琉球新報「戦禍を掘る ~ 形見の名札」

琉球新報「戦禍を掘る ~ 形見の名札」

父親が子供全員に ~ 39年ぶり遺族の元へ帰る

 39年間、遺骨とともに土に埋まっていた1個の銅板の名札が、遺族の元に帰ろうとしている。小判形の名札には「ナハシトンド町三ノ三七 寺坂マサ子」と彫られていた。「家族が生き別れになっても確認できるように」と父親が子供たち一人ひとりに持たせていた名札だった。

 6月5日から6日にかけて南風原町新川にある旧石部隊野戦病院跡の近くで、30柱の戦死者の遺骨が道路工事中に発見された。一帯は野戦病院で死んでいった人や戦闘が激しかった首里地域で弾を受けた人たちの死体が捨てられた場所だった。戦後、遺骨の収集作業は行われているが、当時、発見できないまま土の中に残っている遺骨はまだ多くあるということが分かった。

 発見された30柱のうちの1柱は、まぎれもなく寺坂政子さんであることが確認された。父親が、戦禍のどさくさの中で、冷静に、愛情を込めて持たせた銅板の名札が何よりの決め手となったのである。

 父親の政治さん(戦死)は岩手県出身。20歳のころ、船大工として沖縄に来て、住みついた。妻・マチさん(84)=糸満市糸満=との間に3男6女の9人の子供ができた。長男・政雄さん(61)は海軍に、二男・清さん(58)は郷土防衛隊として参戦。母親のマチさんは人づてに政治さんの最期を聞き、また、政治さんが「政子は首里野戦病院近くに埋めた」と話していたことを聞いて、現場近くを、銅板の名札を頼りに探したが見つけることはできなかったという。

 遺骨は最初に確認したのは政子さんの妹の大林和子さん(49)だった。忘れもしない銅板の名札。「お父さんが作ってくれたんです。私たち兄弟はみんな持っていました…」黒ずんだ名札をさすりながら和子さんは声をつまれせた。かすかに残っている姉の面影と父親の愛情が39年の時の流れを超えて胸に迫ってくるのだろう。「母親とこのあたりを捜し回ったんですよ…。それが、今になって見つかるとは…、お父さんの作ってくれた名札のおかげです」。何度も何度も目を凝らしては銅板に見入っていた。

 母親のマチさんは体が弱く糸満市内の病院に入院中だが、知らせを聞いてまず確認したことは「首に銅の名札がついていたか」ということだった。一刻も早く、娘の遺骨のある所へ自分を連れていってほしいと涙声で訴えるマチさんは、看護婦さんになだめられて、翌日、生き残った娘たちと30柱の遺骨が仮安置されている場所へと手を引かれて行った。

 日差しが強い6月の空の下。39年前に別れたままの娘と無言の対面。名札の銅板が付いていた遺骨を抱きしめて泣く老母の姿。夫と2人の子供を戦争で亡くし、戦後、女手一つで残った子供たちを育てあげた老母の胸を去来したものは何だったのか。

(「戦禍を掘る」取材班)

1984年6月12日掲載