運天港「蛟龍隊」渡辺大尉

三上智恵「スパイ戦史」にはより詳しく書かれています。

 

こうして軍に突出していく暗い暗殺者たち。

ワタナベはいったいどこでどんな「戦後」を生きたのだろうか。

 

虐殺者たちの肖像・中

沖縄戦の深い闇

運天港「蛟龍隊」渡辺大


「謝花喜睦さんは、夕飯のときに『用事があるから来なさい』と兵隊に言われて畑に行ってすぐ日本刀で斬られた。血が全部はねて手にもついていた。殺して帰ってきたところを見た。村の偉い人を5名殺すと言ってた」。当時1歳で護郷隊員だった宮城康二さんは、自分の隊が流れ解散になったあと、住民虐殺で悪名高い敗残兵の「海軍の渡辺」に使われていた。食料調達や偵察など自由に動ける地元の少年兵を彼らは手放さなかった。

 

また康二さんも、今村の自宅に一度は戻るが、息子がゲリラ兵とわかれば家族に危害が及ぶから来るなと父親に言われてしまう。行き場を失い敗残兵と山にいる時に虐殺に遭遇した。護郷隊の小那覇安敬くんもそこにいたが、喜睦さんは彼の叔父だった。渡辺は今帰仁の人を何人も殺している。娘には、内地の人とは絶対に結婚するなと言った。特に渡辺は、だめだ」

 

戦死日の謎

津岳の山麓に潜んで渡辺大尉は、5月に謝花喜睦さんと従兄弟の喜保さんを、6月には与那嶺静行さん一家3人をスパイ視して虐殺。その蛮行は米軍のリポートにも登場し日付は6月17~18日となっている。渡辺の足取りを追っ特殊潜航艇隊の戦友会が発行した『鳴特殊潜航艇』をめくると、運天港にいた「第二蛟龍隊」の戦死者の写真がずらりと並んでいた。なんとそこに、少し困ったような顔で笑う渡辺義幸大尉の写真があった。戦死したのか?写真の下には昭和20年6月13日戦死、とあるが、はて、米軍資料と付が合わない。同じ真には蛟龍隊の住田充男大尉が山中で記録した手書きの名簿も載っていて「渡辺義幸熊本行方不明」と書かれている。同じに戦死と行方不明が混在しているのも13日戦死が本当なら、その後に行さん家族を殺すのは不可能、これは一体どういうことなのか。

 

運天港には白石信治大尉率いる第二十七魚雷艇隊と別に鶴田伝大尉率いる第二蛟龍隊(特殊潜航艇隊)がいたが、いずれも秘密基地であり、地元でも潜水艦部隊の存在を知る人は少ない。白石隊の方は9月3日、米軍に日本刀を渡す降伏式に臨んでいるが、その18人の海軍兵の中に渡辺の姿はなかった。実は彼は、民間人に扮してひっそりと下山していたことが判明した。米軍の資料集「ワトキンズ・ペーパー」7月22日の項目に「海軍将校のワタナベ大尉という者が大浦崎キャンプ(辺野古の民間人収容所)に匿われていた」とあった。地元住民が、海軍大尉と知りつつ黙っていることに合意していたという。とすれば、米軍に見破られ、強制送還になるまでの間に病死でもしない限り渡辺は復員しているはずだ。なぜ戦友会はそれを知らないのか?

 

足取り

改めて渡辺の足取りを辿る。渡辺は3月22日運転工で撃沈され、やがて全てを失った第二部隊は自ら基地を破壊して4月6日陸戦に転ずる。八重岳の宇土部隊配下に入るものの、陸戦の経験も装備もないこの海軍部隊は多野岳に転進するまでに大半が戦死した。そして4月2日に久志岳に結集した生き残りの中に辺がいたことも戦友の手記確認。その先が空白なのだが、そこを埋める証言を沖縄県史に見つけた。

 

今帰仁出身の隊の少年兵8人が河山でヤギを焼いて食べていた時に、仲間に入れて欲しいと渡辺大が現れたという。第一護郷隊の金城さんによると、渡辺は単身で、一行は彼の地図を頼りに故郷今帰仁を目指すが、渡辺はヤギに当たって下痢が激しく、日本刀などの荷物は少年兵が担いだ。その時、前出の宮城康二さんは危険な斥候を押し付けられ「自分の隊長でもないのにバカらしい」と思ったが湧川まで案内した。

 

つまり、渡辺は一度単独行動になった後、嘉津岳に潜伏し残虐行為を繰り返すのだが、部下は雑多な敗残兵の集合体で蛟龍はいなかったため、消息不明とされていたのかもしれない。

 

さわらぬ神

私は防衛研究所の方と片端から海軍資料を検索したが、戦後の消息がつかめない。この係官も首をひねっていた。「生きて帰ったの戦友会に連絡も取らず存在を消す人もいるんですか?」と聞くと「ままあります。年金の申請もされず、消息を絶って。まあ個別の事情があるんでしょが...」しかし活動熱心特殊潜航艇の戦友会で、大尉の動向が取り沙汰されないのもに落ちない。「会報」をめくっていると、気になる一文があった。1986年の沖縄慰霊団長を務めた人物の手記で、今帰仁の人々の協力に感謝するくだりだ。


「鶴田隊はよい部隊で、住民ともトラブルは特になかったという御婦人方のお話を聞き、さもありなんと合点するとともに、抱き続けていた一抹の不安が雲散霧消したのは私一人ではなかったのではなかろうか」戦後、虐殺証言で渡辺の名前が挙がったのは「鉄の暴風」(1950)と「沖縄県史第10巻」(1974)。1980年代に沖縄に通ってくる元海軍兵らが渡辺の悪評を知らないはずはない。しかし「白石隊」「つるが隊」など所属に誤記が多く「蛟龍隊」の名前は出ていない。戦友たちは、一度は戦死扱いになったのを幸いに、海軍の歴史に汚点を残した渡辺を「さわらぬ神」にしてしまったのかもしれない。

 

三上智恵 (ジャーナリスト、映画監督)