陸上自衛隊第15旅団の「沿革」
牛島司令官の世辞の句を、その意味がわからないまま、公式サイトに載せているほど恥かしく愚かなものはない。本当に意味が分かっていれば、このような句を陸上自衛隊の公式ホームページに掲載できるだろうか。
陸上自衛隊第15旅団が、その旅団の沿革 (history) のページに、79年前の沖縄戦での牛島司令官の世辞の句を15旅団の前身である臨時第1混成群が本土復帰時に行った訓示を引用する形で掲載した。
問題があるとさんざん指摘されても削除するつもりがないのは、陸自第15旅団をはじめとして防衛相すら、これのなにが問題なのかをさっぱり理解できていないからだ。理解するための歴史の知識を持ちあわせておらず、また理解する意思すらもないのだろう。
しかし、木原防衛大臣は6月4日の参議院外交防衛委員会において、「(自衛隊の) 情報発信の趣旨が正しく伝わるように努める必要はあると考えている」*1 と述べている。つまり、彼らの方がこちらに「意味を理解してほしい」と、理解を望んでいるわけで、
陸上自衛隊第15旅団の「沿革」問題は、日本にとって、もっと根深く、不気味で、恐ろしく深刻なものだということがわかる。
まず、沖縄戦の第32軍牛島司令官の世辞の句をみて、再確認してみよう。
秋を待たで枯れゆく島の青草は、
皇国の春によみがへらなむ
「秋を待たで枯れゆく島の青草は」
沖縄戦で、米軍の司令官はしばしば危険な前線にまで赴いて作戦をたて、指令した。
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【左】海兵隊第22連隊第1大隊防衛前線での第10陸軍司令官バックナー中将と第6海兵師団司令官シェパード少将。この2人の司令官はこの地点から共に初めて那覇の町を見た (1945年5月14日)
【右】バックナー中将最後の写真。6月18日に日本軍の砲撃により沖縄で戦死した第10陸軍司令官バックナー中将(右端)の最後の写真。中将は攻撃のさなか第6海兵師団の前線監視所におり、数分後に殺された。1945年 6月
一方、第32軍司令部の牛島満司令官は、1945年3月23日頃に首里司令部壕に入り、その後、「天ノ巌戸戦斗司令所」と木札を掲げた壕からほとんど出ることはなかった。
米陸軍: Headquarters room of Jap 32nd army in Shuri Castle on Okinawa, which was found to be completely tunneled. 【訳】完全にトンネル化されていることが判明した首里城地下の日本軍第32司令部室。(1945年7月6日)
5月27日、首里から摩文仁の壕へ南下したのは夜中、おびただしい数の住民や兵士の遺体が泥にまみれる道を車で南下した。そして南部の避難住民の中に軍が逃げ込む形で持久戦を続行した末、6月23日、司令官と参謀長が自死。
5月1日に「吾輩も、最期には軍刀を振るって突撃」と総攻撃計画を命じた司令官だが、結局、壕からほとんど出ることもなく、軍刀をふるって突撃することもなかった。おびただしい屍が積み重ねられるなか、八原参謀の記録によると、最後の三日間は壕内での酒の記述が続いている。
つまり、牛島司令官は、自分が指揮した沖縄戦で、実際にどれほど「島の青草」が枯れていったのかを「見る」機会はほとんどなかったのである。
しかも、一言つけくわえておくなら、沖縄では秋になったからといって草木は枯れたりしない。沖縄に日本の本州のような「紅葉」はない。
自らが指揮した沖縄戦で、最期の最期まで自分の眼で沖縄に向き合うことができなかった。これは、そんな司令官の空想のなかの沖縄である。
「皇国の春によみがへらなむ」
沖縄では、秋だからといって草木が枯れるわけではない。黒い枯れ地と化した緑なき沖縄は、牛島司令官が指揮する沖縄戦によってもたらされたものである。
多くの住民を盾にし、子どもや女性まで前線に動員しつつも、司令官は「天の岩戸」から出ることはなかった。
行動を共にしていた兵士が死に、兄は戦場を離れることができたという。姉は解散命令が出るまで残った。「姉によると、撤退する際、衛生兵は負傷兵に『痛み止め』と言って青酸カリを配ったそうです。連れて行かないのかと尋ねたら『おまえが背負って行くか?』と」。姉は残された負傷兵の最期は見届けていないという。中村さんは「戦えない者は切り捨てる。捕虜になる前に口封じですよ」と語る。姉と兄は戦後、シュガーローフの話をすることを嫌がった。特に姉は「世話をした負傷兵の顔が浮かぶ。声が聞こえる、ってガタガタ震えていた」。
「『痛み止め』と言って青酸カリを…」沖縄戦で16歳の姉が見た惨状 (西日本新聞 2020/5/17) - Battle of Okinawa
そんな司令官が、最期に沖縄が「皇国の春によみがへらなむ」と謳うのである。
「よみがへりなむ」ではなく、「よみがへらなむ」と、「蘇る」の未然形をつかうことで、英語の仮定法のように、まだなっていない状態からの祈願を表しているとおもわれる。
未然形とは、日本語の動詞や形容詞の活用形の一つである。未然形は、その名の通り「まだ(未)なっていない(然)」状態を表す。未然形自体には意味はなく、他の助動詞や助詞と組み合わせて用いられる。例えば、否定の「ない」、意志・推量の「う」、仮定の「れば」などは未然形に付く。
《実用日本語表現辞典》
皇国とは、天皇の統治する国のことであり、戦前戦中の沖縄では、徹底して皇民化教育が行われた。公民 (シチズン) ではない、皇民となれという教育である。
本土の教育よりも沖縄の教育のほうが、もっと徹底して「日本人になる教育」だった。日本を守るため、沖縄を守るため、戦わなければならない、という考えだったのです。
ここで、陸上自衛隊第15旅団に再度確認してもらいたいのは、自衛隊は、沖縄に「皇国の春」をもたらすためにやってきたのかということだ。
沖縄を「皇国」の春となし、ふたたび沖縄の青草の命を「皇民」化することが、陸上自衛隊第15旅団の掲げる祈願なのか。
皇国の春を沖縄に持ち込むな。
二度とこの地に皇民化を持ち込むな。
理解してほしい、ではない。
自衛隊のほうが、その真意を問われているのだ。
1972年5月15日 - 沖縄にやってきた陸上自衛隊
自衛隊は、1972年5月15日に那覇にやってきた。この時、小禄の米軍基地「那覇ホイール地区」が自衛隊に移管され、のちに陸自「那覇駐屯地」となる。
そもそも1972年の沖縄返還協定では、米軍基地だらけの小禄の「那覇ホイール地区」は、B表 (自衛隊等に移管される米軍基地) とは別の、C表 (沖縄の復帰の際、その全部又は一部が使用を解除されるもの) に分類された。
しかし「返還」という名で、B表だけではなく、C表の中からもトコロテンのように自衛隊のフェンスに囲い込まれた。「那覇ホイール地区」は、米軍が強制接収した土地を、自衛隊が棚ボタで「取得」した土地のひとつだった。
米軍から自衛隊への移管を祝う「軍事式典」。
米陸軍: Military Ceremony - Japan, Okinawa, Naha Wheel Base (1972年 5月)
こうして陸上自衛隊は、かつて、日本陸軍第32軍が首里から安全に南下するため、海軍すらを丸腰で米軍の面前に差し戻した小禄に、陸自がちゃっかり米軍の後釜として居座ることになる。
臨時第1混成群は、昭和47年3月1日北熊本において編成され、その主力は、同年10月から12月にかけて沖縄に部隊移動を行いました。昭和47年5月15日沖縄復帰と同時に那覇市鏡水に開設された健軍駐屯地那覇分屯地は、臨時第1混成群主力の移駐に伴い、10月11日那覇駐屯地としてスタートを切りました。
10月4日、臨時第1混成群が到着するが、こうした一連の流れに、反対の声は強く、反対集会「県民総決起大会」には1万2千人が集い抗議した。
こうした歴史を踏まえ、考えてほしい。
小禄の膨大な土地を占拠する陸上自衛隊那覇駐屯基地が、「皇国の春によみがへらなむ」と公式ホームページの沿革に掲げる。
第32軍のために命枯れた地となった沖縄で
自衛隊は再び、沖縄に皇国の春をもたらすためにやってきたのか。
そうでなければ、どのような意図で、
那覇駐屯地第15旅団の「沿革」に「皇国の春によみがへらなむ」などという句を掲げるのか、
自衛隊は答える義務がある。
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