「東洋一」の日本軍基地は島を守っただろうか ~ RBC 戦後70年の地平から『伊江島での戦闘』

 

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なぜ沖縄は基地に反対するのか

なぜ沖縄は基地に反対するのか。

その答えは、そんなに難しくはありません。

 

日本軍は伊江島にやってきて、東洋一とよばれるほどの飛行場基地を構築した。

 

戦争がやってきたとき

東洋一の基地は、島を守っただろうか。

 

その重い答えを、

本土のみなさんでしっかりと受け止めてほしいと思います。

 

伊江島の戦争は6日間続いたのではない。

今も続いているのです。

 

1943年 - 日本陸軍 伊江島飛行場 建設

東洋一と呼ばれながら、実際にはほとんどその用途を果たすことがなかったどころか、軍施設は島に地獄を招いただけであった。

 

1945年4月16日 - 伊江島の戦争

1945年4月16日に占領後、米軍は基地の整備と拡大を開始する。住民は伊江島の戦いで半数は死亡。生き残った人々は慶良間諸島の収容所や辺野古大浦崎収容所に移送された。その渡嘉敷島でさらに、7月2日、山に立てこもる日本軍 (赤松隊) に伊江島捕虜男女6人が惨殺される事件も起こった。

 

住民が帰島を許可されるのは、1947年3月11日以降のことだが、巨大化した基地に土地は破壊され、また住む家も失われていた。

 

伊江島の戦闘(4月16日~4月21日)

1945年 4月16日『伊江島の「六日戦争」はじまる』

1945年 4月17日『馬乗り攻撃と火炎放射器』

1945年 4月18日『戦場の女性たち』

1945年 4月19日『米軍の総攻撃「耕す戦法」』

1945年 4月20日『後方で進む基地建設』

1945年 4月21日『郷土沖縄を救え・郷土は自分で護れ』

1945年 4月22日 『伊江島の集団自決』 

 

渡嘉敷島

6月上旬? - 伊江島の男女6人の処刑

大浦崎収容所

伊江島から辺野古・大浦崎収容所へ

 

伊江島の「戦後」

1947年、一部が解放され、住民の帰島が始まる。しかし…

1948年8月6日 『伊江島米軍弾薬輸送船LCT 爆発事故』

1955年3月 「銃剣とブルドーザー」伊江島 真謝・西崎

 

 伊江島土地闘争とは・・・ 米軍は1953年、射爆撃場建設のため伊江村真謝、西崎両区の住民に土地を明け渡すよう通告した。55年には住宅をブルドーザーで引き倒し、放火して強制接収した。住民は琉球政府前の座り込み、本島各地を巡る「乞食行進」で世論に訴え、後の島ぐるみ闘争につながった。 

 

そして、今も伊江島の戦争は終わっていない。

 

RBC 戦後70年の地平から『伊江島での戦闘』

 

伊江島での戦闘

youtu.be

慶良間諸島沖縄本島に相次いで上陸したアメリカ軍は4月16日伊江島に上陸し、70年前の4月21日、島を占領しました。多くの住民が戦闘に巻き込まれ、沖縄戦の縮図」といわれた伊江島の戦闘。村内ではこの日にあわせて平和祈願祭が行われ遺族たちが犠牲者をしのびました。

 

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