轟の壕に閉じ込められて ~ 伊芸徳一「佐敷班後方指導挺身隊」~ 『沖縄の慟哭 市民の戦時/戦後体験記』(1981年)

 

『沖縄の慟哭 市民の戦時/戦後体験記』(1981年)

 

官公庁職員と沖縄戦 

佐敷班後方指導挺身隊

伊芸徳一

島田知事一行が長堂の壕に移った後、私たちは真和志村(現那覇市)の繁多川の壕から長堂の壕に行った。

私は、当時中頭地方事務所長をしていたが、中頭地方は米軍が上陸(昭和二十年四月一日)するということで、事務所を解散し、職員十四、五名と共に繁多川にきて、そして長堂に避難したわけである。

繁多川の壕で後方指導挺身隊を編成

繁多川の壕で県庁職員による後方指導挺身隊が編成された。そして、長堂の壕に集結した。それは、真地の壕で最後の市町村長会が持たれたときの決議事項に基づいて決行されたのである。

挺身隊は、南部の各町村の村長、職員と一緒に前述の仕事をすることになった。

各挺身隊は、長堂のから南部各町村にそれぞれ派遣された。わが隊は隊長以下七名の隊員がいた。各隊もだいたいそのような人員であった。

佐敷村に派遣された隊の隊長は私で、隊員は、成合義賢技師(土木課)、島袋和盛技手補(土木課)屋比久居(地方課)、国吉喜盛屈(会計課)、名嘉原知広属(社会課)、山川宗利雇(土木課)、山川武技手(中頭地方事務所)であった。

 

佐敷村に着いたのは昭和二十年五月の初旬だった。わが隊は、まず村役場を訪ねた。村自体も食糧難と人手不足で閉口している。恐縮だが、食糧の方も、癡掘りもあなた方で何とか考えてほしい、と役場側は迷惑そうな言い振りであった。つまり、わが隊の面倒は見切れない、ということであった。

 

わが隊でもそれは覚悟はしていた。早速築掘りに着手した。場所は、月代の宮後方の小高い森の中に決めた。すぐ下には小川がさらさら流れていた。そちらの土は白っぽい土で、柔かく、慣れないわれわれでも作業は思いの外スムーズにはかどり、たいした難儀もせずにちゃんとしたが作れた。

腹付近からの眺望は、馬天の海が拡がり雄大なものであったが、その海には常時米艦が三隻こちらを向き、波間にどっかと腰を据えているようであった。それに三隻とも妙に赤ちゃけているのが何とも無気味な存在であった。この米艦は、夜になるといずこへともなく姿を消すのが決まりになっていた。

 

壕での生活だが、主食の米もあったし、野菜類は近所の農家から分けてもらったりして不自由することはなかった。ときには山羊や馬肉なども部落民から分けてもらった。小川の清流で水浴もできたので、当時としては割と優雅な明け暮れであった。

夜間を利用して各部落で士気の昂揚

わが隊は、夜間を利用して小谷、新里、屋比久の各部落に行き、住民を集めて士気の昂揚、食糧増産などについて話をした。例えば「目前の海に三隻の米船がいる。あれは、どれもこれも赤さびだらけになっていて、とても艦砲は射てまい。単におどしのためのものだ。戦争は未だこれからどうなるか分らない。できるだけの辛抱をしなくてはならない。自給のために、いも(甘藷)や野菜類の増産に励むように・・・」といった調子であった。

 

そうこうしているうちに、わが隊の主食の米は底をついてきた。何とかしないといけない、と思案していたところへ、部落の顔見知りのおばさんが、朗報を持ってきた。

それは、つい二、三日前まで親ヶ原後方(終戦後軍政府があった場所)に友軍の陣地があったが、たくさんの米を放置して、どこかへ逃げて行った。あなた方が全員行くなら心強い、案内してもよいとのことであった。われわれは喜び勇んで彼女の後について新里から急な坂になった山道を上がって行った。

 

目的地には彼女が言った通り麻袋に入った米が山のように野積されていた。思わず歓声をあげ、米の山に近づいたとたん、待ちかまえたようにドカン、ドカンと艦砲があたりに落ちた。びっくりして、すぐ後方の繁みに身をひそめた。

艦砲は馬天の米艦からではなく、北部の方からのようであった。砲撃の炸裂した場所はわれわれがいた地点より大分離れていた。それが止むと同時に米の山に突進した。一袋(百斥入)を一人で担ぐのは無理だということで、小刀で袋を切り裂き、米を出し、各自が持てるだけの品にしてから背負うようにして担いで一目散にその場を離れた。

 

帰途は長い坂道を降りるわけだが、馬天の海にいる米艦からは、われわれは丸見えであった。そこで、一固まりにならずに、ひとりびとりの間隔を約十燐ほど空けて歩く方が安全度がある。それも絶対に走らずに普通に歩くこと。いくら物資豊富な米軍でも、たかが非戦闘員のわれわ目がけて艦砲を射ってくるようなことはないだろう、と私は恐がる隊員らをなだめ、先頭に立って歩いた。

 

ところが、いつの間にか間隔が縮まって一固まりになる。また元の形に戻ったりしながら、やっとに全員無事辿り着いた。

馬天港から米軍上陸、南部の壕へ

二、三日して馬天港から米軍が上陸してきて佐敷街道に進出し、丘陵に向って威かく射撃してきた。また飛行機が低空してきたので、わが隊佐敷を出ていずこかへ避難しなくてはならなかった。結局、県庁職員大勢避難している南部の薬に行こう、どうせ死ぬなら、みんな一緒がいい、と全員南部に後退することになった。

 

短かい日々ではあったが平穏に過した佐敷の壕を出発した。第一夜は知念村志喜屋の親川栄蔵氏宅に泊った。親川氏は「南部は危い。ここに残れ」としきりに北部行きを奨めていた。しかし、われわれの決心は動かなかった。


具志頭村に入ったわが隊は、休憩のため、具志頭村役場入口の脇に生えた福木並木を背にして座っていた。上空はどんよりと曇り、米機の姿も見えない”絶好な日和であった。われわれは口々に、恵まれた日だ、この分なら絶対に空襲も、艦砲も飛んでこない、と喜び安心していた。

艦砲弾の破裂で隊員二人重傷

私は、水を捜しに休憩場所を離れた。すぐ近くの民家の井戸をのぞいたら、石が投げこまれ、水のかげもなかった。仕方なく元の場所に戻ろうとしたとき、突如、ビューンという山を越すような弾丸の音が耳朶を破った。皆が座っている真上の福木に艦砲弾が触れ炸裂した。

私は、「危い」と叫んでその場に身を伏せた。顔を上げると、皆は押し潰されたように動かなかったが、やがておのおの低いうなり声をあげて地上を動き廻った。

 

名嘉原は眼の下をやられ、国吉は口の辺りをやられ、二人は呆然としていた。左腕をやられた成合と、右足をやられた山川は重なるようにして血の海の中に倒れ、体をふるわしていた。

島袋と屋比久も手足などに軽い傷を負うていた。無キズの者は私と山川武夫だけであった。だが、妙に顔がぬるぬるしているので、手で顔をなでてみたら、それは隊員の返り血であった。

 

成合の左腕はわずかに皮膚でつながっていた。山川の右足は、石が鉄槌で打ち砕かれたようになって、傷口にはザクロのように割れ、そこから血が吹きでていた。

私は無我夢中で自分のリュック(手製)の中を掻き廻した。破片で毛布、ユカタは穴だらけになっていた。毛布の中に入れてあった手鏡は粉々になっていた。ユカタをバリバリ引き裂き、二人の傷口をぐるぐる巻いて一応止血した。

 

成合は、血の気が引いて苦痛にゆがんだ顔で、この腕がぶらん、ぶらんと揺れる度に骨と骨とがぶつかって痛くて仕方がない、何とか切り離してくれ、としきりに私に頼んだ。彼の苦痛を察して意を決し、隊員の日本刀を借りて切ってみたら、ひどい鈍刀で役に立たない。こんどは国吉君が持っていた小刀(肥後之守)でゴシゴシ切った。もちろんそのときは成合の体を二人の隊員がしっかり掴んでいたが、二人は顔をそむけていた。

 

腕の切断を済ませ、付近の民家から捜してきた戸板に二人を乗せたが、さて、この二人の処置をどうしようかと思った。

新城の軍病院の壕には負傷兵がいるという情報があった。そこには軍医がきっといるに違いない、そこに使いを出したら「癡に軍の負傷者が一杯で、とても民間の負傷者は気の毒だが収容出来ない」との報告だった。

 

仕方がないので、ちょっと奥まった部落の後方の民家の馬小屋に二人を運んだ。こんどは東風平にある本部の壕に出した使いの者が仲松弥元氏と新垣氏(救護班)を伴ってきたが、適当な薬がなく、ヨードチンキの代用品を置いて帰って行った。「本部でも自分の生命を守るのに精一杯の昨今で、負傷者を収容して治療を加えることはとてもできない」との冷たい返事だった。

重傷者の全身に蛆

これには全くがっかりすると共に途方にくれた。とにかく重傷者の隊負を捨てて行くのはしのびない。何とかしようと、二人を民家に運んだ。医者にも診せられず、薬もない、せめておかゆを炊いて食べさせるぐらいが関の山だった。絶え間なく落ちる艦砲の間に炊くおかゆはほとんど半煮えであった。

二、三日過ぎるころから二人の患部に蛆が湧いた。やがて全身を覆った。最初の中は、露出した神経に蛆が触れるのか、蒼白な顔をピクピクとひきつらせながら、身をもがいた。蛆が耳の中に入るようになってからは、おかゆを喰うことよりも蛆を払い落してくれと嘆願した。松の葉をとってきて、それで全身の蛆を払い落した。耳の穴に入る蛆はグシチャーの茎を箸代りにして取った。

 

そのころ、近くの壕にきていた浜松軍医に民家まで来てもらった。軍医は一目見るなり、「これは駄目だ。若し全治するにしても約二ヵ月はかかる。こんな患者にかまっていたら、結局は皆やられてしまう。前線の病院では、独りで歩けない患者以外の重傷者は、注射でウミナーク(安楽死)させる方法をとっている。苦労しているあなた方の気持は分るが...」と言った。われわれは軍医の言葉に絶望した。

 

右足をやられた山川は、成合技師の腕の切断を見て、いっそのこと患部の上から切断してくれと希望した。

戦前、黒砂糖を作る場合、甘蔗をしぼる、あの機械に手を挟まれたとき、思い切って挟まれた手の上部を切り落し、命だけは何とかとり止めたことを何度か見聞きしたので、思い切ってそれを実行しようと思った。

そのことを衛生軍曹に話し、ノコギリを貸してくれと頼んだ。そんな無茶な...。患者は蛆が癒す。腐った患部を蛆が食う「蛆療法」という言葉もあるから、そのまま放って置く方がよい、と教えられた。

 

それから民家の付近に艦砲が炸裂し、皆が付近の壕に退避してから、後で民家に戻ってくると二人とも死んでいた。夕方になってから近くのきび畑の側に穴を掘って二人を埋めた。

 

翌朝、二人の隊員を失い、意気消沈したわれわれはそこを出た。重い足をひきずりながら歩いている中に、われわれは友軍(球部隊)の陣地内に入ってしまった。そこの壕には四、五十名の兵隊がいた。

スパイでないと納得させる

定番のデマ。局部の毛を剃り、赤いハンカチを振って爆撃機に通信するという。

しばらくしてから他の壕から伝令がやってきて、われわれのことを部隊長に報告していた。その内容は、「サイパンの沖縄人捕虜が、ひそかに米潜水艦で運ばれ、この島(沖縄本島)に上陸している。これらはいずれも米軍のスパイで、特徴としては、局部の毛を剃っている。赤いハンカチと小さな手鏡を持っている」鏡を太陽に反射させ、上空の米機に知らせる。赤いハンカチを振り、そして爆弾を投下させるーといったことであった。

 

そういうことで今後、部隊の壕には絶対に地方人を入れるなということだった。部隊長は、われわれをスパイと思っているに違いない。私は隊長の前で、われわれの素性や挺身隊のことを細かく説明し、決して怪しいものではないと強調した。

それでは何か証拠になるものがあるかと聞いた。私が、中頭地方事務所長のころ、中頭地方にいた各部隊の幹部将校らと絶えず食糧供出のことで顔を合わせ、名刺も交換していたので、幸いその名刺を所持していた。それを何枚か見せたらやっと納得した。

 

ところで、日中は艦砲がひどいから夕方まで、軍の壕にいさせてほしい、と願い出た。よろしいということで、われわれはホッとした。

ところが、約一時間も経ったと思ったら、「直ぐ出て行け」とのことであった。まだ日中だから何とか夕方までは、と強く頼んでみたが聞き入れなかった。

「死ね」と同じ指示

そこを出るとき、「貴様らは、海岸線を行かずに、花城、与座、仲座の各部落内(陸路中央)を通って行け」と今後のコースまでの兵隊がこまごま指示したものであった。

海岸線にはアダンが繁茂していて、その間を縫うようにして行くのは陸路中央を通るより、はるかに危険度は少ない、ということは常識だった。

しかも、まだ日中で、艦砲が間断なく炸裂している最中に、情け容赦もなくおっぽり出すとは、われわれに「死ね」ということであった。魔の通りといわれた前記の各部落内を艦砲や銃火に追われ、右往左往し、泥田の中に身を伏せたり、あるいは溝の中に入ったりし、生死の間をさまよっている中に、真壁の境界付近で警察部の島袋正二郎警部補と会い、県職員がいる伊敷の森のを教えられた。やっとの思いでそのに辿りついていた。六月二日だったと記憶している。

知事一行も轟の壕に入る

轟の壕は、真壁村伊敷の丘の中腹にあった。直径約十間もある。円筒型の口は噴火口のようにポッカリ大きく開いていた。この天然の垂抗道は、ぐるりが風雨に色褪せて古いサンゴ礁でおおわれ、樺色の歯を剥き出していた。螺旋形の小道が、内部の岩壁に沿って造られ、それが約五間ぐらいも続いていた。暗い抗道に降りると、突起した岩盤に、大小無数の岩こぶが付き、地底に足場の悪い突起状をつくっていた。中央の岩盤上には大きな雑木が数本繁り、丘の中腹からも、節くれだった古木の梢がその頭をのぞかせていた。

 

最初の中は、この雑木のひろげる枝々が、円筒型の口を半分以上も蔽い、天然の擬装となって役立ち、壕内千数百人の戦争に怯える人達を、無慈悲な鉄火の脅威から守ってくれていた。

 

われわれは最初は壕の中段にいた。壕には一段、二段、三段があって下になるにつれて空気が悪くなっていた。

 

中腹のには佐藤特高課長、大宜見衛生課長、高嶺首里警察署長らがいた。首里がやられた後、首里警察署はなくなり、署長と若干の署員らがこの様にきていた。真壁察署と称し、南部一帯の治安に当たっていた。別に看板などはなかったように思う。署長は高嶺世太氏であった。

 

われわれがきてから間もなく知事一行が、この壕にきた。おそらく首里警察署員らがいたので、知事の身辺の整備のこともあって、特高課長が先に様子を見にきていたものと思われる。

 

私は、野嵩や金武のも見たが、この壕の広さは格別で、それらの壕とは話にならなかった。東西に約二キロはあっただろう。それに下の方には立派な泉があった。戦争前は、伊敷の部落民が飲料水として汲んでいたようである。また、戦争の始めごろこの壌の近くには陸軍の野戦病院もあって、そこの泉の水を使用していたとのことであった。

 

やがて食料も底をついた知事一行は、大城の森には米があるから、それを取りに行こう、となった。知事は君の隊からも二、三名出してくれ、といったが、私は既に二人の部下を失ったし、残った五人だけでも仲良くし、無キズのままいたい。これ以上犠牲者を出したくはない。また、これまでの経験上、昨日あったものは今日はない、というためしで命がけで行っても無駄だと思う、と強く突っぱねた。

 

元の上司の警察部長は「君、そんなに我を張らずに二、三名出せよ」といったが最後まで断わり続けた。私の思っていた通り、米とりに行った連中は手ぶらで帰ってきた。

 

しばらくして、軍と知事との連絡員をしていた田端一村氏がきて、知事、警察部長は軍の奨めで摩文仁のに行った。

軍が避難民を追い出し良い場所を占領

県主脳が去った後、突然友軍が十五、六名ぐらい壕に入ってきて、避難民はみんな下の方に降ろされた。隊長は大塚という曹長だった。彼らは全員ちゃんと軍服を着け、銃も持って壕の入り口に陣取った。入り口の突き当たりには泉があった。避難民を追い出し、一番良い場所を占領したのである。避難民をそこから出さないように厳重に見張っていた。その理由は、地方人(避難民)がを出て米軍の捕虜になった場合、兵隊がこの境にいる、ということが米軍に知らされる、ということであった。つまり、彼らの身の安全のためなら地方人はどうなろうと知ったことではなかったのである。県主脳がいたら、おそらく彼らも一方的な行動はしなかったと思う。

 

暗い、じめじめした壕に閉じ込められた避難民は食糧もなくなり、餓死する者、病で倒れるものが続出した。このまま閉じこめられたら、みんな死ぬ外はない。「ここで死ぬより、上にあがって死んだ方がよい。是非出してくれ」と何回も彼らと交渉したが、がんとして聞かない。終りには「泥を喰ってでも生きろ」とどなりつけた。

 

しばらくしてまた交渉した。こんどは「一応抜け道を捜してみろ。捜すならガソリンをやる」と隊長がいった。私はみんなに計り、空ビンを集め、それにガソリンをつめ、シンをつけ、爆発しないように泥を塗って十個ぐらい作った。

 

大雨でどのようになった流れは、小舟が浮べられるほどの川幅になり、胸のあたりまで浸って広いを捜し廻ったが、遂に見つからなかった。

 

われわれは諦めずに更に彼らに頼んだ。こんどは「貴様らのおるの天井の岩壁の層は薄い。艦砲がきたとき、ビリビリと響く。天井に穴を空けたらどうだ」といった。

彼らは、そのことは始めから不可能だと分っていたかも知れないが、われわれには「藁をも掴む」の心境だった。

 

そこで、天井に穴を空けるべく、私は、隈崎警部、漢那巡査部長らと相談し、人々を納得させ、ツルハシやマッチなどを寄せ集めた、必死の作業を始めたのだが、シズクで火は消える、マッチも濡れる、食料もガソリンもなくなったので、結局その計画はオジャンになった。

水不足の悲惨な壕内生活

いよいよ「友軍」との持久戦だ、として靴下に入れてあった米、大豆をかじりながら何とか生き延びようかと心に決めた。幸い、宮城嗣吉氏の部下から海軍用のカンパン一箱をもらっていたので、それがなくなったらわれわれは最後だと思った。

 

生の米、大豆ばかり噛んで、余計の渇き、天井から落ちるしずくだけでは足しにならない。弱った連中は、水がのみたくても行くことが出来ずに、座ったまま金魚のように口をパクパクさせていた。それを見かねて、私は空罐を持って水汲みに何度も行った。帰る途中、死人につまずいたりして、空罐の水は半分もなかった。

 

低いうなり声。水、水をくれとかすかな声が暗闇の中から聞こえた。水をのむために、やっと水辺にきて俯せになって死んでいる者。水の中に頭を突っこんでこと切れている者。水をのみに這い出してきたであろう、死んだ母親の乳房にすがりついて、ぐったりしている赤ん坊。水中に俯せになった女の長い髪の毛が、ゆらゆらと生きもののように水中にゆれていた。

 

嵐の中は刻々と腐臭がみなぎってきた。腐肉と蛆と血と糞便がどろどろに溶け合った泥水が岩間を伝って下の方へ流れていた。お互いに顔を叩き合い、眠ってはいかん、がんばるんだと励ましながら懸命に睡魔と闘っていた。

宮城嗣吉氏の声で救わる

そのとき、パッと強い光が壕内に入りこんできた。懐中電燈だった。いよいよ米軍がきたのだ。われわれは殺される、と一瞬恐怖におののいた。「私は宮城嗣吉だ。みんなの外に出なさい。出てもちっとも危険はない。米軍がみなさんを救いにきたのだ」ときき憶えのある声がした。

 

壕の中の人々が円筒型の底から這い出してきた。上の方からローブが投げ降ろされた。壕の上では米兵の陽気なカン高い話し声がきこえた。米兵の指図で、最初は女、子供、老人、病人から登った。そこには機関銃を擬した米兵がいた。外に数人の米兵が、壕の中の人々を救出しようと懸命に立ち働いていたのが印象に深い。

 

われわれが壕を出た後、これから壕の中に爆雷やガソリンに火をつけて投げ入れてよいか、と米兵がわれわれに同意を求めた。

 

救出された人々は五、六台のトラックで収容所に運ばれた。途中、壕の中のすさまじい爆発音を聞いた。空中に黒い煙が立ち上っていた。その日はたしか六月二十六、七日だったと思う。約一ヶ月ものにいたことになる。

収容所を転々して民政府勤め

私は伊良波の収容所に入れられた。隊員らも一緒だったが、次の収容所からは散り散りになった。

 

転々と収容所を経て、やっと自由の身になった私は、昭和二十一年、石川東恩納にあった民政府に勤めていた。四、五名の友人らと一緒に石川に家を借りて、そこから役所通いをしていた。われわれの家のすぐ前に、徴用されていた慰安婦らがいた。彼女らは、ときどき肉などの入った大きな罐詰(米製)を持参し、われわれの家に遊びにきた。当時はひどい食糧難だったので、彼女らの来訪で大いに助けられた。

憎い曹長が変身して米宣撫班員に

彼女らの中には、別府の花街や朝鮮からきたのもいた。別府からきた女の旦那の名前を聞いて、私はびっくりした。何と、轟の壕でわれわれ散々苦しめたあの憎い憎い大塚曹長だったのである。轟の壕で米軍が打ち込んだ爆雷でてっきり死んだものだとばかり思っていたから.....。彼は変身して、米軍の宣撫班員になっていて、彼女をオンリーにしてぜいたくな暮しをしていたのだ。何て妙なめぐり合せだと思った。

 

電話交換手と沖縄戦

儀間浩

兵隊の「壕追い出し」

毎年六月二十三日の「慰霊の日」は、「逓魂の塔」(父)、「和魂の塔」(兄)、八月二十二日は「小桜の塔」(弟)へ行き当時のことを思い出し霊を慰めています。

当時六人家族で、父は糸満方面で行方不明、母は糸満で爆死、長兄印支那で戦死、学徒隊の次兄は那覇商業四年生、通信隊、摩文仁で自決、小学五年生の弟は対馬丸で児童疎開し死亡、私一人残されました。昭和十九年十月十日の空襲で家を焼かれ、裸同様で母の実家の真地で

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