沖縄戦と沖縄刑務所

 

 

沖縄戦と沖縄刑務所

受刑者の多くが1944年に鹿児島などの刑務所に疎開・移送されていたが、疎開できなかった職員とその家族45名、受刑者35名が共同生活をしていた壕は5月16日に解散している。「以後、各班・各自での逃避行となった。 戦場では、「受刑者は自分の 身の危険をもかえりみず、傷ついた職員を担架にのせ、沖縄の南の果てまで避難している。職員はまた、受刑者を戒護しつつ、受刑者と行動を共にした」 職員は45人のうち19人、受刑者は31人のうち24人の死亡が確認されている。」

《『沖縄県史 各論編6 沖縄戦』 (2017) 459頁》

 

戦前の沖縄刑務所

沖縄刑務所は廃藩置県された1879年(明治12年)、那覇東村天使館内に警察本署の直轄として設置された。1926年(大正15年)、真和志村楚辺原に移転した。

真和志/沖縄刑務所 : 那覇市歴史博物館

 

沖縄戦で焼け落ちた那覇

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Two Marine Combat photographers examine ruins of Naha prison. Note large towers in background.【訳】廃墟と化した那覇刑務所を調べる海兵隊所属の戦場カメラマン2名。後方の大きな塔に注目。(1945年6月5日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

海兵隊: Marine views wrecked Jap prison in Naha.【訳】 大破した那覇刑務所を見る海兵隊員。1945年6月13日

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

 父は薬局で働いていましたが、戦争が始まる約2年前に薬局を辞め、沖縄刑務所に勤めました。当時は軍から物資が統制され、自由に物が買えなかったそうです。沖縄戦が始まると、刑務所は解放されましたが、家に帰らなかった収容者は職員と一緒に避難しました。1945(昭和20)年5月頃、米軍がこちらに進攻して来ると、私たちは那覇の楚辺にある刑務所近くの壕に避難しました。そこに日本兵がやって来て、「ここは自分たちが使うから出なさい」と言われました。「ここは刑務所の壕として私たちが掘ったものだ」と答えると、「(言うことを)聞かないのか」と日本兵軍刀を抜いたので、やむなく壕から出ていきました。


南部へ避難
私たちは、南部に続く真玉橋に向かいましたが、その橋も破壊されていました。私たちが畦道を歩いている時に、近くに艦砲弾が落ち、その破片が飛んできました。父の様子がおかしいので、母と一緒に様子を見に行くと、父は砲弾の破片で顔がえぐられて倒れていました。そして、しばらくして亡くなりました。その後は、刑務所の人たちとは別れて、私たちは家族だけで避難しました。父が亡くなってしまったので、みんな泣きながら避難しました。


そのあと、私たちは八重瀬の高良集落に着きました。壕を探してもなかなか見つからず、やっと探し当てて避難していると、そこでも友軍(日本軍)から「この壕は我々が使うから出なさい」と言われ、壕から追い出されました。その後は、集落の公民館のようなムラヤーに家族で隠れていました。夜の8時頃、そのムラヤーにも砲弾が撃ち込まれ、戦車隊の若い兵士たち7~8名に砲弾が直撃しました。その兵士たちは、腸(はらわた)が飛び出たりと、もの凄い形相でした。私は、自分の右膝辺りが熱くなっているのを感じました。それで触ってみると、手にはべっとりと血がついていました。これが砲弾の破片が貫通したときの傷痕です。


 避難していたムラヤーも壊されてしまったので、私たちは豚小屋に入れてもらいました。私が夜中に傷が痛いと言って泣いていたら、そこにいた14~15歳くらいの青年が、私を担いで八重瀬岳にいた部隊の所へ連れて行ってくれました。そこでは、傷を消毒してもらいました。翌日、朝起きてみると、傷口にはウジが湧いていました。祖母も砲弾の破片が貫通して、出血多量で亡くなりました。1番末の3歳の弟は、破傷風で亡くなりました。掩体(えんたい)壕の近くに穴を掘り、祖母と弟をそこに埋めて、家の戸を穴の上に被せて土をかけました。私と弟が母に、「ここは、日本軍の陣地がある与座岳が目の前で危ないから、もっと遠くへ行こう」と言っても、母にはその気力がありませんでした。母にとっては、自分の母親(祖母)や夫、1番末の子どもも亡くなっているので、今更生きていてもしょうがないと思っていたのでしょう。その時は母も怪我をしていたので、壕の中で横になっていましたが、そのあと皆で高良集落から糸満の与座までゆっくり歩いて行きました。


 与座集落には与座ガーという湧き水があり、水が豊富な所でした。近くにあった壕の入口付近に、私たち家族4名は避難していました。そこに、いきなり米兵が壕の上から銃を突きつけました。突然のことだったので、私たちはどうしていいのか分かりませんでした。米兵の中には日系2世の人がいて、「何もしないから壕から出てきなさい」と呼びかけていました。それに応じて、壕の奥にいた人たちが何名か出て行ったので、私も一緒に壕から外に出ました。外に出ると、10名くらいずつ整列させられて、糸満の大きな十字路まで歩かされました。壕では、8歳の弟と5歳の妹が母と身を寄せ合っていました。私はいつの間にか家族と離れ、無意識に壕の外に出ていました。あとになって思うと、米兵に身振りでも何でも合図をして、どうにかして壕の中にいた家族を助ける方法はなかったかと後悔しました。

シリーズ非戦の誓い 消えた大嶺集落の歴史伝えたい – QAB NEWS Headline