戦禍を掘る 「語りきれぬ体験」琉球新報 (1984年6月6日)

琉球新報 1984年6月6日掲載記事

 

戦禍を掘る 「語りきれぬ体験」

母、弟妹をわが手で ~ 集団自決 心の苦しみ消えず

 戦争体験は、それが悲惨であればあるほど、本人の口から語られることは少ない。沖縄戦で“悲劇の島”となった慶良間諸島で、集団自決のことに触れると関係者の口は重たくなる。阿鼻叫喚(きょうかん)の39年前の光景は、今でも生々しく眼前に浮かんでくる。集団自決で死んでいった住民は600人とも700人とも言われる。

 

 「話せるようになるまで20年以上もかかった」と言うのは、沖縄キリスト教短大教授の金城重明さん(55)。渡嘉敷島の集団自決の体験者。母親、妹、弟をわが手にかけて命を断った。戦争という異常な状況で行われた行為 ― それは戦後、正常な感覚が働き出した時、大きな苦しみとなって金城さんを襲って来た。「皇民化政策の犠牲者」と話す金城さんが、当時のもようを語ってくれた。

 

   ◇   ◇

 米軍が日本軍の意表をついて慶良間諸島を攻撃したのは20年3月23日。同27日には渡嘉敷に上陸した。当時、渡嘉敷には海上挺身第3戦隊(隊長・赤松嘉次大尉)の104人が駐屯していた。マルレと呼ばれる特攻舟艇100隻を有していた。

 

 マルレは1人乗りで重さ1トン、船尾に250キロ爆雷をそえて、敵艦船に接近、爆雷を投げつけて攻撃するものだった。米艦船の背面からの攻撃で、日本軍がかなり期待していた部隊だった。

 

 だが、それは1隻も出撃することはなく、全舟艇は機密保持のため破壊され、「海上特攻隊」の任務を終えている。

 

   ◇   ◇

 当時、16歳になったばかりの金城さんの家族は、両親、次兄(19歳)、妹(10歳)、弟(6歳)。長兄は南洋に働きに出ていた。

 米軍上陸の日の3月27日、金城さんら阿波連区の住民は渡嘉敷区に移動するよう命令があった。「その時に私たち住民は軍との運命共同体意識をはっきりと持ち始めた」と金城さんは言う。

 「住民の側からすれば、日本軍に守ってもらうことと、いざという時に運命をともにすることができる」「軍隊の側からすれば散り散りになるとスパイ行為もあり、1カ所に集めることが作戦上も有利」

 最初は「死ぬなら自分の土地で」と移動することに反対だった金城さんら家族だったが、「もし自分らの家族だけが生き残ったら―」との不安から、みんなと行動をともにしたという。

 夜の移動だった。途中、豪雨になった。やみの中を敵の目を警戒して進む住民を雨が激しくたたく。真っ暗な中で、米軍の機銃の弾丸が赤い線を縦横無尽に走らせていたのが印象に残っている。むかるんだ山路に、足をすべらせて谷底に落ちる人たちの悲鳴も何度か聞いた。

 日本軍陣地近くの集合場所で一夜を明かしたが、金城さんには、どのように過ごしたか記憶はない。ただ豪雨でびしょぬれになっていたはずだが、気にもならなかった。

 不安な一夜だった。金城さんは「私たちは死に神にとりつかれていた。死以外の道はないと信じ込んでいた」と説明する。夜が明けると谷間のあちらこちらにいた住民が1カ所に集められた。残酷な歴史が始まろうとしていた。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年6月6日掲載

 

車座から爆発音 ~ 流血で幾日も川も染める

 だれもが死を予想していた。そうした中で女性たちが髪をすき、きれいに整えていたことを、金城重明さんは強烈に覚えている。

 28日の朝、谷間のあちらこちらに分散していた住民が1カ所に集められた。700人から1000人ぐらいの住民だったと言う。「集められてからどのくらいだったかおぼえてない。数分だったか数時間だったか」。そして自決命令が伝えられた。

 防衛隊の持っていた手りゅう弾は30数個。自決命令が伝えられるとともに、車座になった輪の中から次々と爆発音が起こった。だが、30数個の手りゅう弾は住民全部が自決するのには不十分、またその多くが不発弾だった。そのことは、より不幸な結果へとつながっていく。

 自決の手りゅう弾に驚いたのか米軍からの爆撃がすぐに始まった。混乱はさらに拍車がかけられた。撃ち込まれた至近弾の爆風で、金城さんは意識がもうろうとなった。「死というものはこんなものか」―そう考えて体をつねってみると感覚がある。

 ゆっくりと意識が回復していく金城さんの目に、一つの異様な光景がうつった。阿波連の区長をしたこともある人が、必死の形相で木をへし折っている。ぼんやりとした目で、ずっと行動を追っていった金城さんは次の行動で驚いた。

 その木が殺人の道具となり、妻をたたき、子を殴り殺した。「集団自決という異様なふん囲気が彼を狂人にした」と言う。手りゅう弾で死ぬことができないものは、生き残ることへの不安から、次の確実な手段を探さねばならなかった。

 

 元区長の行動が契機だった。鎌やカミソリで血管を切る。ヒモで首を絞める。石や棒でたたく―様々な方法での殺し合いが現場で繰り広げられた。夫が妻、親が子、若者が老人をと、強者が弱者に向けてお壊れ、「愛情と同情からの行為」で共通していた。

 金城さんの家族は父親がいつの間にかはぐれていた(いまだに戦死場所を知らない)。兄と二人がその役目を負わなければならなかった。周囲の状況の中では、それはむしろ義務感さえ感じさせた。

 金城さんは「最初に手をかけたのは母親だったと思う」と言う。兄と二人で母親の頭を殴り始めた。「ワァーッ」と声が出て涙があふれ、母親の姿をぼんやりとさせた。生まれて初めて号泣した。「あのような叫び声は二度と発することはない」と金城さんは言う。

 二人が次々とたたく棒から死への道を一歩一歩進んで行った母親の後ろ姿はまだ印象にある。だが、そのあとの妹と弟についてはどのようにしたのか、金城さんには記憶がない。

 生き残ることへの不安があった。遠い親せきに当たるおじは、家族全員の命を絶ったあと、木にヒモをかけて死のうとしたが、死ねずに夢遊病者のようにさ迷い歩いていた(その人は、しばらくして山から降りたところを米軍に射殺された)。

 自決現場は残酷な方法で死を迎えた人たちの遺体で埋め尽くされた。遺体から流れた血は、下の小川にたどり、川の色を幾日も赤く変えた。あらかじめ死を意識していたとはいえ、集団自決の前提となっていたのは、軍との運命共同体ということだった。自決命令が伝えられた時、だれもが「友軍は全滅した」と思っていた。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年6月7日掲載

 

心の傷は深く… ~ 恐怖、悲惨、話すまで20年も

 集団自決という狂気の儀式も終わりに近づこうとしていた。まだ死にきれない人たちのうめき声が聞こえる。「殺してくれ」―最後の願いをしぼり出すような叫び声が聞こえた。

 金城重明さんには生き残ることへの不安、恐怖があった。「だれから死のうか」。母、妹、弟はすでに息が絶え、残った次兄と死の順番を決めねばならない。その相談をしている時だ。前島の同年輩の少年が2人の間に割り込んで来て、「どうせ死ぬなら米軍に切り込んで死のう」と言う。

 捕らえられれば何をされるかわからない相手。その恐怖と不安から逃れるためにあの残酷な集団自決の道を選んだのではないか。その米軍に切り込みを―そう思った。「皇民最後の生き残りとして、私たちは敵を1人でも殺して死ぬ。そう考えて切り込みを選んだ。より恐ろしい死への挑戦だった」と言う。

 どういうわけか、その切り込み隊に小学6年の女の子2人も加わった。12歳から19歳までの5人の切り込み隊の編成、武器は棒切れだけだ。

 素手で米軍に立ち向かおうという少年らの切り込み隊に、はっきりとした攻撃目標などあるはずがない。足の向くまま歩いていた金城さんは、間もなく大きな衝撃を受ける。最初に出会った人間が日本兵だった。

 「ショックだった。全滅したと思ったから自決を選らんだんだから―。その時、連帯意識が音を立てるように崩れていった」と言う金城さん。その日本兵の言葉はさらに追い打ちをかけた。「むこうに住民はいる」。金城さんは「集団自決は軍民の連帯感、皇国民一体感の極致だった」と表現する。それだけに、連帯感、一体感が幻想だったと知らされたことに、ショックは大きかった。

 その後、金城さんらは山中での生活、捕虜となる。生きていてよかったと思うことは一度もなかった。「ただ次の死に備えて生きているにすぎなかった」「家族の一人でも息を吹き返しているのではとの期待は全くなかった。絶望的状況の中で徹底的に手をかけて楽にしたから」。

   ◇   ◇

 終戦は金城さんに大きな苦しみをもたらした。戦争という異常な事態から精神が解放され、人間が本来の姿に戻ると、心の傷跡は深くなるばかりだった。

 「私は皇民化政策の最大の犠牲者。純粋培養された16歳の少年には何一つ疑うものはなかった」。宗教との出会いは金城さんの精神を解放したというが、それでも人に話すようになれたのは20年以上もたってからだ。

 金城さんは集団自決の要因を三つ挙げる。皇民化思想」「軍隊の駐屯」「逃げ場のない離島」

 「一億玉砕の当時にあっては、国民だれしも死の思想を持っていた。皇民化教育は死を重視することで、生命を軽視した。離島にあって天皇のために死ぬことが新しいアイデンティティーの確立だった」

 

   ◇   ◇

 渡嘉敷島の集団自決者は329人と言われる。防衛庁戦史部によると、駐屯していた海上てい身第3戦隊(104人)の戦死者21人海上てい身基地第3大隊(161人)の戦死者38人。また挑戦から連れてきた人たちを軍夫として働かせた特設水上勤務第104中隊は「不詳」としか記されていない。

 この島では、軍隊によって住民をスパイ容疑で殺害したり、朝鮮人軍夫の虐殺もあった。「戦争は人間を残虐にする」と金城さんは言う。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年6月8日掲載

 

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