以下、沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)の戦争証言をコンコーダンス用に簡易な文字起こしで公開しています。文字化け誤字などがありますので、正しくは上記のリンクからご覧ください。
… が、厳密にいうと、避難民と兵隊とでは、その思想的背景も立場全く違うのであって、この違いは今日の眼から見ても、変らないのである。
だから、戦争に直接参加した人たちの言葉は、かりに反戦平和の思想に裏打ちされていても、かっての一時期洗脳されたよろ火が残っていてのことか、非戦闘員の住民の声に比較すると、はるかに弱い。恐らくそうした事情と、いささか関り合うのであろう。非戦闘員の中でも、男の人たちは多少なりとも戦争に加担したわけで、当時の姿勢のちがいからか、女の人たちの発言よりも、男の人たちのそれは多少弱い気がしてならない。
具志堅政賢氏の話は、いきなり壕の中からはじまり壕の話で終るが、特徴といえば、「負け」という生活からくる一種の病状の話であろう。島英正氏の話の中にも、ガラガラーなど、理想的な壕の話が出てくる。鳥氏は義勇隊であったわけだが、その話の中に、敗北した日本兵たちが、再三、国頭に突破すると言って、のがれようもない所にいながら、国頭に逃げるつもりで出て行って、すぐに多数が射殺される、それをくり返す場面がある。それは悲惨なことだが、また愚かしいような、一種の無謀さにみちてもいる。
仲里美恵子さんと保志門トシさんの体験談は、重く、内容がある。こんなふうに書くと白白らしいくらいで、内容があるという表現が軽薄に聞こえるくらいである。仲里美恵子さんの話の中に、大怪我してまだ生きている少年を、埋めようとする肉親がいて、また埋められまいとしてその少年が足で土を蹴っている情景が出てくる。一方、保志門トシさんの話す声は、怒りにみちている。何ものかに対し、激しく怒った気持をおさえようとして、ふるえているかのようである。彼女が逃げさまよって、行くさきざきで、肉親がつぎつぎと死に、その数が十人におよぶ。最後に、八十歳をすぎた松村カマさんの、水がなくて小便を飲んだり飲ましたりする話には、名状しがたいブラックユーモアがにじみ出ている。松村カマさん新城の生粋の土地の言葉で話された。従って難解で、恐らく欠点だらけの翻訳となったであろうが、その心情と大意を汲取っていただけたら幸である。
具志堅政賢 (四十五歳)
昭和二十年三月下旬に、艦砲射撃が始まってから、五月までの間、私たち家族は、家の近所に防空壕を掘って、その壕に入って、壕と家とを往き戻りしていました。食糧を運んだり、着替えしに行ったりして五月上旬になると、更に艦砲が激しくなったもんですから、私たちは後原の自然壕に入っていましたが、原の自然には、首里・那覇からの人たちも多く入っていて、昼夜、入れ変り立ち変り避難民が出入りしていつも満員でしたので、その裏の方に、防空壕を掘って、家族だけでそこに移っていました。そこには一か月余りいました。
その、自分たちで掘った壕にずっと入っているときに、アメリカの兵隊が銃を持って歩くのが見えたもんですから、ここにはもうこれ以上おれないと思ったんですが、逃げるあてもなく、また遠い所へ逃げて行けそうもなかったので、また自分の部落に戻ったんですよ。行ったところは、新城の新里壕です。
新城の新里壕は、(その壕の別れた一部をガラミの壕と称していましたが.........)二千名も入る大きな自然壕で、もう友軍も撤退した後なのであそこが一番いいだろうということになって、私は七十歳を越すお婆さんの手を引いて、また子供もおんぶして、食糧も持って、新里壕に歩いて行ったんです。
新里壕には、最初は友軍が入っていました。友軍が太鼓判をおしていたくらい立派な壕ですが、ただ入口が大きすぎるという欠点がありました。そして一つの入口と、もう一つの入口との距離は、実際の直線距離は百メートルぐらいですが、壕の中は曲がりくねっているので、三百メートルぐらいありました。また壕の中には、あちこちに別れた横穴があって、そこから更に地下の方におりて行くと、もう一つの壕もありましたよ。
私たちが新里に行ったとき、そこには約八百名の避難民が入っていました。私たちが新里壕に入ってから、二、三日したら、一日何回も、壌の入口からアメリカ兵が手榴弾を投げ込んでいました。その壕は、馬乗りされていたんですよ。
後では、二世が壕の中まできて、もう戦争は終ったも同じだから、安心して壕から出てきなさい、と誘っていましたよ。毎日のように何度も二世はきていました。中に兵隊は入っていないか、と訊いたりしていました。そしてある日、みんな百名の方につれて行くから準備しておきなさい、と一人の二世が言いにきていました。それから二日後に、再び二世たちがきて、みんなデテコイデテコイと言って、みんなを出して、百名の方へつれて行ったんですよ。みんなが連れられて行くとき、私はアメリカ兵に殺されるよりは逃げ隠れした方がいいと思って、壕の中の更に地下の方にある壕に妻や大きい子供たちを引き連れて、逃げ隠れしたんですよ。お婆さんと小さい子供たちは一緒ではなかったんです。
子供たちとお年寄りは、特に軀の衰弱しているお年寄りの場合は、湿気と栄養失調のせいか、壕負けするんですよ。顔がむくんで、手足なんかも張れて、歩けなくなるんですよ。壕から出て、すぐにお年寄りが死ぬのを、私は何人も知っていますが、あれは壕負けのせいなんですよ。それで私は、小さい子供たちとお年寄りは、これ以上ながく壕の中にいるのは、自殺行為だと思っていましたから、よその人に頼んで、壕から出て貰ったんです。
私たちは六月下旬まで新里壕に入っていました。それから、後原に掘った壕に移って、七月の半ばすぎ、その近くを、食糧を探して歩き廻っているとき、アメリカ兵に見つけられ、とうとう捕虜になったんですよ。
島英正 (四十歳)
農業
ガンガラー壕での避難生活
私は三月下旬の艦砲がはじまった頃から、新里壕の東側にあるガンガラー壕(ガラガラともいう、その壕のある所の畑名は、北滝と言います)に入っていました。ガンガラー壕は、玉城村の前川に近くて、入口は小さく、北向きで、ほとんどの艦砲は東海岸からでしたから、危険性も少なく、また兵隊さんも話していましたが、五百キロ爆弾を同じところに三発落とさないと崩れないだろうと、それほど堅固な自然壕でした。ただ欠点は、大雨が降ると、中に水が出てしまってですな、はけ口が小さくて、中は水がいっぱいになってしまうんですね。
ガンガラー壕での私たちの生活は、約一か月半でした。最初の頃は、その壕に部落民は四百名ぐらい入っていました。最後の頃には、五百五十五名になっていましたね。後の頃は、友軍の経理隊の灘波大佐以下の兵隊たちも入っていて、私は灘波大佐から、避難民の直接指導者を命じられていたから、いちいち点呼したりして、正確に数を覚えています。兵隊たちは七十名ぐらいいました。
それは五月中旬までのことで、その頃、私は義勇隊として召集されました。そのから弾薬運びとして女性も何度か狩り出されましたが、義勇隊は、十六歳から四十五歳まで、みんなとられて、二十名ぐらい出ましたね。
五月中旬にですな、村役場の兵事係が、球部隊の深見大尉の壕はガラミの隣のアンガーで、その病院が大隊本部でしたが、そこからの連絡だと言ってですな、十六歳から四十五歳までの男はみんな義勇隊に出るよう命令があってですな、軍医が見えて形式的な身体検査をして、みんなつれて行ったわけでした。
そして義勇隊は、あっちこっちの壕から狩り出されて、すぐに富盛の八重瀬岳の下の蝶に集合させられました。集まった義勇隊は百名以上いました。その八重瀬岳のから、義勇隊は分散して各部隊に派遣されましたが、私は世名城の壕に行きました。そこは友軍が掘った壕でした。そこでは、自分たちの仕事は、傷を負って送られてくる牛や馬を治療したり、もしくは重傷を負った牛や馬を屠殺してですな、その焼肉を作って、食糧として前線に送り出していました。
自分たちは義勇隊だが、兵隊さんが言うには、君らは召集兵の新兵だ、というわけで、ちゃんと二等兵のマークもつけて貰っていました。防衛隊に対しては、オイ防衛、オイ防衛と呼んでいましたが、自分たちは兵隊として扱われていたわけです。
それから自分たちの仕事は、危険になってきました。食糧としての肉や、弾薬を、激しい砲弾の中をくぐってですな、運玉森の手前の大名まで運ばなければなりませんでした。私は一度しか行きませんでしたが、他の義勇隊は数回も行って、行くたびに犠牲者が出ていました。
それから二週間足らずして、日本軍は首里からどんどん退却して、南部に向かってちりぢりばらばらになって、もう戦争どころか、避難民と同じ立場になってしまったんです。
六月上旬には、自分たちの世名城のに、アメリカ軍が攻めてきたんですよ。そしてアメリカの戦車砲は、自分たちの癖をつぶしてしまって、全員(百五十名)生きたまま中に閉じこめられてしまったわけです。
その壕は、コの字型に作られていて、人口と出口があったんですが、戦車砲でやられて両方ともつぶれてしまったわけです。そして兵隊さんたちは、ひょっとしたら毒ガスを撃ち込まれるかもしれないから......というわけで、ドラム罐二個の飲み水をいくつかのバケツに分けて、みんなに配ってですな、もしガスがきたら、手拭をぬらしてそれで顔を覆うておくようにと、命令がありました。そしたら、またも戦車砲でやられて、こんどは全体が崩れてしまい、全員生き埋めになったんです。自分たちは約三十分間、意識不明になったですな。隊長は自分たちより十分間ぐらい遅れて息をふき返し、誰かが四十五分意識不明だったと、報告していましたから......。そのときに、十五名の兵隊さんは生き埋めで死亡しましたが、残りの多数は息をふき返しましたね。は崩れはしたものの、大きな石などの間に、わずかな空間が残っていました。私が意識を取り戻したとき、ちょうど崩れた石の間から光線が見えたもんだから、モグラみたいに手であさって、穴を掘って行ってですな、出口を作ったんですよ。それから、みんな生死を確かめ合い、一人の兵隊さんが豪の外を覗いてみたら、壕の近くをアメリカ兵が歩いているということで、自分たちは夜までじっと待ってですな、夜中にそこを出ました。
生還したものみんなは、壕の前に集まったんですが、半病人のようになって歩けない者もいましたから、その人たちはそこに残ることになって、隊長の訓示があってですな、これから八重瀬の方に向かって自由行動せよ、ということになったんです。そのときに、三日分の食糧としてカンメンポを三袋ずつ手渡されました。残った者たちは、あとで聞いたことによると、手拭で白旗を作ってあっけなく捕虜になったそうです。
私は言われた通り八重瀬岳に行きました。井戸みたいに掘った縦穴の壕を見つけて、兵隊さんたちと一緒に入っていました。そこには水がないもんだから、新垣まで水を汲みに十三名が水筒のあるだけを持って、出かけたわけですよ。そうしたら、わずか五、六十メートル行ったかなと思うと、照明弾があがって、ぱっと明るくなって、そのときに私のイトコはすぐ近くの墓の中にとび込んで一人だけ助かったんですが、あとの全員は集中攻撃をくって死んでしまったわけですよ。私のイトコが一人で戻ってきてその報告をしたら、それからは兵隊さんも義勇隊も、解散ということになってですな、こんどは文字通りちりぢりばらばらになったんです。
自分たち数名は、海の方に向かって逃げて行って、ギーザバンタとマブニとの中間の(現在の)南部水源池の近くに辿りつきました。その途中で、真栄平あたりで私は砲弾の破片で右手と大腿部を怪我しました。沢山の死体が転がっているのを、あっちこっちで見ました。
水源池の近くには、ほうぼうから逃げ迷って集まってきた兵隊さんたちが、約三百名ぐらいばらばらに隠れていました。そこの海岸には、壕というほどのものはなく、家ぐらいの大きな岩があっちこっちにあって、それらの岩の下に、蟹のように穴を掘って、みんな隠れていました。みんな逃げ出せるチャンスを狙っていて、そこから海岸づたいに、国頭に突破しようと目論んでいましたね。
そしてある日、兵隊さんたち三百名ぐらいが相談し合って、いざ突破する気になって、全員一緒に崖の上の方に登ったんですよ。そうしたら、アメリカ軍の集中攻撃にあい、そのとき二百名ぐらいが死んだんです。残った百名ぐらいは引返してきて、また岩蔭に隠れました。ところが、日が経つにつれて、また次第に人数はふえて二百名ぐらいになったとき、またも突破しようということになって、こんどは偵察兵を出してみたんですよ。そして、北側にアメリカ兵が機関銃を据えているということが判って、その方に注意を払って、さけて行くように、という結論を出して出かけたんです。ところが途中で、口笛をふきながらテントを張っているアメリカ兵たちを、日本軍と間違えてしまって、やっぱりまたも集中攻撃を受けて、そこで三十名ぐらいが死んで、百七十名ぐらいは命拾いして引返してきたんです。もう逃げることもできず、飢え死にするのを、待っているような状態になっていましたね。
そうしたら、近海から米軍の放送があって、それは二世らしい声で、日本軍は敗けたんだから、抵抗しないで出て来なさい、と捕虜になるときの指示をしてきました。それでも自分たちが出ないもんだから、後からは、陸の方からも、標準語と沖縄口で、抵抗しないで出てきなさい、出てこないと全滅することになる、と放送していました。それでも自分たちは出なかったんですよ。これまで、自分たちは、夜中に、キビを取ってきて齧ったり、水を飲んだりして、ただもうじっと閉じこもっていました。三日目に、二世は自分たちのすぐ近くまできて、沖縄口で説得していました。それで、とうと捕虜になる気になったんですよ。
岩の下から出てみたら、アメリカのトラックがすでに待っていましたので、それに乗ったら、自分たちはすぐに玉城村の親ヶ原につれて行かれました。そこで日本兵として収容されました。後日、捕虜になった多数の友軍兵士と一緒に、自分たちはハワイへ船で送らきたわけです。
松村香代 (三十九歳)
私たちは親戚の人たちも一緒に、最初の頃は、後原と新城の境にある島袋壕というところに、約一か月入っていました。
私は妊娠三か月で、悪阻の真最中でしたから、いつも気持が悪遠くには逃げられないと諦めていました。
島袋に五、六十名入っておりました。それから戦が激しくなったもんだから、私は子供たち(十三歳を頭にして、末ッ子が三歳で、六名の子供がいました)をつれて、以前に自分たちで掘った山川のに行きました。その蝶は、前川と新城の境にありました。そこには二十日間ぐらいいたと記憶しています。ところが、敵がすぐ近くに来ているという噂があったもんですから、私は妊娠している子供たちは多いので、遠くには行けないということで、明け方、荷物をみんなで分けて持って、新里に移ったんですよ。
新里には、前にいた兵隊さんたちも避難民も南にさがった後で、その後から入ってきた部落民と首里・那覇の人たち三十名あまりが入っていました。
新里壕に入ってから、二日目に、アメリカ兵が手榴弾を壕の中に投げ込んで、入口近くで爆発して、みんな奥の方に隠れていたら、その後アメリカ兵が三度も覗きにきていました。その翌日、私の子供(長男・十三歳)が入口で遊んでいるとき、二世に見つかって、つれて行かれてしまったんです。それからうちの息子は、二世から壕の中のことをいろいろと訊かれ、日本兵は入っていないか、入ってないと答えたら、明日の何時にみんなをつれに来るからその準備をするように、と伝言されたそうです。
息子が戻ってきて、そんな話をするもんだから、みんなで相談して、もうこのままここで頑張っても仕方がないから、捕虜になろうか、ということになったんです。翌日、みんな食事もして、午前何時でしたか、私たちは壕から出て、壕の上で待っていたんです。そうしたらアメリカ兵が来ました。殺されるとは思っていませんでした。
戦争のためにこんな状態になっていても、何もしない私たちまで殺すとは思っていませんでした。アメリカ兵は先頭に立って、みんなを引き連れて、歩いてですね、百名の方へ行ったんです。そういうわけで、そんなに苦労もせず、簡単に捕虜になったんです。
百名収容所で、六か月してから、私はお産をしました。お産のためのボロきれの配給も少しありました。お産は民家でして、産婆さんもいましたから、無事にすませました。
仲里美恵子(二十四歳)
農業
私には当時しゅうとめさんがいて、二人の子供もいて、上の子が四歳になる女の子、下の子は一年六か月の男の子で、下の子が急性肺炎で三か月間入院していましたけれど、退院して間もなく、艦砲が激しくなって、生活をはじめました。その頃、しゅうとめさんも体が弱くて、そのうえ喘息と風邪をこじらせて熱病にかかっていました。
私たちは、三月二十三日に、新里壕に入ったのでした。
しゅうとめさんは壕でも寝たっきりでしたので、私はその世話をして、便器がなかったので洗面器にさせ、紙がなかったのでボロ布で後始末をして、それをの外に捨てていました。また、私の子供は肺炎が悪化して、肋膜炎になっていましたので、私はその子をおんぶして後原の翁長ぐゎ壕に毎朝通っていました。翁長ぐゎは、病院壕になっていて、仲間さんというお医者さんがいました。無料で診て貰っていました。それから私は、毎日イモ掘りに出かけて、食糧を貯えていたんですよ。
そして六月四日に、友軍からの立退き命令がありました。私たちに対して、捕虜になったらアメリカ兵は子供を殺して女は自分たちの遊びものにするから、捕虜にならないように逃げなさい、と友軍の兵隊が言っていました。それから私たちが壕から出ると、敵はそこまできているということで、友軍も一緒に逃げるつもりで、そのから出たんです。
友軍は、私たちの貯えた食糧も軍のお米も何もかもぜんぶに石油をかけて、焼いてから引揚げて行きました。私たちは、持てるだけの少しの食糧と荷物を持ち出しましたけれど、あとはぜんぶ焼かれてしまいました。
その後で、追われてきた別の友軍と避難民が、またその境に入ったそうです。
それから私たちの苦労がはじまったわけでした。私たちは与座・仲座(具志頭村)を通って新垣(旧真壁村)に出て、そして伊敷(旧同村)に行きました。その途中で、まったく偶然にも仲座の道で、防衛隊になっていた主人と私は逢ったんです。主人は、もう一人の防衛隊の人と一緒でした。これから塹壕を掘りに行くと言って
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