金城武徳「パイン缶詰は戦争の味」『渡嘉敷村史資料編』1987年

 

 

 

渡嘉敷島、軍令はなかったと主張する赤松隊側の証言者として、チャンネル桜金城武徳氏を上げるのだが、そして、もちろん金城武徳氏は赤松隊の弁護側に立つのであるが、

 

なぜか、1987年の金城武徳の証言はスルーしているようなので、整理のためにここに書き留めておく。

 

金城武徳「パイン缶詰は戦争の味」『渡嘉敷村史資料編』1987年 pp.391–399

 

「パイン缶詰は戦争の味」

渡嘉敷 金城武徳 (当時十四歳) 

中略

軍令で北山に避難させられる

 二七日は、ウフジシクビ(地名)の谷間で昼中すごした。その時に村長の米田さんと、偶然いっしょになり、村長さんがいうには、(シンカヌチャー、ナマカラルドゥ、日本ヌ連合艦隊ヌ、ンジティチャニスセー、シンカヌチャー、サワグナヨー)(みなの衆、肝をすえて、空騒ぎをするなよ、連合艦隊がやってきて、アメリカーをやっつけるのは、これからだ、慌てふためいて、ぶざまな事にならんようにな)。

 僕らは、村長さんは、本心でいっているな、村民をおちつけるためではないな、日本は、絶対に勝つんだ、と思っている、という事が感じられる語調でした。

 土砂降りの雨のなかを食糧を置いてあるオンナガーラの避難小屋に夜になってもどりました。

 僕らが、オンナガーラに降りていったら、伝令がきて、この人は農林学校出身で、玉砕で亡くなった人で、名前はいわないほうがよいと思う。

 この人は、あっちこっちの避難小屋を巡って、「軍ヌ命令ドゥヤンドー、ニシヤマ(北山)ンカイ、避難シイガ、イカントゥナランテンドー(軍の命令で北山に避難するよう、行かないと駄目だぞ)」と、伝えていた。

 伝令にいわれて、うちの母は「ナー、ワッター、ナマドゥ、チョークトゥ、ワラビンソチャーン、アミンカイ、ンダチ、チャシン、シヌアタイヤレー、ツマウティ、シヌサ、マーンジ、シナワン、ヰヌムンドゥヤクトゥ、ワッター、ナー、マーンカイン、イカンドー(私たちは、今ついたぼかりだし、子どもたちも雨で濡れねずみだ。どうせ死なたけれぱいけないものなら、何処で死のうが同じ事だ。私たちは、此処を動かないよ、村で死ぬ事にするから)」。母は、生まれてまだ六か月の、僕と十四歳違いの赤ん坊を抱いているし、それに、母の従妹が三人も子どもをつれていました。

 母が、伝令にそういうと、おばさん(母の従妹)が「姉サン、アンイチン、ナユミ、チュヌ、イチュトゥクマヤ イチルスル(姉さん、そんなこといわないで〔村の〕人びとの行くとこは行かんといけないのじゃないの)」といった。

 それからまた、準備をして雨のなかを「軍ヌ命令ドゥヤンドー(軍の命令だ)」と、伝令がいっていた所を目指して出発した。。

 オンナガーラを出て、途中、部隊本部になった所を通りかかると、兵隊が壕を掘っていた、それを見て「あ、やっぱり軍の命令なんだ、僕らを保護するために壕を掘っているのだな」と、思った。

 壕を掘っているところまで行ったら、兵隊が「あっちに行きなさい」と、指示したところに着いたのが、夜半の三時頃だった。

ここで玉砕、手榴弾が配られる

 土砂降りの雨で、濡れた服を着けたままかわかして、夜が明けて辺りを見ると、あっちこっちの谷間に、大勢避難していた。

 うすうす此処で玉砕するという事は聞いていた。一〇時頃、まだ爆弾なんか落ちてこなかったが、何かの合図で集まったのか、誰か命令したのか、みんな集まって来たけど「今じゃない、別れろ」と、いわれた。

 次に「集まれ」と、いわれた時に、弾が激しく落ちてきた。いつの間に、誰が渡したのか榴弾が全部に配給されていた。

 僕らは、兄の同級生と一緒にいて、三家族で二発の手榴弾、信管付きと導火線(ミチピ)付きとを渡された。

 二八日の三時頃、玉砕がはじまった。

 その時、村長が立って演説して「天皇陛下万歳」の音頭がとられ、僕らも「天皇陛下万歳」と、三唱したあとで手榴弾の安全栓を抜いたが、不発だった。

軍の陣地から出て行けと怒鳴られる

村民は、軍の陣地から出て行けといわれたのは、住民が軍の陣地になだれ込むことで、軍の陣地が米軍の迫撃砲の標的となるためだった。別の場所に行くよう指示したのも兵士だ。

 一緒にいた防衛隊の人たちが「此処で死ねなかったから、今度は、本部に行って機関銃をかりて死のう」と、いうことで「ついて来い」と、いわれて、僕らもワーワーしながら本部に行ったら、軍の本部だか民間人は入れないのに、ワーワー騒いでしまったので、将校連中はワヂッて(怒って)、また、僕らがなだれ込んだために、アメリカーに迫撃砲をバンバン撃ぢ込まれた

 僕らは、兵隊に「出て行け、出て行け」と、どなりつけられ、田所中尉なんか、僕をにらんでいっているのかなと、思うほど、ブーブーいっていた。

 やがて弾もおさまって、今、第二玉砕場と呼ばれている所に避難しろといわれ、そこに移動した。

 僕らが、本部になだれ込んだとき、兵隊が一人やられて倒れた。その兵隊は、息が絶えるまで、天皇陛下万歳」という言葉は、ひと言もいわなかった。

 「お母さん、お母さん」と、あれは十五分ぐらい呼び続けていたでしょう。その声がしだいに虫の音になっていった。

 衛生兵が二人きていたが、殺したのか、看病したのか、そこらは判然としないが、たぶん、ちゃんと看護したと思うが、大勢の兵隊や民間人の見ている前で「お母さん、お母さん」と、いっていた

 あの頃は、日本の兵隊は死ぬとき、「天皇陛下万歳」と、叫んで死ぬんだと、僕らは教育されたが、そんな事は全然いわなかった。僕は、その事が非常に印象に残っています。

 話は少しもどるが、玉砕場で自決しようとしたとき、うぢの母が「カンナタル日本デチアガヤー、ウリヤカ、ディ、捕虜ナラ(日本という国は、こんなみじめな国になってしまったのか、それより、いっそうのこと摘虜にでもなろうか)」と、アピトールパー(いってしまった)。

 よくもまあ、いったものだと思いましたよ。

 もし、兵隊にでも聞かれていたら、すぐ討ち首だったはずよ。

 それから、本部で兵隊にいわれたように、第二玉砕場に移動しました。

 あの時は、弾がとんでくると、乳呑児を弾の方向につき出した、この児を残して、親が先に死んだら……親がいなけれぱ生きていくことが出来ないし、飢えて苦しませて死んでいくより、先に死んでもらった方が、赤ん坊の為にもと思って……

 おばさんと末っ子のチイちゃんという子が、ここで亡くなった、おばさんの子どもで、ひろ子も左手を貫通され、この子は、母親に抱かれて一緒に倒れたので、二人とも死んでいると思っていた。

 僕らは、玉砕場で亡くなった人たちを、川のなかに倒れたままにしておくと、雨が降ったとき流されるからと、日が暮れてから、みんなで引き揚げておいた。川上から川下の土手みたいな所に少し移しただけですがね。

 「死人と一緒に寝るものじゃない」と、いわれて、死んだ人たちを寄せてあるところから、三〇メートルほど離れたところで休んでいると、夜の九時か十時頃「お母さん、お母さん」と、女の子の声がした。

 いくら呼んでも、お母さんが返事をしないものだから、今度は「ウフー(大)チャーチャー(伯父さん)、ウフーチャーチャー」と、呼びはじめた。

 「ウフーチャーチャー(大伯父さん)」というのは、僕の親父のことですが、死んでいる子どもが呼ぶわけはない、ゆうれいかな、と思って、みんな耳をすませていたら、やっばり子どもの声に間違いないいうことで、もう、親父は怖がって動かない。それを見て、兄は十九歳で、若いものだから、「見てくる」と、立ちあがった時、

 今度は、「たけおにいさんよー」と、呼んでいるわけさー、もう間違いなくひろ子だ、ということで「連れて来る」と、いって、死人を片付けてあるところに行って、三〇人か四〇人余りの死体のなかから捜し出して連れて来た。

 あの時は、少しでも多く着けさせていたら、弾よけにもなると、着物をたくさん着けさせていたが、ひろ子の左手は、骨が砕けてブラブラして、血糊がついて、着物とベッタリくっついて、脱がすことも出来ないので、袖を包丁で切り捨て、やっと着換えさせた、その時、ひろ子が、七歳になるシージャ(兄)に「ニイニイ、オトーガ、ムドゥティクワー、アカマンマカムンド(兄さん、お父さんが帰ってきたら、赤飯を食べよう)」と、いってね。

五月からの食糧難

 四月一日に避難小屋にもどって、長期の避難生活が始まった。五月までは、食糧にさして不自由はしなかった。米もちゃんと、保管してあったし、また、軍の米も沢山出廻っていたし、六月頃になって、手持ちの食糧は、食いつくし、蘇鉄などを食べはじめた。

 また、一期作で植えつけた米は、山の避難小屋から近い所は、刈り取りじゃなく、穂を摘みとって小屋に持ち帰って、一升壜に詰めて籾にしたり、玄来から精白したりして食いつなぎました。

 稲を摘みに行く途中、アメリカ軍が仕掛けた地雷を踏んで、若い連中が犠牲になったり、ダー、田圃に行くのは、力もあって足も早くなければならないでしょう。

 地雷にひっかかって死ぬのを見ていても、食糧を捜して、家族を養わんといけないしね。

住民虐殺 - 一番怖ろしかったのは中国帰りの日本兵

 一番怖ろしかったのは、基地隊といってね、支那事変から帰ってきた連中でした。

 朝鮮人軍夫が、この連中に斬られるのなんか簡単だった。渡嘉敷の住民も虐殺された

 僕の記憶では、七人殺されている。

最初に殺されたカネマチぐわーとは?

 一番最初に殺されたのが、カネマチ小(グヮー)のおじさん、上陸作戦が始まってから、椎の実を採るといって、ワーワー騒いで、気が狂ってしまって、赤松隊長に斬られた。

大城徳安さんのことか。

 二番目は、大城さん、スパイ容疑で斬られた。

 大城さんは、海軍軍属だったので徴用されなかった。とても絵のうまい人で、白いさらし木綿に、虎の絵を描いて、千人針を作ってやったりしていたが、南洋帰りと、いう事でスパイ容疑がかかったのでしょう。

座間味盛和さん、古波蔵樽さんか。

 それから、精和さん、古波蔵セイキチ、という、ガンヂューおじさん、大城徳安先生も斬られて、字阿波連の小嶺武次で五名、

八月の与那嶺徳さんと大城牛さんの虐殺か。

あと二人は、終戦になって、山を降りてきて、自分の家族を捜して連れ帰る、といって、山に登って行き、斬られている。

朝鮮人軍夫の虐殺

朝鮮人軍夫への見せしめとしての虐殺。同じ朝鮮人軍夫に穴を掘らせ、斬る。

 僕らの目の前で、軍夫が斬られる事もあった。同僚に穴を掘らせて、裸にして、うつぶせにさせて斬る、可愛想だった。斬ったのは、山本軍曹。

上官の命令は、天皇の命令だ

 昭和五二年、村長と赤松の副官だった知念さん、僕の三人で大阪に行って赤松なんかに会った事がある、戦友会で慰霊祭をするというのでよばれて行った時、村長が、赤松に「なぜ、おまえは、終戦になってから、自分の家族を捜しにと、山に登った者まで斬ったのか」と、間うと、赤松は、「あれは、僕じゃない、西村大尉が命令して中島が斬ったようだ」と、いっていた。

 上官の命令は、天皇の命令だ、ということで、斬らした。

八月十五日頃、山を下りる。

 山を降りたのは、八月に入ってから、親父が、脚気になって、海岸ぞいに移ろうと思って、従兄たちのところに移ったら、その時が終戦の日、八月十五日だった。

 村の人も、その晩、ほとんどの人が山から降りて来た。