1945年6月1日 那覇岳城・セメトリーリッジの戦い

 

5月31日、米軍は首里包囲の中、日本軍が南部に撤退していることを知る。戦争は終わった、後は掃討戦、と認識していた米軍であったが、米軍は南下する日本軍を追い、激しい戦闘を続行する。

 

那覇岳城・セメタリーリッジの戦い

沖縄県立第二中学校(現・那覇高校)南側の現岳城公園 (埋蔵文化財・城岳貝塚遺跡「城岳古墓群」) に日本軍は複雑な陣地壕を構築、に掘られた日本軍の拠点となっており、一部は通信室として、県警本部や海軍が使用していた。そのため米軍はテレグラフヒルとも呼んだ。楚辺1丁目の壕(城岳の壕)として戦後記録されている。

海兵隊: Troops move cautiously along the side of ”Cemetery Ridge” in their advance on Nip positions. In background are radio towers of an ex-Jap wireless station.【訳】 日本軍陣地を目指して「セメトリーリッジ」の側面を部隊は慎重に進む。後方は放棄された日本軍の無線通信所 1945年6月1日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

城岳公園 (那覇市楚辺1-4) 丘陵(約30m)

楚辺1丁目の城岳は県庁、旧県立二中(現・那覇高校)の間近にあり真地の「県庁壕」ができるまでの間、空襲下のもと防空壕が作られていた。食料保管、通信機能があり山部隊那覇守備隊が陣を構え4~5月と長期間戦火にさらされた。
県土木部都市内防空壕調査資料昭和54年度版では「入口3ヶ所幅2m高さ1.5m延長50m素掘」と聞取ながら報告している。1フィート運動の会では、1993年8月調査で全長500m、三重構造と現地踏査記録している。那覇市の戦跡(H11年度)で入口数13ヶ所現在の公園区域をぐるりと取り込んだ状態になっている。

 

2003年2月那覇市の発掘調査において東南区域の一部ながら古墓におびただしい弾着痕を検出している。この弾痕は空爆破壊をまぬがれたあとの地上戦を物語り、弾は水平より下の角度から射撃※されている。

沖縄県沖縄県戦争遺跡詳細分布調査Ⅳ 本島周辺離島及び那覇市編』54頁》

※ ブログ注・これがセメトリーリッジでの攻撃によるものと思われる。

 

海兵隊: Marine move through and over ”Cemetery Ridge”. They are shown pinned down behind gravestones by enemy sniper fire.【訳】 「セメトリーリッジ」を越える海兵隊員。墓石の後ろで敵の狙撃兵によって足止めされているところ。1945年6月1日 

写真が語る沖縄 沖縄県公文書館

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Marines use Bazooka from tomb position to blast out another tomb-Nips were seen in the tomb objective, one shot by the bazooka knocked out the tomb on the side of ”Cemetery Ridge.”
墓[を利用した砲座]から、別の墓を撃破しようとバズーカ砲を撃ちこむ海兵隊員。“セメタリー・リッジ”の山腹にある、日本兵が目撃されたその墓はバズーカ砲の一撃で破壊した 1945年6月1日

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

引用文献[1フィート運動の会活動報告]

調査日: 1992年10月8日 No.44

・様子:全長約500m。三重構造になっており、現在入れるところは2箇所。墓が入口となっている。壕内に石で造られた銃眼がある。井戸跡。1フィート運動の会で93年8月遺骨を収集。まだ残っている可能性(残骨)がある。

沖縄戦の記憶(地下壕):城岳公園の壕 No.44

 

今も続けられる遺骨収集の試み。

沖縄タイムス「古墓群が重なる那覇市の城岳公園 地下の陣地壕で遺骨収集を要望 青森の団体、遺族の高齢化を訴え」(2024年5月9日)
#沖縄戦 #遺骨収集 #浜田哲二

 

 沖縄に20年以上通い、沖縄戦の遺骨収集を続けている青森県のボランティア団体が8日、那覇市の城岳公園にある陣地壕跡での遺骨収集の許可と保存に向けた調査や発掘の実施を市に要請した。壕内からは戦前に製造されたカメラも見つかっており「相当数の遺骨や遺留品が埋まっている可能性がある。遺族が高齢化している中で、早期の活動を許可してほしい」と求めた。(社会部・吉田伸)

 

 団体「みらいを紡ぐボランティア」事務局を務める浜田哲二さん(61)と妻の律子さん(59)が同日、那覇市文化財課を訪ね、要望書を提出した。

 浜田さん夫妻は、糸満市日本兵や住民の遺骨などを発見した活動内容を説明。「文化財に影響がないよう那覇市の助言を聞きながら、まずは多くのごみや土砂を処分して遺骨を収集していきたい」と訴えた。

 

 同課によると、一帯は「城岳古墓群」という埋蔵文化財に重なっている。外間政明担当副参事は「内部で調整して、どう対応できるか検討していきたい」と述べるにとどめた。

 

 県立埋蔵文化財センターが2014年度に行った調査では、城岳公園の地下にある陣地壕の総延長は300メートルにわたる。墓の開口部を利用して構築。東西に貫通しており、さまざまな部屋状の空間が確認された。

 1944年の10・10空襲以降、壕の一部は通信室にあてがわれ、県警本部や日本軍の海軍部隊が使用したほか、県職員や周辺住民が同市真地の県庁壕に移動する前に避難したという。

 

 浜田さん夫妻は「島田叡知事が陣頭指揮を執ったり、報道関係者が出入りしていたりしたという証言や記録もある。誰が使っていたのか調べたい」と調査の重要性を訴えた。

 

 また、約60年にわたって遺骨収集に携わった国吉勇さんが2003年に、壕内から「モルタ(ミノルタ)・ベスト」というカメラを発掘。国吉さんから遺留品を託された浜田さんは「1934年に発売された高級カメラで、持ち主は島田知事の側近や報道関係者の可能性もある」と説明した。

 

約60年にわたり、遺骨収集に携わってきた国吉勇さんが2003年に城岳公園の壕で発掘した「モルタ・ベスト」という戦前のカメラ(浜田哲二さん提供)

写真:古墓群が重なる那覇市の城岳公園 地下の陣地壕で遺骨収集を要望 青森の団体、遺族の高齢化を訴え | 沖縄タイムス

 

時間のある時にセメタリーリッジの戦いについてまとめたいと思う。

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