Battle of Okinawa

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『沖縄県史 第9巻・第10巻』 沖縄戦証言 ~ 西原町 幸地 篇

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沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

 

幸地(西原村)

時一九六九年十一月十七日場所与那英弘区長宅

幸地部落は四方が丘に囲まれている。現在は全部落が酷脊たるいいろの樹木に被われていて、孤立しているように思われるこの部務が、二十五年前には、米軍の烈な砲火によって、周囲の丘と共に、戦後三、四年の間、地肌をはぎ取られたかのように、白一色の荒涼たる情景であったとは、今日では、想像もつかない。

 

西原村の場合は、沖縄戦において、米国の近代兵器の体力を完膚なきまでに浴びていることは、各部落異なることはないが、この幸地部落は、沖縄戦の天王山であった浦添市前田部落と、ニキロメートルにも足りない近距離で、その上に、金木少佐の率いる六十二師団工兵隊が、部落につづく東に陣地を構えていた。

 

何の障害もなく沖縄の空を自由に飛び道っていたトンボといわれた偵察機をはじめ、あらゆる機種の飛行機は自由に飛んだ。妹にトンボの偵察は正確無比で、陣地への艦砲や、飛行機からの正確な爆撃が行なわれた。したがって、幸地部落は、無砲や爆撃、あらゆる米国の近代兵器による攻撃が一段と激しかったであろうことが想像される。

幸地部落の住民の犠牲と、戦禍を逃れた人たちの苦難も、西原村の他部落と同様に、甚大で、その実情は、なお多数の方がたに語って皆わねば、完全には解明できないことは勿論のことだが、しかし今回の座談会で、幸地字民の苦難と悲しい張牲は、大略わかるであろうとも思っている。

 

幸地部落の戦前の戸数、人口は、戸数が百四十戸、人口は九百六十余名とされている。ところが、戦争で生き残ることが出来た人口は、約三百三十人以内だそうで、三分の一強という比率である。三人から二人が戦争のために死んでしまった訳である。六人家族なら、四人は戦争、主としてアメリカの艦砲や爆弾やその他兵器の弾、火器で殺されてしまったのである。

 

一家全員が犠牲になった家が、百四十戸のうち五十三戸、三分の一以上の家が、家族一人も生き残ることが出来ないで、全滅している。この五十三戸の一家全滅は、同じ西原村でも、比率が多い訳ではないが、全滅ではなくて、一家から、ただ一人しか残っていない家も正確に調査されていないが、その数も相当に多いことは間違いない。この座談会出席者の与那嶺よしさんの実家だと思うが、九人家族のうちで、現在八十余歳のおばあさん一人だけが生き残り、父母を初め子供たちが全部亡くなった。戦争の弾丸、破片で生命を奪われていることが語られている。

 

部落内を初めとして部落の周辺も人間の遺骨で埋められていた状態が、座談会の終了後、集まった皆さんによって相当に委しく語られた。区長さんが復員されたのは一九四八年で終戦三年後だが、部落の地面に横たわる遺骨は、収集した後とは思われないもので、毎日その収集に日を過し、余りの数の多いところから頭蓋骨など鼻骨に針金を通して運んだほどであったという話が出た。

 

四方が丘に囲まれた地勢の幸地部落だけに、沖縄戦の惨状を想像して、鬼気といったものを催す。座談会を終えて部落の道を歩いていると、戦争よ呪われてめれと心の底から自ずと湧いた。

 

 

 

作成途中

 

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