渡嘉敷島「集団自決」と「住民虐殺」~ 赤松嘉次隊長の沖縄戦「そんな話は、まったく身に覚えのないことですよ」
慶良間諸島 - 海軍特攻艇「マルレ」の配備
沖縄配備のマルレ部隊
《伊藤秀美『沖縄・慶良間の「集団自決」: 命令の形式を以てせざる命令』紫峰出版 (2020) 8頁》
渡嘉敷の赤松隊
日本海軍の特攻艇が生みだした地獄。
恐ろしい話だが、渡嘉敷島の日本軍は、米軍と接戦せずして住民と朝鮮人軍夫を「処刑」という名のもとに殺し始める。それは天皇の終戦宣言「玉音放送」の翌日まで続くのであるが、さらにまた恐ろしいのは、その赤松隊の隊長は
「若気のいたりで」と弁ずる赤松元大尉
赤松嘉次と赤松隊は、あまりに多くの住民や軍夫を手にかけたため、いつ、だれが、という基本的な情報すら特定することを困難にさせている。
下記の年表は、そのことをご了の上でご覧ください。
1944年9月 - 海上挺進第三戦隊 (赤松嘉次隊長) が渡嘉敷島に駐屯
1945年3月23日 艦砲射撃の開始、役場・郵便局が全焼、住民は壕に避難
3月25-26日 軍上層部の指導により、機密保持のため特攻艇マルレを破壊・自沈処分
3月28-29日 「集団自決」329人
3月31日 米軍撤退
4月15日 集団自決を生き残り、米軍の治療を受け回復した16歳の少年2人、小嶺武則と金城幸二郎が、投稿勧告文を持たされ赤松隊により殺害される。
5月? 座間味盛和がスパイ嫌疑を問われ、住民監視役の多里少尉によって切り殺される。家族全員を失い、山をさまよい歩く古波蔵樽がスパイの疑惑で高橋伍長によって斬られる軍刀にかけるなどが記録されている。
6月26日 食糧を盗んだとして朝鮮人軍夫3人を処刑
6月30日 曾根一等兵が朝鮮人軍夫20人と朝鮮人慰安婦2人 (キクマルとスズラン) を連れて脱出
7月2日 米軍によって渡嘉敷に移送された伊江島住民の男女6人、投稿勧告に行き赤松隊により殺害される。渡嘉敷小学校訓導の大城徳安が殺害される
7月5日 脱走の理由で関係のない朝鮮人軍夫3人を見せしめとして処刑
8月16日 渡嘉敷住民が下山し投降。米軍から投降勧告を持たされた4人の住民のうち、与那嶺徳と大城牛が捕らえられ殺害された。翌日、赤松は投降交渉のために部下を米軍に送りだした。
8月18日 赤松嘉次隊長らが米軍と投降交渉。
8月24日 正式に武装解除し投降した。
2005年 大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判、赤松秀一 (赤松嘉次の弟) が梅澤裕とともに自決命令はしていないと訴えるが、原告側が敗訴する。しかし、この裁判を足掛かりに教科書検定審議会が教科書の書き換えをおこなった。
山にこもる赤松隊の虐殺民間人を処刑し続けた。判明しているところで20人ほど。
《伊藤秀美『沖縄・慶良間の「集団自決」: 命令の形式を以てせざる命令』紫峰出版 (2020) 237頁》
1945年3月28日 - 渡嘉敷島「集団自決」
1945年3月28日、渡嘉敷島の住民330名が犠牲となった「集団自決」
軍の手榴弾は赤松隊から防衛隊を経由しあらかじめ住民に配られていた。
①1945年3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の富山真順に対し、渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した。軍の指示に従って「17歳未満の少年と役場職員」を役場の前庭に集めた。
②その時、兵器軍曹と坪ばれていた下士官が部下に手榴弾を二箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まった二十数名の者に手榴弾を二個ずつ配り、「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら一発は敵に投げ、捕虜となる恐れのあるときには、残りの一発で自決せよ」と訓示した。
③米軍が渡嘉敷島に上陸した3月27日、兵事主任の富山氏に軍の命令が伝えられた。その内容は「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」というものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。
④3月28日、恩納河原の上流フィジガーで住民の「集団死」事件が起きた。このとき防衛隊員が手榴弾を持ち込み、住民の「自殺」を促した。
4月中旬 - 16歳の少年2人をスパイとして処刑
渡嘉敷島の赤松隊は「集団自決」を生きのびた16歳の少年2人、小嶺武則と金城幸二郎をスパイとして処刑する。
集団自決のときに傷を負い、米軍に収容されて手当てを受けた小嶺武則、金城幸二郎少年(共に16歳)らは米軍の命令で、西山に待避する渡嘉敷住民に下山勧告の役目を帯び、手を振りながら元気に出ていった。この二少年も途中赤松隊に捕えられ、斬られてしまった。
残虐である。16歳の少年に、穴を掘らせ、切腹を命じた。それを見ていた少年も袈裟懸けにした。
勇助さんの顔見知りだった兵隊が突然打ち明けた。 「二人の少年を殺害現場に連行した。穴を掘らせて、年長の少年は自分で腹を切って、兵隊が介錯した。もう一人は「自分で死ねません」と言ったので、目隠しをして後ろから 切った」。
赤松隊長の不安定な証言
2人の少年の死には関与していないと主張。
「ここで自決するか、 阿波連に帰るかどちらかにしろ」といったら、二人は戻りたいと答えた。 ところが、 二人は、 歩哨線のところ で米軍の電話線を切って木にかけ、 首つり自殺をした。 赤松隊の処刑ではない。
『潮』(1772年)
あまりに多くの住民を手に掛けたせいか、証言がバラバラである。帰りたい、という少年に「自ら死になさい、それができなければ帰りなさい」と言ったら死んだ、という、サイコ的恐怖を感じさせるほど、脈絡の分からない証言をする。
あとでやはり投降勧告に来た二人の渡嘉敷の少年のうち、一人は、私、よく知っていました。彼等が歩哨線で捕まった時、私が出かけると、彼らは渡嘉敷の人といっしょにいたいという。そこで "あんたらは米軍の捕虜になってしまったんだ。日本人なんだから捕虜として、自ら処置しなさい。それができなければ帰りなさい" といいました。そしたら自分たちで首をつって死んだんです。
他の兵士証言では斬られて死んだことになっているが、赤松は、帰りたいという少年に、自死しろ、さもなければ帰れといい、彼らは勝手に死んだと主張する。帰りたいと泣き恐怖におびえる16歳の少年2人に、この赤松隊は実際何をしたのか。とてつもなく陰湿で歪んだ気味悪さを感じさせる隊長証言である。
7月2日頃 - 伊江島の男女6人と大城徳安の処刑
伊江島の男女6人の処刑
米軍によって渡嘉敷に収容された伊江島の民間人捕虜のうち、若い男女6人が、山に避難している住民に投降を呼びかけに行き、日本軍に捕らえられた。儀間イリエ、今村ヨネ、安里ヤス(安子)ら、6人の男女が処刑される。ヨネさんは身重だった。
赤松隊で唯一の県出身者であった将校 知念朝睦の証言
伊江島の男女4人が、投降勧告文書を持って、陣地に近づき、捕らえられ処刑されました。…その中の女性一人が生き還って逃げてしまったのです。基地隊の西村大尉は私を呼びつけ、おまえが逃がしたのだろうというので、私は非常にしゃくでした。今度は捕まえたので来てくれというので、行ってみると、女性は首を斬られて、頭がぐきりぐきりと小刻みにふるえていました。… この女性はすっかり観念し、刀じゃなく銃でやってくれといっていました。銃は敵に向けるべきものなのですが、私は自分の短銃で殺しました。
沖縄県史10 赤松隊副官 知念朝睦の証言
ここでも赤松隊長のちぐはぐな証言、命じてないというが、死を選ばせたという事は、隊長自らが死を強要したという事だ。
私が命じて処刑したのは大城訓導だけだ。三回も陣地を抜けて家族の元へ帰った。そのたびに注意したが、また離脱したので処刑した。私の知らないものもあるが、伊江島の6人、2人の少年はいずれも死を選ばせた。気の毒だが、当時の状況からやむをえなかった。
これは知っています。いや、これはたしかにやりました。"記録"の中には私のしらないのもあるが…。伊江島の女三名、男三名を米軍が投降勧告に派遣してきました。それがわれわれのほうの歩哨線に引っかかったんです。そこで私は、村長、女子青年団長とどう処置するか相談したら、「捕虜になったものは死ぬべきだ」 という意見でした。たしかにあの当時はそういうことだったんです。それで六人に会うと、かれらは「われわれを米軍のほうに帰してくれ」という。しかし、こっちの陣地にはいってしまったものは、帰すわけにはいかんというと、「それじゃあ、あなた方といっしょに米軍と戦う!」 というんです。だけど、米軍のほうに家族を残して来てるんだから、それはできる話ではない、むしろ死んでほしいといったわけです。そしたら、女はハッキリしとるんです。"死にます"という。男は往生際が悪かったが、ある将校が刀で補助して死なせました。彼らは東のほうを向いて"海ゆかば・・・"を歌いながら死にました。
この後、日本兵が、友達が待っていると嘘をついて、処刑された女性の友人である若い女性を二度も陣地に連れて行こうとしたことがわかっている*1。女性たちはしばらくは生きて軍にとらわれいたのではないか、兵が若い女性を求め、そのために他の女性たちも呼ばれたのではないかとも考えられる。
大城徳安の処刑
妊娠した妻が心配で、時々妻のもとに帰っていた渡嘉敷国民学校の訓導(教頭)大城徳安は、脱走とみなされ処刑される。赤松は殺害命令を認めている。
私が命じて処刑したのは大城訓導だけだ。三回も陣地を抜けて家族の元へ帰った。そのたびに注意したが、また離脱したので処刑した。
渡嘉敷小学校の先生、大城徳安は、私がハッキリ処刑を命じました。防衛隊員のくせに無断で家族のもとに帰るんです。たびたびやるから、今後やったら処刑するといっておいたのにまたやった。その時は本人も悪いと思ったのか、爆雷を持って突っ込ませてくれといった。しかし、私が処刑を命じて副官が切りました。戦線離脱、脱走です。」
8月16日、与那嶺徳、大城ウシ2人の処刑
繰り返し住民や朝鮮人軍夫を虐殺している渡嘉敷島の赤松隊は、「玉音放送」後の8月16日にも住民男性2人を虐殺した。
【03】渡嘉敷島の新垣重吉、古波蔵和雄、与那嶺徳、大城ウシの4人は、上陸してきた米軍に強制されて投降勧告ビラを日本軍駐屯部隊(赤松隊)に持って行かされた。新垣、古波蔵の2人は途中で逃げて来たが、残り2人はビラを届けに指揮所へ到着したところ米軍側スパイとみなされて斬殺された。
8月16日早朝、米軍の投降勧告文を陣地近くの木の枝に結んで帰ろうとした与那嶺徳と大城牛の 2 人が捕えられて殺された。
《伊藤秀美『沖縄・慶良間の「集団自決」: 命令の形式を以てせざる命令』紫峰出版 (2020) 237頁》
1945年8月15日、米軍からの投降勧告を受け、山にこもっていた多くの住民が一斉に山を下り始めた。徳さんは、高齢の祖父母を山中に残し、集落の安全を確認してから迎えようと、家族を連れて先に下山した。翌日、祖父母を迎えるため、徳さんがほかの三人の住民と山に入ろうとした時、米軍に日本軍への投降呼び掛け文を持たされた。防衛隊員が含まれていると戦線離脱を理由に日本軍に処刑される危険があるとして、防衛隊員ではない中年男性を中心に構成されていた。その後、二人の男性が山から戻っただけで、徳さんともう一人の男性は、戻ってこなかった。… 家族や親戚で山中を探し回ったが、徳さんたちを見つけることはできなかった。
三年後、村民が山中で草木が異常に繁殖した不自然な場所を見つけた。霊感の強い女性が、徳さんがここに埋まっていると話したため、家族は半信半疑でそこを掘り返した。土中には縄で縛られた二人の白骨死体が埋められていた。金歯と帽子、腐ったベルトで、一人が徳さんだとわかった。投降呼び掛け文を持っていた徳さんらを、日本軍は殺害していた。
知念少尉の証言
8月17日、米軍の投降勧告文書を持って陣地にやって来た二人の男が処刑されました。この投降勧告文書について早速将校会議を開いて、私が軍使となって、投降の交渉をすることになりました。私たちは二日まえ、ラジオで日本が無条件降伏したことは知っていました。
8月24日 - 赤松隊の投降
赤松隊の投降
7月2日に惨殺された6人のうちの1人安里安子さん (19歳) には婚約者もいた。
日本兵に捕まった安子さん は「父母に一言も言わないで来た。母親に一目会わせてほしい」と、兵隊に懇願したとい う。しかし、聞き入れられなかった。 日本兵はこっそりと山から下りると、わざわざ正江さん (父) を訪ねて「娘は元気だ」と話し、 安子さんのために毛布や着物を要求した。「父は日本兵の様子から変だと思ったそうです」。 八月下旬、戦隊長らを含め日本軍が山を下りてきた。「戦隊長の姿を見た父は、殺してやると暴れようとして止められた。
そこで、ヤスコさんの父親は、赤松隊長を決してゆるさない覚悟をもって、投降の隊列が来るのを待ち構えていた。そして、隊長めがけて襟首をつかみ、隊長の体を転がした。怒りに満ちた父親の殺気がみなぎっていたのだろう。しかしながら、直後に、米兵の押しとどめられて、引き離された。米兵は「自分たちが裁判で裁くから」と。しかしながら、赤松隊長は、沖縄本島の収容所にいれられたものの、戦争中に村民を処刑したかどで裁かれることはなかった。
しかし、被害者の激しい怒りの涙は、赤松の回想では、別れを惜しむ涙だと記録される。
(1945年) 8月24日、米軍に武装解除された部隊を、涙を流して送ってくれた村民、昨年三月、慰霊祭に旧部隊のものをあたたかく迎え、夜の更けるのを忘れて語り合ったとか、また島に上隆できなかった私に、わざわざ土産を持って那覇まであいに来てくれた村民に、私はあの島の戦史にあるような憎しみや、悪意を見い出し得ないのである。
赤松来島事件
1968年、元隊長の赤松嘉次は「新しい歴史を作る」ことを話し合っていた。後に「大江・岩波」裁判へと続く*2。
(1968年) 1月に初めて第3戦隊の同窓会をした。60人ほど集まったが、そのとき新しい戦史を作ろうと話し合った。いずれ沖縄、とくに渡嘉敷島にも行ってみたい。70年までには―と計画している。
実際には赤松来島事件は渡嘉敷島の住民の激しい怒りを招く。
部隊の華々しい戦闘を期待したのだろうが、われわれは特攻を主任務にしており、地上戦をまるで考えていなかった。それが大町大佐の命令ですべて徒労に終わったからだろう。それに小さな共同体のこと、わたしを悪人に仕立てた方が都合がよかったのではないか。住民には決してうしろめたいことはない。
―戦記の発行を計画しているとか。
わたくし自身は、そっとしてほしいのだが、いろいろ中傷されると戦死者の名誉のためにも黙っておれなくなる。1月に初めて第3戦隊の同窓会をした。60人ほど集まったが、そのとき新しい戦史を作ろうと話し合った。いずれ沖縄、とくに渡嘉敷島にも行ってみたい。70年までには―と計画している。
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