海軍司令部壕の沖縄戦 ~ 上根保『生還 激戦地・沖縄の生き証人60年の記録』(2008)

 

航空局職員、上根保の沖縄戦

小禄、海軍壕の貴重な証言の一つ。

上根保『生還 激戦地・沖縄の生き証人60年の記録』(2008/7/29)

1925(大正14)年1月3日生まれ。八十三歳。国立電気通信大学本科を卒業し、航空局に入省。研修後、沖縄小禄飛行場に勤務。44年、日本航空ほか民間航空機の誘導業務に携わった後、海軍所属の軍属として沖縄にとどまる。45年3月、沖縄本島開戦とともに小禄海軍司令部壕内に移動し、海軍司令部壕占拠後に脱出して被弾。同年9月4日石川捕虜収容所に収容され、その後牧港収容所で一年四ヶ月にわたり捕虜生活を過ごす。46年12月、神戸の生家に復員。49年、神戸のトアロードに一坪の店をオープンし、55年には現在の本店を開店。95年に神戸元町東地域協議会会長、96年にはトアロード街づくり協議会会長に就任。同年、国際高級時計宝飾協議会(AIHH)日本支部会長となり、97年にはAIHHジュネーブ本部理事に任命された(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです

 

航空局からの技術者として、軍属の側から小禄の海軍司令部壕を経験、生還した上根保の貴重な証言。

 

技術者としてり立ち位置は、日本に独特な過剰な精神論、無意味ないじめ構造、人権感覚の欠如、絶対的権威主義を、合理主義の立場から斜めに見る視点を可能にさせ、また費用対効果分析 (CBA) に基づく迅速な意思決定の大切さは、彼の復員後のビジネスマンとしての成功を裏書きしたものでもあろう。

 

日米で大きく違う人命の価値

沖縄戦では鉄血勤王隊という挺身隊が結成された。まだ童顔で十五、六歳のその中学生(当時)たちが棒の先に急造爆雷を結び付け、爆弾を抱えて敵戦車の直前に飛び込むのである。国家のために命を捧げるという尊い行為であった。手引きの荷車でだいぶ訓練をしたのだという。 しかし実際は、たちまち戦車の機関銃連射で即死であった。なんともやりきれないひどい光景 である。


また彼らは、戦車が通りそうなところに浅い窪みを作り、爆雷を抱いて夜中に潜むこともあ った。そんなことで、どれだけ敵に打撃を与えたかは分からない。 軍部は戦況を把握している はずなのに、この少年たちへの命令にどれほどの意味があるのだろう。軍に命令された先生も学徒も、明らかに被害者である。放置されたままの遺骸にはハエがたかりはじめ、だんだん黒くなり、ついに全身がハエで真っ黒の塊となる。もはや味方の遺骸を収容する余裕もなく、つねに放置状態であった。鉄血勤王隊の彼らは、護国の鬼になると真剣に信じていた。だがその 目的さえ果たせず死んでしまった。

このような不条理な悲劇はいたるところで起きた。後年、私の目前で起きたあの光景を思い出すとたまらなくなる。戦争はたしかに人を狂気に追い立ててしまうのだ。

 

たまに米軍機が墜落するとパラシュートが開く。たちまち小型飛行機がやってきて、必ず救出隊がパイロットを救出していく。そんな光景をたびたび目にすることがあった。 那覇港を攻撃していた敵機が落ちたときは、近くにあった海軍の船がたちまち猛攻撃を受け、撃沈された。そして、日本の小型艦は港外に追い出され、やがて米軍の高速艇がやってきて米軍兵士を救出して行った。彼らはどんなコストを払ってでも自軍の兵士を救出する。遺体を放置などしない

pp. 35-36

 

特攻という自爆攻撃の CBA (費用便益分析)

人命を大切にしない軍が、戦争に勝てるわけがない。特攻作戦でパイロットの人員を消耗することの意味を理解できていない日本。

日米で大きく違う人命の価値
人にかけるコストといえば、パイロットの養成について考えさせられることがあった。パイロットの養成は、長い期間と費用を計算すると、とんでもないコストになる。にもかかわらず、 日本のパイロットは消耗品のように扱われている。


ミッドウェー戦で撃墜されたパイロットは (ブログ註・日本に帰還した後、パイロットではなく) 壕掘りをしていた*1。 あまりの不合理さに驚いて、いろいろ話を聞いてみたら、情けないことに飛行機がないという。 彼は誇りも名誉も踏みにじられて、泥んこになって壕掘りをさせられていた。 この不能率さ、理不尽さを知り、日米のコ ストと人命に対する考え方の大きな違いに深刻な思いを抱いた。しかし、これは単にコスト計算の話だけではなかった。

 

真珠湾の話を聞いてみると、飛行機同士の交信はできず、編隊長だけが通信機を備え、他は手信号か何かで合図しあっていたらしい。 編隊長が撃墜されたらどうなるのかと聞くと「別にどうってことはないよ」と言う。当時の日本のパイロットの格闘技、航法の腕前は素晴らしく、 ゼロ戦でも目視航法、推測航法で数千キロの往復をしていたほどだった。パールハーバーから ミッドウェーのころまでの日本のパイロットの腕前はよく知っていたので、話はよく理解でき た。実際、日本海軍の偵察機は米軍基地のウルシー島まで単機で偵察に行き、無事、沖縄に帰ってきていた。

 

ゼロ戦や新型の高速偵察機は単独飛行で、満州と当地までを半日で行って帰ってきていた。 通信機や測定機が劣っていたから、パイロットもナビゲーターも勘と腕に頼っていたのだ。 太平洋戦争の前線がまだ遠かったころ、那覇飛行場で航空兵たちがエアショーをやってくれたことがある。プロペラで人の頭を刎ねるほど低空にまで急降下し、観衆を怖がらせてにわかに垂直上昇するゼロ戦は圧巻だった。観衆は大喜びし、心強く思った。当時のパイロットの腕 は確かでよく自慢していた。沖縄戦の半年くらい前の話である。


だが、戦況が険しくなるにつれ、離着陸の事故が増加した。飛行場の稼働率は低下し、南方戦線に送り込む飛行機も、前線に到着するのは半分くらいになってしまった。日本機は総じて 脚が弱かったし、パイロットの練度も劣悪になっていった。機体も、それを操るパイロットの技術もだんだんと質が落ちているのを知りながら、 それを立て直す術もなく、日本軍は彼らを戦線に送り出していたのである。 人命に対する価値観の違いは、そのような面にも理由があっ たのかもしれない。

 

壕の衛生問題と戦闘疲労症と暴力

寄生虫と悪臭で気がふれる兵士たち

そのころは、壕内での衛生問題が悩みの種であった。陸軍も海軍も互いに情報を交換し、生活環境を調査していた。不潔こそが最大の敵であった。実際、全兵士がノミ、シラミ、ダニの攻撃で終始イライラしていた。厨房、食事、排便から負傷兵の血膿の悪臭、負傷兵の激増で誰もが体調を狂わせ、気力も低下していた。赤痢マラリアが発生して下士官にもストレスが溜まり、そのはけ口なのか、彼らは屁理屈をつけて下級兵士をぶん殴り、軍人精神を叩き込むという妙な理由で、毎晩棍棒で部下を殴打していた。陸軍にも同じような現象があったらしい。

 

軍隊という「異次元の世界」- 員数合わせ

また朝晩、下級兵士を並ばせて所持品検査をした。規定の装備を所持しているかどうかをチ ェックし、不備の者には厳しい仕置きを与えた。「陸軍に比べればまだまだ優しいものだ!」 とほざいては「次までに員数を合わせておけ!」と命令する。つまり、今から十二時間後までに、他の中隊兵士からブツを盗んでこいと暗に泥棒を強要しているのだ。 次までとは夜中か 真っ昼間しかないから、その兵士にとっては仕事よりもつらい義務になる。

 

こんな具合では、誰かが必ず被害を受ける難儀な図式となる。 武器の奪い合い、食糧や衣服の盗み合いを公認する員数合わせは、想像を絶するいやらしい世界だった。戦死者のものを盗 み取る者までいた。

 

親しい兵士に説明してもらって、私は驚いた。軍隊はこんな理不尽なことが常態なのかと非常に不快だった。「弾は前から飛んでくるとは限らないぞ」との落書きの意味が分かったし、 危険な仕事を嫌な部下に押しつける上司がいることも分かった。軍隊とは所詮、異次元の世界なのだ。

「員数あわせ」とは???

員数あわせで体罰の軍隊。員数さえ合っていれば、どれだけ悪いことをしても、嘘の報告をしても問われないという体質は今も日本の体質としてあるのではないか。

「『数さえ合っていればそれでよい』が基本的態度であって、その内実は全く問わないという形式主義、それが員数主義の基本なのである。それは当然に、『員数が合わなければ処罰』から『員数さえ合っていれば不問』へと進む。従って『員数を合す』ためには何でもやる。
『紛失しました』という言葉は日本軍にはない。この言葉を口にした瞬間、
『バカヤロー、員数をつけてこい』
という言葉が、ビンタとともにはねかえってくる。紛失すれば『員数をつけてくる』すなわち盗んでくるのである」(山本七平・著『一下級将校の見た帝国陸軍』より)

 部下が○○と報告すれば、現実と食い違っていても不問にする。山本氏は、日本軍内で行なわれていた「私的制裁の横行」も、誰も指摘しないことで「私的制裁はない」ということになっていた、と書いています。現実を把握するよりも、員数主義でつじつまが合っているほうが、(上官は特に)問題が表面化しないからです。

戦地で反省部屋!? 戦後77年たっても変わらない、組織を蝕む「日本病」とは? | 「超」入門 失敗の本質――日本軍と現代日本に共通する23の組織的ジレンマ | ダイヤモンド・オンライン


国場川の向こうの米軍

 

朝晩、砲撃のないちょっとした休戦状態があった。ある朝私が双眼鏡で敵軍を覗くと、米兵が半裸で椅子に座り、髭を剃り、クリームを顔にすり込んでいる光景が見えた。彼はその後、 肉を食い、バターをこってり塗ったパンを食べ、コーヒーを飲んでタバコで一服、仲間と談笑 している。そして攻撃開始時間になるとタバコを口にくわえたまま、ゆっくり戦闘服に着替え て立ち上がり、ようやく横一列に散開してライ ルを撃ちながらがら悠々と歩きはじめる。そしてこちらに迫ってくるのだ。

この日米の風景を比べると、なんとも情けないが滑稽でもある。戦局はすでに見えていたから、いくら大和魂があっても死ぬのは無意味だと思った。私は軍人ではなかったし、ドイツの 敗北も知っていたからそう考えたのかもしれない。

 

ところで、殺すか殺されるかの敵味方の間でも、一種親密な感じを抱くことがあった。爆撃の終わる午後五時になると、しばらくの静寂が訪れる。食事を準備する光景を川を隔ててお互いに望むことができた。女たちも交えて三々五々、バケツを下げての水汲みである。お互いに射撃しない暗黙の了解があり、ときには手を振って夕方の挨拶を交わすこともあった。個人的には別に憎しみがあるわけではないから、そんな気持ちになったのだろう。もし身近な誰かが やられていたらそうもいかなかっただろうが、そのころはまだ悲惨な状況ではなかったのだ。 ささやかな宴のあと、再び遠方から砲弾が飛来しはじめると、互いに強面になり、敵味方にな った。

また、こういうこともあった。壕からは夜、 水汲み役が出る。敵はその時間も場所も承知だ が、あえて撃たない。米軍はたとえ一遺体であろうが五、六人がグループになって戦死者を収容するので、その機会を狙えば必ず全員を射殺することができる。だが日本軍も射撃しないことがあったようだ。 犠牲者を救うために危険を冒して働いている人間をあえて狙撃しないのは、互いに憐憫の情が働くためだ。戦争初期は、敵戦闘機でも機銃の発射を控えていることがあったと聞いている。犠牲者の少なかったころの話だ。

 

第32軍への不満

沖縄軍最高司令官のいる陸軍は逃げていた

四月一日、米海兵隊首里を目指して上陸し、戦車、迫撃砲、機銃、兵士の姿が散見される と、いよいよ戦場の様相を呈してきた。毎日の猛爆撃で、海軍司令部壕内も厳しい状況となっ た。軍の通信隊は情報を知っていたかどうかは分からないが、軍人ではないわれわれ航空局員は、仕事柄外国の情報を手に入れることができた。四月十二日に敵国の大統領ルーズベルトの死を喜び、五月七日にはドイツの無条件降伏のニュースを聞き、落胆したりしていたが、地下壕ではそんなことは話題にも上らなかった。

 

日本軍の反撃も抵抗も受けず、四月一日に上陸した敵海兵師団は、首里を目指して攻めた。米軍の沖縄進攻とともに沖縄派遣第三二軍 (以下、沖縄軍総司令部と記す) の指揮下に入った沖縄海軍は激しく抗戦したというのに、沖縄軍最高司令官の所属する沖縄陸軍司令部はなぜか一カ月余りで首里を去り、南部の摩文仁の大きな壕に撤退していたという。いかにもイージーな、手っ取り早い話だ。相手にどれだけ出血を強いたのかさえも分からない。壕内での噂で聞いたが、沖縄軍の最高司令官が配下である沖縄海軍司令部を見捨てたまま後退してしまったのは、どう考えても無責任である。しかも沖縄軍総司令部内では、幹部は女を侍らせ贅沢三味だったと悪口を言う者がだんだん増えてきた。
これで沖縄海軍司令部はどうやら孤立状態になったようだ。アメリカの「ニューズウィーク」 誌にはこう書かれていた。
「日本軍は何の抵抗もせず、 米軍は四月一日、無傷で沖縄本島に上陸。日本兵の姿が見えず、 静かすぎて米軍兵士たちは気味悪いとつぶやいていた」

42-43頁

 

5月25日、突然の退却命令

豪雨の中、沖縄軍総司令部の命令で南へ退去

昭和20年5月25日、突然の退却命令が下った。 意味不明である。 重火器はすでに沖縄軍総司令部に提供していた。また、沖縄軍総司令部からの命令で、海軍の食糧はすべて付近の農民に分配し、海軍は総員、南部へ向けて退却することとなった。 しかも撤退準備の時間不足で、弾丸三千発が壕内に残ってしまった。だがどうすることもできない。 夜になって雨中の出発である。この撤退命令の真意は、今でも謎のままである。 誤報、あるいは行き違い、とにか未解明のままであると聞く。

 

豪雨の中、「敵が集音マイクを置いているらしいから音をたてるな、しゃべるな、 とにかく静かにせよ」と命令された。ときどき、照明弾が上がっているから警戒しなければならない。 次第に濡れ鼠の長い行列ができた。南部のどこに行くのか地名も知らされず、 沈黙と恐怖と闘いながらただひたすら歩くだけだ。 細い畦道で、あちこちに半壊の農家が影のように見える。兵士も農民も一緒の逃避行だ。

暗闇の細道は豪雨で泥濘となり難渋するが、とにかく南へ南へと進む。海岸に近い道だから、 沖にいる敵艦からときどき照明弾が打ち上げられ、 下界は昼のように照らされる。誰かに見つ められているような不気味さである。ときどき砲弾が付近に落ち、破片が耳をかすめ、恐ろしい衝撃波を残して飛び去る。

 

ずぶ濡れの敗走であるが、やがて付近から嗅ぎつけた負傷者がいざり寄って道端に並びだした。手をさしだして水を求め、助けてくれと哀願する。ときには連れて行ってくれと足にすがりつかれる。なかには水筒の水を与える兵士もいたが、行列に押されて離れざるをえない。 キリがないので負傷者を無視し、振り払い、蹴飛ばしていく兵士もいた。打ち上げられた照明弾 の白い煙の尾が、風になびいて流れていく。畑は昼のように照らされ、あちこちに積み上げられた藁塚が、まるで何十人かの死体を積み上げたかのように見えた。 あてもなくただひたすら 歩く。

 

横から地元民が加わってくるので、行列はだんだんと長くなる。 二、三人ほど前を、一人の 農婦が幼児を背負って歩いていた。「気の毒だな」と思いながら黙々と歩いていると、また照 明弾が空中に浮かび、先ほどの農婦が見えた。

 

「アッ!」と声が出た。 幼児の首がなくなっているではないか! 赤ちゃんのか細い両腕はだ らりと下がり揺れている。 母親はそれに気づいていない。哀れすぎて、誰もそれを告げること ができないでいた。 すぐ後ろの兵士も、どう知らせるのか、それが良いことか悪いことなのか、 声をかけるのか、肩をつつくのか、その結果を思えばなおさら気が重い。みんな相変わらず目 を伏せて黙々と歩く。 何も知らない農婦よ! 鳴呼...............。

 

服は破れ、豪雨と泥濘、視界もない。かろうじて見える前の人影に従うしかない。足をとられてつんのめり、膝をつき、顔も泥だらけ。 ずぶ濡れで、 よたよた歩く幽霊行列だ。 疲労困憊、 生きるか死ぬか、あてもない逃避行、まさに死の行進であった。

明け方、一つの集落に入った(糸満南の真壁だったらしい)。広く開けた場所があり、次々に倒れ込む。疲労困憊のあげく、泥の上に伏せてしまった。

 

わが子を殺すしかない母親
明るくなると、本格的な艦砲射撃が始まった。あれほどいた兵士たちは、どこかに隠れてしまった。サトウキビ畑や、散在する廃屋や豚小屋、煉瓦壁の陰に隠れている者もいる。

 

上空には竹とんぼのように小型観測機がぐるぐる回っている。 飛来する巨弾はだんだんと正確になり、集中してきた。 大口径の砲弾は殺傷用で、たくさんの破片は巨大なヘリコプターの プロペラのように猛烈な勢いで回転しながら跳ねまわる。 地上のあらゆるものを撫で斬りし、なぎ倒し、粉微塵に破壊し、地上でバウンドを繰り返しながら人も豚も真っ二つに切断して猛速で目前に迫ってくる。 戦艦ミズーリの主砲弾の破片は、畳ほどに見えて私を殺しにくる。ぶっ倒れるように伏せると、その翼は私の真上を掠めて飛んでいく。もうダメだと観念した。 前後左右からそれらが飛び交う。 そして、多くの兵士はここで肉片となって飛び散ってしまった。 私は幸運にも助かったが、 悪魔の翼は相変わらず飛びまわっていた。 敵観測機のガイドで砲弾の命中率はますます上がる。日本人を一人でも見つけると、殺すまで撃ち込んでくる狙わ れたら最後、ほとんどは殺される。 それにしても、砲弾の数はべらぼうだ。コスト計算なしの絶対的な殺戮をするつもりだ。とにかく身を伏せて、姿を見られないようにするしかない。石 ころを握りながら、私は震えていた。

 

恐怖の昼間が終わり、ついに夜となる。 少し移動して、ある壕に入れてもらった。そ五十人くらいの農民が生活していた。 天然の鐘乳洞で、疲労困憊の体を不安定な姿勢で横たえ た。しかし、天井から水滴がぽたりぽたり落ちてくるのでとても眠れない。濡れた床もでこぼ こで腰が痛くなる。 ずぶ濡れになりながらもウトウトしていたが、ノミやシラミに攻め立てら れてとても熟睡はできず、体力は回復しない。この鍾乳洞で何日か過ごした。

 

奥には大勢の農民や兵士もいた。子供もいた。これが最悪の悲劇を生むこととなった。夜が 明け、敵の攻撃を避けるためには静かにしていなければならない。 幼児はむずかるし、 家族連 れがたくさんいるから非常に危ない。壕の出入り口のかたわらで、米兵が内部の様子をうかが っている気配がする。

 

最悪の事態が起きた。 子供が咳き込みはじめたので兵士は気になりだした。外で気配をうかがっている米兵に気づかれて攻撃されれば、たちまち焼かれるか酸欠で死んでしまう。 壕の中には農民や兵士が五十人ほどいるから、全滅の悲劇が起きる。はじめは親が子供の口を塞いで耐えていたが、咳でむせ返る幼児はとうとう大声で泣きはじめた。横にいた兵士はその親のほ うを睨みつけ、顎をしゃくり親を脅迫する。「殺せ!」という意味だ。全体を救うためにはし かたないと皆が注視している。しかたないなー、みんなはそう思った。しかたないと。そして、 親はその子を窒息死させたのである。

 

当時、手を上げて出ていく発想は皆無であった。 「生きて虜囚の辱しめを受けず......」 「鬼畜 米英は人殺し、女は辱められる」という教育の罪である。残念の極みであるが、今もし勇を鼓 して壕を出ても、その瞬間に射殺されるだろう。敵味方、互いに殺すか殺されるかの緊張状態 だから、瞬間的に撃つだろう。だから、ひたすら沈黙と静寂を保つしかなかった。

 

残酷すぎるこの場面は、六十年後の今も罪悪感とともに鮮明に思い浮かび、現在も自分の行動を御している。止める勇気のなかった自分を思い出すのが、いつまでたっても苦しい。

 

5月29日 - 不可解な帰還命令

元の壕への不可解な帰還

突然、再び小禄の基地への帰還命令が出た。これもなぜだか訳が分からない。戦局は悪化しているのに、武器も何もない元の壕に帰る意味があるのか? どうも前日の撤退命令自体が、 そもそもの誤りだったらしい。沖縄海軍司令部と沖縄軍総司令部(陸軍)の連絡ミスかもしれ ない。今も諸説あるが、部下を大切にし、聡明で慎重な海軍の大田実司令官が組み立てた作戦 とはとても思えず、海軍部隊の不平不満は大変なものだった。

 

5月29日、ほうほうの体で再び海軍司令部壕に戻り、倒れ込んだ。海軍基地の重砲も軽砲も陸軍に提供したので、残っているのは前記の砲弾三千発と練習用の木製銃のみ。「竹槍軍団」と自嘲するようなありさまである。兵士たちは憤懣やる方なく、地下壕には不穏な空気が 満ちていた。これからどう戦えというのか? 言外には、脱走の意味を含んでいるように思え た。私の受信機だけはかろうじて働いたが、雑音がガーガーと鳴るばかりだ。

 

ふだん大言壮語していた下士官が軍作戦を貶め、部下の失敗を思い切り罵倒した。歳のいった下士官は開戦から今までの上層部のあらゆる失態をなじり、戦争指導者を非難し、今の陸海軍の無力を嘆き、果てはついぞ口にできなかったことまで大声でわめき倒すありさまである。 ふだんなら不敬罪で即銃殺ものだ。
pp. 49-50.

 

兵士も不平不満が募り、やけっぱちになって〝突っ込み"という自殺行為で死んでしまう者が出てきた。以来、 皆の戦意は失せ、勝手に”切り込み"という名の脱出を図る者が増えて、 人員は次第に減っていった。

 

軍属で非戦闘員のわれわれには、何のお達しもなかった。 どうすることもできない局員の中 には「早く何とかしないと脱出の機会を失う」という意見が台頭しはじめ、「上司の優柔不断 が脱出の機会を失った」という意見と、「もっと居座るほうが無難」という意見とが対立した。 自分たちは戦闘員ではないから切り込みでもあるまいと思ったが、局員の当時の立場は沖縄海軍司令部内の居候であったから、上層部はわれわれ非戦闘員のことなどとても考えている暇は なかったに違いない。

 

実はそのとき、敵はすでにこの海軍司令部壕の丘の上を占拠していたのである。

 

6月7日 - 標的となった海軍司令部壕

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A view of a Marine 6x6 truck that struck a Japanese anti-tank mine in the vicinity of Admiral Ota's cave. The Tomigusuki area was heavily mined as were all flat areas and all roads in the Oroku Peninsula.

【訳】大田中将のいる壕の近くで、日本軍の対戦車地雷に触れた海兵隊の6×6トラック。あらゆる平坦地や小禄半島のすべての道と同様、豊見城地域にも大量の地雷が仕掛けられていた。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

標的となった小禄の海軍司令部

いよいよこの沖縄海軍司令部が標的になった。しかし、武器なしの無手勝流ではどうしようもない。標高数メートルしかない飛行場だから、上陸した米兵は戦車に乗り、広場を横断し、 苦もなくここまで到達できる。 こちらは武器がないから肉弾戦しかなかった。勢い夜間に敵テントを襲い、大乱闘になった者もいたようだ。 体力が違うからあまり効果はなかったと思われるが、生き残った兵士は「敵を五人殺した」とか自慢し、たまに食糧などを奪って帰ると誇らしげに見せびらかしていた。所詮力不足で、ほとんどこちらは無抵抗だから、二、三日で当司令部は占領されるだろう。悲しいかな、その細かい状況はわれわれにはよく分からなかった。 不安ばかりで苦悩の毎日であった。

 

このころの日本海軍の防衛線には地雷原があって、友軍 (陸軍)の一斉砲撃や戦車出動、肉弾攻撃などのあらゆる手段で防戦。敵の猛烈な砲撃で激戦となりながらも米海兵隊の進撃を抑 えていた。だが6月7日ごろには、すでに敵の先頭は当司令部の丘に到着していたらしい。 丘の中腹に登った敵は、横向きにトンネルを掘り進み、わが地下司令部の横っ腹にダイナマイトで攻撃を仕掛けてきた。 生き埋め作戦である。 その間、日本側戦死者数百人、相手側も五、六十人の戦死者が出たようだ。


だいぶ理解できるようになったのは、"切り込み"の名を借りて脱走する兵士の多いなか、 われわれ非戦闘員の馬場隊に、切り込みの命令をもらうように主張する若い者が出てきたこと だ。彼らは決断力のない上司のため、自隊は逃げる時期を逃してしまったという不満があった。 切り込みに行った兵士の話では、外の状況はきわめて厳しく、壕外に出た者はほとんどが戦死だという。ここにとどまるのか脱出か、どちらが助かるかはとても判断はできない。だがこの ままでは生き埋めにされそうだから、結局はこの壕から脱出するよりほかはないのだ。

 

壕内にいても、敵がわが陣地に取りついたことは判断できた。壕の出口に砲撃を加えてくるから、壕内には恐怖の大震動が伝わってくる。ときどきドリルで壕に穴を開け、ダイナマイトを仕掛ける。爆破の衝撃で壕の天井が崩落する不気味な音があちこちから聞こえてくる。入り口辺りは土の厚みが二メートルくらいしかない。もうすぐ生き埋めにされると悲観する兵士もいた。

 

米軍は人の気配を察すると、猛烈な攻撃を仕掛けてきた。 はじめに手榴弾を放り込む。 戦車 砲、火炎放射、油脂爆弾、黄燐弾、 ガソリン、それぞれを組み合わせて攻撃してくる。 壕内では、出入り口付近にいる者はたちまち窒息するか焼き殺される。重油を流し込まれ、火炎で火 をつけられると酸欠で窒息死する者も多く出た。

 

ときには発煙弾も投げ込まれた。まさに虫の駆除に似た、人間のいぶりだし戦法だ。苦しま ぎれに外に出ればすぐ射殺される。しかし、敵側からすればどんな反撃があるか分からないか ら、気味の悪い戦闘ではあっただろう。入り口で待ち構えている米兵は、三、四人のチームの ようだ。

 

戦車攻撃は、出入り口の真ん前から発射する。恐ろしい発射音が壕内奥まで響き、弾丸の破 裂音と激震が奥で発生するからたまったものではない。そんな毎日が続くと、恐ろしくて頭が おかしくなる。

pp.50-51

 

この海軍司令部壕には、出入り口が北、東北、東と三か所ある。敵はすでにそれらを完全に包囲しているようだ。味方は発射窓から数挺の機関銃で相当な反撃をしたらしいが、それはかえって危険なことだった。

pp. 40-41

状況はいっこうに好転せず、轟音は少しも減らない。命はいつまでもつか、不安はますます 大きくなる。後世の記録によると、沖縄海軍司令部から抽出されて陸軍の指揮下に入った兵士の5千500名中、4千名が死亡したとある。

 

司令官の電文打ち切りと自決
頼みの大田司令官は、「戦況は切迫せり、小官の報告は本電をもってひとまず終止符を打つ べき時機に到達したものと判断する、御了承ありたし」として戦局の詳細を沖縄軍総司令部に 報告した。 そしてあの有名な「沖縄県民かく戦へり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らん ことを」と打電し、沖縄軍総司令部への通信、報告を打ち切った。

 

彼はいよいよ最期を覚悟したのであろう。われわれは一切を知らなかったが、外の戦況は目茶苦茶だったようだ。敵が鏡水に上陸してわずか四日目であるが、上層部では戦闘を諦め、幹部は自決するタイミングを相談していたことが後年分かった。その中に、沖縄戦の前日(3月22日)に挨拶に行ったときに励ましてくれた、あの棚町副司令官がいた。大田司令官以下5名が自決した。司令室中央でのピストル自決である。私が脱出した三日後のことだった。

身はたとへ沖縄の辺にくつるとも守り遂ぐべし大和島根は
と大田司令官の遺書にあったという(ふりがなは筆者)。

 

死ぬか生きるかは運次第
何度も書いたが、深夜切り込みと称し、四、五人の兵士が一丸となって出撃するがほとんど は帰還しない。運よく帰ってくる者の中には、敵のテントに乗り込み、どさくさに紛れて戦果を持ち帰ってくる者もいた。そして見せびらかすのはタバコのラッキーストライクやレーショ ン(野戦弁当)、チョコレートなどである。負傷して帰ってくる者の中には、殴り合いの乱闘 となって、はり倒されたり投げ飛ばされたりした者もいた。しかし帰ってくるのは、わずか三分の一くらいであった。こうして内の員数は、急速に少なくなっていった。

pp. 54-55

 

自分に限って弾が当たらないと思うからこそ、撃ち合いもできるし、突撃もできる。しかしなかには、いい格好して無駄に死ぬ者もいる。死ぬ必要もないのに。また、わざわざ死ぬためにやってきたのかと思うほど運の悪い人もいる。 最初私は、とんでもない戦いに巻き込まれて なんと運の悪いことかと悲観したが、実は大幸運だったこともある。 このあと、弾に当たって 大変な目に遭ったが、そのために愛や憎しみ、絆、助け合いなど、人の深層心理を知ることが できたのだ。

 

やっと結論が出たのか、「今夜半を期して(南西諸島航空隊) 部隊総出撃」 との話に、われわれ航空局馬場隊一同は限りない不安に襲われていた。 壕の中の主計局の部屋に遊びに来られるのもこれっきりになるのかと思うと、夕食で飲み食いした料理も消化されず、胸につかえて気分が悪くなった。人々は談笑していたが、私の心は乱れて冗談を言うことはできなかった。 彼らはすでに生きることを諦め、悟りを得ているのだろうか? 私はどうしてもそんな気分にはなれなかった。キザな言葉だが、私はまだしなければならない仕事がたくさん残っているような気持ちだった。死ぬ覚悟などとてもできないから、すっかり憂鬱になるばかりだった。

その日の昼、私が小さな手製の日記帳にペンを走らせていると、隊の玉林君が怒ったような顔をして 「なんだ、今ごろそんなものを書いて・・・・・・どうせすぐ死んでしまうんじゃないか」と嘲けるように笑った しかし、私の本当の気持ちはそんなに単純ではない。〝俺は死ぬ"かもしれないが、何かを、何かの印をこの世の中に残しておきたい。あと幾ばくもない自分の命を 思うと、無茶苦茶にいらだたしい気持ちでいっぱいとなった。

 

隊長の馬場さんは、あるときこんなことを言っていた。「上根君の、死ぬまで書こうという気持ちは純粋なものだよ」と。たとえどこで死んでも、母にだけは自分がここに生きていたと いう痕跡を残しておきたかっただけなのだ。

 

司令官とて、武器もない非戦闘員の私たちに「槍をもって総出撃しろ!」と命令などできないはずだし、実際何の指示も話もなかった。われわれ馬場隊に、たとえ切り込み命令が出たとしても、非戦闘員ということを理由に拒絶してほしいと思っていた。しかし中学生さえ動員さ れて大勢の戦死者が出ているほどだから、私たちに命令が下れば死ぬ思いで切り込まざるをえないかもしれない。だがこっちには人殺しや体を隠す技術もない。「困ったな」というのが本音であった。馬場隊長は常日ごろから、「最後までわれわれ航空局の名誉にかけ行動しようじ ゃないか」と口にしていた。ではどういう死に方があるのかと考えたが、結局はそのときの状 況に従うしかしかたがないのだ。
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狭い坑道の中にひしめく若い兵士たちが、「切り込みだ!」とやけに騒いだり暴れまわった りしている。表面こそ平静を装っているが、切り込みという言葉は戦闘教練を受けていないわ れわれ馬場隊員にとっては恐怖である。 うまく敵を殺すことができるだろうか? いや、それ どころか殺されないよう身を守ることができるだろうか、という不安のほうが大きい。頭の中 は「どうすればいいのだろうか」という恐怖でいっぱいで、額を集めてもよい考えが浮かぶわ けでもない。ときどき、壕の入り口の轟音と空気の振動が伝わってくる。戦車砲爆雷で攻撃 されて、坑内のあちこちで大爆発が起きているのだ。


なかなかできない脱出の決心
通信室の空気はここ二、三日、異常に動揺していた。 「パリ奪還」「ドイツ降伏」「ルーズベ ルト死亡」「硫黄島陥落」「戦艦大和の沈没」など、緊迫した情報をつかんでいたので覚悟はで きていた。通信長を囲んで数人の士官がひそひそと話しているかと思うと、虚ろな空笑いが響 いてきた。狭い通信室をあちこち行き交う士官や兵士の沈鬱な顔には、やはり不安におののく 暗い影があった。ときどきレシーバーから漏れてくる甲高いピーピーという音が、そんな空気をやけに苛立たせた。 嫌な雰囲気のなかで、通信兵の複数グループが各所で額を集めていた。 疑心暗鬼が始まった。今まで切り込みと称して飛び出した者の中で帰ってこない奴は、ひょ っとして逃走しているのではないか? 若い玉林君は、悲壮な顔つきで相談している者を軽蔑 するように「突っ込めばいいんでしょう、みんな死ぬんだからなんでもないじゃないですか」 とイライラしながら吐き捨てるように言った。しかし、みんなは一瞥するだけで相手にせず、 また額を集めてひそひそと話し合う。

若い彼らがあのように物事を簡単に考えて決めてしまえるのは少々羨ましいが、なかでも上司の松山さんは、いつもながらのいちばんしっかりした口調で、不安いっぱいの馬場隊長やY副隊長に脱走するように口説いている。理路整然としていた。

松山さんは半月くらい前に単独で戦線を偵察した折の、知念の佐敷方面の状況を語り、一日 も早く切り込みという名の「脱出」を決行しようと緻密な計画を立てていた。私も一緒になっ て、彼の持論で幹部二人を口説いたが、承服してはくれなかった。


幹部はここに居座るつもりかもしれない。 とにかく決心しかねているのであろう。 安寧な日が一日でも長く続くように、もう一日もう一日と決断を先延ばしにしているだけである。 実際、 現場にとどまるべきか脱出するべきか、積極的に切り込むべきか、正解は誰にも分からない。生き埋めが必至だし、破滅への道であるのに、ときたま切り込みが成功して戦車を乗っ取った と、チョコレートを見せびらかせて大騒ぎするグループがいたりするから、 つい決心しかねる のだろう。しかし、幽霊のような重傷兵が帰ってくるとやはり恐ろしい。そうこうするうちに 無傷の兵士は急激に減少していった。逃げおおせたのか、殺されたのかは分からない。

 

崩落直前、窟と化す壕の中で

しばらくすると、また猛烈な熱気が噴き込んできた。 火炎放射器と黄燐弾である。敵はすで に面前に来ている。負傷兵がどんどん増え、壕の中の病室からあふれ、通路はいっぱいになり、 すでに立錐の余地もなくなっていた。敗北は明らかだ。明日になればこの壕は崩落し、生き埋 めになるのはほぼ間違いない。見解の相違などといった問題ではない、決断力の有無だけの話 だ。だが「ではどのように逃げるのか?」という方法論はまったくない。

いつも煮え切らない上司のYさんは腑抜けたような顔をして聞いていたが、突然、「そうだ そうだ、じゃあ切り込もう! みんなどうかね?」と言いだした。 鼻の頭からずり落ちそうな黒枠の眼鏡越しに目玉を大きくして喘ぐようにしゃべる。 しばらくすると彼は急にソワソワとざつのう袋や腹巻きを作り、果ては雑に雑品をぎゅうぎゅう詰め込みはじめた。


彼がわれわれの企てに同調してくれたのはよかったが、〝馬場隊の切り込み"の本当の意味を理解しているのだろうか? われわれは彼が脱走と思っているのか、死ぬ覚悟で行こうとし ているのか疑問だったが、雑品の詰め込み方で脱走であることが明らかだった。


将校でも下士官でも思慮深い者は口にこそ出さないが、私と同じ考えに違いない。海軍の暗号長もわれわれ馬場隊と行動をともにしたいらしく、その態度はどうもそうとしか思えない。 脱走するにしても土地の有無が重要だからだ。馬場隊には当地の者が多かった。


しかし、私は彼ら下士官、 兵士が脱走という後ろ暗い考えを持つにいたった理由が分かるよ うな気がしていた。しかし、同情する気にはなれない。彼らは毎日、下級の者には何ひとつ容赦はしなかったし、われわれに対しても白い目で冷たくし厳しく当たっていたからである。 フ ィリピンでの作戦失敗以来、 この沖縄に敵が来襲し、いつかは戦場の露と消えねばならないと知っていながら、なおも兵士に暴力を振るい、欺きとおした非人間的なやり口だった。今になって弱音を吐く彼らに耳を貸すのは嫌であった。われわれ馬場隊には当地の地理に明るい沖縄人がたくさんいたから、急に歩み寄ってきたに違いない。すべての状況を知悉した将校の中には、祖国の敗北を否定しえない理由をわれわれに漏らして、すでに覚悟ができていることを仄めかす者もいたが、われわれとともに退却しようなどとは絶対に言わなかった。彼らはその愛する部下たちとともに死ぬ覚悟をしているようだった。 将校のプライドなのだろう。

 

やっと届いた軍属への脱出勧告
その日の夕方、通信長から馬場隊についに達しがあった。すなわち、非戦闘員であるわれわ れの今までの行動を称え、今以降は自由に解放されるものであるという。まさしく脱出勧告で あり、運命の分かれ目だ。 とうとうきたか。「当隊からの申し立てによらず軍属を解く」と言 ってくれた通信長の言葉だけに、われわれは自尊心を傷つけられず解放された気分になった。

われわれは逓信大臣から直接任命されたのであるから、大尉殿を通じて海軍司令室からの命令 である。これで航空局員という「初の軍属」としての誇りを失わないですむ。
戦況が切迫するにつれ、やけっぱちになって切り込み、死んでしまう者もいた。わが航空局員の当時の立場は沖縄海軍司令部内の居候であったから、上層部はわれわれ非戦闘員のことな どとても考える暇はないと思っていたが、そうではなかったようだ。
脱出命令とともに、自決用手榴弾、ガスマスク、鉄帽、二食分の弁当、長尺の晒し布が与え られた。隊長、副隊長には青酸カリ、 女性事務局員には自殺用のメスが与えられた。全員が 「これは格別扱いだから」と上司に感謝しながらありがたく頂戴した。


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