渡嘉敷島の「集団自決」赤松嘉次隊長の沖縄戦 ~ 「そんな話は、まったく身に覚えのないことですよ」

 

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  1. 海上挺進第1戦隊 (隊長: 梅澤祐) - 座間味
  2. 海上挺進第2戦隊 (隊長: 野田義彦) - 阿嘉島・慶留間島
  3. 海上挺進第3戦隊 (隊長: 赤松嘉次) - 渡嘉敷

 

1944年9月 赤松嘉次大尉を隊長とする海上挺進第三戦隊渡嘉敷島に駐屯
1945年3月23日 米機動部隊来襲、役場・郵便局が全焼、住民は壕に避難
1945年3月25・26日 軍上層部の指導により、機密保持のため特攻艇マルレを破壊・自沈処分
1945年3月27日 米軍上陸、兵事主任より住民に谷間に集合の命令
1945年3月28・29日 軍による命令が出たとの情報が伝えられ「集団自決」329人
1945年3月31日 米軍撤退
1945年4月15日 集団自決で生き残り、米軍の治療を受けた16歳の少年2人が、赤松隊により殺害される
1945年5月 伊江島の戦いを生き残り捕虜として渡嘉敷に送られた若い男女6人が赤松隊により殺害される
1945年8月17日 米軍の捕虜になっていた住民ら4人、投稿勧告に行き赤松隊により殺害される。

1945年8月18日 赤松嘉次隊長らが米軍に投降する。

大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判 - Wikipedia

 

2005年、大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判、赤松秀一 (赤松嘉次の弟) が梅澤裕とともに自決命令はしていないと訴えるが、原告側が敗訴する。にもかかわらず、この裁判を根拠に教科書検定審議会が教科書の書き換えをおこなった。

 

渡嘉敷村長、米田 (旧姓古波倉) 惟好の証言

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伊 秀美『検証「ある神話の背景」』(紫峰出版, 2012)  p. xi 》

渡嘉敷村長の証言

集団自決

私たちは、米軍が上陸すると恩納川原に向っていた。恩納川原には恰好な陰れ場所があった。また一つ山越せば頼みとする日本軍が陣どっていた。恩納川の下流は細く二手に分れていて、左右は絶壁である。 

 ここからは、米軍は上っては来れまい。この谷間は全体が完全に死角になっていて、そこには十 ・十空襲後、村では、唯一の隠れ場所として小屋も二、三棟建ててあった。

 安里喜順巡査が恩納川原に来て、今着いたばかりの人たちに、赤松の命令で、村民は全員、直ちに、陣地の裏側の盆地に集合するようにと、いうことであった。盆地はかん木に覆われてはいたが、身を隠す所ではないはずだと思ったが、命令とあらばと、私は村民をせかせて、盆地へ行った。

 まさに、米軍は、西山陣地千メートルまで追っていた。赤松の命令は、村民を救う何か得策かも知らないと、私は心の底ではそう思っていた。

 上流へのぼって行くと、私たちは、そこで陣地から飛び出して来た防衛隊員と合流した。その時米軍はA高地を占領し、そこから機関銃を乱射して、私たちの行く手を拒んでいるようであった。

 上流へのぼると、渡嘉敷は全体が火の海となって見えた。ぞれでも艦砲や迫撃砲は執拗に撃ち込まれていた。盆地へ着くと、村民はわいわい騒いでいた。

 集団自決はその時始まった。防衛隊員の持って来た手榴弾があちこちで爆発していた。

 安里喜順巡査は私たちから離れて、三〇メールくらいの所のくぼみから、私たちをじ-っと見ていた。「貴方も一緒に…この際、生きられる見込みはなくなった」と私は誘った。「いや、私はこの状況を赤松隊長に報告しなければならないので自決は出来ません」といっていた。私の意識は、はっきりしていた。

 私は防衛隊員から貰った手榴弾を持って、妻子、親戚を集め信管を抜いた。私の手榴弾はいっこうに発火しなかった。村長という立場の手まえ、立派に死んでみせようと、パカッと叩いては、ふところに入れるのですが、無駄にそれをくり返すだけで死にきれない。

 周囲では、発火して、そり返っている者や、わんわん泣いている者やら、ひょいと頭を上げて見ると、村民一人びとりがいたずらでもしているように、死を急いでいた。そして私は第三者のように、ヒステリックに、パカバカ手榴弾を発火させるために、叩いていた。

 その時、迫撃砲は私たちを狙っていた。私は死にきれない。親戚の者が盛んに私をせかしていた。私は全身に血と涙をあびていた。すぐうしろには、数個の死体がころがっていた。

 私は起き上って、一応このことを赤松に報告しようと陣地に向った。私について、死にきれない村民が、陣地になだれ込んでいた。それを、抜刀した将校が阻止していた。着剣した小銃の先っぼは騒いでいる村民に向けられ、発砲の音も聞こえた。白刃の将校は、作戦のじゃまだから陣地に来るな、と刀を振り上げていた。

 陣地を追っぱらわれた私たちは、恩納川原にひきかえした。一部は儀志保島に対面する、この島の北の瑞に移動していたようだった。その時自決用の手榴弾の爆発音と、生き残って途方を失った村民の阿鼻叫喚に、迫撃砲が誘われたように撃ちこまれていた。

 私は恩納川原への道すがら、盆地にひきかえしていた。救助に来ていた防衛隊員が、あなたの妹さんは死んでいました、といっていた。しかし私が着いた時、妹は虫の息で、まだ生きていた。

 妹は私と一緒なので自決ではないはず、米軍の撃ち込んだ迫撃砲なのか、あるいは誰かに殴られたのか、とにかく土の中から、這い上って来た、といっていた。しかしこの妹はそこで二人の子供を失った。

 私自身、自殺出来ないことが大変苦痛であった。死ぬことが唯一の希望でもあったが、私は村長の職責をやっぱり意識していた。今に、日本軍が救いに来るから、それまで、頑張ろうと生き残った人たちを前に演説していた。

 生き残った中から看護婦の心得のある者を探し出し、防衛隊が救い出して、陣地に運んだという十数名の村民の看病に当てられた。たしか、今、糸満市で教師をしている仲村茂子さんと、小禄に住んでいる北村春子さんではなかったか……。

 私には、問題が残る。二、三〇名の防衛隊員がどうして一度に持ち場を離れて、盆地に村民と合流したか。集団脱走なのか。防衛隊員の持って来た手榴弾が、直接自決にむすびついているだけに、問題が残る。私自身手榴弾を、防衛隊員の手から渡されていた。

 この問題を残したから、死に場を失って、赤松隊と自決しそこなった村民とがこの島で、苦しい永い生活を続けることになった。

 

赤松と私

 集団自決以後、赤松が私に対する態度はいよいよ露骨に、ヒステリー症状を表わしていた。私を呼びつけ、命令ということを云い、おもむろに腰から軍刀をはずし、テーブルの上に、右手で差し出すように立って、「我が国の軍隊は…」と軍人勅諭をひとくさり唱えて、今日只今から村民は牛馬豚の屠殺を禁止する、もし違反する者は、処刑すると云い放っていた。

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)p. 768-769》

 

座間味村助役の宮里盛秀さんの妹二人の証言

「軍命受けた」助役明言/妹2人が初めて証言

沖縄タイムス

2007年7月6日(金) 朝刊 1面
座間味「集団自決」45年3月25日夜

 

 沖縄戦時下、座間味村で起きた「集団自決(強制集団死)」で、当時の助役が「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われている」と話していたことが、助役の妹二人の証言で六日までに分かった。当事者が初めて証言した。「集団自決」の軍関与が教科書検定で削除され、軍命の有無をめぐる裁判が進む中、日本軍の軍命を示す新証言として注目される。(編集委員・謝花直美)

 

 証言したのは「集団自決」で亡くなった当時の座間味村助役の宮里盛秀さんの妹・宮平春子さん(80)=座間味村=と宮村トキ子さん(75)=沖縄市

 

 座間味島への米軍上陸が目前となった一九四五年三月二十五日夜。春子さんら家族と親族計三十人が避難する座間味集落内の家族壕に、盛秀さんが来た。父・盛永さんに対し「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するよう言われている。間違いなく上陸になる。国の命令だから、潔く一緒に自決しましょう」というのを春子さんが聞いた。午後十一時半に忠魂碑前に集合することになったことも伝えた。

 

 集合時間が近づき、壕から出る際、トキ子さんの目前で、盛永さんは盛秀さんを引き留めようとした。盛秀さんは「お父さん、軍から命令が来ているんです。もう、いよいよですよ」と答えた。

 

 その後、盛秀さんは産業組合壕へ移動。同壕の「集団自決」で盛秀さんら家族を含め六十七人が亡くなった。

 

 当時、盛秀さんは防衛隊長も兼ね、軍の命令が村や住民に出されるときには、盛秀さんを通した。

 

 春子さんもトキ子さんも、沖縄県史や座間味村史の編集作業が行われた七〇―八〇年代に同島におらず、証言の機会がなかった。

 

 座間味島の「集団自決」の軍命を巡り、岩波書店大江健三郎さんが名誉棄損で訴えられた「集団自決」訴訟では、元戦隊長が、助役が軍命を出したと主張。さらに訴訟資料を参考に文科省教科書検定で、「集団自決」記述に修正意見がつき、日本軍関与が削除されている。

 

 

 

「軍の命令だ」と兄はいって3人のわが子を手にかけ“自決”した

沖縄 – 全日本民医連

なぜ今になって、軍の命令をなかったことにするのか。真実は曲げられない。

 あまりにつらい記憶のため、これまで口を開かなかった人たちが体験を語り始めています。宮平春子さん(82)もその一人。県民集会でメッセージを代読してもらいました。慶良間諸島座間味島に住んでいます。

 戦前、座間味島は半農半漁の静かな島でした。一九四四年九月、日本軍は慶良間諸島座間味島慶留間島などを、特攻艇の秘密基地にしました。座間味島に 上陸した日本軍はおよそ一四〇〇人。村人は特攻艇を隠す壕掘りや食糧確保に動員され、女性も軍の経理や炊事、看護などの軍属として働いていました。

 

 住民は否応なく軍の秘密も知ることとなり、他の島にいくにも許可が必要、自由な移動もできなくなりました。

 

 一九四五年三月二三日、米軍の空襲で島の建物はほとんどが破壊炎上しました。海は米艦船で埋め尽くされ、島々は完全包囲されました。二四日も空襲が続 き、二五日には艦砲射撃も始まりました。住民たちは小さな島で逃げ場を失い、避難壕を転々としていました。 

 

 住民には、日本兵から手榴弾が配られていました。「鬼畜」のアメリカに捕まったら「男は八つ裂きにされ、女は強姦されて殺される」だから捕まる前に潔く「自決しなさい」と。

 

 米軍上陸の前夜、「三月二五日、忠魂碑前に集合」という命令が出ました。忠魂碑は、毎月八日の大詔奉戴日に戦意高揚の儀式がおこなわれていた特別の場所 でした。いよいよ最期の時がきた。住民は子どもたちに晴れ着を着せ、大切にとっておいた白米を炊き、食べさせました。

 

産業組合壕で67人が「自決」
 春子さん(当時19歳)も、家族と親族三〇人で壕を転々と逃げ回り、二五日が暮れたころ、産業組合壕の近くに掘っておいた宮里家の壕にたどり着きました。そこに村の助役で兵事主任兼防衛隊長だった兄・宮里盛秀(当時33歳)が戻ってきました。
 兄は思い詰めたようすで、憔悴しきっていました。父・盛永のそばに来ると「米軍の上陸は免れない。軍の命令で玉砕することになっているから、一緒に死の う」というのを春子さんはハッキリ聞いていました。「いや、私死にたくない」と思いましたが、口に出せませんでした。
 兄の盛秀は「迷惑ばっかりかけ親不孝でしたが、あの世で孝行を尽くします」といい、父と別れの水杯をしました。盛秀には七歳を頭に四人の子どもがいまし た。盛秀は大粒の涙をこぼし「ここまで育てたのに悔しい。自分が手にかけるなんて。ゴメンね。お父さんも一緒だからね」と、子どもたちをぐっと抱きしめま した。兄の嗚咽が暗い壕に広がりました。最後の握り飯をほおばっていた子どもたちは、目を白黒させていました。
 忠魂碑に向かった一家は、忠魂碑から引き返してくる住民から「照明弾が落ち、忠魂碑にはもう誰もいない」と知らされます。産業組合壕で自決しようと戻っ てみると、産業組合壕はすでにいっぱいで三〇人の親族全員が入ることはできず、兄夫妻と三人の子だけが入りました。
 壕に入れなかった春子さんたちは、宮里家の壕に戻りました。これが兄との最後の別れとなりました。この夜、産業組合壕では村長、助役、収入役など一五家族・六七人が「集団自決」。うち二六人は小学生以下でした。
 春子さんたちは死にきれず、数カ月にわたって逃げ回り、米軍に降伏しました。
 「この話をすると目の前に(あのときの)子どもたちの姿が現れて、自分も胸がいっぱいになってしまうのです。かわいい子どもを手にかけたときにはどんな 思いであれした(殺した)のかねと思うと涙が出ますよ」と声を詰まらせました。
 春子さんはこの体験を他人に話すことはありませんでした。兄の盛秀が「自決の命令を出した」という人もいましたが、反論もしませんでした。あまりにもつらい記憶がよみがえってくるからです。


兄をだまして証文に判を

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座間味集落の外れにある忠魂碑。1945年3月25日、
住民はここに集合せよと命令を受けた

 その春子さんが口を開いたのには、理由があります。
 文科省の検定意見は、座間味島の戦隊長であった梅澤裕元少佐らが「軍命はなかった」として裁判をおこしていることをあげ、書き換えを指示しています。
 しかし事実はどうだったか。
 梅澤元少佐は、米軍上陸後、次々と突撃命令を出し、多くの将兵を死に追いやり、米軍に軍事機密を知られてはならないと、住民をスパイ容疑で虐殺し、自決へと追い込んだ責任者です。
 梅澤自身は、朝鮮人慰安婦を連れて壕を転々と逃げ回り、四月一〇日、各隊に独自行動を命令。部隊を事実上、解散してしまいました。本人は自決もせず生き延び、米軍に捕まったときも朝鮮人慰安婦といっしょでした。住民から石を投げられ、米軍に保護されながらトラックに乗せられ連行されたのです。

 

 その梅澤元少佐が一九八七年、座間味を訪れました。「軍命はなかった。住民は自発的に集団自決した」という証文をとるためでした。
 彼は、元助役で兵事主任だった宮里盛秀さんの弟の幸延さん、つまり春子さんのすぐ上の兄と会い、「一筆書いてほしい」と頼みます。幸延さんは拒みまし た。そもそも当時、幸延さんは徴兵で福岡におり、座間味にはいなかったのです。ところがその夜…。以下、『母の遺したもの』(宮城晴美著、高文研)を引用 します。
 「M・Y氏(宮村幸延氏=森住注)の元戦友という、福岡県出身の二人の男性が、慰霊祭の写真を撮りに来たついでにと、泡盛を持参してM・Y氏を訪ねて来 た。戦友とはいっても所属が異なるため、それほど親しい関係ではないし、またなぜ、この二人が座間味の慰霊祭を撮影するのか疑問に思いながらも、はるばる 遠いところから来てくれたと、M・Y氏は招き入れた。何時間飲み続けたか、M・Y氏が泥酔しているところに梅澤氏が紙を一枚持ってやってきた。家人の話で は朝七時頃になっていたという。『決して迷惑はかけないから』と、三たび押印を頼んだ。上機嫌でもあったM・Y氏は、実印を取り出し、今度は押印したので ある」

 

無念の死を無駄にできない

 その二一日後、神戸新聞に「座間味の集団自決に梅澤氏の命令はなかった」という記事が掲載され ました。さらに二〇〇五年、梅澤元少佐と渡嘉敷島の戦隊長だった元大尉の遺族が、名誉毀損されたとして『沖縄ノート』の出版元岩波書店と著者大江健三郎氏 を相手取り、裁判をおこしたのです。その証拠として幸延さんに判を押させた文書が提出されました。
 梅澤元少佐は幸延さんを二重三重に貶めたのです。この事実を知らされ、さらに、ことし文部科学省の検定で「沖縄戦の集団自決(強制集団死)」から「軍命」が削除されると知った春子さんは、もう、怒り心頭でした。
 「あのとき長兄は、『軍の命令だ』とハッキリいっていた。兄がいった真実を曲げられたら、また悲惨な戦争が繰り返される。兄の無念の死を、無駄にさせて はいけない。下の兄を酔わせたうえだまして判を押させ、それを証拠にするなんて汚い。絶対に許せないよ」

「軍の命令だ」と兄はいって3人のわが子を手にかけ“自決”した 沖縄 – 全日本民医連

 

週刊新潮「戦記に告発された赤松大尉」(1968年4月8日号)

 

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週刊新潮1968年4月8日号
戦記に告発された赤松大尉
~沖縄渡嘉敷島処刑23年目の真相~

 

 昭和20年、米軍に上陸された沖縄の渡嘉敷島の戦記は、軍・民、恩讐の記録だという。琉球大学の図書館に眠りつづけているというガリ版刷の"資料"は、ごく一部の人の知るところであっても、一般にはほとんど知られていない。主役を演ずる赤松大尉の名。島民に集団自決を強い、女子少年を惨殺し、自らは生還していったという。ある書評氏は、彼が、いま自衛隊幕僚のイスにあることをホノめかす。


 以下は、ベールを脱ぐ赤松大尉事件の実相と、今日の素顔である。従来の沖縄戦記を変えることになるかもしれない。


 沖縄戦史上、まだ完全に解明されていない、その"軍・民、恩讐の記録"は、正しくは、『渡嘉敷島における戦争の実相』と表題される。島民の記憶を集めて、昭和25年にまとめられた、島民自身の戦史である。


 渡嘉敷島は、那覇市西方約18マイルの洋上に浮かぶ慶良間列島の主島。「山紫水明の自然」に恵まれて、沖縄の「美しき離島」といわれるところ。


 昭和20年3月、この「美しき離島」に、赤松嘉次大尉(当時25歳)を隊長とする陸軍の海上挺進隊(注=合板で作った小さな舟に爆雷を載せ、敵艦に突入する、陸軍の水上特攻隊)の第3戦隊が駐屯した。隊員130名。そのほとんどは特別幹部候補生だった。そして、爆雷を積んだ舟艇が百隻、すべて、海岸近くに隠されていた。そのほか整備隊、通信隊員若干名と、朝鮮人軍夫320名が赤松指揮下である。


 3月25日未明、慶良間海峡に、潜水艦を伴う米軍の艦隊が侵入した。彼らは「いかにも日本軍を見くびったのごとく、悠々と投錨」し、渡嘉敷島に砲撃を開始した。


 午後11時、赤松隊長は、隊員に"出撃準備"の命令を発した。その時の模様を"記録"は次のように書く。


 「夜空に敵艦砲の落下もものかはと防衛隊(注=軍に臨時に召集された島民隊)70余名、男女青年団員100名、壮年団員30名、婦人会40名が軍に協力、舟艇百隻は退避壕より引き出され、26日午前4時、渡嘉志久、阿波連(注=いずれも渡嘉敷島の地名)の海辺に勇姿を揃えた。気の早い元気旺盛な特幹隊員は、勇躍乗船し、エンジンの音も高々と敵艦撃沈に心を躍らせて、出撃の命令を今か今かと待っていた」


 しかし、「赤松隊長は出撃命令を下さず、壕の奥に待避し、戦闘意欲を全く失っていた」というのである。


 "記録"は続く、


「百隻の舟艇は、出撃の勇姿を揃えたまま夜明けとなり敵グラマン機の偵察に会った。隊長赤松大尉は何を考えてか、或いは気が狂ったのか、全艇破壊を命令した。特幹隊員は呆然としていたが、上官の命令に抗することも出来ず、既に出撃の機は失したるため、隊員は涙を呑んで、舟艇の破壊を実施した。舟艇を失った特幹隊員は、本来の任務を全く捨て、かねて調査済みの西山(注=島内の山)の奥深く待避し、赤松隊の生き伸び作戦が始まった。陸士出の大尉赤松は完全に卑怯者の汚名を着せられた」

 

島民329集団自決の地獄図


 3月26日渡嘉敷島民約千四百人が最も恐れていた米軍の上陸が開始された。


 が、赤松隊に応戦の意思はなく、武器弾薬を放棄し、隊長以下全将兵の"生き延び作戦"がはじまった。その結果、米軍は島を完全に"無血占領"したのである。


 27日夕刻、駐在巡査を通じて、赤松隊長の「住民は一人残らず西山の軍陣地北方の盆地に集合せよ」という命令が伝達された。その夜はものすごい豪雨。それでも島民たちは「頼みとする赤松隊」の陣地を目ざして、「ハブの棲む真暗な山道」を、統制なく、歩いて行ったのだ。その雨の山道は「親子、兄弟を見失った人々の叫び声がこだまし、全く生地獄の感」であったという。


 そうして、やっとの思いでたどりついた島民たちを待ち受けていたのは、意外にも、赤松隊長の「住民は軍陣地外へ撤退せよ」という冷たい命令であった。もっとも、その命令が意外かどうかは、"記録"そのものにも矛盾があるのだが。なぜならば、赤松隊長が駐在巡査を通じて伝えた命令は、「住民は一人残らず西山の軍陣地北方の盆地に集合せよ」というもので、「西山の軍陣地に集合せよ」ではなかったのだから。


 それはともかく、撤退命令を受けた島民たちは、3月28日午前、西山の軍陣地北方の盆地に結集した。そして、問題の"集団自決"がはじまるのである。""記録"によると――、


「その頃、島を占領下米軍は、友軍(注=赤松隊のこと)陣地北方百米の高地に陣地を構え、完全に包囲体型を整え、迫撃砲をもって赤松陣地に迫り、遂に住民の待避する盆地も砲撃を受けるに至った。危機は刻々に迫った。事ここに至っては、如何ともし難く、全住民は、皇国の万歳と日本の必勝を祈り、笑って死のうと悲壮な決意を固めた。かねて防衛隊員に所持せしめられた手榴弾各々2個が唯一の頼りとなった。各々親族が一かたまりになり、一発の手榴弾に2、30人が集まった。手榴弾がそこここで発火したかと思うと、轟然たる不気味な音は、谷間を埋め、瞬時に老若男女の肉は四散し、阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された。死にそこなったものは、棍棒で頭を打ち合い、剃刀で自分の頚部を切り、鋤で親しいものの頭をたたき割る等、世にもおそろしい情景が繰り拡げられ、谷川の清水は血の流れと化した。一瞬にして329名の生命を奪った。その憎しみの盆地を村民は、今なお玉砕場と呼んでいる。手榴弾不発で死をまぬかれた者は、軍陣地へと押しよせた。赤松隊長は壕の入り口に立ちはだかり、軍の壕に入ってはいけない、速やかに軍陣地を去れと厳しく構え住民を睨みつけた」


 「赤松隊長が、島民に"自決命令"を出したということは、"記録"には書かれていない。けれども、防衛隊員に手榴弾を持たせたこと、死に切れずに軍陣地に押しよせた島民たちを隊長が「軍の壕にはいってはいけない」とにらみつけたという表現などで、"集団自決"は強いられたものであるといっているのである。ちなみに、この"記録"を読んで、渡嘉敷島を訪問し、その"生存者"たちに直接問いただした人々は、確かに赤松隊長から"自決命令"が出されたという島民の証言をレポートしている。たとえば、ルポ作家の石田郁夫氏は『沖縄の断層』(雑誌『展望』67年11月号)で、「赤松から、防衛隊員を通じて、自決命令が出された」と明確にしるしている。
 


「荒れ狂った赤松隊の私刑」


 3月31日夜半、米軍は「赤松隊の兵力をみくびったか」、渡嘉敷島を撤退した。その直後、赤松隊長から島民に対して、「家畜屠殺禁止、違反者は銃殺」という命令が出され、さらに、「我々軍隊は、島に残っているあらゆる食糧を確保し、持久態勢を整え、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態は、この島に住む全ての人間に死を要求している」という"主張"が付け加えられ、ただちに軍による島民監視の前哨線が設けられた。


 4月下旬、米軍は再び渡嘉敷島に上陸してきた。彼らは、すでに占領した伊江島(注=那覇市の北西にある島)から、生き残った伊江島民を連れて来て、焼け残った渡嘉敷島民の家に収容した。むろん、渡嘉敷の島民たちはその間、山をさまよっていたのだ。その"さまよう島民たち"に赤松隊は残酷な"私刑"加えてきた・・・・。


 例えば、多里少尉は「住民の座間味盛知にスパイの嫌疑をかけ」て切り殺した。また高橋伍長は、「山をさまよい歩く古波蔵太郎 (註・古波蔵樽とも) を、敵に通ずる恐れあり」として、その軍刀にかけた。"私刑"は日ましにふえ、しかも"隊長命令"で堂々と行われるようになっていったのである。"記録"は告発する。


 「米軍の要求により伊江島住民から選ばれた若き男女6名が、赤松隊に派遣された。それは戦争が既に日本の不利であり、降伏することが最も賢明な策であることを伝えるためであったが、赤松隊長は頑固として聞き入れず六名の者を惨殺した。


 また、集団自決に重傷を負い、米軍に収容された十六歳の少年小嶺武則金城幸次郎の両名は米軍の治療を受け、ようやく恢復したので、米軍の支持に従い、渡嘉敷住民へ連絡のため避難地へ向けられた。目的は住民へ早く下山する様伝えるためであったが、途中赤松隊の将士は二人を捕え、米軍に通じた(という)理由のもとに処刑した。


 渡嘉敷小学校訓導大城徳安氏は敵に通ずるおそれありと斬首された」


 8月15日、島民たちは古波蔵惟好村長と相談し、ついに米軍へ集団投降した。


 赤松隊が投降したのは、8月22日のことであった。

 

赤松大尉大いに弁ず


 今、その「悪名高き」赤松嘉次元大尉は「自衛隊の幕僚」ではない。すでに48歳、関西のある小都市で、父親譲りのかなり大きな肥料問屋を経営している。むろん、戦後、彼自身の口は「渡嘉敷戦」について多くを語っていない。やはり苦痛だったのであろうか?その彼が、今年1月14日、戦後、23年目にはじめて開かれた「渡嘉敷島海上挺身(ママ)隊第三戦隊」の"同窓会"で、これまたはじめて「戦闘報告」をおこなったのである。なぜ、そういう"心境"になったのか。一つには、防衛庁が出した戦史『沖縄方面陸軍作戦』が「彼の名誉を回復した」からといわれ、また最近、渡嘉敷島住民の間で、「赤松名将説」が現れたことに「ご本人、すっかり気をよくし」たからともいわれている。


 それはともかく、ご本人に直接、島民の"告発"に見合った「戦闘報告」を聞こう。なるほど、表情はスッカリ明るいのである。まず、「戦わずして生き延びようとした卑怯者」という非難に対して――。

 

「 いや、20年3月20日、われわれは、特攻用の舟艇の準備を完了していた。そして23日、24日と空襲を受け、周辺に敵の艦船が多く姿を見せたので、直ちに出動できるような体制を組んだわけです。ただ、あの艇は新兵器なので、上級司令部からの命令なしに、独断で出動できなかったのです。そこに、私の直接の上司である第11船舶団長の大町大佐が阿嘉島(注=渡嘉敷島の隣島)から視察に回ってこられた。ちょうど、舟艇を海岸におろしているところだったので、大町大佐にひどくシカられたことを覚えている。大町大佐の考えは敵に舟艇があることを絶対に知られてはいかんということで、全舟艇の引き上げを命じられました。そしてさらに、大町大佐を沖縄本島に護送せよという命令が大佐からでたわけです。これもいろいろと議論があって、結局25日、大町大佐を護送しながら全艇の沖縄本島転進が命ぜられた。そこで、全舟艇を浮べる作業を私が隊員に命じたんです。ところが敵艦の接近で、思うように作業ができない。そしたら、大佐が、全舟艇を引き上げよという命令をまた出されたんです。出動できる舟艇も多くあったんですが。


 しかし、艦砲射撃の中で、作業がうまくいかず、大町大佐は、引き揚げ不可能なら、全舟艇を沈めよと命令。結局、沈めました。それを島民の人たちは"卑怯者"というふうに思っておられるんでしょうが、私一人なら出撃しましたよ。しかし、上官の命令です。それに司令官として当然のことを考えられたんです。舟艇を敵に見つからないようにと・・・・。大町大佐は、26日、"地上での持久戦"を命令されて、わずかに残った舟艇で沖縄本島に帰られたんですが、途中、戦死されました。そういう事情は島民の人にはわからんですからねぇ・・・・」

 

「島民を斬ったのは軍紀


 そして、島民に命令したといわれる「集団自決」についてはどうか。

 

 「そんな話は、まったく身に覚えのないことですよ。3月26日、米軍が上陸したとき、島民からわれわれの陣地に来たいという申し入れがありました。それで、私は、私たちのいる陣地の隣の谷にはいってくれといった。われわれの陣地だって陣地らしい陣地じゃない。ゴボウ剣と鉄カブトで、やっと自分の入れる壕をそれぞれ掘った程度のものですからねえ。ところが、28日の午後、敵の迫撃砲がドンドン飛んできた時、われわれがそのための配備をしているところに、島民がなだれこんで来た。そして、村長が来て、"機関銃を貸してくれ、足手まといの島民を打ち殺したい"というんです。もちろん断りました。村長もひどく興奮してたんでしょう。あの人は、シナ事変の時、伍長だったと聞いてたけど・・・・。

 

 ところが、そのうちに島民たちが実に大きな声で泣き叫びはじめた。これは、ものすごかったわけです。なにしろ、八百メートル離れたところに敵がいるんですからね、その泣き声が敵に聞こえて、今度は集中砲火も浴びるわけです。それで、防衛隊に命じて、泣き声を静めさせようとしました。それでもなお静まらないので、ある防衛隊員が "黙らんと、手榴弾を投げるぞ" と叫んで、胸のポケットにはいっている手榴弾に手をかけたら、どういうわけか安全弁がはずれ、ポケットのフタにひっかかって、胸のところでシューシューいって、とうとう爆発して死んでしまった。とばっちりで将校も一人負傷したが、おかげで、泣き叫んでいた島民も静まりました。集団自決があったのはそれからのことでしょう。私はまったく知らなかった。おそらく、気の弱い防衛隊員が絶望して家族を道連れに自殺しはじめたんだと思う。 」


 次に、「私刑」について、赤松大尉はなんと答えるか。

 

 「これは知っています。いや、これはたしかにやりました。"記録"の中には私のしらないのもあるが・・・・。伊江島の女三名、男三名を米軍が投降勧告に派遣してきました。それがわれわれのほうの歩哨線に引っかかったんです。そこで私は、村長、女子青年団長とどう処置するか相談したら、"捕虜になったものは死ぬべきだ" という意見でした。たしかにあの当時はそういうことだったんです。それで六人に会うと、かれらは"われわれを米軍のほうに帰してくれ"という。しかし、こっちの陣地にはいってしまったものは、帰すわけにはいかんというと、"それじゃあ、あなた方といっしょに米軍と戦う!" というんです。だけど、米軍のほうに家族を残して来てるんだから、それはできる話ではない、むしろ死んでほしいといったわけです。そしたら、女はハッキリしとるんです。"死にます"という。男は往生際が悪かったが、ある将校が刀で補助して死なせました。彼らは東のほうを向いて"海ゆかば・・・"を歌いながら死にました。

 

 あとでやはり投降勧告に来た二人の渡嘉敷の少年のうち、一人は、私、よく知っていました。彼等が歩哨線で捕まった時、私が出かけると、彼らは渡嘉敷の人といっしょにいたいという。そこで "あんたらは米軍の捕虜になってしまったんだ。日本人なんだから捕虜として、自ら処置しなさい。それができなければ帰りなさい" といいました。そしたら自分たちで首をつって死んだんです。

 

 渡嘉敷小学校の先生、大城徳安は、私がハッキリ処刑を命じました。防衛隊員のくせに無断で家族のもとに帰るんです。たびたびやるから、今後やったら処刑するといっておいたのにまたやった。その時は本人も悪いと思ったのか、爆雷を持って突っ込ませてくれといった。しかし、私が処刑を命じて副官が切りました。戦線離脱、脱走です。」


 赤松元大尉、実にスッキリと認めるのである。いまもって、この"処刑"に、"軍人としての自信"があるらしいのだ。


 紹介したように島民たちの"記録"にもいささか冷静さを欠いた箇所がうかがわれ、赤松大尉の弁明にも、「今さら」と思わせる強硬な部分がある。赤松氏が1月の"同窓会"の戦闘報告の冒頭、「私のやったことはすべて若気の至りで」と頭を下げたと聞く。そして近く、23年ぶりで渡嘉敷を訪問する心づもりだという。島民諸氏がどんな受け入れ方をするか。死者の墓の前に、お互いがこだわりを捨て去れれば、この小島の"戦争"はひとまず過去のものとなろう。

 

この赤松氏の弁明に、琉球新報は急遽、加古川市の赤松嘉次に取材を行った。

 

琉球新報『開き直る赤松元大尉「命令しなかった」』

 

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琉球新報 1968年4月6日 当時の紙面

  

赤松の証言には多くの矛盾が指摘されている。しかし大筋は戦後の防衛庁『戦史叢書・沖縄方面陸軍作戦』の編集過程で情報すりあわせをした上での発言であることにも留意したい。集団自決については「知らない」、その後の住民虐殺は「認める」という路線であろう。既に「新しい歴史を作りたい」者たちが赤松らに接触していることがこの記事からわかる。

 

開き直る赤松元大尉

"命令しなかった"

「正しい歴史」を作りたい

琉球新報 1968年4月6日


―広く沖縄戦史などによる「あれほど自分の口で玉砕をさけび、自らはゴウの中に避難して暴虐の限りを尽くしながら、倣岸な態度で捕虜になり…」などと書かれているが―。


 住民は軍の任務を知らないのだから、そう思えたのだろう。舟艇の出撃は軍司令官が出すものだ。私の判断で出撃を準備していたら……「敵状判断不明、戦隊は状況有利ならざる時は本島、糸満付近に転進せよ」と電報がきた。


しかし、そのころ渡嘉敷島に来た大町大佐(沖縄全陸軍船舶隊隊長)に出撃体制に入っているのをとがめられ、敵の偵察機に発見されたので破壊して沈めよ―と命令されたのだ。そして体当たりは私も考えていたが、命令できなかったというのが事実で、防衛庁の記録にも私の処理が正しかったことが書かれている。ゴウにいたのは中隊への非常用食糧、弾薬の確保を指示していたためだ。


―集団自決は命令したのか。


 絶対に命令したものではない。自決のあったあとで報告を受けた。しかし、防衛隊員二人が発狂して目の前で自決したことはある。当時の住民感情から、死んで部隊の足手まといにならぬよう―という気持ちだったと思う。村長が機関銃を貸してくれ、自分が全部殺すというのを押しとどめたほどだ。


 軍のゴウといってもお粗末なもの、住民が入れるようなところではなかった。同じようなケースの自決は、沖縄にはいくらでもあったはずだが、なぜ渡嘉敷島だけ問題にするのか、私にはよくわからない。日本が勝っておれば自決した人たちも靖国神社にまつられたはずだ。


―スパイ容疑で殺された人たちのことを聞きたいのだが。


 私が命じて処刑したのは大城訓導だけだ。三回も陣地を抜けて家族の元へ帰った。そのたびに注意したが、また離脱したので処刑した。私の知らないものもあるが、伊江島の6人、2人の少年はいずれも死を選ばせた。気の毒だが、当時の状況からやむをえなかった。


―なぜ赤松隊長は悪評をかっているのか。


 部隊の華々しい戦闘を期待したのだろうが、われわれは特攻を主任務にしており、地上戦をまるで考えていなかった。それが大町大佐の命令ですべて徒労に終わったからだろう。それに小さな共同体のこと、わたしを悪人に仕立てた方が都合がよかったのではないか。住民には決してうしろめたいことはない。


―戦記の発行を計画しているとか。


 わたくし自身は、そっとしてほしいのだが、いろいろ中傷されると戦死者の名誉のためにも黙っておれなくなる。1月に初めて第3戦隊の同窓会をした。60人ほど集まったが、そのとき新しい戦史を作ろうと話し合った。いずれ沖縄、とくに渡嘉敷島にも行ってみたい。70年までには―と計画している。


―現在の計画は


 わたくしの取った措置は、万全のものではないだろうが、あの時点では正しかったと思う。なにしろ戦闘なのだから。現在の感覚と尺度でははかりようがない。週刊誌に若気のいたりとか、不徳のいたすところなどとわたくしが言ったとあるが、あれはいわば社交辞令だ。しかし、命令でやり、任務であったことがすべて個人の責任となるような社会には戻りたくない。 

 

弁明に怒る生存者

大尉の"報告"はうそ
"反省の色なく許せない"

琉球新報

1968年4月6日号


 戦後23年になって、急に「わたしは島民に集団自決をしいて、自ら戦わずして生き延びようとした卑きょう者ではない」と開き直った赤松大尉の戦闘報告に、当時渡嘉敷島で辛酸をなめた同島の生き残りたちは「これはどうしたことか」とその心境をはかりかねて当惑している。やっと悲惨な傷跡がいやされ、にくしみも角がとれて、平和な島として再出発しているときだけに、同氏の意外な発言は眠りかけた胸のうずきをゆすぶられたというか、にくしみがむらむらとわいてきたようである。


 戦争当時、渡嘉敷村長の職にあって軍隊と住民の板ばさみになって苦悩した米田(旧姓古波倉)惟好さん(57)(那覇市 略)琉球運搬船共済会副会長は、週刊新潮の記事を読んで「でたらめもはなはだしい」と怒りをぶちまけた。

 「赤松氏の戦闘報告はすっかり事実を曲げてなされている。戦後20余年をひっそりとして音さたもないので、謹慎して反省しているのだろうと思い、いまさら彼一人を責めることはよそう、と思っていたのに、このソラを切った態度は常識では考えられない。これでは自決をしいられてなくなった人たちの霊も浮かぶまい」と声をふるわせた。

 米田さんの話によると、赤松氏が戦闘報告で行った弁明は、住民を一ヶ所に集めたとき「西山の陣地に集合せよ、といったのではなく西山の軍陣地北方の盆地に集合せよ、といった」ということ以外は全部まっ赤なウソで、集団自決を命令したことも、戦わずして生き延びようとしたこともすべて真実だという。


 「彼は島民を斬ったことのは軍紀だ、とうそぶいているようだが、20余年も過ぎているので忘れている、とでも思ったのだろうか。住民が陣地に押しかけては攻撃のまとになるとして、わずかに離れた盆地に追いやって集団自決の命令を出したのは赤松大尉でなくてだれだったのか」と声を荒立てる。


 あの混乱の中の地獄絵が、まざまざと脳裏によみがえってきたらしく、悲痛な表情で語りつづける。「それにわたし個人としてどうしても許せないのは、"村長がきて機関銃を貸してくれ足手まといの島民を打ち殺したいと申し入れてきた"といっていることです。どうしてわたしに村民が殺せるのですか。ことの真相はこうです。盆地に追いやられたわたしたち住民は、敵軍と友軍の間に置かれ敵軍からの砲撃も激しいので、このままでは皆殺しにされると思い、わたしが友軍のもとへ行って、"軍民で総攻撃したいからわれわれにも機関銃を貸してほしい"といったのです。


 結局、銃は借りられず逆に足手まといになるとして自決を強いられたわけだが、同氏の報告では敵に銃を向けるということが住民に向けるとすりかえられている」と事実を明らかにした。


 その他、赤松氏が弁明している「私刑」についても、ことごとく事実に反すると反論する。 「少年二人が自分で首をつって死んだとか、いろいろつくろっているが、これらも確かに赤松大尉の命令で処刑されたのです。


 いまさら戦争の傷跡をほじくるまい、と思っていましたが、相手に反省の色がなく、史実を曲げるような言動をしている以上、すべてをはっきりさせざるを得ません。これは戦記にも書かなかったのですが、実をいうと赤松大尉は捕虜になるまで一歩もごうから出ず食糧も独り占めして他の将兵たちは住民から食物をもらって自給生活をしていた。兵隊は住民に先がけて戦うものであるにもかかわらず、戦闘意欲は全くなく、わたしに面と向かって"オレは生き延びて大本営に戦況を報告する義務をおわされている"とはっきりいっていました。


 平和な世の中になったいまになって考えると軍人であろうと命を粗末にするべきではありませんが、しかし当時の状況の中で住民を殺し自らは隠れて生還するというのは総指揮官がとるべき態度だったでしょうか」と語る。この米田さんも、赤松大尉の命で手りゅう弾の引きがねを引いて自決しようとしたが不発になって捕虜になった一人である。


 当時の村長として、この残酷史が赤松氏の弁明によってぬり変えられることを警戒した米田さんは、近く週刊新潮に対しことの真相を投書、赤松氏の弁明を改めて告発するという。


 一方、現渡嘉敷村長の玉井喜八氏は「赤松氏はそんなことをいってるのですか」と語り、わたしは戦争当時島にいなかったが、戦記にある通りまさに地獄絵だったといいます。戦後23年もたった現在では島の人々の赤松隊に対する反感も薄れて、すべては戦争が悪かったという気持ちになっており、いまごろになってどうのこうのいってくる赤松氏の態度は逆効果でしょう。いまさら責任をなすり合っても自決した同胞が生き返るわけではないし、二度とむごい戦争を起こさないように努力しあうことが重大です」と多くを語りたがらなかった。


 このように当時の体験者たちが「全てを許そう、そして平和な島を築こう」と誓い合っているとき、こんどの赤松氏の出現で心を乱されたかたちだ。島民たちの立場にたてば、沈みかけた怒り、悲しみをゆり起こした事体が赤松氏の"第二の罪"になりはしないか。

 

 

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▶ 参考にした当時のブログ記録

赤松氏の話は、のちの曽野綾子『ある神話の背景』およびその改題WAC版における話と微妙に違う。変わらないのは、大城訓導処刑以外のことは、重要な局面では「戦隊長である自分の決断だ」とは述べず、必ず「他人の誰か」を楯にして弁明を行っている点である。
 

なお赤松氏は、一般マスコミ登場はこれが初めてだが、すでに『戦史叢書・沖縄方面陸軍作戦』の編集過程で、その執筆者の力を借りて軍関係文献とのすり合わせを行っている。従ってこの記事は、自分の体験だけで初めて語った "バージンスピーチ" だとはいえないだろう。 


第3戦隊同窓会が重ねられ、その会合に曽野綾子氏が加わるようになって、より緻密なすり合わせが行われ、『陣中日誌』を完成させたものと思われる。 

http://ni0615.iza.ne.jp/blog/entry/449264/

  

防衛庁防衛研究所の「見解」

2008年、防衛研究所の「集団自決の渡嘉敷戦」と「座間味住民の集団自決」の資料に、渡嘉敷島海上挺進隊第三戦隊長の故赤松嘉次と、座間味島海上挺進隊第一戦隊長の梅澤裕が集団自決を命じたとの旨書かれていることについて、防衛研究所が「集団自決は戦隊長命令でなかったことが証明されている」との見解を貼り付けた「防衛研究所戦史部」の資料を作成し、一般公開していたことが明らかになった。

沖縄戦における集団自決に対する防衛研究所の認識に関する質問主意書

回答 → 「これが貼付された経緯等について、関係する防衛研究所戦史部の職員等に聴取したところ、当該職員等から、貼付していない旨の回答を得ている。」

集団自決に対する防衛研究所の認識に関する質問に対する答弁書

 

沖縄戦記「島民」の集団自決は軍命令だった(週刊讀賣抜粋)(昭和44.8.15)