどなく、貴重なものだったので、妙な気持になりつつも取りました。
米兵と一緒に、車を借りて野菜を取りに行くといっても、それは、米兵が自分勝手に車を持ち出して行けるというわけではなく、必らず隊長の許可を得てからでないと行けませんでした。
まだ捕虜にならないで、壕に避難していた時、知り合いの子に非常に泣き虫の子がいて、その子が壕の中で泣いた時、その子の親はみんなから、「早く、壕の外に連れ出さんか!」と言われ、非難を浴びていました。戦争中は、子供が泣くと、その泣き声で米兵に自分達の隠れている場所を知られると思い、子供連れは、みんなから除け者扱いをされていました。聞くところによると、自分の子供が泣いたために、他の人々から「子供を連れ出せ!」と非難を浴びたため、いたたまれなくなり、親が我が子を殺すという悲惨な事件もあったそうです。
私は、捕虜になった時、宮里カメーに「あなたは、早く子供を失ってよかったなー、私は、目の前で自分の息子を殺されるんだヨ。子供を早く失ったあなたがうらやましいョ」と言われました。(当時、米軍の捕虜になったら、皆、殺されると思っていた。)
以上のような、私の戦争体験を通じてはっきりと言えることは、現在、沖縄では自衛隊配備が次々と進められていますが、クヒータイャ、イクサヌ、サチバイル (兵隊は、戦争の時、先陣をきって行くもの) と言う言葉もあるように、自衛隊がいるために戦争が起きる可能性もあるので、現在すすめられている自衛隊配備には、反戦の立場から絶対許すことのできないものです。
配給の差別
国頭疎開 → 辺土名の収容所 → 石川収容所、長浜の黒人部隊
読谷山村長浜津波○○○(二九歳)
国頭疎開
当時の家族は、長女が二歳、長男が七歳、おかあさんが五五城で、夫は親志部落で、弾薬の警備員をしておりましたが、別に軍人ではありませんでした。十・十空襲で那覇が大きな爆撃を受けたとき、この辺も爆弾を落されました。しかし、私たちは、防空壕に避難していたので無事でした。その時、諸見里の部落の、カンジャーヤーという自然壊の上にも、焼夷弾が落ちていました。でも、弾が落ちるのを、直接見たわけではありません。その、カンジャーヤーという壕の名称は、昔、そこで、カジヤを営んでいた人がいたので、それから由来したものです。
次第に、戦況が悪化してきたので、上からの命令で、巡査が、国頭へ疎開するようにと連絡してきたので、私は、二人の子供も連れて、部落の馬車に、家財道具を積み込み、部落の数世帯の人々と一緒に、三月十八日の朝十時頃、国頭へ疎開しました。
夜通し、馬車を走らせたので、翌日の朝には、国頭へ着きました。行く途中、安全ではありましたが、三月の夜の寒さは、随分と骨身に応えました。
疎開先の国頭では、伊集という部落の、普通の民家に配置になり、そこで生活していました。しかし、疎開して五日目の二十三日からは、国頭の方にも空襲があるようになり、となりの与那部落に弾の落ちる音を聞きました。
山中で仮小屋住い日増しに、空襲を激しくなってきたので、もうここに居ては危険だということで、山の方に、めいめい仮小屋を建て、部落ごと避難しました。
山の仮小屋に避難してからも、空襲は、ひっきりなしにあったので、畑を耕す余裕もなく、食糧のある限りは、それを食べ、その日その日を生き延びていました。
山に、あがってからは、部落の人々とは、別々の行動をとり、食糧も他の人たちと分けあうということもなく、自分たちが、持ってきた分だけで、生活していました。
米兵の狙撃
食糧が尽きてからは、蘇鉄なども取って食べました。ある日、蘇鉄を取りに、三名連れだって、海岸の近くへ行ったとき、米兵に見つかって、発砲され、弾丸がビュンビュンと飛んできて、身近に突き刺さったときは、「もう、今日は、鉄砲で撃たれて、死ぬんだなあ」と思い、死を覚悟していました。その時のことを思い出すと今でも、背筋が寒くなる思いです。
その後、山の仮小屋の方にも米兵が来て、仮小屋は焼き払われてしまいました。その時、私たちは、捕虜になりました。
そして、捕虜となった約五〇名の住民は、前後で、米兵が監視しながら、辺土名の捕虜収容所へ連行されました。
連行の途中逃走
しかし、私は、道の曲り角へさしかかったとき、米兵の目を盗んで、長女を背負ったまま、五、六メートルの崖を滑り降りて逃げました。
ちょうど、その日は、雨降りでしたが、私は、長女を抱いて、そこで雨に濡れながら数時間も、じっと身動きもせず隠れていました。私が、数時間後に、元の避難小屋の所へ行ってみると、そこには、そのまえ米兵に連れて行かれた母が、長男の正一を連れて、逃げて来ておりました。そこで、母と私は、「再び逢うこともできたんだなあ」と、手を取りあって、うれし泣きしました。
後で、母から聞いた話によると、私が逃げたあと、米兵は、捕虜の中にいた五名の兵隊だけを連れ出し、他の住民らは、途中の避難小屋に待機させられていたそうです。しかし、何時間経っても米兵が戻って来る気配がなかったので、待機させられていた人々は散り散りに逃げたとのことです。
米兵に、連れて行かれた五名の兵士のうち一人は、逃げようとしたので、米兵に、撃たれて死んだそうです。
そのようなことがあってからは、今まで住んでいた避難小屋にいると、また、米兵の捜索隊に見つかると思い、別の避難小屋に移り住んでいました。
その後、先に捕虜となった人たちが、私達の住んでいる山の方へ家財道具を取りに来たとき、私達に、「警防団の人々も、降伏して、山を降り捕虜となっているので、もう、山に隠れていてもどうしようもないから、あなた方も、早く山を降りるように」と勧めていました。しかし、当時私達は、「米軍の捕虜になったら、女の人は生かすが、男の人は子供が作れないような体にさせられる」と信じ込まされていたので、米軍の捕虜になるのが怖くて、すぐは山を降りませんでした。
捕虜収容所
私が、捕虜になったのは終戦まぎわのときでした。もう、その時ほとんどの人々は山を降り捕成となっていたので、私達も白旗を掲げて山を降りました。捕虜となってからは、辺土名の桃原部落に連れて行かれました。そして部落の事務所で、ごっちゃになって住んでいました。
そこでの生活は、食糧などの生活物資は配給制でした。そして、元気な人は作業に出て田畑を耕していました。その後、もと住んでいた部落に帰るようにとの命令があったので私達は、桃原部落から伊集部落に移りました。
そこでは、伊集部落出身の配給班長がいて、その人が食糧やその生活物資を分配していました。
部落の共同作業のとき、私達避難民は自分の食糧の貯えも底をつき、また長期にわたる避難生活で体力も消耗していたので、自分の食糧を豊富に持ち、元気な今帰仁村出身の人たちに比べ、当然作業の進み具合もはかどりませんでした。
そのことを口実にして、その配給班長は、食瓶を配給するときに、今帰仁村出身の人々には多く配給し、私達には少なく配給し、まったくひどい差別をしていました。
そこで、私達はこんな差別や食糧難のところにいつまでもいることは出来ないと思い、旧の十月十六日の夜、十名ぐらいの人達と一緒に、こっそりとその伊集部落から抜け出しました。
夜通し歩き続けて、金武村の中川部落に着きました。そこには、親戚がいたので四~五日滞在していました。それから、石川の捕虜収容所に行き、そこで生活するようになりました。
石川で生活するようになってからは、私も軍作業に出ていたので、軍から食糧や衣料品などをもらうこともあったので、そんなに食糧に事欠くということはありませんでした。それはもう、国頭にいたときとは比較にならないほど生活に余裕がでてきました。国頭で生活していたときは、食糧といっても配給される豆ぐらいなもので、私は、マラリアにかかっていたときも、その豆しか口にすることができませんでした。
マラリアは、国頭で捕虜になった直後かかったもので、当時は非常にこのマラリアが流行していました。私は、このマラリアに石川にいるときまで悩まされたものです。
私達が、国頭から石川に移ってきたときは、もう石川は食棍も豊富に出回り、町のように活気がありました。しかし、国頭ではまだまだ食糧難でした。
ある日、私が米軍の配給車からこぼれ落ちた食糧品を拾って持っていると、班長が来て、これは、米軍に返すものだからということで、私から取り上げました。しかし、あとで部落の人が「あなたから取り上げた食糧は、クチュ、エンチューが食ってしまったヨ」と教えてくれました。これは、私から取り上げた食糧を、班長は米軍には返さずそのまま自分で食べてしまったということです。
避難中の食糧捜し
また、国頭で生活していた当時の暗い思い出として、食糧もなく、空腹もこれ以上我慢できなくなったので、十名ぐらい一緒に山を降りて、夜、こっそり芋を盗みに行った時でした。
ちょうどその日、芋ドロボーの見張りをしていた部落の警防団に見つかり追われました。私は、どうにかこうにかして逃げることができましたが、私の夫と他の数名は警防団に捕まってしまいました。
私は、捕まった夫の身が心配になり、隠れて夫の様子を伺ってみると、ちょうど「気をつけ」をさせられているところでした。もしかしたら、殴られたりされたかも知れません。
また、芋盗みにはいつも夜中に行っていたので、時にはハブに咬まれる人もおりました。
近くの部落にも芋はありましたが、そこには行かず、わざわざ遠い所の部落へ盗みに行きました。なぜそうしたかというと、近くの部落で芋を盗み、そのことが原因でその部落の人といさかいを起し、そこを追い出されたら、行く所もなく困ってしまうからです。山の中で生活しているとき、たまに日本兵とも迷いましたが、彼らは皆、心身共に疲れ果てた様子でした。
ある晩、私達が芋掘りに行く途中、与那部落の橋のところで、グッタリ倒れていた日本兵に「こんばんは」と声かけても、彼は返事する気力もなく、ずっと押し黙ったままでした。
避難小屋で生活していた頃、母は長男の正一を添い寝させているときに、尿意をもようしたが、身動きしたら腹を空かしている正一が目をさまし、泣きやまなくなるので、そのままションベンを垂れ流ししたこともあります。また、戦争中に米軍は「女は生かすが、男は子供が作れないような体にしてしまう」という噂があったので、私は息子の正一を見っめて、「男に生れて、何と不便な子だろう」と悲しくなり、いつも嘆いていました。
当時は、子供のいない人をみると非常にうらやましくなったものです。
その後、読谷出身の人は、高志保部落へ行くようにとの命令があったので、石川市からそこに移り、約三、四か年生活していました。そして、長浜部落に駐屯していた黒人部隊が引揚げたので、長浜に帰り現在に至るわけです。
「オッパサー」(おんぶ役)
読谷山村長浜仲村渠○○○(三十誠)
戦争中、私は、もうすでに結婚していました。しかし、子供はまだいませんでした。その頃、夫は召集されて熊本県へ行っていたので、一緒に生活はしていませんでした。次第に、戦況が恐化してきたので、私は、両親と一緒に国頭へ避難しました。でも、夫の母親は、国頭へ避難せずそのまま長浜部落へ残っていました。
私が、夫の母親と別れて生活していた理由は、私と夫の母親が一緒に生活していると二人一緒に戦火にまきこまれて殺される可能性が強いが、離れて生活していたら、どちらか一方は生きのびることができるだろうと思ったからです。
そして、その時は、生き残った方が、戦地から引揚げて来る夫を出迎えようという約束で離れて生活していました。
お父さんの妹に、体の不自由な六十歳ぐらいのおばあさんがいたので、お父さんが、「シゲは、ウバマー、オッパサー(おばさんを背負う役)をやりなさい。」と言っていました。
そのため、お父さんは、私はウバマーオッパサーだからどんなことがあっても、死なせてはならないということで、家や避難壕の中からは一歩も外に出しませんでした。
だから、私が、外を歩く時といえば、ただおばあさんを背負って山の中を移動する時ぐらいで、その時以外はどんなことがあっても絶対に壊から外にでることはありませんでした。
避難先の国頭の山の中では、長い間生活していましたが、不思議にも、その山の中では、日本兵とは、一度もあったことはありませんでした。
私が捕虜になったのは、国頭の山の中で、おばあさんが栄養失調で亡くなったので、家族と一緒に葬式をしていた時、米兵に見つかりそのまま捕虜になりました。
捕虜になった後は、高里という部落に連れていかれ、そこでずっと生活していました。
捕虜になる前、母は、頭にシラミがわいていたため、頭を丸刈りにしていたので、捕虜になった時、外見では、性別の判断がつかなかったので、捕虜収容所の監視兵は、私に、母のことを、ゼスチャーで、男か女かを聞いていました。
その後、その収容所から、私たちは、金武村の中川部落に渡り、そこで、数日生活して後、今度は、石川に行き、そこで軍作業などをして暮らしていました。
戦争中を振り返ってみて、私は、特に、これといった苦しい体験はしませんでしたが、おばあさんを背負って、避難先を転々と移動したことが、一番苦しかった思い出として残っています。
もう、今では、あの悲惨な戦争のことは、思い出したくもありません。
もし、戦争が、また、起きたとしても、もうどこにも、避難しようとは思いません。
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■