宮城進「野嵩収容所」~ 那覇市『沖縄の慟哭 市民の戦時戦後体験記・戦後編』(1981)
普天間飛行場に隣接するように設置された野嵩収容所。
宮城進「野嵩収容所」
十五歳の少年が経験した野嵩収容所
那覇市『沖縄の慟哭 市民の戦時戦後体験記・戦後編』(1981)
南部の戦場から
「カンウムイルムンヤレー、ウチナーンジ、シナンタルヤー」(こういうことになると分れば、沖縄で死ねばよかったなー)と大声で泣き叫んでいた女たちも静かになった。
糸満近くの浜で、米軍の水陸両用戦車に乗せられ、さらに戦車もろとも沖合で上陸用舟艇LSTに乗せられ一時間くらいたったろうか。女たちは最初、このまま海に投げ捨てられると泣き、LSTに乗せられてからはアメリカに連れ去られるのではないかと泣いた。
LSTが止まり、戦車は再び海におどり出た。一体どこに連れていかれるのだろうか。外が全く見えないので皆目方向が分からない。やがて戦車が陸地に乗り上げて止まった。ここはどこだろうと見渡すいとまもなく、こんどはまた、目の前に待機している大型トラックに乗り移らされた。トラックが走り出し、しばらくして見覚えのある北谷モーシーの墓を見つけて、やっと桑江あたりに上陸したことを知った。
トラックは普天間から宜野湾街道に入り、しばらくして左折し、とある部落に入った。部落に入って人々は皆自分の目を疑った。そこにはあの島尻のような焼けただれた部落ではなく、濃い緑に包まれた昔ながらの部落があったからである。そこが、その後七ヵ月間私が収容所生活を送った宜野湾村字野嵩で、野嵩という地名も初めて聞く名であった。
トラックから見渡すと、部落の周囲は全部有刺鉄線で囲まれ、たった一か所設けられた出入口にはMPテントがあり、三、四人のMPがカービン銃を持って警戒に当たっていた。
トラックがMPテント横の広場に着くと、たちまち黒山のような人だかりができて、家族や知人を見つけた人たちが互いに呼び合い、抱き合って泣くという光景があちこちに繰り広げられた。
この光景を見て初めて自分たちよりほかにも大勢の捕虜がいること、殺されることはないということを知った。そうすると、いままで張りつめていた気もいっぺんに緩み、トラックから降りるとフラフラと道端に倒れ込み、横になった。
あおむけに寝ていると、いろいろのことが思い出されて涙が止まらなかった。つい十日ほど前の二人の肉親の無惨な爆死、生き別れになった兄弟、そして、ただ一人重傷の身でここまで来たのに、この先、15歳という子供の身で一体どうなるのだろうか等々、傷の痛みと不安でもう動く気力もなかった。
野嵩収容所 ハウス一〇四号
何時間たったろう、もう日が傾きかけていた。その間も続々捕虜になった人たちが重い足どりで頭上を通り過ぎて行った。突然「進ヤアラニ(進じゃないのか)」と呼ぶ声がした。見上げると、私と同じ赤平町の金城さん一家が通り過ぎるところであった。これを逃がしては大変と追いすがり、そのグループの後についていくと、白い腕章をした人が先導していて、着いたところは門の横の石垣に白いペンキで「一〇四」と
大書された野嵩でも北西の一番端にある家だった。
人々は家の中に上がり込むと、家族ごとや仲間ごとに場所をとり、わずかばかりの荷物を解いて収容所第一夜の支度に取りかかった。
ハウス一〇四号はいなかのどこにもあるような家で、門を入って真正面にかやぶきが二棟続いたおも家、右側に三坪くらいのかわらぶきのアシャギ(前庭の離れ屋)、左側にいずれもかやぶきの馬小屋と納屋があった。便所はおも家の裏に地面を二ほど掘り、上を板でおおった仮設便所だった。
人が住んだのはおも家の二部屋と台所の板の間、アシャギの一部屋で、それだけに五十人ほどの人が押し込まれた。夜、横になるともう寝返りをうつのもむずかしいほどだった。一番座には中頭出身の防衛隊十人余、二番座には崎山町出身の島袋さん一家と真和志村真地出身の東風平さん一家、後年守礼門の再建に腕を振るわれた儀保町出身の知念さん一家、それに赤田町出身の城間さん一家、台所の方には島尻出身の人々、アシャギには赤平町出身の金城さん一家、真和志町出身の新垣さん一家、池端町で大きな薬屋をされ、戦後は医介輔として首里で医療に当たられた金城さん一家が入っておられた。私は最初二番座に、そして後でアシャギの方に移った。一〇四号は不思議と首里の人が多かった。
着いた日と翌日は食糧の配給がなく、人々は部落内から小さな芋やその葉などを探してきて飢えをしのいだ。三日目あたりから配給があったが、当初は日本軍が壕内に遺棄した携帯食糧だけだった。壕内で変質した携帯食糧は異臭を放ち、島尻で飢えてきた人々もこの配給を喜ばなかった。ちゃんとしたアメリカの配給があったのは、収容所の係員による一応の戸籍調査が終わった一週間ほど後からである。配給は各ハウス単位に配給所で受領し、無料であった。
最初のうちは炊事もその家に残っていた大鍋を使い共同でやっていたが、間もなくごたごたが出て各家族や仲間単位になった。配給は米のほかにはだ円形のイワシの罐詰めが多く、私はこれらの材料を使って、くる日もくる日もおじやをつくって三食ともそれを食べた。ごはんとおかずを別々につくるのがめんどうくさかったからである。
一番困ったのは水と便所だった。特に水は翌年それぞれの出身地に引き揚げるまでその確保に苦しんだ。もともとそう水に不自由した部落ではなかったに違いないが、捕虜となった一万人近い人々を呑み込んだこの部落は、完全に水の需給のバランスをくずしてしまった。部落の道は昼といわず真夜中といわず、カランカランと容器の音をさせて水を求める人々が右往左往した。
便所も最初のうちは大変だった。約五十人の居住者に対し、便所一カ所というのは初めから数が不足している。それに囲いらしい囲いもなく露天だった。男はともかく女の人たちにはつらいことであったろう。
病院にあふれた患者
病院にあふれた患者
島尻で最もこわかったのは、死ぬことより負傷することだった。負傷者の悲惨な姿を見て、だれしもが一思いに死ぬことを願った。そういうことから一旦負傷すると、負傷者はたいへん気落ちしたものである。私も二十ヵ所余の破片創を受けたが、重い方は頭部の盲貫、右胸の盲貫、両腕の貫通および盲貫であった。
病院は毎日患者があふれたが、最初のうちはそのほとんどが外科患者であった。島尻での負傷者心理はまだ続いており、負傷者は食べることより治療を優先させた。MP隊から夜間の通行が禁じられていたので、人々は夜が白み出すのを待って病院に殺到した。
治療はまず傷の消毒から始まった。民家の軒からつるされたびんからホースで消毒液を傷口に流してやるもので、液はぶどう酒のような赤紫色のものだった。この液を傷口にかけられると何か体が重くなり、地中に吸い込まれるような感じがして人々は不安がった。その後は、深い傷口にはガーゼを押し込み、えぐられたような傷口には白い粉をふりかけた。この白い粉で傷口の新しい肉の盛り上がりは早かったが、治った後の傷口がやけどの後のケロイドのようになった。
医師は最初のうちはほとんどアメリカの軍医だったが、次第に沖縄人の医師もふえてきた。看護婦も本職の人は少なかったようで「辻あがり」のおばさんが婦長のような資格で采配を振るっていた。医師の中には首里出身の小湾さんがおられ、治療が小湾さんに当たると、当時偏頭痛で私を苦しめていた頭の中の破片を抜き取って下さいと困らしたものである。この破片は、戦後二十年を過ぎてから爆風で聞こえなくなった耳が中耳炎になったとき、頭部レントゲンを写し、小指の頭大のものが二個脳内に入っていることが確められた。そしてその時、もうほんの少しでも破片の勢いが強ければ、完全にあの世行きになっていたことも分かり、負傷して二十年余にして背筋を氷らしたものである。
軍作業 - 真壁の遺体処理
収容されてじきの出来事で忘れられないのが二つある。
その一つは、米軍に指示されて島尻の山野に散乱する死体の処理に当たったことである。米軍の意図がどうであったかは知らないが、当時まだ掃討戦が続いていたので、そのじゃまになる死体を片づけるといったのがその目的ではなかったろうか。
野嵩から二、三百人の人たちが武装兵に守られて島尻に向かった。トラックから降ろされたところは真壁村一帯である。
本当に目をそむけたくなるような無惨な死体が数えきれないほど横たわっていた。砲爆撃が雨のように降る中を逃げまどった時は、恐怖の余り肉親の亡きがらを見ても涙ひとつわかなかったが、戦い終わってこうして見る死体に戦争の無意味さがしみじみ思われ、ぼう然と立ちつくし、涙をふくのも忘れたものである。
作業員は、よもぎを探してきてその葉を鼻に詰め、死体の処理にかかった。一番困ったのはハエである。作業員が死体に近づくと何万というハエが一斉に飛び上がり、作業員を悩ました。
この死体の処理作業は四日間も続いた。その間三晩は夜露にうたれて野宿である。ところで、この作業には明暗二つの出来事があった。「明」の方は十数人の避難民を見つけて連れ帰ったことである。「暗」の方は数人の作業員が米兵に射殺されたことである。当時作業中も小銃弾がピュウピュウ飛び交う状況だったので「夜間は絶対歩くな」という米兵からの指示が出ていた。しかしそれを守らなかった人たちがいた。周辺の出身者ではなかったろうか、そのころだれもがのどから手が出るほど欲しがった鍋、釜を探しに部落に行ったらしく、明け方激しい銃声がして、朝になって死体が発見された時には、鍋、釜を抱え込むようにして倒れていた。
せっかく戦争に生き延び、そして死体を埋めに行って死体になるなんて、残された家族にとってはあきらめられないことであったろう。
CIC の取り調べ - 米軍捕虜について
米軍は懸命に自国の捕虜の救出に努めたが、沖縄島から米人捕虜が救出されたケースはいまのところ記憶にない。米軍は、首里にて惨殺された米人捕虜の遺体を回収している。そのためこうした尋問がなされたと思われる。
収容直後のもう一つの出来事は、子供たちを除き、男女を問わず収容者全員に対する取り調べがあったことである。この調査は米軍の情報機関であるCICによるもので、調査はハウス単位で日が決められ、その日になると、人々は炎天下に長い列をつくって順番を待った。調査が始まると、首里出身者には特別の尋問があるという話が伝わり、首里出身者は一様に不安に陥ったものである。
尋問は米兵と沖縄人の補助者が当たり、各人の経歴、沖縄戦の際の日本軍との関係などであった。それがすむと、首里出身者にはしつこく米軍人捕虜のことを聞いた。もちろん、私たちは中城御殿に収容されていたパイロット、記念運動場で処刑されたという捕虜のこと、園比屋武御嶽の裏にしばられていた捕虜のことを知っていたが、すべて知らぬ存ぜぬで押し通した。
この身分調査が終わると人々はほっとし、戦後の人間として一人前になったような気分がしたものである。
軍作業
私が野嵩に来たころには、すでに前に捕虜になった人たちは軍作業に出ていた。軍作業は強制でなく、出たい人たちが早朝MPテント前の広場に何百人と集まり、続々迎えにくる米軍トラックに、迎えに来た米兵が要求する人数だけMPが数えて送り出す方法をとっていた。中にはちゃんと作業先が決まっている人たちがいて、そういうグループの場合、責任者として班長制度もとられていた。それ以外の人たちは、トラックが着くたびに作業にありつこうと押し合いへし合いを繰り返した。軍作業はもちろん無給だが、作業先で、収容所では食べることができないような食事にありつけたし、食糧、衣服、たばこなどの余得があるので、皆必死だったのである。そういうことで朝のMPテント前広場は大変活気にあふれていた。傷の治療の関係もあって、私が作業に出た時は、もういい作業口はなかった。
軍作業 - 島袋の民家解体とサルベージ
海軍基地建設のため、島袋民間人収容所となっていた島袋の民家が解体された。
私が行った作業のうちで印象に残ってるものに中城村比嘉、島袋のヤークーサー(家屋壊し)がある。この作業はすすでまっ黒になるので皆いやがったが、こういう作業しか残っていなかった。
米軍は、そのころ対日戦が続いていたので、米軍施設の多い地域の住民をすべて北部に移す計画だったようで、その対象になったのが比嘉、島袋、そして安谷屋野嵩の各収容所だった。最初に移されたのが比嘉、島袋で、作業は移住後空家になっている家屋を壊す作業である。壊した後の材料は、再び山原で仮設住宅に使うということであった。比嘉、島袋は移民で成功した人が多かったようで、りっぱなチャーギャー(イヌマキの材木で建てた家)がずいぶんあり、中には戦前首里、那覇にもめったになかったタイル張りのふろのある家もあった。こういうりっぱな家を手荒く壊すのは心の痛む思いだったが、この作業も、住民の北部移住も、安谷屋が全部移住し、野嵩の人口の三分の一くらいが移住したところで八月十五日の日本の降伏となり、中止された。
衛生班 - 野嵩収容所に残ることのできた理由
野嵩収容所は北部収容所の中継地となる一時収容所であるが、宮城さんの場合、衛生班として野嵩収容に長期収容されたため、これが貴重な野嵩収容所の記録となる。
ある日、いつものとおり軍作業に出るべく広場に行ったものの、あぶれて座っていると大人が近づいてきて、「君は衛生班で働きなさい」と衛生班に連れていかれた。衛生班の仕事の内容はよく知っており、とても行く気になれなかったが、大人の高圧的な態度を見て仕方なく従った。そして、この収容所内の衛生班の仕事が翌年首里に引き揚げるまでの私の仕事になった。人間何が幸いするのか分からぬもので、この余得のない衛生班にいたお陰で、後日沖縄の収容所中最も食糧や衣服事情に恵まれた野嵩に残ることができたのに反し、余得のある軍作業に行ってい人たちは、米軍計画の北部移住によってそてつ地獄にまでなった山原にまっ先に送られてしまった。
病院と衛生班の仕事
衛生班には三、四十人の人がいたように思う。部長は東風平村出身の神谷さんという人で、県庁の役人か村長かそういうタイプの人だった。その下に班長が何人かいて、班長には琉球舞踊や芝居の大家である玉城盛義さんとか、首里人で有名なティチカヤー(空手の達人)であるアンダヤーグヮーのヤマーチーこと島袋太郎さんら異色の方々がおられた。朝、仕事が始まる前とか休憩時間にそういう方々の話を聞くのは、子供である私にとっては世間を知るよいチャンスであり、また楽しみでもあった。作業の中心になる男は二十歳台の人がたった二人いただけで、他は喜屋武村出身の年配の人たち数人と朝鮮人軍夫であった李さんらで、女も夫を亡くした人とか夫の行くえが分からないという主婦の方々が大部分を占めていた。
米軍はこと衛生には大変気を配ばり、チョーチという下士官が定期的に巡視して作業の状況をチェックした。
衛生班の業務内容は、DDT散布による消毒、みぞの掃除、便所掘り、馬車を使ってのちり収集、墓掘りと死体運搬、理髪業務などであった。私が最初にさせられた仕事は死体運搬人で、その頃から外科患者が減り、内科患者が急激にふえて、毎日五、六人、多い日となると十人余の死体が病院から運び出された。戦争中の疲れがどっと出たのだろう。死体置場は馬小屋跡で、一体ずつ米軍の野戦用担架に横たえ、翌日の朝墓地に運んだ。一晩のうちにはほとんどの死体がねずみにかじられ、特に皮膚の厚いかかと、耳、鼻の被害が多かった。夏のこととて死体は直ぐ臭いを放った。だから墓地まで運搬する場合、担架の後ろを持つのは大変だった。墓は大人の高さほど掘り、一度に五、六人ほおり込んで埋めた。家族がついてくるところは家族が毛布に包み、静かに穴底に横たえたが、その他のものは担架をひっくり返してポンと落とした。
一番つらい仕事はDDTまきだった。DDTの粉末とディーゼル油をまぜて散布器に詰め、家々の便所やみぞに散布する仕事だが、体の小さい私には散布器が重く、また散布器からあふれ出る油は首筋から背中や脇腹に流れ、そのため、いつも油まけして皮膚が赤くふくれ上がり苦しんだ。人の家に入ると直ぐ裏手の便所に回るということも精神的に参った。
チリ収集は、都会育ちの私にとって馬を扱えるということで大変魅力だったが、二度も馬を逸走させたためクビになり、以後させてくれなかった。
みぞさらいは衛生班の仕事で、唯一の楽しい仕事だった。それは女の人たちといっしょに仕事ができただけでなく、軽い仕事で、おまけにおばさんたちの色気話を聞くことができたからである。しかしずるい大人たちはなかなかこの仕事を当てがってくれなかった。
衛生班の仕事は苦しいことが多かったが、十五歳の私に多くのことを学ばせてくれ、その後の人生にも大きく役立った。
野嵩収容所のハイスクール開校
そろそろ衛生班の仕事にアゴを出しかけていた頃ハイスクールの開校があった。授業は午後からで、大体三時間ぐらいだったと思う。だから午前中はこれまでどおり衛生班の仕事をした。生徒は十数人で、教室は納屋兼馬小屋の二階建だった。もちろん本一冊もなく、帳面がわりのレターペーパーや鉛筆等は米軍からの支給だったように記憶している。先生にはワクーのニックネームで一中生に親しまれた桃原良謙先生、後年、那覇高校や東恩納図書館にお勤めになり「球陽」の読み下し編を執筆された嘉手納宗徳先生がおられた。英語は若くて非常に美人の先生が担当されていたが、多分二世ではなかったろうか。皆英語の時間には目を輝かしたものである。
那覇検察庁の検事正と那覇地方裁判所の裁判長
ここにも異色の先生がおられた。彼は那覇検察庁の検事正だった人である。戦時中、相当都合の悪いことがあったのか、にわかクリスチャンになっていた。首からは大きな十字架をつるし、学校の授業以外は教会の牧師もやっているようであった。彼の授業は精神訓話のようなものだったが、そのころもまだ大和魂があふれていた私は、彼のひょう変ぶりが気にくわず、彼の授業には一度出たきりで以後ずっとボイコットした。
学校とは関係ないが、検事正が出たついでに思い出したことがある。それは沖縄の司法界のもう一方の雄である那覇地方裁判所の裁判長のことである。裁判長も野嵩に収容されており、くしくも野嵩には沖縄の司法界の両雄が捕虜になって収容されていたわけである。
私と裁判長の出会いは、なんと警察のカナアミ(いまの留置場)の中で、裁判長自身もまさか一生のうちに留置場入りするとは夢想だにしていなかったに違いない。私がカナアミに入れられたのは少々ヤケ気味になって禁じられていた収容所からの脱柵を試みて捕えられたからであり、一方裁判長の方は米軍の取り調べに対し、皇国不滅、皇国不敗を主張し、節を曲げなかったことにあったようだ。
カナアミは一日中大勢の人が往来する配給所の直ぐ前にあり、見せしめみたいな機能を兼ねていた。裁判長は米軍によって重労働を課せられていて、二、三人の男たちといっしょにカナアミの近くで一日中井戸掘りをさせられていた。かつては六法全書しか手にしたことがなかったろうその手に重いつるはしを握らされ、しきりに肩で息している姿は、やせていることもあって本当に痛々しかった。
日本の降伏は、米軍が夜空に撃ち上げるあらゆる火砲による祝砲の煙の色や轟音で知った。野嵩は東側を除いて三方を米軍幕舎に囲まれていたため、流れ弾や故意に撃ったと思われる弾が飛来し、死者や負傷者が出た。人々はまたイクサが押し寄せたと思い逃げまどった。
選挙、台風
九月の末ごろには戦後初めての選挙があった。野嵩はコザ市に属していて、議員や市長の選挙だった。女は戦前同様まだ一人前として扱われず、投票は男だけが行ったように記憶している。
十月ごろには猛烈な台風が吹き、幕舎を全部吹き飛ばされた米兵が、びしょぬれで多数収容所内に逃げ込み、勝者である米兵が捕虜であるわれわれとしばらく同居するという珍現象があった。
本土への食糧供給
そのころ那覇港からは米を初め、たくさんの食糧が飢えている本土に送り出された。作業は昼夜ぶっ通しの突貫作業で、作業員は三交替で野嵩から出て行った。この作業に出ると自分で持てるだけの米や砂糖の余得があり、力の強い人は二俵もかついできた。米兵もこの作業の場合だけは見て見ぬふりをし、「ジャパニーズに食べさせるよりはオキナワンに食べさせた方がよい」と言い、またよく「ヒロヒト、トージョウ、キュッー」とのど笛を切る仕草をして見せた。私も二、三度夜間作業に加わり、かついできた米は翌年首里まで持って帰った。
十一月に入ってすすきの穂が白く波打つころ、収容所全体の大運動会が催されることになった。この運動会は戦後の運動会ではトップを切るものではなかったろうか。
競技のほかいろいろ出し物もやることになり、衛生班は「国頭サバクイ」をやることになった。練習に当たって心強かったことは何と言っても玉城盛義さんがおられたことである。作業終了後、玉城さんの指導で「ヨイシー、ヨイシー」の掛け声もにぎやかに練習に励んだものである。
秋晴れの一日大運動会は催された。競技に、出し物に運動場はわいた。服装こそ背中にCIV(軍人の捕虜はPW、民間人の場合シビリアンの略)と赤や黒で染め抜いたGI服を着けていたものの、昼の弁当には戦前お目にかかれなかった米国製のかんづめ、チーズ、チョコレートなどがひろげられ、明るい笑い声が絶えなかった。
そしてそのころから出身地に帰れるといううわさが立ち始め、人々は有刺鉄線に囲まれた収容所に別れを告げることができると希望に胸をふくらました。しかし一方、砲爆撃に破壊し尽くされた故郷のことを思うと、これから先の生活が一体どうなるだろうかという不安もわいてきた。この希望と不安の入りまじった複雑な気持ちを抱きながら、人々は故郷への引き揚げの日を待ちこがれた。
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