銘苅班 ~ 構作隊の街 大宜味大工の戦後 (沖縄タイムス 2018年3月20日 )

 

[構作隊の街 大宜味大工の戦後](4)/銘苅班 米軍が翻ろう/接収され岡野区に移住

沖縄タイムス
2018年3月20日

 

 旧真和志村岡野区。安謝川沿いのもとの湿地帯に、かつて、「銘苅班」を名乗った人々がいる。1953年、米軍による軍用地の強制接収で、銘苅集落の一部の人々が移り住んだためだ。占領をきっかけに誕生した岡野区の歴史には、占領の暴力の痕跡も刻まれている。

 

 「銘苅の人は、集落の北側や、与儀に移るなどバラバラになった」。元那覇市議の眞榮城守晨(もりあき)さん(76)=那覇市=は振り返る。

 

 50年以降、強制接収を含む軍用地接収で移動させられた銘苅区124世帯が寄宮宮城原を中心に各地に分散した。集住地区の一つが、岡野区に結成された銘苅班だった。

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 戦後、銘苅の人々の故郷への帰還は、旧真和志村の中でも困難を極めた。村民は戦後、北部収容地区から、軍用地接収された村内に戻れず、旧摩文仁村へ移動した。さらに旧豊見城村嘉数へ移動した。仮住まいでは復興のめどが立たず、村が交渉。46年7月、米軍は村内移動を順次許可した。しかし、銘苅の人々の帰還はさらに遅れた。

 

 戦前の集落近くに帰還した眞榮城さんは、安里初等学校に通った。通学の途中に、ルーフィングと呼んだ板やテントカバーで屋根を葺(ふ)いた家が並んでいた。「天久や安謝のように戦前からの付き合いはなく、同級生は誰もいなかった」。新しい集落だった。

 

 後に平野区となる軍作業員の集落。戦後、那覇市が軍用地に接収され北部収容地区から戻れなかった那覇市民が、泊浄水場再建作業に応募し、移り住んでいた。

 

 しかし、53年、平野区もまた米軍に強制接収されている。135世帯803人が、現在の寄宮宮城原へと集団移動している。

 

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 戦前の銘苅は、サトウキビ畑が広がり、個人でサーターヤー(製糖工場)を持つ篤農家がある豊かな農村だった。しかし、戦後はそれもままならず、眞榮城さん家族は、引き揚げて後、5年ほど、米軍に納めるトマトやキャベツを作った。

 

 強制接収後、生活は一変した。「その時は、もう農業は家族が食べる分だけになった。私のきょうだいも軍作業に出たよ」

 

 眞榮城さんが紡ぐ銘苅の歴史。再開発された新都心地区は銘苅集落、米軍牧港ハウジングエリアの記憶も留めていない。

 

 元の銘苅集落の近くに、今もコンクリート製の古い水タンクが残る。拝所シグルクガーがフェンスで隔てられていた時、御願に訪れた人々がそこから祈った。「今もよそから来た人がそこで拝んでいるようだ」。薄れる記憶と占領によって変化する記憶。眞榮城さんは苦い笑いを浮かべた。(編集委員・謝花直美)

 

(写図説明)旧真和志村銘苅・安謝両地区の強制接収で、作業する米軍ブルドーザーに肩を落とす住民=1953年4月11日

(写図説明)眞榮城守晨さん

 

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