『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 新城

 

以下、沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)の戦争証言をコンコーダンス用に簡易な文字起こしで公開しています。文字化け誤字などがありますので、正しくは上記のリンクからご覧ください。 

 

 

… が、厳密にいうと、避難民と兵隊とでは、その思想的背景も立場全く違うのであって、この違いは今日の眼から見ても、変らないのである。


だから、戦争に直接参加した人たちの言葉は、かりに反戦平和の思想に裏打ちされていても、かっての一時期洗脳されたよろ火が残っていてのことか、非戦闘員の住民の声に比較すると、はるかに弱い。恐らくそうした事情と、いささか関り合うのであろう。非戦闘員の中でも、男の人たちは多少なりとも戦争に加担したわけで、当時の姿勢のちがいからか、女の人たちの発言よりも、男の人たちのそれは多少弱い気がしてならない。


具志堅政賢氏の話は、いきなり壕の中からはじまり壕の話で終るが、特徴といえば、「壕負け」という生活からくる一種の病状の話であろう。島英正氏の話の中にも、ガラガラーなど、理想的な壕の話が出てくる。鳥氏は義勇隊であったわけだが、その話の中に、敗北した日本兵たちが、再三、国頭に突破すると言って、のがれようもない所にいながら、国頭に逃げるつもりで出て行って、すぐに多数が射殺される、それをくり返す場面がある。それは悲惨なことだが、また愚かしいような、一種の無謀さにみちてもいる。

 

仲里美恵子さんと保志門トシさんの体験談は、重く、内容がある。こんなふうに書くと白白らしいくらいで、内容があるという表現が軽薄に聞こえるくらいである。仲里美恵子さんの話の中に、大怪我してまだ生きている少年を、埋めようとする肉親がいて、また埋められまいとしてその少年が足で土を蹴っている情景が出てくる。一方、保志門トシさんの話す声は、怒りにみちている。何ものかに対し、激しく怒った気持をおさえようとして、ふるえているかのようである。彼女が逃げさまよって、行くさきざきで、肉親がつぎつぎと死に、その数が十人におよぶ。最後に、八十歳をすぎた松村カマさんの、水がなくて小便を飲んだり飲ましたりする話には、名状しがたいブラックユーモアがにじみ出ている。松村カマさん新城の生粋の土地の言葉で話された。従って難解で、恐らく欠点だらけの翻訳となったであろうが、その心情と大意を汲取っていただけたら幸である。

 

具志堅政賢

具志堅政賢 (四十五歳)

新里壕

昭和二十年三月下旬に、艦砲射撃が始まってから、五月までの間、私たち家族は、家の近所に防空壕を掘って、その壕に入って、壕と家とを往き戻りしていました。食糧を運んだり、着替えしに行ったりして五月上旬になると、更に艦砲が激しくなったもんですから、私たちは後原の自然壕に入っていましたが、原の自然には、首里那覇からの人たちも多く入っていて、昼夜、入れ変り立ち変り避難民が出入りしていつも満員でしたので、その裏の方に、防空壕を掘って、家族だけでそこに移っていました。そこには一か月余りいました。


その、自分たちで掘った壕にずっと入っているときに、アメリカの兵隊が銃を持って歩くのが見えたもんですから、ここにはもうこれ以上おれないと思ったんですが、逃げるあてもなく、また遠い所へ逃げて行けそうもなかったので、また自分の部落に戻ったんですよ。行ったところは、新城の新里壕です。

 

新城の新里壕は、(その壕の別れた一部をガラミの壕と称していましたが.........)二千名も入る大きな自然壕で、もう友軍も撤退した後なのであそこが一番いいだろうということになって、私は七十歳を越すお婆さんの手を引いて、また子供もおんぶして、食糧も持って、新里壕に歩いて行ったんです。

 

新里壕には、最初は友軍が入っていました。友軍が太鼓判をおしていたくらい立派な壕ですが、ただ入口が大きすぎるという欠点がありました。そして一つの入口と、もう一つの入口との距離は、実際の直線距離は百メートルぐらいですが、壕の中は曲がりくねっているので、三百メートルぐらいありました。また壕の中には、あちこちに別れた横穴があって、そこから更に地下の方におりて行くと、もう一つの壕もありましたよ。

 

私たちが新里に行ったとき、そこには約八百名の避難民が入っていました。私たちが新里壕に入ってから、二、三日したら、一日何回も、壌の入口からアメリカ兵が手榴弾を投げ込んでいました。その壕は、馬乗りされていたんですよ。

 

後では、二世が壕の中まできて、もう戦争は終ったも同じだから、安心して壕から出てきなさい、と誘っていましたよ。毎日のように何度も二世はきていました。中に兵隊は入っていないか、と訊いたりしていました。そしてある日、みんな百名の方につれて行くから準備しておきなさい、と一人の二世が言いにきていました。それから二日後に、再び二世たちがきて、みんなデテコイデテコイと言って、みんなを出して、百名の方へつれて行ったんですよ。みんなが連れられて行くとき、私はアメリカ兵に殺されるよりは逃げ隠れした方がいいと思って、壕の中の更に地下の方にある壕に妻や大きい子供たちを引き連れて、逃げ隠れしたんですよ。お婆さんと小さい子供たちは一緒ではなかったんです。


子供たちとお年寄りは、特に軀の衰弱しているお年寄りの場合は、湿気と栄養失調のせいか、壕負けするんですよ。顔がむくんで、手足なんかも張れて、歩けなくなるんですよ。壕から出て、すぐにお年寄りが死ぬのを、私は何人も知っていますが、あれは壕負けのせいなんですよ。それで私は、小さい子供たちとお年寄りは、これ以上ながく壕の中にいるのは、自殺行為だと思っていましたから、よその人に頼んで、壕から出て貰ったんです。

 

私たちは六月下旬まで新里壕に入っていました。それから、後原に掘った壕に移って、七月の半ばすぎ、その近くを、食糧を探して歩き廻っているとき、アメリカ兵に見つけられ、とうとう捕虜になったんですよ。

 

島英正

島英正 (四十歳) 農業

ガンガラー壕での避難生活

私は三月下旬の艦砲がはじまった頃から、新里壕の東側にあるガンガラー壕(ガラガラともいう、その壕のある所の畑名は、北滝と言います)に入っていました。ガンガラー壕は、玉城村の前川に近くて、入口は小さく、北向きで、ほとんどの艦砲は東海岸からでしたから、危険性も少なく、また兵隊さんも話していましたが、五百キロ爆弾を同じところに三発落とさないと崩れないだろうと、それほど堅固な自然壕でした。ただ欠点は、大雨が降ると、中に水が出てしまってですな、はけ口が小さくて、中は水がいっぱいになってしまうんですね。


ガンガラー壕での私たちの生活は、約一か月半でした。最初の頃は、その壕に部落民は四百名ぐらい入っていました。最後の頃には、五百五十五名になっていましたね。後の頃は、友軍の経理隊の灘波大佐以下の兵隊たちも入っていて、私は灘波大佐から、避難民の直接指導者を命じられていたから、いちいち点呼したりして、正確に数を覚えています。兵隊たちは七十名ぐらいいました。

 

それは五月中旬までのことで、その頃、私は義勇隊として召集されました。そのから弾薬運びとして女性も何度か狩り出されましたが、義勇隊は、十六歳から四十五歳まで、みんなとられて、二十名ぐらい出ましたね。

 

五月中旬にですな、村役場の兵事係が、球部隊の深見大尉の壕はガラミの隣のアンガーで、その病院が大隊本部でしたが、そこからの連絡だと言ってですな、十六歳から四十五歳までの男はみんな義勇隊に出るよう命令があってですな、軍医が見えて形式的な身体検査をして、みんなつれて行ったわけでした。

八重瀬岳 - 世名城の壕

そして義勇隊は、あっちこっちの壕から狩り出されて、すぐに富盛の八重瀬岳の下の壕に集合させられました。集まった義勇隊は百名以上いました。その八重瀬岳のから、義勇隊は分散して各部隊に派遣されましたが、私は世名城の壕に行きました。そこは友軍が掘った壕でした。そこでは、自分たちの仕事は、傷を負って送られてくる牛や馬を治療したり、もしくは重傷を負った牛や馬を屠殺してですな、その焼肉を作って、食糧として前線に送り出していました。


自分たちは義勇隊だが、兵隊さんが言うには、君らは召集兵の新兵だ、というわけで、ちゃんと二等兵のマークもつけて貰っていました。防衛隊に対しては、オイ防衛、オイ防衛と呼んでいましたが、自分たちは兵隊として扱われていたわけです。

 

それから自分たちの仕事は、危険になってきました。食糧としての肉や、弾薬を、激しい砲弾の中をくぐってですな、運玉森の手前の大名まで運ばなければなりませんでした。私は一度しか行きませんでしたが、他の義勇隊は数回も行って、行くたびに犠牲者が出ていました。

 

それから二週間足らずして、日本軍は首里からどんどん退却して、南部に向かってちりぢりばらばらになって、もう戦争どころか、避難民と同じ立場になってしまったんです。

 

六月上旬には、自分たちの世名城の壕に、アメリカ軍が攻めてきたんですよ。そしてアメリカの戦車砲は、自分たちの壕をつぶしてしまって、全員(百五十名)生きたまま中に閉じこめられてしまったわけです。

 

その壕は、コの字型に作られていて、人口と出口があったんですが、戦車砲でやられて両方ともつぶれてしまったわけです。そして兵隊さんたちは、ひょっとしたら毒ガスを撃ち込まれるかもしれないから......というわけで、ドラム罐二個の飲み水をいくつかのバケツに分けて、みんなに配ってですな、もしガスがきたら、手拭をぬらしてそれで顔を覆うておくようにと、命令がありました。そしたら、またも戦車砲でやられて、こんどは全体が崩れてしまい、全員生き埋めになったんです。自分たちは約三十分間、意識不明になったですな。隊長は自分たちより十分間ぐらい遅れて息をふき返し、誰かが四十五分意識不明だったと、報告していましたから......。そのときに、十五名の兵隊さんは生き埋めで死亡しましたが、残りの多数は息をふき返しましたね。壕は崩れはしたものの、大きな石などの間に、わずかな空間が残っていました。私が意識を取り戻したとき、ちょうど崩れた石の間から光線が見えたもんだから、モグラみたいに手であさって、穴を掘って行ってですな、出口を作ったんですよ。それから、みんな生死を確かめ合い、一人の兵隊さんが豪の外を覗いてみたら、壕の近くをアメリカ兵が歩いているということで、自分たちは夜までじっと待ってですな、夜中にそこを出ました。

 

生還したものみんなは、壕の前に集まったんですが、半病人のようになって歩けない者もいましたから、その人たちはそこに残ることになって、隊長の訓示があってですな、これから八重瀬の方に向かって自由行動せよ、ということになったんです。そのときに、三日分の食糧としてカンメンポを三袋ずつ手渡されました。残った者たちは、あとで聞いたことによると、手拭で白旗を作ってあっけなく捕虜になったそうです。

 

私は言われた通り八重瀬岳に行きました。井戸みたいに掘った縦穴の壕を見つけて、兵隊さんたちと一緒に入っていました。そこには水がないもんだから、新垣まで水を汲みに十三名が水筒のあるだけを持って、出かけたわけですよ。そうしたら、わずか五、六十メートル行ったかなと思うと、照明弾があがって、ぱっと明るくなって、そのときに私のイトコはすぐ近くの墓の中にとび込んで一人だけ助かったんですが、あとの全員は集中攻撃をくって死んでしまったわけですよ。私のイトコが一人で戻ってきてその報告をしたら、それからは兵隊さんも義勇隊も、解散ということになってですな、こんどは文字通りちりぢりばらばらになったんです。

ギーザバンタ - 国頭突破

自分たち数名は、海の方に向かって逃げて行って、ギーザバンタとマブニとの中間の(現在の)南部水源池の近くに辿りつきました。その途中で、真栄平あたりで私は砲弾の破片で右手と大腿部を怪我しました。沢山の死体が転がっているのを、あっちこっちで見ました。


水源池の近くには、ほうぼうから逃げ迷って集まってきた兵隊さんたちが、約三百名ぐらいばらばらに隠れていました。そこの海岸には、壕というほどのものはなく、家ぐらいの大きな岩があっちこっちにあって、それらの岩の下に、蟹のように穴を掘って、みんな隠れていました。みんな逃げ出せるチャンスを狙っていて、そこから海岸づたいに、国頭に突破しようと目論んでいましたね。


そしてある日、兵隊さんたち三百名ぐらいが相談し合って、いざ突破する気になって、全員一緒に崖の上の方に登ったんですよ。そうしたら、アメリカ軍の集中攻撃にあい、そのとき二百名ぐらいが死んだんです。残った百名ぐらいは引返してきて、また岩蔭に隠れました。ところが、日が経つにつれて、また次第に人数はふえて二百名ぐらいになったとき、またも突破しようということになって、こんどは偵察兵を出してみたんですよ。そして、北側にアメリカ兵が機関銃を据えているということが判って、その方に注意を払って、さけて行くように、という結論を出して出かけたんです。ところが途中で、口笛をふきながらテントを張っているアメリカ兵たちを、日本軍と間違えてしまって、やっぱりまたも集中攻撃を受けて、そこで三十名ぐらいが死んで、百七十名ぐらいは命拾いして引返してきたんです。もう逃げることもできず、飢え死にするのを、待っているような状態になっていましたね。


そうしたら、近海から米軍の放送があって、それは二世らしい声で、日本軍は敗けたんだから、抵抗しないで出て来なさい、と捕虜になるときの指示をしてきました。それでも自分たちが出ないもんだから、後からは、陸の方からも、標準語と沖縄口で、抵抗しないで出てきなさい、出てこないと全滅することになる、と放送していました。それでも自分たちは出なかったんですよ。これまで、自分たちは、夜中に、キビを取ってきて齧ったり、水を飲んだりして、ただもうじっと閉じこもっていました。三日目に、二世は自分たちのすぐ近くまできて、沖縄口で説得していました。それで、とうと捕虜になる気になったんですよ。

 

岩の下から出てみたら、アメリカのトラックがすでに待っていましたので、それに乗ったら、自分たちはすぐに玉城村の親ヶ原につれて行かれました。そこで日本兵として収容されました。後日、捕虜になった多数の友軍兵士と一緒に、自分たちはハワイへ船で送らきたわけです。

 

松村香代

松村香代 (三十九歳)

島袋壕から新里壕へ

私たちは親戚の人たちも一緒に、最初の頃は、後原と新城の境にある島袋壕というところに、約一か月入っていました。

 

私は妊娠三か月で、悪阻の真最中でしたから、いつも気持が悪遠くには逃げられないと諦めていました。

 

島袋に五、六十名入っておりました。それから戦が激しくなったもんだから、私は子供たち(十三歳を頭にして、末ッ子が三歳で、六名の子供がいました)をつれて、以前に自分たちで掘った山川のに行きました。その壕は、前川と新城の境にありました。そこには二十日間ぐらいいたと記憶しています。ところが、敵がすぐ近くに来ているという噂があったもんですから、私は妊娠している子供たちは多いので、遠くには行けないということで、明け方、荷物をみんなで分けて持って、新里に移ったんですよ。


新里には、前にいた兵隊さんたちも避難民も南にさがった後で、その後から入ってきた部落民首里那覇の人たち三十名あまりが入っていました。

 

新里壕に入ってから、二日目に、アメリカ兵が手榴弾を壕の中に投げ込んで、入口近くで爆発して、みんな奥の方に隠れていたら、その後アメリカ兵が三度も覗きにきていました。その翌日、私の子供(長男・十三歳)が入口で遊んでいるとき、二世に見つかって、つれて行かれてしまったんです。それからうちの息子は、二世から壕の中のことをいろいろと訊かれ、日本兵は入っていないか、入ってないと答えたら、明日の何時にみんなをつれに来るからその準備をするように、と伝言されたそうです。

 

息子が戻ってきて、そんな話をするもんだから、みんなで相談して、もうこのままここで頑張っても仕方がないから、捕虜になろうか、ということになったんです。翌日、みんな食事もして、午前何時でしたか、私たちは壕から出て、壕の上で待っていたんです。そうしたらアメリカ兵が来ました。殺されるとは思っていませんでした。

 

戦争のためにこんな状態になっていても、何もしない私たちまで殺すとは思っていませんでした。アメリカ兵は先頭に立って、みんなを引き連れて、歩いてですね、百名の方へ行ったんです。そういうわけで、そんなに苦労もせず、簡単に捕虜になったんです。

 

百名収容所で、六か月してから、私はお産をしました。お産のためのボロきれの配給も少しありました。お産は民家でして、産婆さんもいましたから、無事にすませました。

 

仲里美恵子

(二十四歳) 農業

新里壕の立ち退き

私には当時しゅうとめさんがいて、二人の子供もいて、上の子が四歳になる女の子、下の子は一年六か月の男の子で、下の子が急性肺炎で三か月間入院していましたけれど、退院して間もなく、艦砲が激しくなって、生活をはじめました。その頃、しゅうとめさんも体が弱くて、そのうえ喘息と風邪をこじらせて熱病にかかっていました。

 

私たちは、三月二十三日に、新里壕に入ったのでした。しゅうとめさんは壕でも寝たっきりでしたので、私はその世話をして、便器がなかったので洗面器にさせ、紙がなかったのでボロ布で後始末をして、それをの外に捨てていました。また、私の子供は肺炎が悪化して、肋膜炎になっていましたので、私はその子をおんぶして後原の翁長ぐゎ壕に毎朝通っていました。翁長ぐゎは、病院壕になっていて、仲間さんというお医者さんがいました。無料で診て貰っていました。それから私は、毎日イモ掘りに出かけて、食糧を貯えていたんですよ。


そして6月4日に、友軍からの立退き命令がありました。私たちに対して、捕虜になったらアメリカ兵は子供を殺して女は自分たちの遊びものにするから、捕虜にならないように逃げなさい、と友軍の兵隊が言っていました。それから私たちが壕から出ると、敵はそこまできているということで、友軍も一緒に逃げるつもりで、そのから出たんです。

 

友軍は、私たちの貯えた食糧も軍のお米も何もかもぜんぶに石油をかけて、焼いてから引揚げて行きました。私たちは、持てるだけの少しの食糧と荷物を持ち出しましたけれど、あとはぜんぶ焼かれてしまいました。

伊敷で - 夫との別れ

その後で、追われてきた別の友軍と避難民が、またその境に入ったそうです。
それから私たちの苦労がはじまったわけでした。私たちは与座・仲座(具志頭村)を通って新垣(旧真壁村)に出て、そして伊敷(旧同村)に行きました。その途中で、まったく偶然にも仲座の道で、防衛隊になっていた主人と私は逢ったんです。主人は、もう一人の防衛隊の人と一緒でした。これから塹壕を掘りに行くと言っていました。私は引止めて、すぐ近くの空家で、御飯を炊いてあげたりして、約三時間、一緒にすごしました。日本軍は最後の五分まで戦って、必ず勝つんだと、主人は言っていました。励ますような言葉が多かったと思います。それから、どこに行くとも言わずに、そこで別れて、それっきりで、どこでどんなふうに死んだかも判りません。


伊敷の周辺には、死体があっちこっちに群れになって、沢山ありましたよ。そこの焼け残った茅葺きの空家に、私たちは入って、二週間すごしました。砲弾に追われて、他の避難民も雪崩れこんできました。私はまる二週間、腐った水と、キビだけで生きていましたよ。病気の子供としゅうとめさんには、毎日わずかばかりの御飯を炊いて食べさせていました。艦砲が激しく、いつふっとばされるかも判らなかったんですけれど、どこにも逃げられないと思って、その家にじっとしていましたら、かえって無事でした。


その家の周りを、五、六歳になる男の子が、親たちとはぐれたのか、一人で泣いて歩いていましたね。その子は、「おっかあ、おっかあ」と泣きながら、その家の前まで何度も近寄ってきましたけれど、そのたびに避難民たちは、その子を追い返すんですよ。その子泣く声で、敵に感ずかれて爆弾がくると困るというわけで「あっち行かんか、あっち行かんか」と叱りつけていました。しまいには、その子は泣きながらどこかへ行きましたけどね・・・・・・。私はその様子を見て、ほんとに可哀そうだと思いましたが、どうしようもありませんでした。


二週間経つと、食糧が完全になくなって、そこに隠れていても死ぬほかはなくなって、もうどうせ死ぬんだから、自分の部落に帰った方がいいと思って、私たちはその家を出たんです。ところが、砲弾の中をくぐって逃げ廻っているうちに、反対の方向に行ってしまいました。糸満の手前の国吉あたりに出ていました。そこのキビ畑の中で一泊しました。


そこに若い兵隊が一人で迷い込んできて、何時間か一緒にすごしました。戦争は勝つでしょうか、と訊いたら、その兵隊は、慰めるつもりなのか本気なのか、必ず勝つといいました。そして、勝つことは勝つが、男はみんな死んでしまう、僕の言うことをよく覚えておきなさいよ、戦争が終ったら、必ず土地問題が起る、土地の所有権や境界のことで争いごとが起るから......と言っていましたね。その兵隊は一人でまたどこかへ立去って行きましたけれど、なんだか非常に印象的でした。

 

キビ畑の中で、大里村の人たちと一緒になりました。みんなで九名でした。午前何時頃だったか、そこに米軍がきたんです。小銃で撃ちながら近づいてきました。そうなると、もう私たちは恐わくなって、動けなくなっていました。アメリカ兵は何か叫んでいました。そしてまた小銃を撃ちこみました。そのときに、私たちの側にいた二人に当って死にましたよ。大里村の中年の男の人と、その長女に、弾が当って、即死でした。それでも私たちは怯えてしまって逃げることもできませんでした。こんどは、キビ畑に火をつけられたんです。不思議なくらい火はぱっと燃えあがりました。そのとき、すぐに、大里村の十三歳になる少年が、手をあげて出て行ったので、私たちもその後につづいて、出たんですよ。そのときは、もう夜中で、持っていた荷物も、少年の父や姉の死体のことも忘れて、何もかも捨てて、手ぶらで出て行きました。


そして捕虜になったんです。捕虜になったのは、六月十九日でした。キビ畑はどんどん燃えていました。私たちがキビ畑から出たら、そこの道には、ずらりと捕虜になった避難民が並んで、ぞろぞろと糸満の方へ向かって歩いていました。それでほっとした気持でした。


言いそびれましたけれど、もう一つ私は悲惨な情景を目撃しました。それは新城の新里壕に入っているときでした。何かの用でか一寸出たときに、見たんです。島さんの家の前の道ででした。十六歳ぐらいになる少年をですね、その子はまだ死んでもいないのに、肉親らしい人たちが二人がかりで、その子を道の側の畑に埋めようとしていたんですよ。その子は無言で、いやがってですね、足で土を跳ねのけていましたよ。その子は腹のあたりを大怪我していたようです。どうせ助からないから、遺体の場所を判りやすくして置こうと思ったんでしょうね。後で聞いたんですけど、中頭方面か避難してきた人たちらしいということでした。その様子を、ハワイ帰りの部落の小父さんも見てですね、怒鳴ったら、その子は半分土を被せたまま放ったらかされて、肉親らしい人たちは逃げて行きましたけどね。その後、その子は多分死んだでしょうけど、実際にはどうなったか、判りません。また砲弾が激しく、確かめることもできず、それどころではありませんでした......。

 

保志門トシ

(三十九歳)農業

南部を彷徨う

私は七名の子持でした。次女と三女は、大分県疎開させていました。艦砲射撃が始まった頃、私たちは自分の山(北滝川の山)に、友軍が掘った壕(取谷陣地)に行って、家族揃って避難していました。そこからは、東の海がよく見え、海に敵艦が沢山見えましたので、艦砲射撃されたらもう大変だと思って、すぐそこから後原の翁長ぐゎに避難しました。それから、部落の隣組の人たちと一緒に、翁長ぐゎから二百メートルぐらい離れたシトクというところに、壕を掘って、そこに一か月ぐらい入っていました。

 

その壕にいるとき、十八歳になる娘が、友軍の看護婦の仕事に行くといって朝早く出かけて、川で顔を洗っているとき破片で腰をやられましたよ。そして三日経ってその娘は死にました。

 

その後、その近くの、私の母がいる壕に、私たちは移ったんです。そしたら、与那原の海の方から、艦砲が激しくきて、壕の中に破片がとんできて、私たちは並んで昼寝をしていましたけど、私の弟夫婦はともに足を怪我してですね。また妹(三十四歳)は、腰をやられて、アキサミヨー(感嘆詞)して、「水を頂戴・・・・・・」と騒いでいました。けど妹は、二時間後に死にました。私はいちいち見ることもできないくらい、それどころではなかったんです。私の四女(五歳)が、手首もやられ腹もやられて、内臓がとび出していたんですよ。その子は即死でした。私の母が大騒ぎしていましたから、私は錯覚して、おばあちゃんが足で子供をふんづけて、内臓までとび出させているよ、と叫んだら、母は自分はそんなことはしない よ、と言っていました。その日は、五月三十一日でしたよ。


その後、私の弟夫婦は二人とも足を怪我していましたので、病院壕の翁長ぐゎ壕につれて行きました。 そして私たちが南へさがって 行ってから後のことですが、あそこの壕は毒ガスをぶちこまれて、 私のおばあさんも弟夫婦も、死んだんです。翁長ぐゎ壕には、大勢の避難民が入っていたそうです。生き残ったのはたった一人で、そ の人が死んだ人たちの話をしていました。

 

六月三日の午後三時頃に、私たちはから出てですね、大頓を通 って、夕方までに与座につきました。 砲弾の中をあっちに隠れこっ ちに隠れしながら行ったんです。 そして与座では壕が見つからなか ったので、役場の事務所に二日泊って、そこから六月五日には、真栄平の部落に行きました。

 

真栄平の空家に避難しているとき、また、艦砲だったか、破片に、こんどは私がやられましたよ。私は一歳半の子を抱いていましたが、その手首も、右腕も、額も胸も、切り裂かれて怪我して、まツトム(次男)は頭の上に擦り傷を受け、爆風で倒れましたよ。そして気がついたら、しゅうとめさんは、爆風で即死していました

 

そこからみんな逃げ出して、途中でどこかの石垣の側に一晩泊って、新垣に行きました。新垣では叔母さんが亡くなられてですね。あっちでは、砲弾と爆風が激しく、もう人間の肉がどこからともなちぎれて飛んできましたよ。死体も一ぱいころがっていましたよ。


そこから私たち糸満の方に逃げて行ったんです。糸満にはあっちこっちに、大きく脹れた死体が転がっているし、岩の下に三人のお婆さんたちが血だらけになって坐っているのも見ましたよ。そんなところに一晩泊っていたら、避難民がアメリカーがすぐ近くまで来ているというもんだから、また引返して、摩文仁村のマブニ(字)の手前、大渡という部落に行きましたよ。

 

大渡でも沢山の死体を見ました。私たちは大渡の下の、浜辺のアダンの繁っている中に隠れていました。そこで、親戚の三名の人たちが、ふっとばされて死んだもんだから、私たちは少し移動して、浜辺の上の方の、岩の下に穴を掘って隠れていました。そこで、六月十七日でした、一歳半になる私の子供が栄養失調で死にましたから、毛布に包んで岩の下の穴の中に聞いて、そこから夜だけ少しずつ歩いて、昼は岩の下に隠れて、切り立った崖の横腹をつたって、ときには海岸におりて波打際から歩いて、一週間もかかって、崖の下の方からギーザバンタに出たんですよ。

 

私の長女は二十歳になりましたから、妹の子供をおんぶして、私は何も持てないので自分一人で、怪我している片手は手で首からぶらさげて、片手で岩などを掴んで、やっと歩くことができたんですよ。

 

水もない、食べるものもない。澱粉を少しずつ分けて食べて飢を凌いでいましたけれど、ギーザバンタにきたときは、ほっとしました。そこの崖からは水が流れていたので、そこでやっと水を飲むことができたんですよ。ところが、ギーザバンタの海には死体がいくつも浮いているし、周りの岩の下には兵隊たちが隠れているし、そこは一番こわいところのような気がして、落着いておれなかったので、翌日はギーザバンタから、具志頭(村)のシランガーラ(白水川)まで行きました。

捕虜になる - 辺野古

地の果てを廻ってきたような感じで、もうこれ以上逃げて行く元気も残っていないような心境でした。シランガーラの岩蔭で一晩すごしているときに、誰からともなくみんなで、捕虜とられる(捕虜になる)かどうか、協議しましたよ。私は最初から、もうこれ以上どこにも逃げられないから捕虜とられた方がいい、と主張したんですよ。そしたら、親戚の男の人が、反対してね、捕虜になって殺されるよりは、カスミを食って生きていた方がいい、あんたもカスミを食って生きていなさい、と私は言われましたよ。そして翌日になったら、みんな内心捕虜になる気になっていて、言い出しきれず自分から先に出て行く勇気がないもんだから、私に向かって、あんた捕虜とられた方がいいと言っていたのに、どうして出て行かないか、と怒られましてね。怒られたもんだから、私は思い切って、出て行ったんですよ。もうどうなってもいいと思って......。私が出たら、みんな後につづいて出てきていました。その日は六月二十三日でした。
出て行ったら、アメリカ兵から、すぐ傷の手当てを受けました。そのとき、あ、もう殺されないですむ、と感じました。

 

シランガーラからは、歩いて玉城村の山につれて行かれました。当山で一晩泊ってから、知念村の知名部落に行くように言われ、私たちは歩いて知名に行って、そこで一週間、配給を受けながら生活していました。その後、知名から佐敷村の屋比久につれて行かれ、一泊してから、馬天港から船に乗せられ、山原につれて行かれました。上陸した山原は、大浦湾の長崎でした。
長崎という岬から、けわしい山道を歩いて二見へ行きました。そこは山ばかりで、食べるものもないのに、捕虜になってさきに送りこまれた人たちが、茅を刈って仮小屋を建てていました。そこの収容所に一週間いましたら、親戚の叔母たちがきて、ここはめるようなところでないから、宜野座の方がいいから、むこうへ行こうと誘ってくれたんです。

そして荷物も持って、朝早く出て、ずっと歩いて、夕方には宜野座に着いたんです。宜野座村宜野座(同字ドウムラ)に着いたら、仮小屋に入れて貰って、生活していました。そこから、フィリピン帰りの親戚の叔父さんが惣慶にいるという話を聞いて、私たちは落着ける場所を求めて惣慶に移りました。そしたら、部落出身の新垣太郎先生と逢い、その先生は肩を怪我なさっていてアメリカの中央病院で治療を受けておられたもんだから、病院とも親しくしておられ、私の長女を病院の炊事係にお世話して下さって、私たちはどうやら落着くようになって、そこで三か月すごしました。そこにいる間に、戦争は日本がまちがいなく負けたということを知りました。

 

佐久田シズ

(二十二歳)農業

南部を彷徨う

当時、私の姉(長女)は内地の紡績工場へ行っていて、また弟(長男)は軍隊に行っていました。
艦砲射撃以来、私たち家族は、自分の家から四、五百メートル離れた島袋という壕に入って、一か月間そこで生活していました。その後、山川壕といって、家族で掘ったがありましたから、島袋がいっぱいになっていたので、山川壕に移りました。その頃、敵は港川の方から上陸するという友軍の情報があって、健康な部落民はお年寄もみんな狩り出されて、島袋の近くに、石垣を積む作業を夜の八時すぎまでしたんです。

 

それから何週間かして、敵はすでに北谷から上陸してどんどん攻撃しているという情報があって、そしてまた友軍から命令があって私たち若い女性は、首里の近くの運玉森の方まで、二回、弾薬運びに出されました。弾薬運びに出かけると、必ず照明弾があがって、私たちは砲撃を受けたんです。そんなことが何度かあって、仲間の誰さんが大怪我をしたという話も聞いていましたので、いつ死ぬかもしれないと思うようになっていました。

 

そうこうするうちに、部落にも砲撃が激しく来るようになって、山川で、うちの母が飛んできた破片で足を怪我しました。それで父と母は、翁長ぐゎ壕に移りました。私の弟(長男)は二十歳で召を受けて兵隊にとられていましたから、その嫁さんと私が、みんなの世話をしていました。その嫁さんも、母の後、五月十八日に、破片で太腿のところをやられて、翁長ぐゎ壕に移ったんですが、五日間しか生きていませんでした。

 

だから山川には、私とお年寄と子供たちだけになりました。私はいつ死んでもいいと覚悟してただ夜中でしたから、一人で薪を拾ったり、山川壕から翁長ぐゎ壕に、食糧を運んだりしていました。私の父が、この戦はもう勝つことはできない、島尻の方にみんなで逃げた方がいい、と言うもんだから、みんな怖がって、逃げたがっていました。でも私は、どうせ死ぬなら自分の部落の方がいいと思い、反対したんです。そのうちに、弟たち(三男の十五歳、四男の十三歳、五男の十歳)三名は、隣の親泊さんたちにくっついて、南にさがってしまったんです。それで家族は動揺して、仕方なしに私たち(両親と十六歳と五歳になる弟と、一歳になる妹と私)は、真壁村の方へ逃げようということになって、具志頭部落を通って、与座・仲座を越えて、真壁の方に出て、そこで一泊したんです。

 

ところが真壁はその翌日から艦砲が激しくなって、そこにはおれなくなったので、喜屋武岬の方がいいという父の言葉に従って、喜屋武の方へ向かったんです。その途中、私がおぶっていた一歳になる妹は、いつの間にか栄養失調で死んでいましたから、真壁の古い墓に、後で判るように葬りました。ところが、行くさきざき、ますます砲弾が激しく、糸洲、波平、福地、イリーイサラ(現在の伊原の部落をあてもなくぐるぐる逃げ廻っているしかなかったんです。

福地では、父と十六歳になる次男が、負傷してしまい、父は小銃で脇腹をやられて、十分間ぐらいしか生きていませんでした。出血多量で亡くなった父の遺体は、小禄の人たちが手伝ってくれて、畑に穴を掘って葬りました。そうして石垣の側に隠れている所へ、同じ部落の玉寄さんと石原さんが偶然きて、あんたたちの弟さんたちはイリーイサラのどこそこにいるよ、と教えて下さったんです。それですぐにその人たちにつれて行って貰って、弟たちを引取ってつれてきたんです。そして母も一緒に木の陰に避難しているとき、十三歳になる弟(四男)が破片で頭をやられて即死し、間もなく、五歳になる妹(三女)が栄養失調で死んで、二人は頭を並べて畑に葬りました。

 

それから、あちらこちら逃げ廻ったんですが、どこに行っても、兵隊と避難民の死体にぶっつかったんです。それで、もうどこに逃げても同じだから、自分の部落に帰ろうね、と母と話をして、私は一人だけ無傷でしたから、キビを折ってきたり腐った水しかなかったので腐った水を汲んできたりして、みんなに与えて、そして歩いてマブニの方へ行ったんです。マブニにたどりつくまでに、前を歩いている人も、後を歩いている人も弾にあたって、すぐに倒れて死んでしまう人たちばかりで、私たちは意識朦朧としていました。

 

マブニに着いたら、アメリカ兵たちが見えました。そして避難民たちが、手を揚げて、アメリカ兵たちのいる方へ歩いて行くのが見えました。みんな、降参降参、と言って手を揚げて行くのに、私たち(母、次男、三男、五男、私と、親泊さん親子三人)は、捕虜になるつもりもなく、ただぼんやりと歩いて、アメリカ兵たちの横を通りすぎて、自分の部落に向かったんです。

島袋に帰り、捕虜となる

そしてとうとう自分の部落の、島袋まできてしまったんですよ。ところが、部落には人一人見当らず、何もないんです。私たちは春のみ着のままでしたから、何か食べるものはないかと思って、私が山の中を探し歩いているとき、アメリカ兵に見つかってしまったんです。アメリカ兵は、私たちに銃を向けて、近寄ってきて、それから四、五百メートルも歩かせて、さ、そこにあるトラックに乗れって合図しました。

 

私はどうなることかと心配して、意識朦朧から覚めたように、思わず、しくしく泣いてしまったんです。そしたら、親泊さんが、死ぬときはみんな一緒だから、と私を慰めてくれました。

 

私たちはトラックで東風平まできて、一たんそこでおろされました。そこは大勢の捕虜がぼんやり立っていました。私は部落の人たちや親戚の人たちを見つけて、思わず泣けてきて、涙を流しながら、これまでの苦労を話し合ったりしたんです。

 

その後、みんな一緒に大型トラックに乗せられ、稲嶺へ行き、そこの広場(戦車で轢いて平べったくした畑)で、怪我人はみんな治療を受けました。十歳になる弟(五男)は足を怪我していましたから、そこで治療を受けました。そのときからは、命は助ると思っていました。そこから、まるで祭の行列のようにぞろぞろと歩いて、避難民が次から次へとつづいて、疲れきっている足に鞭打っ思いで、私たちも歩いて行ったんです。途中から、また大型トラックに乗せられ、船越(玉城村)を通って、知念村の山里部落までつれて行かれました。そこでずっと配給を貰いながら、生活して、だんだん元気になって行ったんです。

 

松村カマ

松村カマ (五十六歳) 農業

私たちは、艦砲射撃が激しくなった頃、自分の家の墓に入っていました。ところが八十歳になる私の母親が、ここは危険だから出ようとおっしゃるもんだから、かえって命拾いするかもしれないと思い、自分の家の墓を出て、島尻に逃げたのはいいが、あっちの方も艦砲が激しくって、あっちこっち逃げ廻ってイリーイサラ(現在の伊原)までも行きましたよ。そして最後には、八重瀬岳の下の安里ムラ(字)の、アジシー(祖先伝来の古い墓)に、ずっと入っておりました。

 

アジシーには私たちだけしか入っておりませんでした。そこに辿り着いたときは、もう食糧も荷物も何もなく、夜中に砂糖キビを拾ってきて、それを絞って、その汁を母親にも子供たちにも飲ましていました。後では、弾がパチパチ激しくて、外にも出られず、もう全く飲まず食わずで、水がないから、イモクズ(澱粉)ぐゎも、口の中がカラカラ渇いて食べられなくなっていました。

 

そこに入ってから四日目には、私の母親は永眠されて、奥の方にそのまま寝かしてありました。水はないし、水は欲しいし、外はパチパチ弾がとぶし、どうにもならん。ただほんの少し、ジーシガー(厨子)の、蓋のない上の方のフチに、濡れているほどの水が溜まっていたのを、童たち(子供たち)に舐めさせてはみたものの、役には立たず......。


そして私のウヤガナシー(母親)は、死んでから腐りはじめて、臭くなって、私の五男ぐゎ(息子)は、一緒にいたくないとこぼしていたが、どうにもならん。四日目になったら、目玉も大きく飛び出て、軀は牛のように大きくふくれて、脂がにじんで腐ってきていましたよ。

 

戦はバンジ(盛んな様子)で、六月三日は過ぎていたはず。死んだウヤガナシー(母親)の孫二人と私の五男ぐっと私、死んだお婆(母親)とマッちゃんとハッちゃんとテルと私、この五名そこにいて、生きている四名も今に死ぬかもしれず、三日三晩、シーバイ(小便)を飲んで暮らしましたよ。

 

後からは、シーバイはみんな少しは出たはずだから、こっそり飲んだかもしれないが、ほとんど私のシーバイだけを、みんな分けあって飲んで、喉をうるおしていましたよ。

最初はこうでした。八つになる(子供)が、水が欲しいよう、とあんまり苦しんでいましたから、水はぜんぜんなくて、茶碗だけがありましたので、私はふと思いつき、だいたいの距離に、その茶碗を構えて置いて、シーバイをして溜めて、それをまあ実際にわらびに飲ましたら、ほっとしたように黙ってしまい......。そのことはいつになっても忘れられませんよ。ずっと後々、私が山原から帰ってくる間には、そのわらびはもう死んじまっただろうと思っていたら、どうして丈夫に育ったのか、大きくなっていたが、今となったら四人の子供を産んだ母親になっているんですよ。

 

あのときは、私も喉が渇いて飲んでみたけれど、飲めなくて、イモクズぐわを口に入れてからシーバイを口に含んでみたが、にがくて、飲めやしませんでした。だけど、アキサ(感嘆詞)これを飲まないで、死ぬよりは、アカガイ(明り・この世)のあるところが、五分間でも何分間でもいいにきまっている......それで覚悟して、私も飲み、子供たちにも飲ましたんですよ。

 

八日目に、墓の入口から破片がとんできて、私の五男ぐわの片足大怪我させてしまって...このままでは死ぬかもしれないので、どうにかして墓から出さんといかんと思い、童に五男ぐゎの足を持たせて、私が胴体を持ちあげて引出すつもりでした。ところが私は負けしていて、手足が大きく疲れて、力が出ない。それでも力いっぱい力を出して、運ぼうとしたら、五男ぐゎが痛がって声を出して泣き出したもんだから、それをアメリカーが聞きつけてきたんですよ。アメリカーは墓の入口から鉄砲を向けてきたので、どこから射るのかとひやひやしながらも、童たちを私は抱きかかえるようにして構えたら、アメリカーは射ってはくれません。アメリカーが、あの童をこっちに出してこい、と手真似したので、私も手真似をまじえて、この童はお前たちが鉄砲で射って、こんなに怪我している、私には運びきれない、もうこうなったら私も死にたいから、この童たちと一緒に射って、目を閉じらしてくれ、と言ってやったら、それは、ならん、と言う。

 

それから私たちはアメリカーたちに引っ張り出されて、出されたときすぐ私は、死なす気がないのなら水を飲ましてくれ、と頼んだら、飲ましてくれて......。生き返る思いで水を飲んだ後、自動車(トラック)に乗れ、と言われて、乗ってはみたものの、これからどこかで殺すつもりだろうか、と思うと恐ろしくなっていたのに・・・アメリカーは殺すようなことはしませんでした。そんなわけで、私は八十過ぎの今日まで、このように生きているんですよ。

 

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