神奈川新聞「戦争だけは駄目だ ~ 沖縄戦で日本兵殺害 元日本兵の飯田直次郎さん」(2017年11月3日)

 

「戦争だけは駄目だ」 沖縄戦日本兵殺害 元日本兵の飯田直次郎さん

 神奈川新聞 | 2017年11月3日(金) 11:06 

 

湘南の柔らかな陽光が障子越しに差し込む。ベッドに横たわる男性の顔が陰影を帯び、深く刻まれたしわが沈痛な胸の内を際立たせる。

 「やっぱり勘弁してくれ。戦争のことは思い出したくないんだよ」。しゃがれた声で絞り出す。問い掛けを払いのけるように顔の前で右手を振り続けていたが、やがて記憶をたどり始めた。

 1945年6月、沖縄戦終焉(しゅうえん)の地・摩文仁。飯田直次郎さん(98)=平塚市=は日本兵に向け、引き金を絞った。

 

相次いだ「自決」


 沖縄本島中部の「嘉数高台」。米軍普天間飛行場を見下ろす小高い丘は沖縄戦当時、日米多数の兵士が命を落とした激戦地だった。45年4月、飯田さんは戦火の真っただ中に身を置き、米軍を迎え撃った。

 鎌倉市出身。陸軍に入り、22歳から中国戦線で4年半を過ごした。首を負傷し帰国したが、わずか3カ月で再び前線へ駆り出された。この間、結婚し、妻は長男を身ごもった。

 山口・下関を経由して那覇に入り、司令部のある首里近くの識名に配備された。穏やかな日々は米軍の沖縄本島上陸が近づくにつれて一変し、嘉数高台へ向かった。

 「やつらは容赦なかったよ。俺たちがいる壕(ごう)を火炎放射器で焼き尽くしたんだ」。自身は砲兵隊に援護を求めようと壕を出たところで銃撃され、頭部に深手を負った。朝になって助け出され、首里の病院に担ぎ込まれた。一緒に壕を出た仲間は頭を撃ち抜かれ、即死した。所属部隊は壊滅し、生きて終戦を迎えたのは1割にも満たなかった。

 戦況はさらに悪化し、かろうじて自力で動ける飯田さんら11人は首里の病院を追われた。持たされたのはにぎり飯一つと消毒液、そして手りゅう弾。自決用だった。

 南へ南へと逃れる。本島南端の摩文仁にたどり着いた時には、わずか3人になっていた。

 「食料を確保しようにもけがをしてどうしようもない。『俺はもう駄目だ』。そう言いながら、動けなくなった仲間が1人、また1人と自決した。手りゅう弾を胸に抱え、吹き飛んでいった」

 

住民への罪悪感


 本島南部の海岸線には切り立った崖が連なる。リーフに沿って白波が立ち、絶え間なく岩場を洗う。沖縄戦末期、戦火に追われた住民や日本兵が次々と身を投げた悲劇の地だ。断崖絶壁の上には紺碧(こんぺき)の太平洋を見下ろす「摩文仁の丘」があり、「平和の礎」が広がる。石碑が幾重にも整然と並び、沖縄戦などで亡くなった24万人余の名前が刻まれている。

 45年6月、飯田さんらは他の日本兵や住民らとともに自然壕に身を寄せた。昼間は壕の奥にこもり、日が暮れると動きだす。海水で傷口を洗い、ネズミやマングース、バッタなど何でも捕食した。闇に紛れて米軍の陣地に忍び込み、食料を盗んだ。米兵に見つかり、肩を撃たれたこともある。

 

 「どうせ死ぬなら本土で死にたい」。いかだを作り、幾度となく黒潮に乗って帰ろうと沖に出た。日が昇ると米軍機に見つかり、上空から機銃掃射を受けた。

 

 

 「『ササキ』という軍曹がひどいことをする」。やがて、他の壕の住民から苦情が寄せられるようになった。女性を暴行し、食料を奪う。「死ね」とばかりに住民を壕の外で寝かせ、「命の水」ともいえる付近で唯一の湧き水を独占していた。

 

 沖縄を訪れて数カ月。飯田さんは住民らに深い親しみを感じていた。

 

 米軍の本島上陸前。「家の前を通ると、『ヤマトの兵隊さん、ヤマトの兵隊さん』って、お年寄りが必ず呼び止めるんだ。『カメー(食べなさい)』って、サツマイモをくれたりさ。ヤギをつぶして振る舞ってくれたこともある。夜になると三線を持ち出して(沖縄民謡を)一緒に歌ったよ」。米軍が迫り、間もなく死と隣り合わせの日々が始まる。ささくれだった心に温かさが染みた。

 

 住民との交流を振り返るほどに、険しかった飯田さんの表情が穏やかになる。だが一転、語気を強めた。

 「でもな、俺たちさえいなきゃ、住民はあんなに苦しむこともなかったんだ」

食べ物を分け与え、心癒やしてくれた恩義。 戦禍に巻き 込んだ罪悪感。住民を虐げる 「ササキ」 が許せなかった。

 

その日、「ササキ」とは仲間たちと一緒に水飲み場で出会った。それまでにも何度か話してはいたが、「自分さえ生き延びればいい。そんな男だった。住民へのいたわりの心を持つように言ったが、やっぱり通じない。『ああ、駄目だ」と最後は撃ち合いになった」。わずか数メートル、「ササキ」の頭を打ち抜いた。後悔はないか。「そりゃ、している。あの時に殺さなきゃ、あいつも内地に帰って家族と一緒にいられたと考えるとね。いい気持ちはしないよ。だからずっと思ってきたんだ忘れよう、忘れようって」

 

犠牲あっての平和

6月23日、日本軍の組織的戦闘が終わった。8月15日、降伏を伝える玉音放送が流れた。飯田さんらはしかし、仲縄戦の終結も、日本の敗戦も知らぬままでの生活を続けた。

 

米軍のジープに乗った日本人捕虜が拡声器で敗戦を喧伝し、投降を呼び掛ける。仲間3人が真偽を確かめようと那覇方面へ向かった。そこで見たのは敗戦を伝える回覧や、皇居に向かって人々がお辞儀する写真だった。報告を受けて話し合い、米軍に投降した。


それから7年。嘉数高台に戦友らと霊碑を建て、沖縄には3回、鎮魂に足を運んだ。いまは湘南の海岸近くに暮らす。今年に入り足が弱くなり、週に3日リハビリに通う。「今日は調子が良くないよ」。時折せき込みながらも1時間分ほど言葉を重ねた。

 

「戦争だけは駄目だ。絶対に駄目だ」。ベッドから身を起こし、繰り返す。
「いまは皆、人を殺すことにためらいを感じる。でもな、戦争では人を殺すことを何とも思わなくなる。しても何も感じなくなる。人間の心がなくなるんだ。相手はみんな虫けら。向かってくれば殺す。でなきゃ、自分が殺される。中国でも、沖縄でも殺さなくていいものを殺してきた」

 

飯田さんの目にはいま、この国の中枢にいるのは好戦的な政治家ばかりに映る。戦争の実態を分かっていない無知な政治家ばかりに見える。「現実の戦争を何も知らないのに掛け声だけは勇ましい。駆け引きはあるかもしれない。でもね、穏やかに話し合って解決していく。それが政治家だよ。戦争をしない。政治家の最低限の、しかし一番大事な役目だ」

一気に語ると、深く一呼吸置き、かみしめた。

 

「平和がいいんだよな。これからは若い人の時代だ。でもこれだけは忘れちゃいけない。いまの平和は降って湧いたものじゃない。たくさんの、本当にたくさんの犠牲があって、いまの平和があるんだよ」

 

(神奈川新聞・田中大樹)

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