沖縄戦証言 東風平村

 

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

  • 五月下旬に軍から南部に下がるよう命じられている

 

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沖縄戦の経過南部

 

「南へ下がりなさい」

知念○○(十九歳)家事

私には一歳になる男の赤ちゃんがいましたし、母もお産したばかりでしたので、どこにも疎開せずに、家族みんな揃って、自分の家の壕に入っていました。

 

近くの上田原には、山部隊の佐久間大隊が駐屯していました。五月中旬から、米軍は上田原と東風平の小学校をめがけて、どんどん激しく攻撃していました。

 

そして砲弾の破片が、どんどん私たちの壕の方にも落ちてくるんですよ。それで、こっちの壕はもう安全でないから、島尻の方へ逃げようということになって、その準備をしていました。ところが私の母親は産後一週間でしたからね、この軀では島尻まで避難するのは無理だからね、どうしてもこうしても、自分の壕で最後まで頑張ろうかという話も出たんですよ。

 

私の父親は、軍属で、伊良波部落(豊見城村)の友軍の飛行場に行っていましたけど、むこうから夜道を歩いて逃げてきていました。そしてね、こっちにいたら危いから夜通しかかってでも逃げた方がいいよ、必ず避難しなさいよ、とすすめていました。私たちは、そのことよりも父の立場を心配して、部隊から逃げたと知れたら大変だから、......私たちは私たちなりに考えて移動するから、......と父に言ってね、父は諦めたように部隊に戻ったんです。それから五月下旬に、私たちは避難しました。着の身着のままで。

 

私は赤ちゃんをおぶって、小さい妹や弟たちの手を引いて、歩いて行くのが精一杯で、荷物はほとんど持てませんでした。

 

自分の部落から、小城部落の入口の長嶺ですね、そっちから夜道をずっと歩いて行ったんですよ。そしたら疲れが出てですね、ずっと島尻まで歩いて行けそうにもなかったので、どうしようもないから、自分の家の墓地に行きましたのよ。墓地に行ったら、そこには二人の叔父が来ていましてね、墓の中から、棺桶やら厨子鍋を出していらっしゃったんですよね。ああちょうど都合よかった、臭くても我慢して、ここに入ろうと思っている矢先にですね、友軍の兵隊がワッサイワッサイ押しかけて、明日からここは戦場だから、こっちにいてはいけない、疲れていようが、どうにかこうにかして、南へ南へずっと下がりなさい、と言うんですよ。

 

私たちは子持ちで足もくたくたになって、歩けないからね、こっちが最後だと思って、もうどこにも行きません、と言うたらよ、兵隊に強引に引っぱり出されて、歩け歩けされて、仕方なく私たちは、そこから夜通し歩いてよ、着いたところは、糸満の手前の照屋でしたよ。

 

私たちは照屋の部落の空家に一晩泊ってですね、それから夜が明けてから、また歩いたんですよ。落着けそうな場所を探して、糸満田圃道を通って、どこというあてもなく、ただ足が向くままにですよ。歩いて行きましたら、真栄里部落の方に出ていました。

 

そして真栄里の部落の入口に、大きな自然壕がありましたから、そこへ行ったら、避難民がごったがえしているんですよね。そこに無理して入れて貰って、またその上、私たちは見も知らぬ他所の人から、おにぎりを一個ずっ貰って、腹ごしらえをしましてね。ほっとして、ああここの自然壕は安全でいい所だね、そう思いつつ、そこに一泊二日したら、また友軍の兵隊がきて、ここは日本軍の壕だから、みなさんはもっと南へ下がりなさい、ここは安全でないから下がれ下がれ、と言われてね。

 

私たちはそこで散り散りばらばらになって、兵隊に言われた通り南の方へ下がって行ったら、急に敵の攻撃が激しくなって、眼の前に、もう艦砲射撃はくるし、上からは爆撃でやられるし、昼も夜も、ほとんど歩くことができませんでした。そしてあの家もこの家も、樹までも、真栄里部落一帯は燃えっぱなしでした。私はあっちに隠れたりこっちに隠れたりして、逃げ廻ったんです。

 

そして私の眼の前で砲弾が破裂して、爆風と一緒に土砂をたたきっけられて、顔一ぱい焼けた土がくっついて、一時は眼も見えなくなって、赤ちゃんは乳が出ないもんだから泣き通しでしたけど、その子の頭から背中からお尻まで、おできみたいに焼けた土がくっっいていたんですよ。私の顔にくっついた土は槍みたいになって離れないもんだから、仕方なしにそのままにして、あっちこっちに、石垣の隅や小さい壕に、塊っている人たちと一緒に隠れようと思って行くと、お化みたいな人、鬼みたいな人、とみんなから嫌われましてね。あんたたちはどうせ死ぬんだから、あっちに行ってちょうだい、と避難民に言われましてね。

 

私も、こうなったら、もう死んでもかまわない、この顔ではどこにも逃げられないし、子供は子供でよく泣くし、捨てようにも捨てられないし、諦めた気持で、もと来た同じ道に戻って行ったわけですよね。そのときには、八歳になる妹が、いつの間にか私の袖につかまって、ずっと泣きながら従いてきていました。

 

そして糸満田圃道の方へ、私はおぶっている赤ちゃんをあやしながら、妹をつれて、歩いて行ったら、薄暗い中にときどき照明弾でぱッと昼のように明るくなったとき、むこうの方にアメリカ兵が見えたんです。私は死ぬつもりでしたから、もう何もこわくなかったので、歩いて行ったら、アメリカ兵は何やら喋って、手真似でどこそこに行きなさい、というふうに、道を教えてくれたんですよね。この調子なら殺されないんだなあ、と少し安心して、その方向に歩いて行ったら、すっかり暗くなって、さらに歩いて行ったら、急に照明弾があがって、明るくなったとき、どこからともなく私は銃撃されたんです。そのとき私は左足をやられたんですよ。そこは田圃のすぐ側でした。私はそのまま倒れて、冷たく感じる足をさわってみたら血が流れていたんです。小銃の弾が壁を貫通していたんですよ。また妹は、顔から首にかけて、それから膝頭も、弾が貫通していて、二か所とも肉が裏返しになっていました。

 

私たちが倒れたままになっているとき、すぐにアメリカ兵が寄ってきて、私たちは応急手当を受けて、そのまま捕虜されてしまったんですよ。そこから、私たちは担架に乗せられて、潮平につれて行かれたんですよ。

 

むこうに行きましたら、重傷患者と軽傷患者とは、別々のテントに沢山の負傷者が入れられていました。そこで私たちは一昼夜いてから、水上戦車で、北谷の浜に運ばれました。私の足の傷はそれほど痛くもなかったんですけど、顔の方はヒリヒリ痛んでいました。

 

北谷の浜からは、呉屋の病院に移されました。そこの病院に何日聞いたか、はっきり憶えていませんけれど、間もなく私は杖をついて歩けるようになって、赤ちゃんをつれて退院しました。妹は重傷患者として、病院のテントに残っていましたけど、私はそこから美里へ行きました。

 

美里の部落は、ほとんど残っていて、一軒の家に何十人も館詰めになって入って、捕虜になった避難民が集団生活をしていました。食糧は、配給制度でしたけど、割合に豊富でした。私は呉屋の病院にいる妹のことがいつも心配になって、毎日のようにおかゆを炊いて、それを病院まで持ち運んでいましたよ。杖をついて、川端をったってよたよた三十分以上もかかって歩いて......。

 

美里から呉屋に通じる道を、毎日のように往復しているときですね、黒人兵三名がですね、とつぜん山の中から出てきて、私の前方を歩いていた若い女の人を、さらって行きましたよ。一人の黒人兵がさっと担いで、二人の黒人兵は後からゆうゆうとついて行くのを、私は見てハッとして、後ずさりして引返して逃げたことがあったんですよ。あのときは、あッという間の出来事で、他の人たちも散り散りばらばらになって逃げていました。さらわれた若い女の人は、叫ぶこともできませんでしたよ。

 

それから、その翌日、私は妹のことがひどく気になって、やっぱりおかゆを持って、呉屋の病院に出かけたんですよ。そしたらね、妹がいつものテントの中にはいないんですよね。たしかこのベットだったが、どこに移されたのかね、同じベットに寝ている重傷患者に訊いても返事がないので、私はしょっちゅうそのへんをうろうろして、看護婦に訊いてもはっきり教えてくれなかったんですよ。私はそのとき、妹はもう死んだかもしれないと思うようになって、裏の山の、病院の墓地に行きましたのよね。

 

そしたら墓地に、妹の名札には七七が四つ並べて書かれていましたから、よく覚えていましたけど、その番号札があったんですよ。

 

そこの墓地ではね、毎日何人もの死体が運ばれてくるんですから、沖縄出身の男の捕虜が四、五人働いていました。死体は運ばれてくる順序に、穴を掘って、大人なら五名、子供が混じっているときは六名か七名ずっ、穴の中に担架からばっくり放り投げて、埋めてね、番号札を立てた棒にかけていましたからね。私の妹の番号札は、昨日死んだところにあったんですよ。私は糸満で妹と一緒に死にそこなって捕虜になってきましたからね、妹のことが不憫で、死んだと思うと悲しくてですね。私はその墓地に夕方まで坐っていましたよ。そこは山ですからね、風で、番号札がじゃらじゃら淋しい音を出すんですよ。番号札は一本釘に何枚か束になってかけられていましたからね。

 

夕方、私が墓場に坐っているとき、一人淋しい思いで、昨日来ればよかったのに......と嘆いても、誰も慰めの言葉をかけてくれる人もいない。そこに来る人は、担架で死体を運ぶ人だけでね。私が坐っているすぐ側の穴の中に、死体が移されたときね、私ははッとしてそれを見て、びっくりしてね。見たら、穴の中に俯せになった大きく脹れあがった死体なんですよ。そして次から次に、死体が運ばれて、運ぶ人は黙ってなんにも言わずに、穴に放り出すんですよ。

 

私は急にこわくなってね、夢中で病院の中に引返したらね、ちょうど私のシマ(部落)の小母さんと逢ったんですよ。現在の副区長さんのお母さんですね。その人は片腕がなくなっていましたよ。その傷口から、蛆虫がぼろぼろ落ちているんですよね。生きていて、蛆虫に噛まれるよりは、死んだ方がましよ、と小母さんはおっしゃっていましたよ。そしてね、あんたはどうしたの、と訊かれたもんですから、私はね、妹が首も膝も怪我してこの病院に入院していたけど、昨日一日欠かして来ないうちに、妹は死んだんですよ、と説明してね。私はその小母さんと、夜通し泣きながら、語り明かしましたよ。

 

その後も私は暫く、美里でくらしていました。配給物は、おもに豆の罐詰でね、その他に集団で掘ってきたイモが沢山ありました。甘藷は皮もむかずに、ドラムカンで炊いて、キントンを作って、みんなに配っていましたよ。私は赤ちゃんを育てることで精いっぱいでしたよ。早くから捕虜になった人たちの中には、元気な人たちが多く、ほとんど作業に出ていました。女の人たちは米軍の洗濯の仕事をしていました。私の顔は、まだ焼けた土がくっついたままでした。周りの人たちは、こわがって、敬遠していましたよ。ですから、私は暇をみて、顔にくっつぃた瘡の皮を一と皮一と皮すこしずつ剥がしていったんですよ。そうするうちに、ヤケドの跡みたいに白くなって、次第にもと通りになったんです。

 

その後、私は赤ちゃんをつれて、玉城村の船越に移り、そこで落ち着くようになりました。母は、真栄里からまったく別の道を歩んで、つれていた弟を死なせたものの、無事でした。父は戦争に参加して、とうとう還ってきませんでした。私の主人は佐世保へ入隊していましたけど、むこうに居付いて、戦争が終った後も、帰ってきませんでした。

 

南部に追われて

伊良波○○〇 (二十歳) 家事

私は当時、結婚していましたけれど、主人が現地召集で入隊した後、子供ができてないもんですから、シュウトメさんから実家に帰されたわけなんですよ。

 

部落の近くには、山部隊がいましたから、子供のいない若い女性はみんな、軍の作業に出されて、私もそこへ毎日壕掘りに出かけました。

 

私の家には父がいなくて、母が大黒柱で、私のきょうだいは六名でした。一番上の姉は結婚していましたけど、二番目はまだでした。三番目の姉は、仏印従軍看護婦として行っていましたけれど、昭和十九年の十二月二十五日沖縄に帰ってきて、当時は、山部隊に勤めていました。二番目の姉も軍にかり出されていましたから、実家にいたのは、母と私と妹と一番下の弟の四名でした。

 

そして米軍が上陸して後、艦砲射撃が烈しくなった頃、友軍の蟻掘り作業は中止になりました。それで私たちは、最初は叔父さんの家の壕に入っていましたけれど、後で防衛隊の小父さんたちに加勢して貰って、自分の家の屋敷内に壕を掘って、そこにずっと閉じこもっていました。

 

前線が首里あたりに来ているということで、五月の下旬に、南風原の小学校が陸軍病院なっていましたから、そこの軍部から、住民は南部へ下がるよう命令がありました。また陸軍病院の兵隊たちも下がりはじめたんです。そしたら私たちは、一番上の姉が高嶺村の真栄里部落に結婚して行っていましたから、あんまり砲弾が激しく飛んで来るもんですから、真栄里に避難しようときめて、母を中心に出かけて、最初は小城の自分の家の墓地に行ったんです。

 

そこへ行ったら、中頭の人たちが私たちの墓の中にあるものを全部出して、自分たちのもののように中に入っていたんです。だから、やむをえなく、いよいよ家も墓も捨てることにきめて、一たん家に帰ってきて、食糧やら生活必需品やら、いろいろと荷物をまとめて持ってですね、そして南部へ向かったんですよ。東風平(同字)を通って、志多伯部落に入ってですね、志多伯から与座に出て、そして国吉に出て、国吉から真栄里に行ったわけなんです。

 

家を出るときは朝でしたけど、途中で艦砲が激しくなって、隠れながら歩いて、夕方頃になってやっと真栄里の近くまで来ていました。途中、あっちこっちに兵隊や住民の死体が転がっているのを見ました。姉と妹は友軍と一緒に新垣の壕に行っていたそうです。

 

私たちが、弟と母と三人で、真栄里部落に着いたじきは、砲弾はそれほど激しくなかったもんだから、一番上の姉の嫁いだ家を探したんですけど、判らなかったので、最初は他所の空家に入っていました。それから二、三日したら、激しい攻撃を受けるようになったんです。私たちはやっとのことで自然壕を見つけだして、そこに大勢の人たちと一緒に入っていたんです。それから四、五日したら、友軍がきてですね、ここは兵隊が使うから避難民は出ろ、という立退き命令があって、大騒動になったんです。

 

土地の人たちは、自分たちの部落の自然壕だから、ここから出て行くあてもないから、出ない、と頑張ったらですね、兵隊は日本刀を抜いて振り廻して、みんなを追いちらすもんだから、やむなく、避難民はみんな追い出されたわけなんですよ。

 

それから私たちは、近くに、貧弱な小さい壕を探して、そこに四、五日入っていました。小さい穴に、ぎっしり四、五十名も入っていたと思います。そしたら、またも友軍がきてですね、十名あまりの兵隊が押し入ってきて、避難民は邪魔だから出ろ出ろ、と言っていました。でも、そこから出たら非常に危いので、みんなどうされてもいいと思い、どうしても出ようとしないもんだから、兵隊たちは仕方なく私たちと一緒に館詰めになって入っていました。

 

壕の中では、小さい子供たちがひっきりなしに泣いていました。子供が泣くと、敵は電波で探知して、艦砲射撃の目標にする、というわけで、兵隊たちは、子供を泣かすな、泣く子は殺してしまえ、と言っていました。とくに赤ちゃんは、母乳が出ないもんですから、しょっちゅう泣いていました。すると兵隊が母親に向かって、口にタオルでも押し込んでおけ、と怒鳴っていました。今にも殺しかねないほど兵隊たちは怒っていたので、みんな子供を殺されるよりは出た方がいいということになって、その壊から避難民はみんな出て行ったんです。

 

そこから出て遠く行かないうちに、私たちは中頭の叔父さんたちに逢ったもんですから、その叔父さんたちの力をかりて、畑の横の岩の側に、簡単な壕を掘って貰ってですね、一時凌ぎに私たちはそこに入っていたんです。ただそこでは、水がなくて、水に困ってですね。ちょうど静かになった朝方、うちの母がですよ、姉の家を探して水を貰ってくると言って出て行ったんですよ。ところが、いっまでも帰って来ないもんだから、私が迎えに行ったんです。そしたら、急に艦砲射撃が始まって、あんまり激しくなってですね、私は母を見つけたんですけど、二人とも帰れなくなったんですよ。私はやっと母の側まで行って、一緒に石垣の陰に隠れていたんです。そのときに、砲弾の破片で、母は足を切断されてですね、倒れていました。出血がひどいだけで、痛がりもしなかったんです。

 

三十分ぐらいしたら、母は痛がって悲鳴をあげていました。そこへちょうど友軍の衛生兵が逃ながらやってきたので、母の怪我を見て貰ったら、大腿部だから放っておくと出血多量で死ぬから、応急手当をしようと言って、母の太腿をきつく縛って下さったんです。ところがその衛生兵もすぐ胸のところを破片で怪我なさってですね、這って逃げて行きました。近くで隠れていた三、四人の避難民の中の一人は、お腹をやられてですね、内臓がゆるゆるととび出してですね、それでもどこかへ逃げて行きましたよ。みんないなくなって、私と母だけがそこに残っていました。

 

何時間か経って、艦砲が鳴り止んだ頃、中頭の親戚の人たちが、様子を見にきました。そしてみんなで母を壕にかついで行ったんです。母が怪我をしたのは、朝の十時頃でしたけど、母は夕方五時頃に、とうとう息をひきとりました。それで、夜になってから、みんなで畑の中に穴を掘って、母の遺体を埋めましたよ。

 

その翌日も、そこには艦砲かどんどん落ちてきて、私たちの向かいにあった壕は、直撃を受けたんです。そこに入っていた避難民の二人は、その場で即死、あとの人たちはみんな怪我していました。私たちは危険を感じて、その夜、そこを出たんです。そしてあてもなく歩いてですね、砲弾の中を逃げ廻って、着いたところは、真壁部落でした。

 

真壁の小学校の前に出たら、友車の荷馬車がありましたから、その下に隠れていたらですね、兵隊が出てきて、これには砲弾が積んであるんだよ、あんたたちはふっとばされてしまうよ、と言われて、そこからまた私たちは夜通し歩いて、糸洲・小波蔵という部落に行きました。「そこにきたら、静かな朝でした。民家もところどころに残っていました。私たちは、その中の空家に入っていたんです。気がついたら、一人の兵隊がその家の隅で怪我して倒れていました。両足の傷口から蛆虫がわいてですね、その兵隊は苦しそうに、私たちに包丁をかしてくれ、って叫んだんです。それで私たちは怖わくなって、その家から逃げ出して、山の方へ行ったんです。

 

山の中に行ったらですね、怪我人が大勢いました。みんな瀕死の状態ですから、私たちはまた怖わくなって、そこからも逃げ出してですね、あてもなく夢中で歩いて行ったら、摩文仁の海岸に出ていたんです。

 

マブニの浜の上には、アダンが繁っていて、私たちはその中をくぐって歩いて、岩の多い砂浜に出ました。そこの大きな岩の下に、穴を掘って、隠れていました。もうそのときには、荷物はほとんどなくなっていて、持っているものといえば、脛節と確入りミルク一個でした。そこに一日いるうちに、艦砲がとんできて、中頭の叔父さんが脇腹をやられ、肋骨がなくなって、二時間ぐらいしてから死んだので、私たちはそこを出て、またアダンの中に入ったんです。

 

「アダンの繁みの中には、友軍が掘ったタコ壺があっちこっちにありましたけれど、そこはなんだか危いような気がして、ずっと歩いて行ったら、今の「健児の塔」の下のところに出ていました。そこの岩の下に、また一日いて、私たちは海岸線ったいに具志頭の方に行くつもりで、海の中を歩いて行ったんです。そこの海は、波打際でも、凸凹で、浅いところがあって、深いところに嵌まりこんだりしながら、夜通し歩いてですね、夜が明けると、少し引返して、艦砲射撃をさけて岩の下に隠れ、夜になったら海岸線を歩いて行って、具志頭村与座の海岸、ギーザバンタですね、あそこに出たんです。

 

ギーザバンタには、死体があっちこっちに転がっていました。ただあそこには、水が岩の間から流れ落ちてくるところがあるんですよ。そのへん一帯には、岩の下あたりに穴を掘った壕や、小さい自然壕があって、避難民と友軍の兵隊がいり混って入っていました。ギーザバンタは、最後のどんづまりの地点で、眼の前の海には敵の軍艦が待ち構えていました。「私たちがその壕にいるとき、一緒にいた一人の兵隊がですね、沖縄人がスパイを働いたために、この戦争はこんなに無残な負け方になったんだ、と言って、気がおかしくなったみたいに怒って、沖縄人は小銃でみんな撃ち殺してやる、と騒いでいました。そしたら、ある小父さんがですね、沖縄人にスパイがいるもんか、友軍が必ず勝つ勝っいうもんだから、わしらもこんなに苦労してきたんだ、どれほどの沖縄人が犠牲になっているか、知っているのか、お前が撃ち殺したいなら殺してみろ、と言い返したんですよ。

 

すると兵隊はね、小銃の木のところで、小父さんの顔を撲ったんですよ。それから、二人はとっくみ合いになったんですよ。そしたら、兵隊たちは、私たちに危いから早く出なさい出なさい、と言い、女子供はみんなそこから逃げて、近くの岩の間に隠れて見ていたんです。そしたら横から別の兵隊が出てきて、とっくみ合っている二人を分けて、戦争に追い詰められたからと言って、避難民をいじめるお前こそ悪いじゃないか、と言って暴れた兵隊を叱っていました。

 

その喧嘩が終ってから、午後時一か二時頃に、海の方のアメリカの軍艦から、「デテコイ、デテコイ」と呼びかけるんですよ。拡声器で、安心して捕虜になった方がいいというようなことを説明していました。ところが私たちは、捕虜になったら米軍に殺される、ということを、兵隊たちから聞かされていましたから、避難民は誰も出たがらないんですよ。

 

そのうちに、喧嘩していた兵隊も他の兵隊たちも、突然、何もかも脱ぎ捨てて、フンドシも取って裸になってですよ、出て行ったんです。だから私たちは、唖然として眼をぱちぱちさせていました。それから夜になって、避難民のほとんどは穴から出て、座をよじのぼって、上の方に出てみたんです。そこは原っぱになっていて、すぐ近くには、小さい松林がありました。その松林に、私たちは入って、歩いたら、そこに米軍の電線がいっぱい張られているのも判らないで、足にひっかけてしまったんです。そしたら、急に前方の火焔放射器から火がとび出して、私たちの方へ追っかけてくるし、機関銃の音も聞こえて、大変なことになったんです。一緒だった小父さんは足をやられ、女の人は腕をやられ、助ける暇もなく、私たちは森の中へ逃げました。森の中に、小さい壕を見つけて、私たちは軀をくっつけ合ってその中に入ったんです。なんだか非常に臭かったんですけどね、生きたここちもしないで、ずっとちじこまって入っていました。機関銃の音はいつまでも止まらないんですよ。

 

とうとう夜があけて、静かになって、それでも私たちは(六名でしたけど)そこにじっと座っていました。外は小雨が降っていました。すると、遠くの方からアメリカ兵がこっちに向かって歩いてくるのが見えました。アメリカ兵は、雨ガッパを被って、小銃を脇にかかえて、こっちに近寄ってくるんですよ。そこには、若い女は和ともう一人いましたけれど、もう怖わくなって震えあがってですね、私たちは男の人たちの背中の方にかがんで隠れていたんです。そしたらね、男の人たちが、あんたたちは心配しないで笑顔を作って先に手を揚げて出て行きなさい、さ、早く出て行きなさい、とすすめるんですよ。でも私たちは、とても怖わくてじっとしていたら、しまいには、いたたまれなくなって、十七歳になる男の子が、真っ裸になってですよ、持っていたタオルを旗のようにしてですね、壕の前に出て行ったわけなんですよ。

 

二人のアメリカ兵は、私たちの方に小銃を向けて、覗いていましたけどね、すぐ小銃を上に向けて撃って、また地面に向けて撃ってから、デテコイ、デテコイするわけなんですよ。そしたらね、男たちが先になって出て、私たちも後につづいて出たんです。

 

まだ少し薄暗かったんですけど、明るくなるまで、私たちは壕の前に立たされていました。アメリカ兵は、まだ壕の中に人が残っていると思っているらしく、ときどきデテコイ、デテコイと叫んでいました。そして、すっかり明るくなって、壕の中をよく見たら、五名ぐらいの兵隊たちが塊って死んでいたんですよ。そのとき気がついたんですけどね、それらの死体の上に坐っていたわけですよ。非常に狭い壕でしたから、死体の上に坐らないと、坐る場所はなかったんですよ。

 

それから私たちは、アメリカ兵につれられて、キビ畑の上を戦車が通ったらしく、平坦になったところをずっと歩いて行ったら、テントのあるところに来ていました。テントの前に、私たち六名は、しばらく立たされました。裸になった十七歳の男の子は、くる途中で拾った着物をつけていました。それから一時間ばかり同じ場所に休憩していたら、四名の捕虜を、別のアメリカ兵がつれてきました。その人たちは、食糧やら食器類やらいろいろの荷物を持っていました。私たちは全く手ぶらでした。

 

そのうちに、アメリカ兵がコーヒーやらミルクやら飲み物をもってきてくれました。私はもう命だけは助かると思っていました。捕虜はだんだん殖えて、四、五十名になっていました。そこへ、戦車が四台きました。ジープもきて、ジープに乗っていた通訳が、私たちに、あんたたちは何も持っていないようだけど、後で困るから、今のうちに壕から鍋や釜を拾ってきた方がいいよ、と教えてくれました。そしたら、私の弟が急いで行って、飯盒を探して持ってきました。

 

それからアメリカ兵は、男と女を別々に分けましたよ。男の人たちは、戦車でひき殺されると思って、おびえていました。そして私たちに向かって、女子供はアメリカーがつれて行ってどんなことをするかわからんぞ、とおどかすんですよ。そうするうちに、アメリカ兵たちは戦車から降りてきて、男の人たちばかりを裸にして、身体検査をしました。それが終ると、通訳を間において、兵隊だったか、防衛隊だったか、避難民だったか、いろいろと質問していました。男の人たちは、みんな避難民だと頑張っていましたよ。その中には、兵隊や防衛隊も混っていましたけど、みんな嘘をついていたんですよ。

 

夕方近く、五時すぎに、その広場の前の岩のむこうから、日本兵の斬り込み隊が、突進してくるのが突然見えたんですけど、すぐアメリカ兵が機関銃で撃ち殺してしまったんです。それから、国頭に突破して逃げるつもりで海にとびこんだ五名の日本兵が、つれてこられました。その中に沖縄出身の兵隊がいて、私たちに向かって、あんたたちはアメリカ兵につれて行かれて大変なことになるよ、今のうちに死んだ方がいいよ、と言うんですよ。「夕方になって、アメリカ兵が食べものを沢山持ってきました。配られても、避難民は毒が入っていると思って、なかなか食べようとしませんでしたけれど、兵隊たちは、ぜんぶぱくぱくがめつく食べるんですよ。その様子を見て、なんでもないと判って、私たちも安心して食べたんですよ。

 

六時頃に、みんなはトラックで具志頭の小学校に集められました。そこには、何百人という大勢の避難民が集まっていました。私たちは具志頭小学校に一泊して、そこから富里に移されて、二泊してから、歩かされて百名の原っぱにつれて行かれ、百名に一泊、その後、佐敷村の富祖崎という部落に一か月間ぐらいいました。富祖崎は戦争の痕跡がなく、家も畑もそのままでした。罐詰とカンパンだけの配給で、避難民は農業をしても、大勢でしたから、食糧難でした。

 

それから避難民は一括に馬天港からアメリカの船に乗せられ、国頭の大浦湾に送られたんです。大浦湾の長崎ですね、そこから大川(久志村)に移されました。大川というところは、食べ物が何もないんですよ。米軍の配給といったら、赤いザラザラした砂糖だけでした。砂糖は飯盒の蓋一杯が一人分でした。砂糖と水だけですから、みんな下痢をして、栄養失調になって、痩せこけていましたよ。山にあるフーチバーや野草などを取って食べていました。あそこは大へんなところでした。山の側にテントを張ってあるんですけど、テントの側までカラスが来るところなんですよ。年寄りや子供たちは、つぎつぎと死んでいました。

 

私と弟は、そこに一か月いましたけれど、これ以上いると、死んでしまうというわけで、そこから山道をずっと歩いて、金武村の惣慶にいる親戚の人を頼って、行ったんです。

 

惣慶に行ったら、シマ(部落)の人たちとも逢いましたし、米や罐詰の配給もありましたから、どうやら落着くようになったんです。私のきょうだい六名のうち、生き残っていたのは、三名でした。私は弟とずっと一緒でした。

 

「一番こわかったのは、友軍の兵隊

長嶺〇〇(三十三歳)家事

戦争当時まで、私たち夫婦は、兼城村の座波の小学校の前で、「そば屋」をしていました。

 

沖縄戦が始まりかける頃、近所に駐屯していた伊藤隊の隊長が、あんたたちは軍に食べものの協力をしなさい、と命令されましたから、私は部落のあちこちの家から、イモクズ(澱粉)を一合か二合ずつ集めて、それで餅を作って、軍に出したりしていました。

 

たしか五月の上旬頃、空襲や艦砲射撃の状態から私たちは危険を感じて、すでに米軍が上陸しているのも知らずに、国頭に疎開しようと思って、その準備をしていました。そこへ友軍がきて、あんたちが山原に行くのなら、ちょうどわれわれの部隊も十九日に嘉手納に戦に行くことになっているから、あんたたちを二十一日に軍の馬車でつれて行ってあげるから、それまで待っていなさい、と言っていました。

 

そして十九日には、伊藤隊は部落から引揚げて行ったんです。ところが二十一日になっても、友軍は帰ってこないんですよ。二十三日になってから、北海道出身の中村という兵隊が馬車をもって来ていました。その兵隊がいうことには、もう疎開は遅すぎる、山原につれて行くことはできない......というんです。島尻に踏みとどまる他はないので、壕を掘ることが先決だから、あんたたちの親戚の山に壕の掘れるところはないか。と訊かれて私たちは、小城に兄弟の山があります、と答えたら、じゃその山に壕を掘りなさい、馬車一ぱい松の木をあげるから......と言うことになったんです。

 

私たちは兵隊と一緒に小城に行って、親戚の人たちの協力で、山の中に壕を掘ったんです。そしてその壕に、私たちは親戚の人たちと一緒に、十八名あまり避難していました。兵隊たちの壕も、近くに掘ってありました。五月の下旬、その壕に入ってから間もなくして、すでに敵は首里まできているという噂がある頃、友軍の命令がありました。そして、小城部落から十一名の男の人たちが首里の方まで弾薬運びにかり出されたんです。出かけて、翌朝、生きて帰ってきたものは、三名でしたよ。一人は手足から全身傷だらけでした。その日から毎日、兵隊や防衛隊の怪我人がつぎつぎと、この部落にどんどん入ってきたんです。そして怪我人の話から、前線が、首里からだんだんこっちの方へ近づいてくるのが判ったんです。

 

六月二日に、私は知り合いを頼って、座波に壕を探しに行ってみたら座波の方も、島尻の方へ避難するといって騒いでいて、壕もなかったので、また小城に帰って、不安ながらもとの壕に入っていました。砲弾が激しくなって、昼中は外にも出られず、御飯も炊けなかったので、壕の中に閉じこもっていました。麦粉(炒った麦を粉にしたもの)に砂糖と水を入れて、粘って、それを食糧にしていました。

 

ある日の夕方、怪我した兵隊たちが壕に入ってきていました。一人は顔半分怪我していました。何やらしきりに言って、口も歪んで声がもれて聞き取りにくかったけれど、よく聞いたら、何日も何も食べてない、と言っていました。その声が、キュウキュウ空気の抜けるようなへんな声だったので、私は思わず笑ってしまって......。笑ったら、その兵隊は怒って、何やら、苦しそうに喋って、また別の兵隊に、私はさんざん怒られましたよ。あんたそんなに笑ってる場合じゃないよ、今日死ぬか明日死ぬかの世の中だよ、子持ちのくせに、なんで疎開しないで、そんなところにいるのか、と怒鳴りつけられたんですよ。私は悪かったと思って、すみませんすみません、と詫びたんです。それから、その兵隊たちに、馬肉の味噌漬があったから、食べて下さい、と出したら、顔半分怪我している兵隊は、馬肉を手で口の中へむりやりに押しこんで、もぐもぐ食べていました。こんなにしても、生きれるかな、と私は思いましたよ。

 

それから二、三日したら、敵はもうすぐ近くの、クシバルのアカミチャーまできているという話でした。もうその壕にもいられないと思って、私は主人と二人で荷物を壕の前に出してはみたものの、五名の小さい子供たちをつれて行くことができないので、どうしようかと途方にくれて、坐っていました。そしたら、主人の兄さんがきて、あんたたちは死ぬ覚悟ができているかもしれないが、この小さい子供たちが死ぬのをただ見ておれるのか、さ、元気を出して逃げよう、と言って、次男(六歳)をおんぶしてくれたんです。それで主人は荷物を持てるだけ持って、私は三女(二歳)をおんぶして、次女(四歳)の手を引いて、家族みんなで逃げて行ったんです。座波のところまで行って、あっちこっちの蝶に逃げ隠れするたびに、四歳になるタマ子(次女)がとても泣き虫で、しきりに泣くもんだから、兵隊からも避難民からも、みんなからその子のために嫌われて、兵隊からは、その子のためにみんなを犠牲にするつもりか、と叱られ、その子は殺せ殺せ、と言われてよ。

 

大城にも行ってみたんですけど、あっちは砲弾があんまり激しくって、一晩泊っただけで、すぐ引返して逃げたんです。大城では、私は子供たちと一緒にシンメー鍋を頭から被って、他所の薪小屋に隠れていました。そのとき、部落のアンマーは門のところから、私たちを見て笑って来ながら、すぐ倒れて、行って見たら、眼に小さい破片が入っているだけでしたけれど、病死したみたいに死んでいました。またそこでは、主人の兄さんがおんぶしていた私の次男も、破片で死んだんです。

 

もう私たちの部落には、アメリカ軍がきているという話だったから、私たちは、昼はキビ畑の中か小さい壕に入ったりして、夜歩いて、自分の家の墓を探しに、阿波根に行ったんです。

 

ところが行ってみたら、私たちの阿波根の墓には、他所の人たちが奇麗に掃除をして入っているんですね。兵隊も入っていました。そして、もう誰も入れない、というんですよ。私は、この墓の主は私たちであって、親ファーフジ(祖先)からの墓なのに、あんたたちの勝手じゃないでしょう、と抗議したんですよ。そしたら兵隊が、あんたたちが味噌をくれるのなら、入れてあげよう、というんですよ。それじゃ今晩、部落に行って味噌を持ってきてあげますから、と約束して、一応入れて貰って、それから夜中に部落に行って味噌を持って帰ってきたところ、墓の横の方から、小銃の音がするんですよ。そのとき、一緒にいた西原の人が、弾が横から飛んでくるときは、敵がすぐ近くまで来ている証拠だよ、と教えてくれたから、私たちはそこからすぐ逃げて行ったんですよ。

 

それから兼城を通って、チャン(喜屋武)まで行ったんです。そこまでの道のりは、砲弾が激しくってですね。何度も、紙一重で死ぬところを、くぐりぬけてきたんですよ。そして喜屋武の、喜屋武城では、大勢の友軍の兵隊たちと一緒になって、ちょっとした建んだところや、岩陰に、隠れていました。

 

喜屋武岬は、もう南の果てだから、そこから逃げるとしたら、座をおりるしかないから、そこが本当に最後のところですよ。

 

海岸のすぐ上の、崖の岩の下の嫁に、兵隊も避難民も、小人数塊型って、隠れていました。私たちはそこの一つの壕に、一週間ぐらい入っていました。その頃、水汲みに行くときも、一番こわかったのは、友軍の兵隊でしたよ。子供が泣くと、兵隊が出てきて、子供を殺しやしないかと、大変こわかったですよ。兵隊に殺された話も聞いていましたから......。また友軍の兵隊は、食べ物がなくなると、銃剣を持って出てきて、避難民に食べ物を要求してよ、出さないと、あんたたちは戦争の邪魔だから、殺してしまえ、という命令が出ているぞ、と言っておどしたりしていましたよ。こっちも、米は残り少ないんだから、少しずつしか出さなかったんですけれど、兵隊は海岸の岩の間に、あっちこっちに大勢いましたから、なによりも兵隊が一番こわかったんですよ。

 

私たちと同じ壕にいる兵隊たちは、いつも壊の一番奥の方に隠れていて、何もしないで、私一人で水汲みに行ったりしていました。

 

私の主人は、足を怪我していましたので、寝たっきりでした。私が御飯を炊いて、食べるときになると、兵隊たちは寄ってきて、もう少し味噌を舐めさせろ、と手を出したりしていましたよ。そんなにして一緒に食事をしていても、私の子供が泣き出すと、この餓鬼、みんなを犠牲にするつもりか、と怒り出し、泣き止まないと、ものすごく怒って、誰か早く首を締めて殺してしまえ、と言っていましたよ。

 

子供が泣くから、弾がとんでくるのか、子供はしくしく泣くし、艦砲射撃は激しいし、兵隊は子供を殺せ殺せと言うもんだからよ、私は三女(1歳)を抱いて、壕の外に一たん出たんです。すると兵隊も私の後についてきて、その子は殺した方がいいよ、と耳うちしたら、その子は急に泣き止んで、私はまた壕の中に入ったんですよ。私が壕の中に入った直後、砲弾の音がして、子供をしきりに殺せと言っていた兵隊の首が、とつぜん壕の入口の岩の上に落ちてきたんですよ。首は置いたみたいになって、唇を痙攣させて、何か言い出そうとするようにもぐもぐさせましたよ。その兵隊のの方は、壕の横に倒れていました。私の子供たちの着物は、水をかけられたみたいに、血で濡れていましたから、私はびっくりして、怪我したと思って調べてみたら、子供たちは誰も怪我してはなかったんです。兵隊の返り血をあびていたんですよ。

 

それから、その兵隊の死体は、夏だからすぐ腐って臭くなるというんで、首は別の兵隊が持って、首のないは、私と別の兵隊と一緒に、それぞれ足を張って、下の方へ運んで、小さい窪みに入れて砂を被せておきましたよ。

 

喜屋武岬の岩壁には、恐らく敵は、日本軍の残りがいるということを知っていたんでしょう、どんどん艦砲射撃して、兵隊や避難民の死体があっちこっちに沢山ころがっていましたよ。死体はすぐ腐って、金蠅がたかって、蛆虫がわいていましたよ。

 

私たちがそこにきてから十日ぐらい経つと、アメリカの軍艦から拡声器で、「沖縄の皆さん、命がおしかったら、助けてあげます。はやく手を揚げて、出てきなさい」と言ってましたよ。

 

私は水汲みに、妹は板切れを取りに行っていました。私は頭に水を入れた鍋を乗せ、妹はこわれた空家から板切れを取ってきて、かかえて帰る途中、二人一緒になって壕に向かっているとき、海の方から声が大きく聞こえてきたんです。「命が惜しかったら、井戸端まで、出てきなさい。あなたの息子が歩いているのも、こっちからはよく見えます。井戸端まで出てきなさい。沖縄の人たちが、大へん可哀そうです」というもんだから、私たちはびっくりしましたよ。

 

もう逃げも隠れもできない、軍艦からは何もかも見えている、と思うと私たちは、諦めた気持で、壕から出て、海岸の波打際に立っていました。そのとき、近くの岩陰の前に、十五、六人の兵隊たちが爆からぞろぞろ出てきて、集まっていました。捕虜になるつもりかと思ったら、斬り込み隊だったんです。隊長らしい人が、訓示していました。最後の斬り込み、今日は六月十九日、と言っていました。また、銃のないものは竹槍で、竹槍のないものは石ででも、何か武器になるものを持って、必ず一人で敵を十人は殺すように......とも言っていました。それから兵隊たちは、散り散りばらばらになって、座を登って行きましたよ。すると崖の上の方から、パンパン小銃を撃つ音が聞こえたし、見えるところで兵隊の何人かは、倒れていましたよ。

 

那覇の人らしい上品な奥さんだったんですけどね、壕から出てきて私たちの前で、帯をはずして自分の首に捲きつけて締めようとしたんですよ。私はすぐにそれを引き止めて、一分間でもこの世の方がいいんであって、なんで死のうとするか、と叱ってやりましたよ。自分の息子が撃たれて死んだから......と言うんですよ。息子が死んだからといって、あんたが死んだら、あんたの息子が死んだことも判らなくなるが......と私は言ってやりましたよ。

 

もうこうなったら、捕虜になるしかない、と私は思っていました。ちょうど主人が風呂敷包みを拾ってきてありました。あけてみたら、女ものの着物だけ十点ぐらい入っていました。それをひろげて、出てきた兵隊たちに、着替えませんか、と声をかけたら、女ものの着物をきて擬装しよう、と言って、みんな争って着替えていましたよ。

 

そのとき、崖の上の方から、アメリカ兵が何十人も小銃をかかえてガラガラおりてきたんですよ。「みんなデテコイ、デテコイ」とアメリカ兵がいうもんだから、私たちの側に避難民が集まってきました。私はそのときみんなに向かって、一分間でもこの世がいいよ、男の人たちだけ殺すようなことがあったら、私たちも死ぬから、はやまったことはしない方がいいよ、この世がどうなるか最後まで見るつもりで生きてみようね、と言ってみんなを励ましたんですよ。アメリカ兵がきたら、誰も逃げるなよ、逃げたら撃たれるよ、と私はみんなに言ったんですよ。

 

そしてすぐに私たちは、捕虜になって、崖の上の方の原っぱに集められました。崖を登るときは、アメリカ兵たちが一人ずつ抱きかかえてくれました。

 

喜屋武岬の原っぱには、米軍の戦車もトラックもきていました。私たちはトラックに乗せられたんですけど、こわがって乗りたがらない人たちも大勢いました。みんなどこかへつれて行かれて、戦車でひき殺されると思っていたんですよ。

 

私の主人はブラジル帰りでしたから、スペイン語が少し話せたので、スペイン語で訊いてくれたんですよ。そして主人が、みんな集めて、食糧もあたえる、殺すようなことはしない、と言っているって、教えてくれたもんだから、みんな安心したんです。また主人は、自分は班長だから、自分がいないとみんな困るから、一緒に行動したい、とアメリカ兵に言って、それも認められたんです。

 

トラックで運ばれるとき、喜屋武の村はずれで捕虜になった日本兵たちが、沢山の友軍の死体を一か所に集めて、埋める作業をしているのを、私たちは見ましたよ。

 

そして私たちは、豊見城村の伊良波の収容所に入れられました。そこには大勢の避難民が集められていました。そこからは、トラックで石川へ運ばれ、石川で落着くようになりました。石川へ行ってから、泣き虫だった次女は、ハシカにかかって死にましたけれど、後はみんな元気で、私は炊事班として働きました。

 

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