Battle of Okinawa

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パラオの戦闘 ~ 琉球新報「圧倒的な米軍兵力 ~ 住民、飢餓に苦しみ死へ」

 

パラオの戦闘

日本軍の飛行場があり拠点となっていたベリリューとアンガウル。

 

1944年9月15-23日 ベリリュー戦

4万の米軍に対し、1万の日本軍。

HyperWar: US Army in WWII: The Approach to the Philippines

 

1944年9月17-20日 アンガウル戦

米軍2万1000人に日本軍は1200人。 

HyperWar: US Army in WWII: The Approach to the Philippines

 

パラオの戦闘・圧倒的な米軍兵力 ~ 住民、飢餓に苦しみ死へ

琉球新報1993年6月29日

 パラオに米軍の空襲が始まったのは1944年の3月30日。当時パラオには、トラック島と並ぶ太平洋の2大基地の一つがあった。2日間にわたって延べ650機が激しく爆撃を繰り返し、市街地はがれきの山となった。

 

 兼島兼祥さん(74)は旧美里村泡瀬あら南洋拓殖の募集に応じて1937年にパラオに渡った。泡瀬からは20人ほどが一緒に募集に応じ、アンガウル島で燐(りん)鉱の採掘に従事した。空襲で工場は全壊。仲間とともに現地徴用され、ペリリュー島の飛行場建設に軍属として参加した。

 

 「戦争中はしょっちゅう追われ通し。造ったと思ったらすぐ米軍機が飛んで来て、飛行場は穴だらけになった。そしたらまた造る。また穴があく。この繰り返し。飛行場から友軍機が飛んで行くけど、帰って来るかどうか分からなかった」

 

 女性や子どもは、空襲が始まる前にパラオ本島(バベルダオブ島)に避難していた。そこから日本本土に疎開する段取りになっていた。しかし船は足りなかった。潜水艦や艦載機に次々と沈められ、護衛する駆逐艦もなくなっていた。鯨を捕るキャッチボートまでが動員された。結局、疎開する予定だった多くの人が終戦までパラオに残された。

 

 「葉っぱ1枚残らなかった」(兼島さん)という激しい空襲が繰り返された後、同年9月15日に米軍がペリリューに上陸する。4万の米軍に対し、守備軍は1万。アンガウルには9月17日に上陸した。米軍2万1000人に対し守備軍は1200人。兵員数、物量ともに圧倒的に不利な戦いだった。

 

 守備軍は米軍を水際で迎え撃つ作戦に出た。双方に多くの死傷者が出て、海は血で真っ赤に染まった。最初に米軍が上陸を試みた海岸は、その色から米兵たちの間でオレンジビーチと呼ばれるようになった。

 

 戦闘が始まると、だれもが食糧を確保することに必死になった。畑の作物は焼かれ、物資の輸送は途絶えていた。兼島さんは「戦闘のことより食料がどこにあるかとそれだけしか考えない。飛行機が何時(なんどき)来るか分からんから、怖くて海には出られなかった」と話す。豊かな海を目の前にして多くの人が飢餓に苦しみ、死んだ。

 

 アンガウルは上陸から33日で玉砕、ペリリューも11月末にほぼ制圧された。パラオ約1万5000人の日本人が戦没、うち3400人余が沖縄出身者だった。

 移民から引き揚げた人が一致して口にする言葉がある。「戦争さえなければいいところだった」―。

琉球新報1993年6月29日