『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 国吉

 

以下、沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)の戦争証言をコンコーダンス用に簡易な文字起こしで公開しています。文字化け誤字などがありますので、正しくは上記のリンクからご覧ください。 

国吉(PDF形式:383KB)PDFを別ウィンドウで開きます

 

 

検証すべき課題

与座岳の殲滅

註、与座岳一帯を焼いた場合、蜂の巣のように穴のあるタンクを持った飛行機がガソリンを撒き、霧雨みたいに降ったかと思った瞬間に、山全体が同時に火となった、という談話があった。国吉も与座岳を焼き払うのと同じ方法であろう、逃げることのできない火の廻り方で、一種独特のやり方があるようである。機銃した後は、焼き払う方とは別に、逃げ出す避難民を射撃していたものと思われる。それでぎっしり入っている避難民は、ほとんどがそのまま焼けて死んだし、逃げ出たのは機銃掃射でやられるという惨劇が想像される。

真栄里の虐殺について

答「その当時、弾は来ても逃げ隠れしようという気持もなかったという話もききましたよ。その人は、アメリカが出て来い、出て来いといっても床下にひそんでいて出なかったらしいですよ。それ出てった連中は、男の方は全部並べて小銃で射殺したという話をしています。その人は泊の人だが床下に隠れていたが、小銃で床下や天井なども撃っていたが運よく助かって、その晩に逃げたと話していましたよ」
答「その理由は、わたしも申し上げようと思っていたんですが」

バックナー中将の戦死と関連あるのか

註 以下バックナー中将の戦死と関連して話されるが、われわれが真栄里で調べた結果、バックナー中将の戦死とは関係ないのが正しく、バックナー中将戦死前のことで、話しが矛盾している。バックナー中将戦死の地である真栄里部落では、そういった事実がない。国吉での米軍の集団射殺云ぬんの話は、もっと正確に明かにしなければならない。夫を助けるために、赤ん坊まで男だったので殺させてしまったという話が真栄里で話されたが、国吉ではこの話は出ない。もしこの事実があれば、そうして現在この女の人は存命だということであったが、しかしこの人は心の傷が深く絶対にそれを口にしない、ということであった。沖縄県民虐殺の真否を、間違いなく調べ上げねばならない一つの顕著な問題である。

国吉の遺骨収集

答「戦後糸満に来て遺骨収集の場合ですね、手もつけられない、アメリカのカバー(テント)を持って来てですね、円匙でまき取ってカバーに入れて納骨堂におさめました。」
答「メーメーモイ(屋号)ですよ、一屋敷に七、八十名くらいいましたね」
答「あれはもう話しにならない」

答「西がわにある屋敷ですが、あれも一屋敷に七、八十名くらいありました」

 

問「西半分はそうすると、物凄く片っ端からやられたというわけですねえ」
答「屋敷に人が余計集っていたら、女と子供は別にしてね、男は機関銃で全部やったそうです、見た人がわたしのところに連絡に来ておったですがね。こういう状態であるといって」

 

問「その場合ほとんど避難民でしょうね」

答「それからはもうほとんど避難民です」

問「国吉部落の人はそうされなかったのですか」
答「字の人はほとんど防空壕に入っておるわけですから、直接の被害はほとんどないわけですけれど、避難民が結局やられておるわけですね」
答「そうです」

 

答「部落内の疎開者の心得のいい特徴がありますがね、うちの屋敷の後にですね、今は改造してありますが、あの当時は改造してない、こっちは相当材木がありましたが、その中に二人くらいでは持つことのできない石があったですよ、以前はなかったですがね、うちらも当時は体力もなかったので取ってのけることができませんで、そのまわりだけに野菜なんか植えましたが...」
註、以下話が切れるが、この石の下に人が埋葬されていて、野菜がよくできたし、後で遺骨が出た、ことを考えると、多分遺骨の目標の石なのにその遺族が来ない、したがって一家全滅したのでないかという想像ができる。発言者は区長の神谷晴順さんなので、話の終結を聞かして貰うことは可能である。

 

神谷良儀 (三十九歳) 第二次防衛隊

第二次防衛召集

第二次の防衛召集は、軍司令部から各村へ来て、各村から召集されたんですな。召集されて、山の3481部隊に入隊しました。場所は与座岳で、入隊するとじきから壕掘りでした。部落へ行って野菜などもですな、各班で出し合って豚を買ったり、食べ物の材料集めなどもするんですな。供出ではありません。

 

アメリカが来たのは三月の末頃からですな、あの時からは壕掘りは止めておったんです。そうして三日くらいして、首里の繁多川へ行きました。自分は上等兵で入隊しました。向こうには兵器関係がありますので、そこの本部で伝令させられておったんです。繁多川第一線の中隊本部へ行くんです。場所と何中隊というては憶えていませんが、浦添の東南の方だったと思うんです。夜に行きおったんですよ。ほとんど毎晩です。部隊から兵隊が出て行く時は、またそれをつれて行ったりもして。向こうから負傷した兵隊をつれて来て病院へ送ったりもしました。これは十日間くらいでした。

 

それから与座に引き上げましたが、球部隊から六百名の防衛隊が来て、そこでいっしょに攻撃とか、手榴弾投げなどの練習ですな、これがすんだらすぐ第一線への伝令にまた首里へ行って出ましたが、伝令は将校一人とわたしと二人で行くんです。大抵は道案内の役です。三日くらいは将校がいっしょでしたが、その後は、あなた一人行きなさい、といって将校は行きませんでしたな。そこにいたのは一か月くらいですな。そうして五月十日に与座岳に引き上げて来て、二十日くらいそこにいたが、その時は、勝手に自分の家に帰ることができおったですよ。家族と面会して与座岳に帰るんでした。激しくなって、道も何もわからなくてですなあ、山の中から通って、また道を歩いたら飛行機が飛んでいるし、そうして民家に攻撃しておったです。

 

それから解散前に、家内と子供二人が亡くなっておったです。六月のはじめか、五月の末頃だったと思うんです。それでその時に自分は、自暴自棄の気分になってですな、また在郷軍人関係でもあるし、もう生きていても駄目だと思って、残った子供等を壕の上に来いといって、みんな出して、そうして手榴弾で自決しようかと思って腹を決めていたんです。そうしたら父が水汲みに行く時に、ちよっと危険だと思ったのか戻って来て、あなた手榴弾か何か持っていないか、と訊くので、わたしは持っている、こうこうしようと思っている、自決しようと腹をきめている、それで子供等も集めている、といったら、子供等は助けてくれ、わたしが預かるから、止めてくれ、と言われて、ひとまず思い止まっていたら、その話を下の兄が聞いて、泣いてですね、それは取り止めてくれ子供等はわたしたちが引き受けるからというので、じゃ、あなたがたに預けるからといって出て行ったが、もうあれからは仕事も手につかなかったですよ。

 

そうして仕事も手につかなかったもんですから......自分は中隊と心安かったですよ。また沖縄がわの軍関係者が少くてですな。その晩中隊長が呼んで、どうしているか、家族は全部生きておるかと訊きますので、この間、家へ行って見ましたら、家内と子供二人死んでいました、と答えると隊長は「ああ、そうか、腹具合が悪いか、(許してやろうという気持を示しているように思われる)」と実を考えてくれて薬を持って来させました。「あさって頃は解散命令が出るように思うているが、どう思うか」と中隊長が訊かれおったです。それでわたしは、「わたくしは幼い子供たちがいてどう助かるとは思われませんので子供たちといっしょに死んだ方がいいんですよ」とそう申上げたんです。そうしたら中隊長は「そうかね、その方がいいかもしれんね」といわれました。そんな話をしたが、それは夕暮れでしたね、それで水筒持って水汲みに行くといって、自分の大事なものは持って出ようとしたら、今は危いから出るなという命令がありましたが、いいえ、大丈夫ですからといって出ました。そうしてそれからは子供たちのところにずっと帰って行っておったわけです。夜は御飯炊いて食べさせて、朝は早く起きて、そうして捕虜はみんなといっしょだったんです。

 

捕虜は部落マタという自然壕で、大湾さん(同席)の東がわで、そこにおったです。はっきりした日は憶えていませんが、アメリカの斥候兵が来たんです。部落でです。


話は後戻りしますが、わたしが隊から来る時には、アメリカ兵が南山にテントを張ってあるんです。ちょうど国吉の後に山がありますよ、学道の割り取りのところに銃を構えて見張りしておりましたよ。それを見て、ずっと東がわの畑の溝からですな、自分は見られないように周って、暗くなってから自分の部落に入りましたが、その入る手前に友軍の兵隊が甘蔗の中から三名出て来おったです。それが一人は将校だったですよ。それで自分は軍服着ているし、見られないように隠れておったですよ。そうして三名とも部落の中に入って行きおったんですが、それからどこへ行ったかわかりませんでした。兎に角、部落に来てから壕に入って子供等といっしょになって。そうしているとアメリカの先発隊が来て壕をがしていました。その時の気持は何ともいえませんでしたな、出て来い、出て来いというんですが、自分は軍関係もあるし、いよいよ死ぬんだなと思いました。またあとから、みんな出て来いといって、自分等は後ろになっておったんですが、とうとう出て行ったんですよ。えるような気持がしてですな、もう向こうのいうことも耳に入りませんでしたよ。髯もボウボウ生やして、汚い着物を着ておったんです。軍服は脱いでしまって、それから煙草を一本ずつくれたから、その煙草で心が落ちついて、これは殺しはしないで立派な捕虜としてくれるなと思いました。

伊良波収容所、沖縄系通訳が沖縄語でこっそりと

それから捕虜になって、豊見城の伊良波に収容所があったんです。そこでは、自分は、年頃もすこし老けておるし、通訳が自分の家内の親戚に当っていたので、(註・沖縄系二世とおもわれる) その人が教えてくれたんです。方言 (註・沖縄語) でですね、嘘を言いなさいと、そういったです。通訳を通して調べる時に、「お前は防衛隊に行ったか」「いいえ、行かなかった」「どういう訳で行かなかったか」「わたしはちょうど病院に入院していたから防衛召集はがれた」「年は幾つか」「年はもう兵役年齢はずっと過ぎたです」「どんな病気だったか」「結核であったが、病院が解散なったので自分のうちに帰って来た」「結核は今も持っておるか」「いいえ、わたしは医者ではないからわかりませんな」
結核といったもんだから、アメリカの兵隊は、ハアバアハアバアで、この人だちといっしょに石川へつれられて行って、それで助かったと思うんです。


大湾朝次郎 (三十六歳) 警防団長

警防団とスパイ狩り

わたしはですね、戦争前は、沖縄には警防団というのがありましたですね、村の防団の副団長をしておったんですよ。昭和十九年までですね。この警防団は戦争の終るまでその組織はあったわけですが、その戦争の激しくならない前までは、わたしは防衛隊は免れていまして、学校を卒業した若い青年たち四、五名と、五十歳まで最後の防衛召集に行かれたもんだから、六、七名の若い人たちと防術関係にたずさわっていたんです。殊に夜なんかは。その当時は、特に、スパイ、スパイと喧しかったもんですから、これは十九年の九月頃からですが、わたしは村警防団の副団長という関係で、警察にも集まっていましたから、よく憶えておりますよ。


スパイというのは、ほんとのスパイは激しくなってからではないかと思いますが、知らない人、初めて見る人が、道から歩きながら紙切れと鉛筆で字を書いているものはすべて、スパイ疑いで捕らえろという命令でした。それから十九年の十一月頃から、こういうものをあなた方が処理できない場合は、軍に届けなさいという命令があったんです。大隊本部もありましたので最後にあそこへ連れて行くことになっておったんです。それからちょっと頭の足りない人(ママ)がおるでしょう、そんなものまでつかまえて連れて行かれましたが、そういうのも多かったですよ。住民がスパイということは全然できませんがね。知らん人が来た場合にはということで、やかましかったですよ、スパイの問題は。

大宜味村への集団疎開

それから二十年の年も明けて、三月二十四日、前の山まで南の山から弾がバンバン落ちて来て、破裂するのをわれわれは見ておるんです。港川方面からではなくて、南の方から弾は来たですね。そうしたら軍の方から、子供と女、老人は全部国頭の方に避難せよ、ということになって、うちの子供たちも大宜味の方へ送ったわけですがね。車は軍から出すからといって、高嶺の製糖工場敷地まで連れて行って、そして嘉手納までは軍の車で行って、あそこで降りて、子供たちも年寄りも歩いたんです、津波の山の中まで。

 

わたしは五十三名か連れて行ってですね、一応あっちで手つづきもして、大宜味の小学校からお米も馬車で運んで来て、一通り配給して、三月の二十九日の五時頃か、大宜味の山を出発して、昼中は歩けないか夜歩いて、二晩にこっちへ帰って来ましたがね。

 

三十一日の晩通って来たですから、四月一日上陸でしょう、もう石川なんか来た時は、兵隊が全然通さない、もう敵の上陸に対する準備だからというて。石川の橋なんかわたしたちがそこへ着いた時に破壊していたです、友軍の兵隊が。それでわたしは、こうこうい理由があるから、ほかの人は通さないでも、わたし一人は通してくれといって、わたしといっしょになっていた五名は、自分の部落に帰って来たですがね。先生方なんかは、通れなくて引っ返して大宜味の山に帰ってですね、却ってわたしたちの心配をしていたらしいんです。

弾薬運び - 使役命令が殺到する

その後ですね、あの部隊からもこの部隊からも、部隊といっても、中隊もあれば大隊もある、連隊本部もある、また小隊からも部落へ命令するんですよ。部落からの労務です。夜、第一線へ弾薬を運ぶとか、地雷を運ぶとか、食糧を輸送するとか、使役者を今晩何名出せと来るんですよ。それで一番うるさかったのは、どこの部隊かと訊いた場合ですね、今の非常時にそんなことは訊かなくてもいいというんです。こんなにはっきりしない時は、わたしは非常に困りおったんです。どこの山だからといってこれくらいはわかりますがね。それについてわたしは、小隊長や中隊長にお願いしおったんですがね、わたしは支那事変の死にそこないで兵隊のことはよくわかっているので、将校だからといって頭からガミガミ押さえる時は、わたしははね返したんです。こういう命令はない、といって、そういう立場で、あの部隊の部隊と対抗して、戦争を勝ち抜くためだからといって、雨の日も風の日も頑張って来たわけでしたがね。

最後の立ち退き命令

それから首里の戦線を突破されて、アメリカが兼城あたりまで来た時ですがね。今度は最後の立退き命令だから、住民は全部具志頭玉城の方へ行きなさいという命令がやって来たんですよ。


それでわたしは自分の考えで、こんな小さい島で、敵がこっちまでやって来て、今から玉城に行けといったって、土地は狭いし、壕もないし、向こう行くまでにはどうせ道に倒れるから同じ死ぬならわれわれ部落民は、部落で死なした方がいいから、わたしはそうい命令は受けませんとはっきりことわったんですよ。そうして壕を廻って、知念・玉城への立ち退き命令が来ていますが、みなさん方どう思いますか、と訊いたら、女連中は泣いてですね、もう今からどこへ行くか、どうせ死ぬなら自分の部落で死んだ方がいい、という意見が多かったんです。それでは共に部落で死にましょうといて、部落に最後まで残っておったんですが、この戦線で約一週間ぐらいは激しかったんですよ。五日目くらいまでは特に激しかったんです。夜でもそう出られなかったんですから、激しくて。カの戦車をここの部落近くで七つくらい破壊してあったんですか

 

激しくなってからは自分たちも壕に入って、その壕でいっしょに生き残ったおばさんが来ると当時の様子を話すのに都合よかったんですがね、ちょっと遠慮しますといって来なかったようですが、最初はげなってまでも、わたしは自分の個人の防空壕にいましたがね。友軍の兵隊が駆けつけて来て、なぜあなた方は今までここにぐずぐずしているのかと喧嘩ごしにぶっつけて来たので、わたしは、なに自分の個人の防空壕に住んでおるのであって、あなたがたが、そういうことを言わんでもいいではないか、といったら、いや民間が戦争はできないから、われわれは壕に住んで最後まで闘う、というので、壕に入っていて戦はできないからあなたがたは壕に入る必要がないんだから、そとで闘いなさい、壕の中では戦争はできない、とわたしがそういったら、榴弾で殺してやると兵隊たちがいったんですよ。それで、何を言っているか貴様たち、僕も支那事変の死に損いだから戦争しては貴様たちには負けないぞ、と手までは出しませんでしたが、もう少しのことで殺し合いしましたよ、わたしも死ぬ覚悟をしていましたから。それでとうとうこの兵隊さんたち二人はわたしに負けて去って行きました。

 

その後、あまりアメリカの斥候兵が部落をまわって歩くもんですから、他の壕へ行きました。そこには二十八名が入っていましたがね。そのような自然壕は三つありますが、ぎっしり入っていましたからね、われわれの入っていた壕は、兵隊も三名入って来て、それから神谷良一君も来ていましたがね、兵隊さんは切り込みに行くというので、それではわたしが道案内しましょうといっていると、神谷良一君がいっしょに行くという。もう戦争は最後だからしばらくひかえていなさい、とすすめたが、わたしも軍籍にある身だからあれたちといっしょに行って、できるだけのことはやって来ますから、後を頼みますよ、といって、出て行った。この神谷良一君はそのまま帰って来ないんですよ。それたちが出て行ってから一時間半くらいしてから戦車を破壊する音が聞こえましたよ。

在郷軍人と自決用の手榴弾

この神谷良一君は出て行って亡くなっていますが、これが出て行かなかった場合はその壕に入っている人たちは自爆の覚悟はしておったんですよ。この良一君とわたしと二人がおりますから、手榴弾までも準備していました。そうすると、アメリカの斥候が来て手榴弾をぶち込んだり、毎日来てそうするもんですから、それでいくらか怪我人は出ましたが、そう大勢の怪我人ではありませんでしたからね。もしもこの良一君がここにいたら、われわれは自爆していたですよ。半分は良一君が、半分はわたしがといって、榴弾をちゃんと用意していましたから、しずおばさんですよ、あれが来たら、あれはいっしょでしたから、その時の事情がよくわかりましたがね。嘘でないこともはっきりしましたがね。


それでわたし一人になったもんですから、わたしも考えて、わた一人でこれだけの人間をどうしても処理できない、と口からは出さなかったが考えていたんですよ。そう思っている時にわたしの家内のお父さんがですね。「どうせこうせ死にはするはずだが、一時間でも長く生きることにしようではないか」、という意見を出されたんですよ。「出されて捕虜されて殺すなら殺されてもいいんだから、壕で自爆するよりは、まず出て殺されるようにしよう、わたしそう思うが、皆さんはどう思うか」、わたしの家内のお父さんが、そういうことを打ち出されたわけです。わたしも自分一人でこれだけの人を処理できないと思っていたので、今度アメリカ兵が来たら手を上げて出ようといったんです。そうしたら、女の連中が却って壕の中で早く死んだ方がいい、といっていました。壕の中には子供もいまして泣きもしましたが、アメリカさんにはわかっていたんですよ。出て来い出て来い、といっては手榴弾を投げていましたが、毛布なんか布団なんかでいつも防いでおりました。

 

そうして最後になって六月の十八日に壕から出て、そうして、捕虜されました。捕虜されたのはいっしょでしたね(同席の神谷さんへ呼びかける)。伊良波へつれられて行って、わたしは防衛隊であるということで引き離されて金網の中に男ばかり入れられて、神谷さんたちは家族といっしょで、別べつにされました。

 

壕内の自爆の話は、この方もいっしょでした。榴弾は二人七発ずつ持っていました。榴弾はいくらでも手に入りました。

 

神谷英一 (十八歳) 第三次防衛隊

18歳の防衛隊員

われわれが召集されたのは二月の下旬、二十六日だったと思うんですが、旧兼城村の潮平の南東の山に陣地があったが、そこに集結したんです。最初は「球」だったと思うんですが、はっきり記憶はないんです。そこに十日間いたがわたしは伝令勤務でした。第三次防衛隊がこの山の陣地に集結したが、防衛隊で伝令はわたしと他に一人と二人だったんです。よく師団本部の与座岳へ行きおったんですが、真栄里へも行ったり、宇江城へも行ったですが、また兼城へも行った。そこに十日くらいいて、それから東風平村の世名城へ。そこでもやはり伝令勤務でしたが、そこには三、四日で、それから豊見城村の長堂です、向こうには弾薬倉庫があって、その配布係り6で各部隊から取りに来たですよ。それでわたしは弾薬の分配ばかりしておったですが、そこには一か月半くらいいました。

 

艦砲が始った頃は、そこにいたんですが、激しくなってからは、昼は弾薬運びに来ない、またあまり夜が更けてからも来ませんが、運ぶのは輜重隊の兵隊で、兵隊といってもすべて防衛召集されたあたり前の民間人ですが、馬に荷をひかして来ますが大抵は二人で一組でした。暇の時はわたしらも小隊といっしょになって第一線に運んでいました。

 

首里の戦線から下るという情報で、あなた方も南部の方に下りなさい、という命令があって、南部へ下りましたが、その頃負傷兵が喜屋武をさして下りおったんですよ。歩いてです。びっこ(ママ)を引いて行くのもあるし、人の肩に摑って行くのもあるし、その頃、自力で歩けるものは下れという命令があったそうですがね。うちらの壕にも、歩けなくて助けてくれと来るのもおりました。五月の十五、六日から、引っ切りなしに下っていました。うちらが向こうから去ったのが五月の末だったと思うんですが、東風平廻りでした。東風平へ行く途中、道を通りながらですね、坐って部隊が休んでいるような形でしたが、そばへ行くと坐ってはいるが、死んでいるようなそういった兵隊も絶えず見ました。

 

それでわれわれは、世名城の旧陣地に帰って来て、四、五日いたと思うんですが、そこでまた、真壁村の伊敷に集結するようにという命令が下りました。世名城に帰って来てもわれわれが入る壕はなくて、小さい壕をさがして入っておったんです。その頃は住民が壕にいっぱいしていました。あの頃までは、住民が世名城にもいました。それでわれわれが、首里は撤退して兵隊も下るので南へ下った方がいいと伝えましたが、住民の方でも聞いていたようでした。われわれが南部に下る一日前と思うんですが、アメリカの空輸部隊ですか、東風平に、食糧など落しているのをよく見ていたですよ。その日にアメリカの兵隊に世名城が占領されたというので、わたしたちも部落内の小さい壕にいたんですが、そのまま逃げて行ったんですがね。

 

伊敷へ下る時、山崎という分隊長、伍長でしたか、いっしょに下りましたが、自分の部落を通りますので、うちに寄って家族にあいましたら、ゼンザイなんかをつくって、いっしょの防衛隊も食べたりしました。その頃は、まだこの辺は艦砲も大して来ませんでした。伊敷へ行って見たら、どこへ集まるのか、集まっていないのもいるといったぐあいで、ちりじりになっているんです。われわれを引率して行った兵隊もどこへ行ったかわからないんですよ。それでその翌日、部落へ帰って来たんですよ。

 

自分の部落に帰って、家族と同じ壕に入っておったら、部隊からさがしに来ているんですよ。それは国吉に集結せよというのを伊敷といって間違っていたらしいんですね。自分等の部隊が国吉の後の三四七五部隊の伊藤部隊というのですがね、行って見たら防衛隊が相当集まっていました。伊敷へ行っていたのが、そこへ来ていたんです。

 

自分はそこでも伝令勤務を命じられていましたが、伝令勤務中に、胸部を負傷して、倒れてですね、それで病院へつれられて行って、それから後は、兵隊のそうした勤務にはつかなかったわけですがね。その負傷したのが六月十二、三日ですが、病院といっても、部隊の医務室です。迫撃砲で胸部をやられたので担がれて行ったんです。

 

国吉には軍の手持ち米が置いてありましたが、それをアメリカに燃き払われて、防衛隊が食糧を苦面しました。いくらか米が部隊にありましたので、それを少しずつ食べるのですが、それは鶏の卵くらいの握り飯を一日に一個ずつで、わたくしも働くことはできませんでしたが、一個ずつ貰って命をつなぐことができました。それはとてもみじめなものだったんです。

 

部隊長は、仕事のできないわたしのような負傷者は、ほんの鶏卵くらいの飯も惜しかったんだと思います。拒介者扱いで壕の奥のジメジメしたところにいさせられていましたから、寒くて堪えられませんでした。着るものもない裸みたいなものですから我慢ができなくて、食糧あさりに行ったみんなが帰るまで、炊事場へ行って火に当っていました。それで炊事班長なんか、あなた方は何もできないのになぜここに来るか、何かさがして自分で食べたらいいではないかということもありました。

 

それで扼介者扱いされてここにいても仕方がないから、という判断で、わたしの友人がいっしょですよね。こっちから出て自分の部落へ行こうということを話しあいました。この人は旧兼城村出身で商業学校を出ていましたが、いっしょに出たわけです。それが八月の初旬だと思うんですが、その頃からそういう話が出ていたんですよ。日本は沖縄戦で負けているから、食糧もないから二、三名ずつに行きました。

 

組をつくって、国頭へ突破しなさい、という命令ではないが、そういうふうに話があったんですよね。それで自分等は、そんなことなら部隊から出てもかまわないだろうと出たわけです。


それから、部落へ行ったらお父さんやお母さんたちがいるだろうと思って行ったんですが、部落に行ったら誰もいないんですよね。兼城の人も自分の部落へ帰って、わたしはわたしの部落に帰ったんです。結局この大湾さん(同席)の東がわに防空壕があるんですがね、食べ物をさがして生きようという考えであったと思うんですが、食い物をさがして食べたんですよ。

 

山からこっち来るまで、兼城の人は怪我といっても大したことはなかったんですが、わたしは胸部をやられているので、呼吸が苦しかったもんですからね、部落の裏で距離にすればいくらもないですが、せいぜい二百メートルくらいですが、向こうから陣地を出たのが夕方の日が暮れてじきでしたから時間はまだ早いんです。ところがこっち来るまでは、明け方の四時頃になっていた。休み休み歩いて、山も道という道もないんです。元気な場合なら十分もあればいい距離です。
それで壕へ行ったら、一升瓶に水も詰めてあるし、また砂糖もある、自分で飯を炊いて食べるという考えもないわけです。昔芋でつくった澱粉があったですね、これが防空壕にある。わたしは、来て四、五日は、この澱粉と砂糖に水を入れてかき交ぜたのばかり食べて、そのほかには何も食べませんでした。自分で物を煮て食べる気力もなかったんです。

 

それから四、五日ばかりしたら、大庭軍曹という方がたが三名、わたしをさがして来て、この方がたも国頭へ突破するという考えであったんですが、この方がたが来た翌日、アメリカ兵が来て手榴弾投げ込んで、一人は怪我しました。その時大雨が降ったので米兵は帰って行きました。大庭軍曹がたは、三日ばかりして出て行かれて、わたし一人だけ壕に残っていました。

 

雨が降って今までいた壕にいられなくなったので、部落の北がわの他の壊へ移っていたら、そこへ与座の青年が来て、二人でいたら高射砲隊にいた中尉がやって来ました。この人は片手がなかったが、この三名でいると、われわれの伊敷隊の兵隊で、国頭へ突破しようとしたのが米軍に捕えられた。それは宣撫班になって来て、日本は負けて、降服しているから、兵隊も民間人もみんな出なさい、とスピーカーで呼ぶんです。また夜になったら、みんな壕から出て連絡もできました。それで八月二十九日にから出て捕虜になりました。

 

その時捕虜になった人はトラックの十五台でした。兵隊も民間人も、有名な大佐もいるという話がありました。

 

註、十七歳の少年兵であることで神谷英一さんの記事は特徴がある。

 

神谷シズ (二十九歳) 弾薬運搬、炊事

女性も弾薬運搬

はじめのうちは、部落の後で、壕から出て、昼は炊事をやって、米搗きなんかもして、弾薬運びは真栄里の方へ行ったり、照屋へ行ったり、激しくなってからは、高良の上というところにも弾薬運びに行きました

 

照屋の方から、国吉の後の方の壕へ地雷も運びました。弾薬運び地雷運びは、班長が、今日はどこに行きなさい、今日はあっちに行きなさいといって、軍の方から何人出なさいといって通知して来て、班長が命令して出るんです。

 

米搗きや炊事や弾薬運びは、長い間でした。わたしは子持ちではなかったので、いつでも作業や動員に出されました。それはいつからはじめたか日はよくわかりませんが、敵が後の山に来る筈といって、毎日やっておったんです。

 

真栄里へ行く時に照明弾が上って、取りに行くことができないで戻って来たこともありました。兵隊が首里へ行って艦砲が激しくなったから動員は休むようになりました。

 

神谷エイ子さんとはいっしょではありませんでした。捕虜になったのは、隣の壕でありましたが、いっしょではなくて、一日は後さきになって出ました。わたくしたちが先きでした。

 

弾を運んで来るところは、部落の後の山の中に持って来るんです。地雷は照屋の方から国吉の裏の穴の中へ持って行くんです。部落の小さい道のそばに穴がありましたので、それに持って来ては積んでおりました。

 

髙良の方での弾薬運びは、高良の近くから高良の方へ運んだんです。照明弾が上る時は、匐って、それが消えたら歩きました。

 

神谷エイ (二十八歳)

子どもを連れ、壕を追われて

わたしは十二月生れの、三か月になる子供と数え年三歳になる子がある。


子供と二人連れていましたから、御飯炊いて来たり、お芋を畑に行っ取って来たりする間は、この三歳の子供を隣りのおばさんに預けて行きました。四月頃だったですがね、兵隊さんが、激しくなったから、負傷兵がこの壕の中に入って来て、「お前たち子持ちは子供が泣くから出て行け」といわれて、追い出されました。この兵隊さんたちは、一人で三人は坐れるくらいの場所を取って、子供がいて泣いたら敵が来るよというて、出て行けと脅かしましたから出ました。こっちに脂も澱粉もお砂糖も置いてあるのを全部取られて、ここから追い出されたから、水とお砂糖を交ぜて炊いて食べるのを少しは持っていましたが、これが無くなってからは、水ばかり飲ましていました。昼は木の下や、個人の壕にいさせて貰ったりして隠れていましたが、この三つになる子供は、話はよく聞き分けてくれました。「お母さんといっしょにそとへ出ると命がなくなるよ」と話したら、はい、はい、といって昼中、このおばさんたちと遊んでいました。また夜になると恐いから、叱られても入って行ったりして、こんなにして辛して暮しておりましたが、大変激しくなってからは、「あなたたちが、こんなに入っては出たり、出ては入ったりしてはこっちに艦砲を撃たれるから、もう来ないようにしてくれ」といわれて、大変叱られましたが、叱られても夜なったらまた入って行ったりした。それで後は、「こんなにして生きるよりは三人共死んだ方がよいよね」といって木の下で泣いたり、個人の壕にもぐり込まして貰ったりしましたが、弾は一発も撃たれませんでした。

 

このように苦しい目にあいましたから、自分は、こんなにして生きているよりは、何か人のことを少しでもやって上げた方がいいと考えました。それで年老いて歩けない水の汲めない人には水を汲んで来て上げたり、またお産してお襤裸を洗えない人のお襤褓を洗って上げたり、怪我して、黄燐弾で撃たれたりした人のお粥を作って上げたりした。どうせ自分は死ぬんだからと思って弾の中を歩いたが、自分は弾一つ当りませんで、その時はまだ斥候が来ない間でしたからほかを歩いても捕虜には取られませんでした。

 

捕虜される六月になってからは、木の下に寝た。親類のおばあさんが、これは(子供たちが)穴の中に入れたら死ぬからといって、木の下に寝かしてありましたからこのおばあさんといっしょに寝ていました。弾は木の下にも人の家にも落ちましたし、国吉の後池には大変大きい爆弾が落ちておりました。家のそばに爆弾が落ちた時は親子三人土に埋められまして、わたしは生きているなとわかったが、子供二人は死んだものと思いました。しかし子供たちもなに事もありませんでした。このうちが無くなってからまた叱られても壕の中へ行きました(鼻声になる)。

 

兵隊さんたちは、お前たちのためにみんな命奪われるよ、とやっぱりいいました。食べ物も全部取られて無くなっていました。着物も隣りの防空壕へ行って取って来て着たりして、昼は出されてこんなにしてしていましたが、夜はまた恐いんですから入って行きました。

軍用犬に見つけられる

六月二十三日でありましたが、わたしは親戚のおばあさんに水を汲んで来て上げて、おばあさんは、まだ生れて半年しかならない赤ん坊はおしっこしたので裸かにして、手枕させて、寝かしておりましたが、軍用犬が来ました。お婆さんは、呼吸をしたら唆れるからと思って、じっとしていましたが、鼻のそばから被りている布を捲くって、ワンワン泣いたので、兵隊さんが拳銃をつきつけた。アメリカの言葉はわかりませんが、このおばあさんをお前担ぎなさいといって負わされてまた子供は抱いて、捕虜の列までおばあさんをつれて行きました。

伊良波収容所から古知屋民間人収容所へ

それから伊良波というところに行きましたが、この子供は伊良波で二日間裸で、そこにいた間裸です。それから山原の古知屋というところでも、この子供は三日間まる裸、自分も着けるものはない、後で米を配給するところへ行って、メリケン粉の袋を貰って、これに手が出るように穴をあけて、その中に入れて寝かした。「生きている子供のようにはないね」と思いました泣く)。この子供はもう駄目だと思いましたが、五十人余りの後にほんのちょっと、小さい罐詰の空罐に牛乳を貰って、飲ましてこの子の命は助かりました。また三つになる子も命は助りまして、今は三人家幸せでいます。お粥を食べさせていた子はほとんど亡くなりました。わたしがお褓を洗って上げた人は弾に当って亡くなりました。

 

主人は、八重山徴用で、やはり戦争のために亡くなりました。親戚のおばあさんも捕虜になってから亡くなりました。

 

ほかの方では昼は壕に隠れて、夜出て食さがしなどもしたようでありますが、国吉は事情がちがいます。おじいさんやおばあさんなどが、家にいる方がいるんですが、家に爆弾が落ちて人が死んだところも多いので、夜そとにいるのは恐いのです。わたくしたちの壕は、兵隊に全部取られたので、隣の斑のに、夜になったら行くと、子供がいるのはわたくしだけだから、みんなが、子供が泣くと大変だからといって出て行けといわれるんです。そうして、食糧は全部兵隊に取られて、食べるものがないので、昼さがしに行ったんです。

 

その方はあちこち、大勢人が死んでいるので恐くて出て行けといわれても、また何とか言われると思いながらも壕へ行かねばならなかったわけです。

 

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