『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 与座

 

以下、沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)の戦争証言をコンコーダンス用に簡易な文字起こしで公開しています。文字化け誤字などがありますので、正しくは上記のリンクからご覧ください。 

 

伊敷千代さん 三所中二所帯全滅
伊敷親助さん 四所帯中一所帯全滅
一家全滅所帯 四十五戸

 

百五十四家族中、人物犠牲が無かったのは三所帯で、百五十一所帯は全部犠牲を出している。

金城亀二さんの家族犠牲を掲げる。
妻、長男、三男、四男。
したがって生存したのはご本人と次男と長女の三人だけ。

 

遺骨収集は総動員で二日かかったが、大体米軍が片づけてあった。それでも一屋敷平均六体あり、三十柱の遺骨のある屋敷もあった。木の蔭、四辻、道等にも遺骨は残っていた。

 

芳魂の塔。避難民の遺骨を納めた。
一人の老いた婦人が、捕虜になるについての日本軍のデマ宣伝の恐怖から、与座部落が焼かれた際は、燃えている自分の家へ飛び込んで死んだことが語られたが、その孫の少年も祖母を追うてまさに飛び込もうとするのを人に止められたが、この少年は、現在は、琉球電信電話公社に勤務しているとみんなが話した。

 

金城亀二さんの訴え。
戦争だけはあってはならない。戦争は是非なくするようにして下さい。戦争をないようにして下さい。

 

同じことを感情をこめて何度も繰り返した。七人家族から四名の肉親を失った金城さんの訴えは、個人的悲しみをさらに越えた人類的素朴の感情であろう。

 

与座部落も戦後二十余年に立ち直っているが、交通はやや不便である。しかしわれわれは八時にいいあんばいに車があって、二十四年前のこの惨劇の土地を後にして帰途についた。

 

伊敷敷親助 (三十二歳) 疎開引率

大宜味村への集団疎開を引率する

大川部落は瀬嵩から約半里(ニキロメートル)離れていますが、塩が無くなったもんですから、瓶をさがして、これを四つ束にして担いで、アメリカは朝の八時頃から来るので、早起きして、水を汲みに海に行って、そうして潮水を汲んで来るんです。瓶は一升瓶もあれば四合瓶もあります。集められるだけ集めて行くんです。この潮水を調味料にして、何でも食べるわけです。


食べ物は互に、何か物ぶつ交換も行なわれました。そして食糧は、朝早く行ったら、海の浮草がありましたが、それを取って来て、茹でて食べるんですなあ。爆弾や砲弾には追い廻わされませんでしたが、食糧には酷く困って、子供なんかは、もうふらふらして、鳥目といいますかな。また子供なんかは栄養失調になって、腹も膨れて、手足なんかも膨れて。

 

そうして防衛隊なんかも、食い物が無かったんでしょうな、山の奥の仮小屋に二人で死んでいるのもいましたよ。そんなのを二、三か所で見ましたが、食糧難と病気だったと思います。この部落のものでも栄養失調は出ましたが、水が体に合わなかったのですか、赤痢が流行りました。山の大きな木の下ですから、太陽なんか見えないんですよ。それで赤痢で腹をこわして相当死にました。水をガブガブ飲むもんですから。そうして向こうの人が言うには、水を飲む時は、木の下の水は飲まないで、太陽の当っているところの水を飲みなさいと言っておったんですが、水は上から流れて来るし、どこで飲んでも同じだろうと思って、飲んでいたんです。

 

食糧問題は、大変なことで、芋を掘り取ったあとに、小さい取り落した小指くらいのものを拾って来て、子供たちは、それをお箸の先きで突き通して食べさせるんですが、これでも三つくらい、おまけにこれを煮た水までも飲んだんです。この掘り取ったあとに残っている小さい芋拾いは、一里以上も歩いて、名護あたりまで、試験場の上あたりまで行かないとない芽芋ですから。人が、何回も掘って取ったあとの畑ばかりですから、食糧には相当に苦労しました。それから水を汲んで来て、一晩中煮て、ようやく五合くらいの塩をつくって、これを部落へ持って行って、食糧と交換することもありました。しかしその水はにがいですなあ、それを入れて何か煮たら真黒くなるんですよ。

 

それから部落の方でも、豚や山羊など、種子に残しておいたら、兵隊に取られて、家畜も全然いなくなっているといっていましたよ。

 

マラリヤは、戦争当時の七月までは無かったんですよ。終戦なってからマラリヤは出たんです。アメリカがマラリヤ菌を撒いたという噂さがありました。自分等は七月の下旬に山の中から出たんですが、山の中では蚊にも刺されたが、マラリヤは無かったんです。最初は大宜味疎開しましたので、四月に大宜味の産業組合から米の配給を一人一合あてに一回貰ったきり、今でいえば農業組合ですよ、倉庫に米は入ってなかったはずです。倉庫を焼夷弾で焼かれたので配給は何もなかったんです。もう食いのばしで、自分の持っているもので、お粥なんかは、まるで水みたいなもので、それから木の葉、桑の葉なんか入れておじやもやるんですが、これも水みたいに薄いのをすするんです。四月の半ば頃からはその生活です。山の中だから食べられる草の葉もないんです。食糧をこっちからそう持って行かなかったんですよ。のみ着のままで、自分たちで持てるだけですからね。子供もつれているし、着物ももっているし、食糧は沢山持てないですよ。

 

米は村では準備してありましたが持つことはできませんでした。おかしなことは、釜が村から配給あったのは十一箇でしたがね、これは乗せるために束にしてあるものが、乗せる時に、ぺしゃんこに割れてしまってですな、乗せられなかったんですよ。そうして、真栄里の徳里金盛さんも班長でしたから、徳里さんから三個借りてですな、ようやく、順繰じゅんぐり式で炊いておったんですが、また飯盒も持っているし、それで七名の家族が飯盒に炊いて、移してはまた炊いた。


そして終戦になってこっちに来てから金盛さんから、その釜を返せといってですよ、それは新平良小(屋号)のお母さんが借りたのであったが、あの人は、お米五合を御飯炊いたら、それが兵隊にさらわれてですな、お釜が無くなって、ないんですよ、もうこれは戦争中のことで、返せといっても無いのだから返せないので笑い話になっていましたがね。


五月、六月、七月の三か月というのは、ほとんど飯らしい飯はなくて、食べ物をさがして、一日一食あれば、それはいい方です。それから向こうの人から蘇鉄ですな、蘇鉄で澱粉を作って、飢えを凌いでおったんです。蘇鉄は六月なってからだったと思うんですが、その前までは、ミザーといってですな、芋を掘った後に少しずつ落としたのがまた生えるんです。それをさがして飢えを凌いでおった。山の段段畑ですが、これを十回くらいあさるんですが、必ず出るんですよ、十個くらいは。

 

みんな朝は早起きしてミーザーさがしに行くんですが、大きい方が小指くらい、子供たちにこれをお箸に突きさしてやるんですが、大人は、潮水を汲んで来て水と交ぜて飲むんです。芋を煮た水も飲みます。このミーザー芋を少し多いと計算して、二日分にするとか、三日分に分けるとかですな。雨天なったらさがしに行くことができない。これも無くなったのは五月の中旬頃。

久志の大川での疎開 - 食糧難

久志の瀬嵩から入って大川という部落です。蘇鉄の澱粉つくりを向こうで教わったわけです。それで二回中毒しました。山川といううちにおりましたので、向こうのおじいさんが、豚脂少しとニンニクを砕いてお湯をかけて飲ますんです。あとは馴れて中毒しなくなりました。そうしてですな、蘇鉄を食ったら体がまっ黒くなるんです。大人でも膨れるんです、顔でも手でも足でもすべて。蘇鉄を木片みたいに切ったキーカラーといいますが、あれも食べました。キーカラーも作るんですが、あれは脂を相当に入れないと食べられたものではありませんなあ。キーカラーというのを向こうの人はいつも作るんですな、あっちの人がつくるとうまかったんです。それでこの蘇鉄を取るにも喧嘩してですな、鉈も鋸も取り上げられましたよ。蘇鉄の幹を四つ取ってあったが、それも奪い取られて、泣く泣く帰ったよ。

 

それで、私のいたうちのおじいさんに言ったら、あっちは、大変なところだもの、あっちへ行ったらそんなめに会わされるよといわれました。わたしは、島尻では、蘇鉄は掘り捨てるのに困るくらいですよ、と話しましたら、あんなところに行って、奪い取られて気の毒でしたね、とおっしゃいました。蘇鉄も相当、島尻の人が食ってですな、後にはもう種子切れになったと言われておったんですよ。

 

久志村の大川部落では、また稲もですなあ、すくすくのびつつある稲を、すべて苅りてしまったんです。避難民と部落の人と奪い合いですよ。また実が固まらない乳みたいなものですが、それをもぎ取って、煎じて飲むのです。相当食糧難には苦労しましたよ。弾や爆弾なんかではやられた人はいませんでしたが。稲は、もうしばらくすると米に固まるんだが、あっちは一期作ですから五月頃(旧暦らしい)でしたからなぁ。もう少し実のったら取れるがなあ、と那覇あたりの人はよくわかっていたらしいですな、同じ栄養だから、乳のようにまだ固まらない実のらない青いのを煎じて飲むんですな。

 

それから今那覇なんかの庭に植えるヘゴですな、あのしんを食べましたが大根のようでうまかったんですよ。桑の葉は食べましたがあれはいい方で、食べられるものは全部食べました。パパイヤの絆なんかも食べましたが、一つだけは食べられないのがありましたよ。あっちの人が教えましたが、里芋に似たものがありますが、あれだけは芋も葉や茎も食べられません。口が痒くてはれてどうにもならないそうです。それであれだけは食べませんでした。

 

それから笊を作ってですな、一日中川の中からすくって取れば、桜エビ(沖縄方言で「セール」)が五合くらいは取れました。それからまたですな、あれはうまいです。それから鳥がですな、蛇を取ったあとで逃がしたものを煎じて食べたんですが、烏が蛇を取るのは面白いですよ。雌が喰べて上にあがるんですよ。雄の鳥は下におるんですよ。雌の烏が落すと、下に待っている雄の鳥がすかさず喰べて飛び上って落すんです。これを三、四回したら青大将は死んでしまいます。ハブは津波の杉山で見ましたが猛毒ですからね、一人はおりますよ、咬まれたのが。杉山はあんまり見ませんでした。お医者さんは三里半ばかり行かねばおられませんでしたし、血清もありませんしな。

兵隊たちが盗る

山原では栄養失調が大分出ましたな。ミーザー芋を集めて置くと兵隊が、切り込みに出るというので、その芋を取りに来るんです。また一週間ばかりしたら切り込みしたといってまた来るんですよ。それからもう馴れてしまいましたが、夜もろくろく寝られないんです。蘇鉄を食べるようにしてあるものを、夜眠っている時に兵隊たちが取るんです。何回もそんなにして盗られたんです、籠もろともに。蓋バーケというのがありましたね、あれに入れて置くとそれごとに取って行ったんです。

 

金城亀二 (三十歳) 第二期防衛隊

真栄里の特攻艇

わたしは二回目の防衛召集で、第一回の人たちは東風平の記念運動場に入りましたが、わたしは兼城村の照屋部落の船舶特攻隊の大隊の第三中隊に防衛召集されて、向こうでも班長を勤めておりました。

 

最初は分散して個人の家にお世話になりました。点呼は照屋部落の公民館の前で受けておりました。夜は艦砲、昼は機銃掃射が激しいので、船舶隊の仕事は、午後五時頃から真栄里の後の防空壕で昼は整備をして、晩に海岸まで出すことになります。うちの中隊は、線路を引いてあったんですが、爆撃が激しくって、昼はほとんどやられっぱなしで、晩に補修工事として、木の枝を切って来て擬装してあるんですが、低空で偵察するからすぐ見破られてしもうんですよ。しょっちゅうやられて、線路を補修してまた擬装するんですよ。船は海の深さは一メートルくらいのところまで出すんですが、干潮の場合は、糸満の海岸は、一里くらいまで干上りますから、夜通し担ついで、肩はほとんどはげておったんです。船舶隊の下士官の方はちょっとのことでも鞭でたたくんですよ。肩が痛くて坐ったら、またたたくんですよ、だから我慢して歯をくいしばってです、海の潮のあるところまで担いで行くのですが、爆雷は船尾に詰めるんです。これは三名で担ぐんです。一つの特攻船に二個ずつ詰めます。船舶隊はほとんど下士官だったです。目の前には、前の方に大型で戦艦でしょうな、真中に駆逐艦、ずっと後の方は檣だけしか見えませんでしたよ、輸送船団は。

そうしてこの船舶特攻隊は、巧いこというんですな、実際面では全く効果はないんですが、大きな法螺を吹いてですね、今日は戦艦を撃沈させたなどいって、朝がたに帰って来るんですな。この船を線路に上げることもできない、水がいっぱい入っていますが、船体は、ベニヤですから、底を突きほがして水を流してからまた担いで線路まで持って行って、それから防空壕に持って行って避難させる、そればかり毎夜繰り返しておるんです。それでわたしたちは線路も修繕して擬装したり、舟艇も修繕したり、そうするうちに暗くなりますね。この舟艇は毎日来なくなりますな。毎日減る一方ですよ。十五隻だったですがね、うちの中隊が。二中隊は真栄里部落の壕で、一中隊が小波蔵だったですが、二中隊の方はわたしたちは羨ましいと思いました。向こうは、特攻隊の舟艇はタイヤー付きでありましたから、干潮の時も押して行きますからね、ここは命令で担いでですよ。

糸満のクリ舟を特攻艇基地に運ぶ

後では舟艇が無くなりました。最初は出て行って帰って来ました。今度は、逆上陸させて、読谷の飛行場を取り返すといって、読谷の飛行場はアメリカに占領されているでしょう。それで糸満の創舟をですね、毎晩四名で一隻ずつ、豊見城タングムイ(この池は、川の幅が広がって池のようになっていたようで、ここも船舶特攻隊基地で、別の記録に出る。真栄里からこのタングムイまでは、十数キロメートルの距離で、現在豊見城村役所や学校のある三叉路から、真玉橋に行くアスファルト路を下りて行くと高安部落の前に橋があり、橋から三十メートル程行って「西方」へついている農道突き当りが、タングムイとのこと。艦砲やいろいろの弾の降る中を、重い刳舟を四名一組で運ばされたらしい) まで担いで、向この高安の部落の前に橋がありましてね、そこを担いで歩かれないもんですから、よいっしょい、よいっしょいで、これは大変難儀しました。この刳舟は棒にして左右で担ぐんですが、この舟運びは、十日以上もつづきましたよ。重いけれども四名で持てました。海に浮べたままなら四名では持てませんが、浜辺へ上げて乾燥させて置いて担ぎました。勝手に盗んで持って行きましたが、盗むといっても放ったらかして主は皆避難しているんです。しかし、沢山の舟でしたが、これは何もなりませんでした(戦前の糸満は刳舟が生業の元手で、百をもって数えるほど、刳舟はあっただろう。舟は監視もいないから自由勝手に取りたいほうだいです。

弾薬運び

船舶特攻隊は駄目になりましたから、今度は弾薬輸送隊に配属になりました。東風平村の友寄ですね、山川の近くですね。わたしの中隊は百五十名くらいです。三個小隊で一中隊で、一個小隊は五十名くらいでしたからね、それが編成替されて、各部隊に配属されたわけです。それまでは、中隊の人員にはほとんど損害はありませんでした。十名、十四、五名と、与那原や佐敷などに配属されて、別れてしまいましたが、わたしは友寄部落に配属されました。船舶隊というのはほとんど何もならなくて、全滅したので、仕事がなくなって輸送隊になったんです。友寄に行ったのは四十名くらいの人数でした。

 

友寄から首里坂下の松川ですね、首里の戦線はあの当時から首里は包囲されてですね、時間の問題であったんですよ。南部から行けるところは、樋川のところと、今の沖大のところの国場の道とその二つしかなかったんですよ。もう敵は安里まで来ていたんです。鉄の土手を境に、そこはもう第一線になっている。

 

友寄からの弾薬運搬は、首里の松川ですか、国場を通って、国場の後から、真和志の農業組合ですが、その付近はほとんど畑だったですからね、甘蔗畑。毎晩一回ずつそこへ運搬するんです。一晩で帰るんだけれども帰れない場合もあります。夜が明けた場合には、向こうの壕に避難しましたがね、その場合の戦争の激しさ、そこでの小隊の働き方は、ほんとに涙が出おったです。向こうの壕はニービですが、壕の中も土が落ちましたよ。兵隊は、裸になって焼亜鉛を上に置いて防いでいましたがね。弾は小さいが効力がある、遠くまで行きますよ。しかしどんどん押されていましたね。

 

松川までの弾運びは一週間くらいつづけただろうと思うんですがね。それから糸数の自然壕に移動しましたがね、向こうには野戦病院がありましたよ、向うからも首里の識名ですな。松川は終って、識名への輸送もわずか一週間くらいですよ。わたしたちが輸送する場合は、首里からの重傷患者は歩けるものは歩いてですね、雨が降って膝までぬかりましたからね、歩くことのできないのは匐って首里の戦線から後方へ下っておったですがね、戦友にすがっているもの、わたしたちは弾薬を担ぐんですから、患者の後退に協力することはできなかったんです。その頃は、住民は南部へ避難して重傷患者ばかりです。その後は転てんと長い間あちこち移動して歩きました。糸数からは、新城の前の大原屋取りですかね、そこにも一週間くらいいました。糸数にいた時に首里は占領されました。

 

佐敷村・玉城村と知念村は戦闘しないですよ、安全地帯ということで。それでその時に、山部隊の師団長は、やっぱりあっちはいいな、家族がいるならあっちに避難させなさい、向こうは安全だからといわれました。その時僕も痛感しました。

 

新城と具志頭との中間ですがね、そこからは東海岸が見えますが、その時からは旅団司令部は、具志頭に移動していましたよ。そ

 

こから毎晩一回ずつ、具志頭の旅団本部にですね、仲座の前に自然壕があったんですが、そこへ弾薬輸送、食糧輸送やったですがな、新城の西がわの窪地に沢山弾薬が集積されてありましたがね。その場合にうちの防衛中隊の軍曹が国頭シンセイといって予備役だったですがね、下士官だったですが、それが弾薬を受領してですね、野砲隊の曹長と二人いっしょにやられてしまったですね。

 

ちょうど弾薬を受領した時は大雨が降ったもんですから、少し雨を暮らしてから輸送しようではないかといって二か所にわかれて、個人の空家で火を燃やしてですね、話しながら休んでいました。わたしは班長で、儀間セイ久といって死んでしまったが、あれは二班の班長で、独断できめて、話合って、そこで休んでおった。そこは艦砲が激しかったが、わたしたちがおるところは、ちょっと離れておったんですよ、二人がいるところは。壁をぶっこわしてですね、足が切断されているんですよ、軍曹はまたお腎の肉を一斤位破片で削り取られているんですよね。軍曹がやられているから、出て来い野戦病院へ運んで行くからというんだが、みんな隠れて出て来ないんですからね、戸をはずして来て応急担架を二つ造ったですよ。曹長は、担架も何もいらないから、銃で早く撃ってくれというので、いや大丈夫ですからしっかりして下さい、といって、それで打ち合して半分は患者を運搬して、入院させなさい。半分は弾薬輸送というふうにしましたがね。

 

この二人を富盛の野戦病院に運んだですよ。その時は激しくてですね、道という道はほとんど重傷兵から避難民、死人、とくに気の毒に思ったのは若い母親がやられてしまって、子供がすがりついて泣いているんですね。わたくしも大きな責任があるからどうすることもできない。そうして両隊長を病院にお願いしたら、そこはほとんど真壁に移動してしまって、残留部隊しかいない、応急手当医療しかできない。兎に角、応急手当をやってくれといったが、薬品も道具もないからできない、というんです。

 

それからわたしたちが山城に行った時はガジマルなんか全部倒れておったですよ。だから、どの道が通れるかわからないので、案内者を出して、橋があるか、どの道が通れるか、夜だからさがさせて確めさせてから行ったんです。しかし急げば急ぐほどどうにもならんといったぐあいでしたが、そこの隊長のお宅の前に来てですね、訊いたんですが何の連絡もないが、まあうなっているから早く病院につれて行けということで、病院に行ったらもうびっくりしたですよ。戦闘力はもう無いなと思いました。患者は棚みたいなところにぎっしり詰って、軍医やら看護婦やら汗びっしょりですね。てんてこ舞で、応急処理なんかなかなか頼んでもしてくれませんよ。(註、日本軍の惨憺たる状況がいろいろ語られるが、これはとして軍関係だから中略する。)

 

真栄平の部落でうちのお母さんにあいましてね、僕の四男坊がちょうど六か月になっていましたがなあ、肩をやられたというんでお母さんが負んぶしておりました。一回は捕虜になったそうですがね。そこに食糧があるから食糧を取って来るといって嘘を吐いて真栄平に逃げて来たとお母さんは話されていましたが、じゃ家族はどうしたんですかと訊いたら、一人はやられたという。じゃあ残りはどうしたか、と訊いたら、一回は照屋に難避して向こうから賀数に帰ったら、また賀数も焼かれた。また今度は米軍が与座まで侵入して来てですね、とうとう二回目の避難の場合にもう家族はちりじりばらばらになったという。それで長男は三男を負んぶしてですね、おじいさんが先頭になって、いたそうです。


照屋から逆に、賀数へ戻って、そこから与座の方へ行き、与座から真栄平へ行く途中、ちりじりになったということのようである。

お母さんがいるといってどうしてわかったかというと、東イントの暗闇川ですね、向こうから、水を桶に担いで二、三名来おったですよ。その人たちはわたしの部落の出身だったので訊いたら「あなたのお母さん、乳飲み子を抱かえて、部落の北がわのガジマルの木の下にいられたよ」という。わたしは逃げて家族といっしょになろうと思ったが、本部の兵隊が許さないわけですよ。

 

それで止むなく国吉へ行ったら、向こうはもう、何にもないですよ、ガジマルなんかは倒れてですね、そうして国吉から帰って来たら解散なったもんですから、本部の方がたを前にして、東がわのテッペンに、行ったんですが、解散になったもんだから、もうおしまいだなと、今までの期待が水の泡になったなと思いました。でも食糧もないのですから一日も早く終った方がいい、と勝っても負けてそういうふうな考えでありました。

 

わたしは真壁に行きましたが、あんまり激しいもんだから、今度は田原(真栄里の屋取り、真壁の方向)の方に行ったんですがね。そこに妹がおるというので捜したんですが、その途中で至近弾を喰ってですね、艦砲で土を体全体に被せられて、もうお終いだなと思いましたが、何でもないもんだから一生懸命さがしましたが、さがすことができませんでした。伊敷君のお母さんがおられたが、向こうにも壕という壕は無いんですよ。足は出して頭だけは隠していましたよ。

 

わたしたちはそこで防衛隊を解散なったものが八名いっしょになりましたので、四人ずつ二つに分れて、国頭へ突破しようという相談をしました。糸満へ突破すれば海から国頭へ突破できると考えました。

 

そうして伊敷へ出ることにしたら、糸満の海は、アメリカのいろいろの船が、まるで海を被うようにいっぱいしているのです。そうして、それでも糸満へ突破しようとしたんですが、アメリカの戦車はわたくしたちを見ても何もしませんでした。却って友軍の兵隊が、スパイといって殺そうという気配が感じられました。これは突破するのも考え問題だと思って、阿檀葉の中、伊敷からの水の流れない川があるでしょう、そこで焼け甘蔗で橋を架けて糸満の海を見たわけです。

 

それで、避難民は殺さないという話を聞いていましたので、堂どうと手を上げて行こうということにしました。その時、十時頃になっていたですかな、中城の女たちが、着物包を頭に載せて、女が四、五名、子供が七、八名ぐらい行き合ったんですが、どこへあなたたちは行くかといったら喜屋武に行くという。喜屋武は、片一方は絶壁で激しいから、こっちを突破しようではないか、糸満を突破すれば大丈夫だから、食糧は何とかして行くからいっしょに行こうではないかといった。着換えなんか持っていない、食糧しか持ってないというので、そんならいいから、あなた方の子供をわたしたちが負んぶしようといって軍服を着たまま、途中に水があったので、水も汲んで、腹いっぱい水も飲みなさいといって、水も飲ましたんですな。

糸満の南で捕虜に、嘉手納へ

ところが糸満の南に来たらライトで迎えて殺すどころではなかったですよ。すべて日本語ですな、あなたたちは避難民だな、とちょっとした訊問を受けました。
白銀堂の北がわにトラックが待っていたらしい。そこで、中城の女たちにあなた方は、わたくしたちを殺させるためにつれて来たんだな、といわれましたよ。
わたしたち四人は防衛隊でしたから、翌日からはジープを洗わされたり一日中使役です。小便に行くにも鉄砲をつきつけてついて来るんです。逃げるんではなかろうかということでしょう、言葉が通じないので手真似ですが、前からも後からもカービン銃を構えているんですから、殺す考えだな、という心配も出ました。

 

それから避難民が増えたので、トラックに乗せて、嘉手納の野国ですな、そこへ連れられて行ったんです。そうしたら驚きましたのは、名城でわれわれを殴って船を担がした船舶特攻隊の下士官の連中がうろうろしてほとんど全部いましたよ。行って帰らなかった連中です。敵の戦艦を撃沈させたといっていた連中が、真先きに捕虜になっていたわけですよ。しゃくにさわりました。こっちは一生懸命協力して上げたのにと思ってですね、(特攻艇を担いだため) 肩がこれくらいわたくしははげていました。涙も出なかったですよ、馬鹿らしくてね、もう少し早く放免なっていた方がよかった。もっと避難民も助けて上げておけばよかった、あんな苦しいみじめな生き方をして、と思いました。

捕虜のハワイ移送

それから屋嘉へ行きました。大きな木をブルトウザーで根本から引っくり返すのを見て驚きました。それからまた野国に引っ返しましたが、その時は、全員が栄養失調になっていました。海には一万トン級の船が三隻ですね、沖に碇船しておるんですよ、三千名でしたが、舟艇から向こうまで運んで、わたしたちは中間にいる船でした。そこでロップ梯子ですね、折たたみ式でしたが、元気なものは自分であれから上って、われわれは栄養失調になっているもんだから、上ることができないで、船から畚を下して、荷物を積むようにして乗せられました。それから十一日目ハワイへ着きました。一番目の船は大変サービスがよかったようです。あれはランニングもパンツも配給されて、わたしたちはパンツの配給がありました。三番目の船は、真裸だったそうです。

 

ご飯は、握り飯も、大抵携帯食糧で、三度ほどお握りの半分くらい赤飯もありました。それから腋の毛ですね、白い毛虱がついているもんですから下の方も剃ったですな。

 

日課としては、ですね、毎日二時間作業するんです。ゲンノーで錯落しは婿落し、タワシで磨くのは磨く。ペンキ塗りはペンキを塗ってですね、十一日間で見違える程船は綺麗になっていました。裸だもんですからね、足が痛くて、船尾へ行って、食品を入れた箱の板を持って来て、それを敷いて磨いたり、ペンキ塗りしたり、錆を落させたりさせられました。また潮水で、洗濯石鹸を小さく切ってそれで洗わすんです。いくら船酔しているものでも見逃がさないです、重傷患者以外は船酔くらいは見逃がさないです。ホースで水をかけて毎日浴びせるんです。サイパンでちょっと碇舶しましたが吃驚しましたな。あれだけ撃沈させたといったのにアメリカの船団見たら吃驚しました。それを見たら日本の宣伝はまるっきり嘘だったなと吃驚しました。

 

真珠湾は、どういう風に入ったかわかりませんでしたが、奥の方に碇舶している船団もいっぱいしておるし、航空母艦はギッシリ飛行機をつんでいるし、これではどうしても勝ち目はなかったな、と思って、早く終戦なればこんなに犠牲者は出ないですんだのにと思いました。

 

向こうで、そのまま裸になって桟橋からは、百名乗りの機械力の大型のはしごには吃驚したですよ。十名くらいで、三十名くらいの捕虜を、三か所に収容して、背中には大きなPWの字を書いた服にかえさせられたですがね。向こうへ行って聞いたら三番目の船は酷かったらしいですよ。食糧上げ下げするロップも便所のロップ一つだったらしいですよ。

 

収容所は三度移動させられた。最初は山でしたが、向こうの防空壕はまるで御殿(貴族の家の意)みたいで、ペンキも塗ってあるし、鉄道線路も敷いてあるし、電気も点っておるし、水道も入っておるし吃驚しました。

 

わたくしは一年六か月あっちにいました。若いのは早く帰ってわたしたち年とった方は遅く帰されました。

 

ハワイで与座だけは部落がないと聞いていました。

 

伊敷千代 (二十三歳) 軍炊事

昭和十九年でしたが、武部隊がこの部落に配置になって、字の事務所に宿を取っていました。そうして、今米軍が使っているところの下に竃を作って、炊事場があったんです。うちは子供が二つしかなりませんでしたので、一日おきに飯炊きに行ったんです。飯は、米五合で芋はその二倍くらい入れて芋飯だったんです。将校もみんな同じものだったんです。それを大きなお握りをつくって一個ずつだったんです。それをに入れて、またお汁は野菜とか何とか住民が供出したものを入れて、炊いて、また糸満から魚と肉が配給といってあったんですよ。今日は魚、あしたは肉といって交代だったんですよ。ところが兵隊の習慣か知りませんが炊事班長といって、上等兵兵長くらいがやっておって、その手伝いだったんですよ、わたしたちは。この炊事班長たちは、肉もいいところは自分で取って置いて、また魚も来れば真中の方は取って置いて、それから配給して炊きおったんですよ。それから飯もお芋は入れないでお米ばかり飯盒で銀飯を炊いていたんですよ。将校だって芋飯ですが、お汁は小さい味噌樽に何名分といって入れて持って行くんですよ。それで陣地は山の中ですから、荷車みたいなのに乗せて、ガラガラ引っ張って行くんですよ、四、五十人分。でこぼこの水なんかの溜ったところなんかをガラガラ引っ張って行くんですよ。それがでこぼこの道を上るので、最初はいっぱい入っているが、目的地につくまでには、半分しかないんです。それで初年兵などは、腹半分も食べない有様でした。

 

それをくり返しているうちに、武部隊は、行って、そのあとに山部隊が来てこの陣地を引きついで、作り上げましたよ。

 

それから昭和二十年三月二十三日に、戦争が始まりました。義理の弟が十一歳で、わたしの子供が二つで、自分と三名暮しであったんです。それで戦は来たが体験もないし、見たこともないので珍しがって、みんな出て見たですよ。それから、こっちまで来ているというので大慌てして、壕といっても、穴を掘って上に木を置いて、それから木の葉っぱを取って来て被う、というそれくらいの壕だったんですよ。

 

それで朝は荷物を担いで行って、晩は家のある人は家に帰って行くというようにしていましたが、四月二十九日にこの与座は全部無くなったんです。十一時半に火がつきまして、二時半頃までには全部焼けてしまったんです。それからはといってもしっかりした豪はない、家もないから焼けたトタン板を拾って来て、炊事小屋を石垣にくっつけて造ったんですよ。そして鍋を拾って来たりまた小さ茶碗なんかも寄せ集めて壕に入って、そうして御飯を炊くんです

 

食糧がありませんから、朝は早く起きて、子供を負んぶして五時には芋掘りに出かけて、六時には帰るようにするんですよ。その芋は全部家に置いてあったんですが家が焼かれてそれは全部無くなったんですよ。壕に持って行ってあるだけしか食べることができません。兵隊さんのものは玄米だったんですが、うちのものは白米だったんです。それを兵隊が盗んで行くんですよ。住民のものから、盗まれても仕方がないので、軍の食糧倉庫へ行って、玄米を少しずつ分けて貰ったりして、少しずつ食べるようにしました。


それから戦争が段だん激しくなったので、兵隊さんに壕を取られたんです。こっちから機関銃を撃つから出て行きなさいといって、それで夜の四時頃しか出られなかったから、それから今の糸満中学のうしろにヨナグスクといってあるんです。あっちへ(墓のあるところか)行って、人間の遺骨を拡げて、それの上に板を置いて、一晩中その板の上におったんですよ。そうしたらあっちは西海岸から来る艦砲があんまりひどくて、一日おるといっても、いつやられるかもしれないと思って、ひやひやしておったんですよ。だから、こっちにいては危いから、明日は、死ぬなら自分たちの今までいた壕に帰って死んだ方がいいといって、また引き返して来て、自分の壕に入ったんですよ。そうして自分たちの壕に入っていたら、また軍が、だったら君たちはもう行くところもない、といってさんざん怒られて、何故住民が兵隊の邪魔になって、こっちをうろうろしているか、君たちは疎開命令もあっただろう、と怒られましたので、事情があってできませんでしたから、どうぞ置いて下さい、といって仲間入りさせて貰ったんですよ。


それから今までの自分の壕の下に、兵隊の炊事の壕があったので、夜から荷物も運んでその壕に入ったんです。その時兵隊は、この壕は明日は完全にアメリカにやられるんだが、もしその覚悟があるなら入りなさい、といわれましたが、そこに二晩入っていました。その間うちらも水も汲んで来て、薪も持って来て、兵隊さんたちに飯をつくって上げておりましたよ。隊長が軍曹だったと思いますが、アメリカはドンドン撃つんですよ、撃ったら横穴があるから、こっちに隠れていたんで、三日目の午後、時間は何時頃かわかりませんが戦車砲撃ち込まれてですね、前にいた兵隊十四、五名が、土で入口を閉ざされてみんな埋められていたし、抜け穴も塞がれて出ることができないですよ。


それから兵隊が、あなたがたは言うことをきかないからこんなに閉じ込められるんだといいましたが、兵隊が、土を少しずつ運んでやっと人が通れるくらい出口を開けましたので、わたしたちは八名でありましたが、一人ひとり出ました。

 

それから、すぐ隣りの大里部落にわたしの義理の姉さんの家がありましたので、そこに行きまして、馬小屋の肥料を溜めるタンクがあって、それをあれたちが掃除して、そこに壕をつくってありました。それでそこにわたしたちも入っておりました。
その壕は小さいので、二人は別の壕にわかれていましたが、この二人は水汲みに行くためにアメリカに捕虜になりました。わたしたちはあれたちが捕虜されたことはわかりませんでした。


またそこでも駄目だからというので、自分の部落へ帰った方がいいということで、晩になってから自分の部落へ向かって歩き出しましたが、それでまた一昼夜かかりました。照明弾が上って、その度びに何もかも置いてうつ伏せになって、また起き上って歩き出す、それに電線を歩く道に引っ張ってありますので、それにちょっとでも触れたら命がありませんからね、そうして歩く道は、不発弾が落ちていて足にさわったりして、一昼夜かかって行きましたら、そこの与座川のところに大きな戦車があったんですよ。そうして、与座川の水の流れの上に、人がこんなにして(まま)浮いていたんですよ、水を飲もうとしたら。そうしてこの戦車のところにアメリカの兵隊がいるかどうかと一人は見にやったんです。誰もいない、というので、じゃこっちから歩けるね、といってまた歩いて、そうしたアメリカさんは、道の真中に石で囲って、小屋をつくって三角ゲートルもつけて寝ておるんですよ。そのそばをわたしたちは通ったんですよ、抜き足さし足で(与座と大里との間は一キロメートルそこそこの近距離である)。


そうしてその部落の中央を歩いて、甘蔗畑に入ったら夜が明ける頃でしたがそこで暗い中に甘蔗を折ってまわりに置いて、それを搾って子供に上げたりして、そこにおりました。そこへアメリカーが避難民をさがして来ておるんです。その時幸いに子供が泣かなかったので、わからなかったと見えて、帰って行きました。

 

それでまたこっちも駄目だということで、場所を変えようということになって、東の方へ歩いて高良というところの境界に、元の高嶺御殿という原っぱに古い墓があるんですよ。そこを目標にして、行きましたが、そこへ行くといってまた一昼夜かかったんですよ(与座から高良部落も一キロメートルに足りないくらいの距離である)。その墓へ行ったら立派に掃除されて、避難民が入ったあとがわかるんですよ。それでわたしたちは、こっちはいいところだといって入ったんです。そうして水が飲みたくて堪らないので、上にあがったらこやし溜めに水が溜ってあったんです。そこから水を汲んで来て水を飲んで、その水で、持っている米を土瓶に入れて炊いて食べましたが米はこれがお終いで、こっちはいいところだから芋を取って食べて、ここで辛抱しようね、と話しておりました。そうして四日目だったんですよ。墓の中は暑いからそとに出ようね、とそとに出て昼寝していました。そとに昼寝していたところは、甘蔗の枯葉で仮小屋を前の人たちがつくってあって、そこには食事道具もあったので、わたしたちはここで炊事もしておったんです。

捕虜になる - 目取真収容所へ

そうして暑いので出て昼寝していたら、四日目の昼過ぎ、出て来い、出て来いといって来ているんです、三名。わたしたちは友軍かアメリカーに捕虜されると女はどうされる、男はどうされるからアメリカに捕虜されると絶対命はないものと思いなさい、と言い聞かされていたから、出ても殺される、出なくても殺されるから、みんな殺されるのだから、もう出ないでおこうといって、みんな伏せして、死んだ振りして誰も動かなかったんですよ。そうしたら両方から火をつけたんですよ、そのアメリカさんが。そうしても誰も出ないんですよ、死ぬならいっしょに死んだがいいというので。そうしたらこのアメリカさんたちは、言葉はわからないが、大きな声で何か叫びながら、一人びとり手を引っつかまえてそとへ出すんですよ。そうしたら、友軍は、まだ与座岳にいて機関銃で撃つのです。その弾がヒユウヒユウヒュウ飛んで来るので、立っているものを伏しなさいといってわたしたちの背中を押しつけるので、それたちの言うように伏せたんです。


それから、水が飲みたいだろうといった気持ちを見せて、自分の水筒から自分で水を飲んで見せてから、飲みなさいというがみんな飲まないですよ。毒が入っているという心配で。そうしたらまた自分で飲んでからすすめるので、やっと大丈夫だろうと思ってみんな飲んだんですよ。

 

一人は股に弾が入って歩けないものがいたんです。そのアメリカさんが東がわを向いて口笛を吹いたんです。そうしたら担架を持った兵隊さんが来るんです。そうしてその患者にそれに乗りなさい、というんです。ぶるぶる慄えていやだとかぶりを振ったんですよ、あれは(まま)姉さんがいっしょだったので、姉さんに負んぶされて歩いたらあれらも強いては担架に乗せないんです、無理には。わたしたちは歩きしぶりました。逃げる考えだから、あれたちを前に歩かして、立ち止ったりしました。そうしたら歩きなさいといって靴で軽く蹴るんですよ。前に進めばわたしたちはおくれて後になったり、あれたちが振り向けば立ち止ったりして、絶えず逃げようとするもんですから、あれたちは後にさわったんでしょうね、わたしたちが持っている着物や釜などを全部取り上げて甘蔗畑に捨てたんです。そうして、アメリカの兵隊さんが、逃げる鶏を追い廻す格好ですよ。

 

それからラージといって小さい車がそこにあったが、それに乗れといったが、乗ろうとしたがみんな心配になって、ぶるぶるえているが、アメリカ兵はそこに坐るところがあるから坐りなさいと手で教えるが、六名ともおびえてくっついて坐っていた。どこへつれて行くかね、今日でもうお終いだなと思っていると、目取真(大里村)の収容所へつれられて行った。そうしたら目取真には大きなテントが張られていて大勢の捕虜民がいるんですよ。


その途中一度は東風平へ行ったら、そこに兵隊があったんですよ。そこにわれわれ六人を下したら、アメリカさんのほかには誰もいないんですよ。その憲兵隊に交じって一人だけ沖縄のおじさんがいたんですよ、そのおじさんに、殺すかどうするか訊いて見ようねといってそのおじさんを呼んで事情を訊いたんですよ。そうしたらこのおじさんが、心配しないでいいよ。殺すようなことはしないよ、あなた方は、人数が少いから一休みさせてあるので、また人が来たらどこかへつれて行くから、何も心配することはない、と言われたので、その時から、命は助かりそうだと思った。

 

二十分くらい待ったら、真黒い兵隊が、血をだらだらして恐かったですが、その車に乗せて連れられて行ったところが、目取真だったんですよ。前に話した目取真へ行ったら、捕虜民は大勢いるんですよ。病人は病人別べつにして、そして着いた時は頃になっていましたが、お粥の配給と、また罐詰ちょっとだけ配給を受けて、これは今夜の御飯だから明日からは自分でさがして食べなさいと、二世から注意があったんですよ。靭なったら、小さい棒切れをさがして、芋をあさりに行ったんですよ。それで芋をあさって来て、その芋を洗って来て、煮て食べたんですよ。朝は、そうしてどうするかねと思っていると、また集合というんです。約三百四、五十名だったでしょう、二列に並べて、もうこれから行く先きは知念だが歩いて行く、みんな歩けるかというんですよ。みんな四、五日も物を食べていないから歩くにも大変なんですよ、子供は泣くのに声も出なかったんです。男の人もいましたが、わたしたちの持っているものを、アメリカの兵隊が男の人に持てというんです。そうして、その男は、わたしたちに詫びるんですよ。あなたがたの荷物を持てとアメリカの兵隊がいうが、わたしは自分の体さえ持ちきれないから、自分で持ちなさいね、とそのおじさんは言うたんですよ。わたしは自分で持てるから気にしないでといいました。

 

アメリカの兵隊は、捕虜五十名に一人くらいついて歩いていたんですよ。そうして歩いて行ったら百名というところに着いたんですが、そうしたら百名は満員だというので、もっと先の方へ歩きましょうということになって、志喜屋というところへ行きました。そこには仮の本部があったんです、人家に。そこで二世が出て来て、あなた方は、こっちから先はどこへ行っても家はない、自分でさがして作らなければ家はない、こっちから先は自由行動だから、自分の思うところへ行きなさいという命令が下ったんです。そういう命令が下ったもんだから、こっちはタンクもあるし、水もあるといってそこに坐っていたら、大里で先きに摑まえられた二人が芋を取って帰って来ました。


わたしたちが坐っていたのはこれたちの仮小屋の前だったのでそこでいっしょになって、これたちに仲間入りして、木を伐って来て、枯葉も取って来て、また仮小屋をつくって、その仮小屋は敷く板がありませんから、木の葉を地面に敷いたり、枯葉を敷いたり、雨の降る時は牛馬小屋に入れてある肥料の材料にするのと同じようにじめじめしますので、それを出して捨てた。そして鎌もないからを刈ることもできないし、木の葉を折って来て、また敷いて夜は寝て、それが六か月くらいつづきました。食糧は配給だったんですよ、配給だから作業に出ないものには、なかったんですよ。

 

子持ちでも、作業に出て、芋掘り作業といって、三百名づつ、東風平の富盛まで行ったんですよ。そしてアメリカの小さい袋の二つは出して、一つは自分の戦果といって、頭に載せて、自分の二倍の力を出して、食べることですから持って帰ったんですよ。そうしてまた田植えの手伝いしたり、米の配給を貰うといって、その田を植えたり稲刈りもしました。

 

ところが配給米はいつになっても無いんですよ、どこへこの米は行ったのか。だから子供たちは、苅りた実を取った稲の糞を干してあるのから、一粒二粒残っているのを取ってですね。それを干して鉄兜に入れて搗いて炊いて、食べたんですよ。無料で軍作業というのもあったんですが、わたしは最初の頃は衰弱して出ることができませんでしたが、移動前の二か月くらいは作業に出たんですよ。その間に一つ二つ道具を拾って来て生活していました。

名城収容所

それから移動ということになりましたが、高嶺村は軍がつかって、自分たちの部落には入られないから、今の名城ビーチのところに収容所がありまして三和村(旧、摩文仁、喜屋武、真壁)と高嶺は収容されたんですよ。そこで半年くらいいましたが共同作業で、喜屋武あたりの畑を耕してから、また移動といって、自分の部落へ今度は帰ることができるかと思いましたが、与座と大里は入ることができないといって、国吉へ移動しました。

国吉の黒人部隊

国吉に入ってから、後で規格家屋といって配給があったんですよ。初めは自分たちでテントで作って入っていましたが、規格家屋を作るには、与座は男は全部いないから、十名はいたですかね、全部で、十名くらいであったでしょう、男は。うちをつくるにも、女も同じく作業したんですよ。一つの規格家屋に十四、五名ずつ入れられた。国吉にいたのは何か年だったかね(ほかの人に呼びかける)二か年ぐらいいた。国吉にいる間はこっちへ通って畑仕事をやったんですよ。何もないところにこつこつ畑仕事をした。こっちには黒人部隊がありましたので、薪を取るにも命がけだったんですよ。黒人が追い廻わすもんですから。それでこれ等がいつこっちから去って行って、自分の部落に帰って安心して暮すことができるかねえ、といつも思っていたんですよ。黒人が行って白人が来てその後で与座へ帰りました。薪木取る時によく黒人に追い廻わされるので大声を上げて逃げました。そうしたら石を投げましたよ、黒人が。

 

宜野座シゲ(二十一歳)軍炊事

こっち与座の高台のところで見たら東風平の記念運動場にB29から赤いのが下りたんです。それが弾薬、青いのが食料といっていましたが、あの記念運動場いっぱい下りるのがはっきり見えたんですよ。それで嘉数タキタさんという区長さんが、あなたたちは、もう与座では攻防戦になって戦争が激しくなるから避難しなさいと命令が隊長から下っているからということを伝えられました。


うちは、姑、また姉さんもいたんですよ。兄の奥さん、また次男の奥さん、また子供も。おじいさんが体が弱い人で、喉が非常に出る人であったが「あなたたちはこの戦争で助からないと、後を継ぐ人がいないから、わたくしは一人でいる。あなたたちはおばあさんといっしょに助かるように軍からの命令だというし早く逃げなさい」といわれた。

 

それでおじいさんがいわれるように避難することに決まったんですよ。そうしたらうちのお袋さんが下の壕にいたんです。それでそこも呼んでいっしょに行こうと言ったんです。うちの姉嫁が、うしたら、こんなに大勢一団となっていっしょに歩いたら弾に当るから今度の場合はめいめいで逃げようということになって、うちなんかは、荷物を纏めて、担いで、スコップも持って、こっちから大へ、それから国吉の方へ行ったんですよ。


そこへ行く途中、友軍の兵隊なんかころがっているんですよ、旧高嶺の学校のそばなんかに。そうして国吉越えて、真栄里の田原というところで、ちょっとした壕に十日ばかり避難しておったんですよ。そうしたら国吉のところに戦車がいっぱい来るんですよ。そうしてヤンキーが下りて見てから、また上ってドンドン撃つんですよ。わたしなんかが入っている様なんかもドンドン撃たれたんですよ。そしてこっちにもいられないようだがね。と思ったんですが十日ぐらいいたんですよ。

 

うちのおばあさんは、大変人情の深い人ですよ、この人が兵隊に煙草上げたんですよ。うちなんか米も少し持っていたんですが、兵隊さんからカンメン包とかとかを買って、米と交換して、兵隊もいっしょに小さい壕に入っていたんですよ。うちなんかは、また朝になったら芋を掘って来た。八時までは来ないんですよ、アメリカ兵は。また五時になったらちゃんと帰るんですよ。トンボ(偵察機)ばかりブウブウ飛んで。そうして十日ばかりこっちにいたんですがね、真栄里から来るんですよ大勢の避難民が。そうして、照屋の人ですが、「アメリカが一人ひとり並べて斬る」といったんですよ。これを聞いてうちなんかもびっくりして、真壁の方へといって、真昼ですよ、太陽は照っていましたが、鎌と、大きな土瓶一つと、米ちょっとを持って真壁の山に避難しておったんですが、こっちも大変激しいんですよ、すぐ自分たちのそばにいる人もやられるんです。こっちに綺麗なハンカチがあるねと思って取ったら、こっちに人が埋められておるんです、体の半分くらい埋めてですね。そん死体を踏んで、避難民も兵隊もみんな入り交じって逃げるんですよ、真昼、アメリカが並べて斬るというので。それが珍らしいことに、兵隊の服を着ている人が撃たれるんですよ。真壁の前の小さい山だったんですが、ここで一晩明かして、そのつぎの日海の方へ水をたよって行ったんですが、途中の山は真赤に焼けていました。

 

海に泉のある手前の部落でしたが、新垣あたりの人が、真白い布棒の先にして、それを先頭にして五十名くらいの人が並んで行くんですよ。繃帯で頭を巻いて軍刀を持っている下士官が、あの人たちは捕虜になっておるよといって、山の陰から見ておったんですよ。もうその時から入られる壕はないですから、木の陰から岩の陰なんかにいて、捕虜になって行く人を見て、自分なんかは捕虜にはならない、と思って、それから大渡の壕に行きました。そこには友軍の兵隊たちがいましたが、港川を突破して行くというので、うちらは、命だけあればいいという考えでただついて行くんですよ。ついて行く時は、芋を土瓶に水で沸かして持っていましたから、それをちょっとずつ飲んでですね。そうしたら、それを友軍の兵隊に取られたんですよ。これがないとこの小さい子供たちを殺すことになるから渡してくれといって取り戻して、海岸を三日歩きまして、それから今の牛島中将がいたという崖の下に三昼夜いたんですよ。もう足が歩けないんですよ、うちなんか港川に渡ろうとしても。そ

 


うしたら上の山からアメリカさんは、ワン、トウ、トリーで、手榴弾を投げるんですよ。それで、首里の方でおじいさんでしたが、やられて、うちのおばあさんも破片で怪我をしました。それでおばあさんは、もうこんなにして生きているより死んだ方がいいといっておりました。


註、宜野座さん方は捕虜になって、知念に行かれたようで、その後は与座部落の人たちは、伊敷千代さんの記録と同じく名城、国吉、の生活を経て与座へ戻るのだから、以下は割愛した。

 

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