海軍運輸隊 (海軍軍需部那覇支部)

 

小禄の海軍司令部沖縄方面根拠地隊

 

海軍運輸隊 (山崎隊)

海軍運輸隊は、正式には海軍軍需部那覇支部であるが

海軍運輸隊とは、正式には海軍軍需部那覇支部(支部長浜野軍一大佐)を指す。同那覇支部は、元々は海軍運輸部佐世保支部と呼称されていたが、沖縄戦前に佐世保支部から那覇支部へと名称変更になり、浜野軍一大佐が運輸部那覇支部と海軍軍需部那覇支部支部長を併任し、通称「浜野隊」と呼称していた。ただし、運輸部の実際上の指揮は、山崎来代一少佐がとっていたため山崎隊とも称した。

《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言: 針穴から戦場を穿つ』(2015) 463頁》

  • 海軍軍需部那覇支部 = 浜野隊 (浜野軍一大佐)
  • 運輸部那覇支部 = 山崎隊 (山崎来代一少佐)

 

山崎来代一隊長

山崎来代一隊長は、小禄の戦闘を生きのび、6月13日に、住民の説得で米軍に投降。6月15日に米軍の小禄の海軍司令部壕の探査に同行している。

沖縄を占領した連合軍は、日本の陸海軍司令官の遺体確認に躍起となった。このうち豊見城村の海軍司令部壕には、組織的抵抗が止んで2日後の6月15日、攻撃部隊である米第6海兵師団のG2(情報関係幕僚)情報部長トーマス・ウィリアムズ中佐(のち大佐で退役)ら8人が、早々と入っている。… 壕に入ったのはウィリアムズ中佐、日本語将校のタド・バンブラント中尉、カメラマンのコナリー軍曹、海兵隊員3人と、遺体確認のため同行した捕虜の山崎来代一海軍少佐(昭和42年他界)と下士官1人の計8人である。

ウィリアムズ中佐(階級は当時)の回想:

日本海軍の司令部壕に着くと、最大の壕の入口に向かった。前日、われわれは5つあるいは6つの入口を確認していたのだ。壕に入ると、数人の日本軍の負傷兵が転がっていた。その1人が私の足をつかんだのだ。ぎょっとしたよ。その時、われわれの懐中電灯の照明の先に、1人の日本兵がパッと姿を現したので、われわれはとっさに発砲してしまった。おかげで、敵に知られず、こっそり忍び込むという作戦はオジャンになってしまった。… 山崎少佐の案内で司令官室にたどり着き、そこに大田實提督の外に5人の死体を発見したのだ。もちろん、死体の身元の確認は山崎少佐がやってくれた。現場写真を撮影したのがコナリー軍曹だった。

… われわれが目にしたのは、おそらくこれまで知られた中でも最もおぞましい日本人の狂気を示す壮絶な場面であった。畳があげられた床には6死体が仰向けに並び、(注)それぞれノドを切られていた。死後3、4日たつものと思われる。死体は清潔なオリーブ色のズボンと上着を着ていた。… 死体の身元確認に関しては、捕まったばかりの捕虜山崎海軍少佐によって決定的となった。少佐は大田提督の死体を確認し、さらに前川大佐、棚町大佐、羽田大佐も確認した。他の2人は不明である。

(投稿者注: 米軍側の記録では「ノドが切られた」となっているが、後に司令部壕に入り遺体を確認した日本兵は、「頭部に銃弾が貫通した跡があった」と米軍とは異なる証言をしている)

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 458-459、461-462頁》

 

海軍運輸隊

海軍運輸隊に属する朝鮮人軍夫の米軍捕虜調書によると、運輸隊は400人ほどで構成され、ほぼ全員が、朝鮮人軍夫と沖縄人の防衛隊員で構成されていたと考えられる。

運輸隊は5個中隊から編成されており、1個小隊40人、2個小隊で1個中隊を編成していた。部隊は、全員軍属 (laborer) から編成されており、武器は持っていなかったという。

《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言: 針穴から戦場を穿つ』(2015) 463頁》

食糧・物資の運搬には多く朝鮮人軍夫が動員されていた。小禄にもかなりの数の朝鮮人軍夫がいたと考えられる。

 

2人の朝鮮人軍夫の捕虜調書

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 》

6月20日、朝鮮出身の軍夫「石川マサキオ」(22歳)と「金川カイリョ」(30歳)が、小禄具志地区で米軍の捕虜となった。

45年4月23日、独立整備隊に配属された朝鮮出身軍属は小禄安次嶺に移動し、そこを拠点に海軍部隊に物資や弾薬等を送り届けていた。しかしその間も、部隊から5人から10人規模の隊員が、歩兵部隊として海軍傘下の各部隊に派遣されたという。おそらく朝鮮人軍属の多くも、海軍各部隊に派遣されたと思われる。ところで第6章で、伊藤晶少佐と山崎来代一少佐の尋問調書を紹介しているが、伊藤少佐(海軍軍需部那覇支部)は6月7日、負傷し米軍に捕虜となり、山崎少佐(海軍軍需部那覇支部)も、6月13日、住民の説得で米軍に投降している。良し悪しの問題ではないが、朝鮮人軍属たちは米軍の投降ビラを目にすることはあっても、日本人将校たちは投降を認めなかったという。ところが、実際には部隊の最高指揮官自らが、配下の部下よりも早く米軍に投降し、あまつさえ米軍から日本軍自決者の身元確認協力要請を受けるなどしている。そもそも朝鮮出身者が日本語はもちろんのこと、日本語を読めたか否かは重要な問題となろう。すなわち、日本語を解せないと、せっかくの米軍投降ビラも用をなさないからである。それだけ朝鮮出身者が、戦線を抜けて米軍に投降することは至難の業であった。

《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言: 針穴から戦場を穿つ』(2015) 463-464頁》

 

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