『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 港川

 

以下、沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)の戦争証言をコンコーダンス用に簡易な文字起こしで公開しています。文字化け誤字などがありますので、正しくは上記のリンクからご覧ください。 

 

 

 

港川(具志頭村)

解説 星雅彦

時  一九六九年八月三十一日
場所 港川区長金城次郎氏宅

具志頭村字港川を取材した時機は、私が県史の「戦争記録」の仕事を引き受けてから間もない初期の頃であった。

 

だから見知らぬ年長者の方々から、聞き書きするときの、予備知識はもとより、質問して話を引き出すテクニックも多少必要であろうが、そうしたことに私は手馴れてなかったようだ。また、子供を持った母親たちの体験談の中に、人間性を訴えるものがより強く含まれており、戦争体験としての内容があることも、私はまだ気付いてなかった。

 

ここに登場する五人の方たちのうち、長嶺孝子さんを除けば、揃って男性である。母親は登場しない。しかし、働きざかりの当時の男の人たちが、どのようなことをし、どのようなことを考えていたか、そうしたことに焦点を合わせたとき、港川の取材が思い出されたのであった。四人の男の方たちは、県庁職員、防衛隊、兵隊、鉄血勤皇隊であり、計らずも変種の組み合わせとなっていて、それぞれの性格や特徴を表現しているようである。

 

さて私は、最終的な解説を書かなければならない。ここでは、沖縄の原点である戦争体験を通した重大にして未解決な問題は何か、について考えてみたいと思う。


当然、他の解説と重複する幾つかの問題が浮かびあがってくるが、例えば五人の方たちの内容から問題点を要約的に抽出しようとすると、やはり拡大された次のような問題に突きあたってしまうのであった。それらは今日の問題でもある。

 

一、朝鮮人軍夫の惨憺たる犠牲 

朝鮮人慰安婦の存在も忘れてならないことだ。それは人種的差別の問題でもある。しいては、沖縄人意識、その差別意識の問題とも、関連する事柄である。

一、戦争責任のありかた

軍人が戦争責任を問われるのは、当然の帰結だが、問う側が、心底に持っているはずのそれ。かって日本軍に加担し、敗北すると変身し、米軍の方に身をおいて、取り調べる(糾弾する)立場に立った者たち、沖縄戦に直面しなかった復員軍人の戦後の発言等、保身術の背後にあるそれ。この問題は、今日まで沈黙しつづけた一般住民、多大な犠牲をこうむった住民の立場の中にも、問うて、しかるべきではないか ?  一般住民は、知識人よりも肌でそれを感じていて、その痛みを今日まで背負ってきたのかもしれぬ。この問題の陥りやすい論法は、あれだけ戦争協力したのに、こんなにも惨めな犠牲者となった、という論法であり、そこに自家撞着があることを見のがしてはならない。強制されようとされまいと、当時の思想を首肯し、戦争協力したということは、実は、戦争責任と、血族の関係にあることなのだ。むろん、怒濤のような教育の問題もあり、非戦闘員の立場の問題もある。しかしながら、非戦闘員という言葉の中には、単純明快に解釈できない微妙な意味あいがあるのだ。非戦闘員も、銃後の勝利を誓った奉仕的協力者であり、潜在的な戦闘員ではないか、という解釈もできるのである。... 従って、戦争責任の問題は、個人的追及では解決できないことなのだ。そこから更におしひろげられる問題は、何か。それは天皇制や軍国主義という思想の犠牲ということであろう。


一、捕虜になった後に犠牲

衣食住の極度な欠乏、マラリア患者と負傷者の放置、さまざまな非人間的な状況においこんだ米軍の無心と暴力とメシアイズムー権力の横暴の問題がある。

 

最後に、本編に収録された「体験談」の数は、私が約二百五十人の証言を聞いたうちの半分にも充たない。紙幅の都合で割愛せざるを得なかったものの中にも、内容があって捨てがたいものが多数あったことを付記して、御諒承にかえたい。

 

田尻正次

田尻正次 (二十五歳) 県庁職員

県庁 ~ 繁多川の壕 ~ 百名

私は当時、県庁の商工水産課に勤めていました。
昭和十九年の十月十日の空襲で、家財ぜんぶ焼かれまして、それで、ちょうど最後の疎開船で両親と弟たちを九州に疎開させ、その後も私は県庁の仕事をつづけていました。県庁の建物は、十・十空では火災を受けずに焼け残っていました。

 

昭和二十年三月二十三日の、艦砲がはじまった時点では、私は県庁職員として、県庁の建物の中で仕事をしていましたが、艦砲の音で庁内の防空に移って、待機していました。

それから私たちは、島田知事の命令で、首里の方の繁多川の壕に行きました。その壕は県庁職員が掘った壕でした。

 

四月一日に米軍が北谷から上陸した後、沖縄本島普天間から中断された形になって、急速に、砲弾の雨が激しくなってきたんですね。

 

それで首里も危険になってきておれなくなって、五月十七日に、名目は派遣ということでしたが、一応は解散して、各自で食糧増産せよ、という命令がありましてね。それで私は、玉城村百名に移動しました。首里から一日橋を渡って国場に出て、国場川の橋は崩れていましたが、そこをどうにか渡って、東風平村の外間にきましたら、五、六十名の死体が転がっていました。それらの死体は、みんな弾薬運搬に使われていた朝鮮人軍夫で、艦砲に一ぺんにやられたらしい様子でした。私は外間から玉城村の稲福・船越に出て、それから親ヶ原・垣花と出て行ったわけです。その頃は、よく雨が降っていました。途中、雨水の中に泥にまみれて転がっている死体があっちこっちにありました。死体があるとは判らずに、死んで張れた腹の中に足をつっこんでしまったこともありました。もちろん昼中は隠れて、煙を出すと危険ですから、火の気はなくして、夜間だけ行動して、飯を炊いたり、歩いたりして、百名に辿り着いたわけです。

 

百名での食糧は、ほとんど甘藷でした。その頃は、いつも雨が降ったり止んだりしていました。それで、イモのかずらを取ってきて、それを畑に押し込むようにして植えるという非常に単純な農業をしていましたね。自分で農業をしながら、農業を知らない避難民に対しては、身をもって指導にもあたっていました。最初の頃は食糧は充分あったんですが、急に避難民が増えてきて、食糧は欠乏するし、また砲弾もおちてくるようになって、民家にはおれなくなったんです。それで夜間に、壕を掘ったり、自然壕を探して移ったりしていました。

百名民間人収容所と CIC

そして私たちは、六月上旬に、百名から新原 (みいばる)におりる途中にある黒木山という山の自然に隠れているとき、あっけなく米軍に見つけられたんです。

 

それで私と地元の防衛隊は、その壕にいる避難民を残したまま抜け出して、二人でまだ米軍に知られてない壕を近くに見つけて、そこに入って入口に石を積んでおいたんです。

 

そうするうちに、前にいた壕の人たちはすでに捕虜になっていて、その中の何人かは帰ってきていました。私と一緒の防衛隊の人は、手榴弾をもっていましたから、敵がきたら、それでやるつもりでした。そこへ、捕虜になった人たちが私たちの壕にやってきて、壕から出るよう誘ったんですよ。米軍はいっこうに危害を加えるようなことはないから、出て捕虜になるようにと勧められたんです。女子供だけじゃなく、男の人たちもすでに捕虜になって、米軍から食糧もあたえられておる、というんですね。私は半信半疑でした。とうとう説得されて、出てみたら、なるほど殺されるような気配はありませんでした。また大勢がすでに捕虜になっていて、一つの村を作っているので、びっくりしました。一軒の家に、捕虜になった人たちは、七十世帯から八十世帯ぐらいが、詰め込まれていましたね。それから男の人たちは、十八歳以上はみんな金網の中に入れられていましてね、私もそこに入れられましたよ。その金網のある場所は、百名小学校のあるところでした。

 

その金網の中に、私は一週間ぐらい入れられていました。そして取り調べを受けたんですよ。というのは、軍籍があったかどうか、これまで軍隊の経歴を持っているかどうか、どんな戦争協力をしたか、といったようなことを、当時のCICが調べていました。

 

ただ非常に不満に思ったことは、つい一か月か二か月前まで、日本軍の側に立って指導者の地位にあったごく一部の人たちが、いつの間にか米軍のような顔をして、二世と一緒になって私たちを取り調べていることでした。その取り調べる係り官の中には、今の赤マルソウの具志堅宗精さんもおりましたよ。


私の場合は、英語を話せる知人が保証して下さったので、一週間ぐらいで出られたんです。保証されない連中は、ずっと金網の中に入れられたままで厳しく調べあげられていましたよ。

 

また一度は、金網から逃げようとして、射殺された事件を見たことがあります。金網には、ピアノ線とかいう合図する電線が張ってあって、触れるとリンが鳴るようになっていましたから、逃げようとするとすぐ判るんですよ。夜でしたけどね、逃げようとした人たちがいて、リンが鳴ると米軍はライトを照らしてね、すぐ自動小銃で捕虜三名か四名を、射殺したんです。あのときには、米軍は射撃がうまいんだなあと感心しましたね。

漢那民間人収容所 - 惣慶の住宅づくり

それから三週間ぐらい経つと、その一帯は第一線の戦闘地になるからということで、住民を国頭に移すために、まず二十代から四十代までの男だけが一足先に先発隊として行くことになったんです。(今の)宜野座村惣慶というところにですね、仮小屋を造りに行ったわけです。

 

私たちはトラックに乗せられてね、与那原に連れて行かれ、そこからLSTに押し込められるようにして乗せられたんです。ぜんぜん甲板には出さないので、どこにつれて行かれるか判らなかったわけです。


着いたところは、(今の)宜野座村漢那でした。そこからトラックで惣慶に運ばれました。私たちは百四十名ぐらいでした。私は班長でしたから、実際の作業には出なくてもよいというわけで、監督をしたりキャンプの留守番をしていました。そこでの食事は、昼一食だけでした。米の飯でしたけど、おかずはなかったですね。みんな食事時間になると、罐詰の空罐を持って、炊事班のところに行って、飯と味噌汁を貰っていましたね。少しでも貰いに行くのが遅れると、もうないんですよ。大した栄養もなく、味噌汁は野山で取れるチィパッパー(ツワブキ)という草などを入れた粗末なものでした。あれだけの労働をするんですから、みんな栄養失調になっていました。だから、中には落伍者も出ていました。栄養失調とマラリアで、次々と死亡していましたね。

 

惣慶での住宅造りが終った頃、捕虜になった避難民が送られてきて、そして私たちは、八月十五日もすぎてから、また百名に移送されて、こんどは死体の後片付けなどをさせられたんです。だから捕虜になって後からの苦労の方がひどかったですね。


長嶺孝子

(十五歳)女学生

軍命令 ~ 15歳で弾薬運び

私は一高女の二年生でした。十・十空襲以後は、下級生ですので、足手まといになるからみんな父母のもとへ帰りなさい、という命令がありました。私の母方の出身地が具志頭の後原で、そこの家は屋敷も広いし木も茂って避難するには最適だということになり、私は父母と一緒に後原に行ったんです。そして屋敷の裏の、小高い丘に壕を掘ってですね、そこに親戚の人たちも一緒に避難しておりました。

 

そして艦砲が激しくなった頃、友軍はトラックや馬車での弾薬運搬はできなくなって、アメリカは電波探知器を使用してすぐトラックや馬車を集中攻撃するということで、夜こっそり運ぶようになっていました。そして住民も弾薬の詰められた箱を運べという軍命令があったんです。兵隊たちが各壕を廻って言いにきていました。それで私の両親は兵隊たちに、私のことをまだ子供だから出せません、と言いましたらね、じゃあお前らは非国民か、と言われて、断ることができなくなって、私は十五歳にしては体が大きい方でしたから引っぱり出されたんです。後原の字から若い女性が三十名あまり出されて、首里の方まで、弾薬の箱を頭に乗せて運搬したんです。


その夜、ちょうど津嘉山の方まで行きましたら、とつぜん照明弾があがってですね、艦砲射撃がボンボン飛んで来たんですよ。その砲弾で、三十名あまりのうち十名は死んでしまいました。指揮する兵隊は、もう首里までは行けないから一たん引返せ、という命令を出して、みんな引返したんです。その後また、友軍から、首里は弾薬が不足しているから一人でも二人でもいいから弾薬を届けるようにという指令がくだってですね、私たちはまた行ったんです。そし途中で、砲弾の雨に逢っては引返してきて、また行って•••• くり返し五回も歩いて運搬したんですよ。四回目に首里の名あたりまで行って弾薬を届けてきたんですが、成功したのはそのただ一回だけでした。行くたびに、誰かが死んで、全員は帰って来れませんでした。指揮者は伍長でした。いつも厳しく強請するし、非常に危険だし、十名グループで行くようになってからは半分以上は砲弾でやられるし、重い箱を頭に乗せて何も歩くんですから、戦争っていやだなあ、とつくづく思っていましたね。

真壁~大渡~玻名城

こんな状態なら、ここにいたらいつかは死んでしまうから...と父と母は話し合って、島尻の方に避難しようということになったんです。戦争は必ず勝つ、八重瀬岳で敵をくい止める、という友軍の話を聞いていたもんですから、じゃあ八重瀬より後方に行けば安全だろうというわけで、雨の降る夜、後原から歩いて真壁の方に行きました。

 

真壁には、一週間ぐらいいました。真壁の部落は、まだほとんど民家が残っていましたから、壕を見つけきれない避難民はみんな民家に入りこんでいました。一軒の家に二百人ぐらいぎっしり入っていました。私たちは、真壁小学校の裏の民家に入っていました。昼は、家の中や樹の下に隠れて、夜になると食事を作って食べていました。避難民も入れ替わり立ち替わりして、また負傷した兵隊さんも前線からさがってきていました。手や足が切れてなくなっている人たちや、両足切断されてみたいになってころころ転がっている兵隊さんや、通って歩く兵隊さんもいました。そうした負傷者たちが往ったり来たりするもんだから、目立つんですね、上空では敵の飛行機がとび交っていました。

 

まだ明るい時間でしたけど、あの当時トンボと呼んでいた敵の飛行機がきてですね、焼夷弾を落としたもんだから、家はぜんぶ焼き払われてしまったんですよ。そしてそのときに、消火しようとして飛び出して行った人たちは、とんできた爆弾で、ほとんどふっとんで死んでしまったんです。また石垣の下敷きになって、助けてくれえ助けてくれぇと叫んでいる人もいました。助けに出たら、自分がやられますから、誰も助けるものはいないし、私たちもガジマルの樹の下にじっと隠れていました。

 

また爆弾がとんできて、私たちと一緒にいた女の人は、破片が足を貫通して苦しんでいました。その破片は、私の下腹をも貫通していました。下腹をやられたということはすぐ感じたんですけど、それほど痛くもなく、またそれどころではありませんでした。私の下腹を貫通した破片は、更に、側にいた子供の足に突き刺さって、その足は樹の幹から離れなくなって、っついていたんですよ。そこでうちの父が、鍬でその子供の足の肉を切ってですね、樹の幹から離したんですよ。それから、私は自分の出血に気がついて、下腹を確めてみたら、肉が裂けたみたいになっていたんです。父は傷薬も少し準備して持っていましたから、すぐ私の傷の手当てをしてくれたんです。

 

でも後からは、薬があるわけじゃないし、どうすることもできませんから、放ったらかしでした。四、五日もすると、私の下腹の傷口からは、蛆虫がわいていましたね。そしてどんどん蛆虫がわいてくるんですよね。それで、私は暇だから、坐ってお箸で自分のお腹から蛆虫を一つ一つ取って捨てていましたよ。


その頃の真壁は、焼野ヶ原で、死体があっちこっちに沢山転がっていて、二重三重と重なって死んでいるのも見ましたね。死体はそのまま放ったらかしでした。道に転がっている死体は、足をひっつかんで引張って片づけていましたね。こわさはぜんぜん感じませんでしたね。照明弾があがったとき、あわてて死体の上に伏せたりしたこともあったんですけれど、臭いともこわいとも何とも感じませんでしたね。

 

それから、敵が具志頭あたりにもう乗りこんできているということを聞かされて、じゃもうここにもおれないというわけで、私たちは真壁から大渡の海岸におりて行ったんですよ。

 

私たちはまだ気持だけはくじけていませんでしたから、そこから東海岸づたいに、国頭に突破しようと考えていたんです。港川のシランガーラ(白水川)がおそらく関所で、あそこを通りこせば、玉城村は無難だから、突破できる······と考えていました。敵は西海岸の北谷から上陸しているから、東海岸は手薄だろうと思っていました。


そこの海岸は岩礁のとがった岩だらけですから、私は死んだ兵隊さんの靴をとって、それを履いて歩いたんです。すると軍靴が岩礁にあたって響くんですよね。そうしたら、海岸の岩陰に隠れていた友軍の兵隊が出てきて、お前はそんなものを履いて歩いて、今に弾がとんできてやられるぞ、ぼくたちまでも殺すつもりか、と叱られてですね、なくなく私は靴を脱ぎ捨てたんです。そして素足で歩いたんです。そしたら、まるで針の上を歩いているような気持でした。それはもう痛くて痛くて、しかも暗闇の中を歩くんですから、歩きにくくて・・・・・・。あそこの波打際には急に深くなっている穴が多いんですよ。そんな穴に私は落ちこんでしまってですね、やがて溺れ死ぬところを、父に助けられたんです。こんなにまでしても生きなければならないのか、もう一日でも早く爆弾にあたって死んだ方がいい、と思ったくらいでした。

 

それでも死ぬのがこわくて、昼は岩の下に隠れて、夜だけ少しず歩いて、一週間ぐらいかかって大渡からシランガーラ(白水川)の方まで行ったんですよ。それまで、私たちは食事らしい食事をしていませんでした。大豆を少し持っていましたから、なまの大豆をほんの少しずつ食べていたんです。

 

そして六月二十日頃、玻名城の海岸に辿りついて、そこに一週間ぐらい隠れていました。そこから向こうには敵がいるということで、出られなかったんです。そのうえ敵の軍艦からは、拡声器で、住民には何もしないからデテコイ、デテコイという放送がありましたね。でも私たちは、敵のいうことを信じていませんでした。アメリカのいうことを信じて捕虜になる気はぜんぜんありませんでした。


そこで私たちは、地形に詳しい玻名城の人をまじえて、どのように行ったら突破できるかと、いろいろと話し合いをもったんです。ああでもないこうでもないと協議したりしたんです。その近くの海岸には、友軍の兵隊が大勢、軍服のままで死んでいましたね。それらの死体は、天然痘みたいに黒くぶつぶつが出て、軍服もはちきれて、風船みたいに、大きく脹れていましたね。人間があんなにも膜れるものかと不思議に思うくらい疲れあがっていましたよ。そして足の踏み場もないくらい死体が転がっていましたね。水筒をもったまま死んでいる兵隊や、住民みたいに着物に着替えて死んでいる兵隊もいましたね。この友軍の多くの死体は、おそらく国頭に突破するために出て行って、敵の集中攻撃にあったんだろうと、私たちは思ったんです。ですから、出て行くことはとても危険ですけど、そこに隠れていても、食べるものは何もないし飢え死にするし、とにかくシランガーラまで行ってみるしかないと、みんなで話し合って決めたんです。

捕虜になる~当山収容所と垣花収容所

夜明けが安全だろうということで、明け方、私たちは歩いて出て行ったんです。そうしたら、三十分も歩かないうちに、具志頭城址の前に、カービン銃を持ったアメリカ兵が四人立っていました。逃げようとしたら、アメリカ兵が銃を構えたもんですから、逃げたら殺されると思って、みんなじっと立っていました。アメリカ兵が近寄ってきたので、仕方なしにみんな手を揚げたんです。
アメリカ兵たちは、私の顔を見て、ニヤニヤ笑っていました。私は玻名城の海岸で、もし捕虜になったらと思って、若い女は狙われて大変なことになるということを聞いていましたから、用心のために、自分の顔に鍋のススをいっぱい塗ってあったんですよ。私の顔は真っ黒になっていたはずですから、それでおかしかったでしょうね。

 

捕虜になった私たちは、すぐその場で、男と女とは、別々に分けられました。そして一列に並んで、アメリカ兵に従いてくるように言われ、歩いて行ったんです。つれて行かれるとき私は、男は殺して女は遊び道具にするつもりかもしれない、やっぱり友軍の兵隊が言ってたとおりだなあ、と思っていましたよ。

 

玉城の当山というところに収容所があって、私たちはそこに連れて行かれたんです。当山に着いたときは、ほんとに驚きましたね。大勢の避難民が捕虜になっているんですよね。自分たちだけかと思ったら、みんな捕虜になっている・・・。それでも私たちは、捕虜になったことが恥かしいやら、これからどうなることか、恐怖に怯えていて、おろおろしていたんですね。そこにいる大勢の中に、同じ部落の隣組の人たちもいて、「ヌーンアランサ(何でもないよ)ヌーンアランサ、イッペクッチーヤンドー(非常にご馳走があるよ)」と元気づけるように言われてですね、みんなから迎えられたんです。

 

そこの収容所に入れられてから、急に腹が立ってきましたね。アメリカに対して、敵愾心が湧いてきて、空腹でしたけれど、何を与えられても、食べたいとは思いませんでしたね。惨めな自分たちに対しても、ほんとにイヤだ、という気持でした。

 

当山には一日だけいて、収容所がいっぱいだからということで、私たちは垣花という部落に行くように言われて、歩いて行ったんです。そのへん一帯は、敵が完全に占領したところだったらしく、自由に歩きました。垣花には、まだそれほど捕虜になった人たちは入っていませんでした。でも毎日捕虜になった人たちが入ってきて、怪我した人たちも増えていました。

 

そこでは、アメリカ人の医者と、沖縄娘の看護婦が、診療所にいて、やってくる怪我人や病人を無料で診てくれていました。そしてとんでもない事件が起きたんですよ。看護婦がですね、薬と消毒液だかと間違えて、病人につぎつぎ注射してしまって、二十名ぐらい死にましたよ。行くときには元気で行った人たちが、薬品の知識もない看護婦に注射をうたれて、帰るときには吐いたり苦しんだりして死んだんですよ。まだ戦争は終っていませんでしたし、どさくさでしたから、その後その看護婦がどこへ消えて行ったのか、判らずじまいです。後始末もちゃんとはしませんでした。

大浦崎収容所

私たちは二週間ぐらい垣花にいました。それから、国頭に移動するよう米軍の命令が出て、私たちは嘉陽に行ったんです。嘉陽に行くときは、佐敷村の馬天港から、船で運ばれたんです。大勢の捕虜は荷物みたいに扱われて、船底に押し込められてですね。目隠しされたみたいに何も判らず、そして着いたところは、大浦湾の久志でした。

 

久志から嘉陽という部落に行ったんですけれど、私たちは何も持ってきていませんでしたので、山から茅を刈ってきて、テントの中にそれを敷いて寝ていましたよ。七月上旬で、暑いさかりでした。

 

その後、これではいけないというわけで、父が山から丸太を切ってきて、小さい掘立小屋を建てて、親子三人棲めるようにしたんです。米軍から支給される食糧といったら、一日に一人一台のお米があるだけでした。切って一合ですからね、おカユにしないと間に合わないんですよね。私たちは三名でしたから三合を貰ってきて、一緒に鍋に入れておカユを作って、それを一日に二回に分けて食べていました。それだけではとても足りませんから、海岸に打ちあげられる藻を取ってきたり、食べられる草は何でも取って来て、煮て食べていましたよ。それでもみんな栄養失調になっていましたね。そのうえ、嘉陽は山の中ですから、悪性のマラリアが流行してですね、体力のない人たちからどんどん死んでいったんです。一日に、四十名ぐらい死んでしまうときもありましたね。毎日、山の中では、男の人たちが死人を埋める作業をしていましたよ。


また山原の人たちは、カンダバー(甘露の葉)を畑から取ることも禁じていましたね。自分たちの食糧を確保したいために、捕虜になってきた人たちを、ひどく嫌っていましたね。ひもじさに耐えられなくなって、畑からカンダバーを取ると、すぐCPに言いつけていましたよ。CPにつかまると、二間四方の金網の中に入れられるんですよ。私もカンダバーを盗んで、三回つかまって、金網の中に入れられましたよ。つかまっても、平気でした。一日金網の中に入れられるんですが、にぎりめし一個あたえられるので、かえって嬉しいくらいでした。つかまるのは、たいてい女の人たちでしたね。子供たちに食べさせたい一念から盗むんですよ、母親たちが......。嘉陽に私たちは四か月以上もいました。正月になってから、そこを引揚げてなんとか、人間らしい生活を取り戻そうと、南部に移ってから働きはじめたんです。

 

玉城裕康

玉城裕康 (四十四歳) 防衛隊

防衛隊 - 新城から安波茶へ

私は三月中旬に、防衛隊として召集され、深見大隊長のもとで、新城の陣地構築をしていました。

新城の日本軍の陣地にはですね、三門の迫撃砲がそなえてありました。そして港川の沖から艦砲があたったとき、こっちは構えてはいながら、撃たずに我慢していたわけです。こっちの陣地を知られてもいけないし、こっちから撃ったら猛攻撃を受けてかえってやられますからね。

その後、敵は川から上陸するかと思ったら、上陸しませんでした。それから間もなく、敵は西海岸の北谷方面から上陸したらしいという情報が入りました。

 

私らは防衛隊としても年を取っている方でしたので、まさか第一線に引張り出されるとは考えてもいませんでした。ところが、首里まで追撃砲三門を運べという命令を受けてね、馬車に迫撃砲を積んで、首里に向かったわけです。そして、津嘉山に一晩泊ったときからはね、いよいよ戦争だということがはっきり判ってきたわけです。昼はとても出られませんでしたよ。夜になってから、首里にのぼって行ったら、首里の金城区あたりにきたら、もう敵の砲弾の雨が激しくて、どうしようもないんです。

 

それでも私らは、坂を登って行かなければならないのに、首里の人たちは逃げて降りてくるんですな。倒れる人たちもおる、走って逃げて行く人たちもおる。私らが馬車を停めて、道端に隠れていたら、おじいさんとおばあさんが近寄ってきてですね、知らないそのおじいさんが、兵隊さんこの酒でも飲んで元気を出して下さい、と言って一升瓶をくれたんですよ。

 

私らは有難く貰って、そうしようかと、酒を飲んでいたら、夜が明けてね。その日が、ちょうど天長節で、4月29日ですよ。天長節には、日本の飛行機が沢山とんできて敵をさんざん叩きこわすんだ、と前に兵隊たちから聞いていたからね、そうなるとばかり思って、私らはのんきに構えていたわけです。ところが、日本の飛行機が来るもんですか。もう一線にきているから、いつ命がなくなるか判らない。煙草もないし、食べるものもない。これでは戦もできないから、空家でも探してみようかと、仲間と相談して、近くの空家を探してみたが、何も見つからない。鶏を探そうとしたが、それもいない。

 

私らはへとへとになった状態で、首里から更に進んで、石部隊の応援に行ったわけですよ。そして浦添の塚をすぎて、安波茶あたりの墓が多いところまできたんですよ。
石部隊の兵隊たちは、そのへんの墓の中に隠れていたんですが、私らは隠れる場所がなくて、迫撃砲は空屋敷にそなえつけてから、民家から蒲団を持ち出して、それを被って水の中に入っておったんです。むこうから弾がピュウピュウ飛んでくる。どんどん来るので、ああもうこれでおしまいかと思ったらね、弾にもあたらずにすんでね。

 

夜になってから飯を炊いて食うわけですがね、一線部隊でも支給される米は一日一合で、靴下に入れて渡されてあったが、それだけで元気が出るわけがない。それでも頑張らなければならない。敵はだんだん接近してくるんですな。夜でも攻撃の手を休めないんです。三日目の夜、こっそり飯を炊いていたらね、突然むこうから敵が攻撃してきたんですよ。こっちは三門の迫撃砲を持ってはいるんだが、反撃できない。反撃したら、それこそ集中攻撃を受けるんですからね。そして突然ですよ、近くにいた兵隊がね、砲弾で塵芥みたいに散ってしまったんです。ああもう死んだか、それだけですね。もうそのときからは、人間の命なんて、なんとも思わなくなっていましたね。
敵は千四、五百メートルしか離れていませんでしたからね。それでも私らは、そこに踏みとどまって、一週間ぐらい頑張って二、三回は迫撃砲も撃ったんですよ。ところがね、あまり効果はなさそうだったし、敵がどんどん攻撃してくるもんだから、これでは駄目だということで、隊長から、自分らの本隊の部隊に帰れ、という命令が出て、私らは運玉森に後退したわけです。牧港は石、前田は球、運玉は山部隊でしたからね。

負傷兵として 運玉森から真壁のクラガーへ

運玉にきたら、すでに通信は跡絶えていましたから、若い兵隊が伝令に来るわけですよ。その伝令が砲弾の中を走ってくるのが見えるんですよ。死んだものもいたし、またいつ死ぬか判らない。そんなに命懸けになる値打があったかどうか。私らは、タコ壺の中に入って、ただもぐっているだけでした。夜になると、米一合しか支給されないから、ひもじくてね、イモ掘りに出かけるわけです。イモがなくても、畑にゴボウがあればゴボウ、ニンジンがあればニンジンを取ってきてね、なまで食べるわけです。それから弾楽運搬をしましたね。経塚あたりに持って行った弾薬を、また運玉森に移すわけですよ。それだけの弾薬では足りないので、後方の新城あたりにある弾薬を取りにも行きましたね。

 

その頃、私は伝令に出されて、発ってすぐに、上空で破裂した散弾の破片でやられて、足を怪我しました。もう一人は頭をやられて即死していました。で、私は運玉の病院に運ばれてですね、軍医の検査を受けて、後方に送られたわけです。担架で運ばれたわけですが、そのときがまた生きたここちがしませんでしたね。敵の砲弾がとんでくるたびに、私は担架と一緒に投げ捨てられるんですよ。担ぐ兵隊たちもそれぞれ自分の命が惜しいから、何回も私を放ったらかして、思い思いに逃げ隠れるんですよ。私は動けないから、そのままの状態で、もう死んでもいいと諦めた気持でいるしかなかったわけです。

 

そしてどうにかトラックの待っている那覇の三叉路まできてですね、ほっとして、そこから東風平につれてこられたんです。東風平の郵便局のあったところの壕にきて、そこからまた別のトラックに積み替えられたんです。トラックは何台も停っていて、これは照屋に行くもの、あれは志多伯に行くもの、それは真壁に行くものが乗る自動車と、それぞれ決められていて、負傷兵を乗せていました。私は後のトラックに乗って運がよかったんですな。最初のトラックは、出て行って間もなく砲弾がちょうど荷台の上に落ちてですね、ほとんど即死して三、四人は大怪我して唸っていましたよ。

真栄平のクラガー ~ さまざまな死に際

私が運ばれたところは真壁でした。そして真栄平の山部隊のクラガーという壕に入ったわけです。そこには、前に運ばれていた負傷兵が十四、五人すでに死んでいました。私らもこんなになるのかと、一瞬ぞっとしましたね。しかし私らは、すぐに死体をなんとも思わなくなりましたね。私は自分の傷口から蛆虫がわいたのを発見して、ほっとしたんです。なぜかというと、私がフィリピンにいるとき、賀川豊彦という方が講演にきて、クレミヤ戦争での負傷兵は、包帯をしたものは破傷風にかかって死んだが、包帯がなくて放ったらかしてあったものは蠅によって蛆虫がわいて、蛆虫が菌まで食ってしまうので、破傷風にかからずに生き残った、という話をしたことを覚えていましたから、私は死なないですむと思って喜んだんですよ。

 

そこでは次々と負傷兵が死んでいきましたね。沖縄出身の若い兵隊たち三人は、揃って破傷風にかかって、熱を出して死に際に「アンマー(母親の呼称)よー」して死んだんです。ヤマトンチュ(大和人)でもですね、天皇陛下万歳と叫んで死んだものはいなかったですよ。たいていの名「お母さん」と言って死んでいましたね。またある兵隊はね、おれは自決するんだというもんだからね、どうしてお前はそういうのかと訊いたらね、おれは天皇陛下・国の為に戦ってきたけれども、こんなに負傷しても誰も治療してくれないし、このまま放ったらかされて死ぬよりは自分で死んだ方がいい、と言っていましたよ。そして止めるのもきかないで、すぐナイフで自分の腹を切ってね、ころころ転がって苦しみ出してね。それで看護兵と軍医がきてね、彼を担架に手も足もくくりつけてね、私らの寝ている寝棚の下に放り込んだんですよ。そしたら、その兵隊は二、三時間で死にましたがね。また、ある兵隊はね、死に際にね、「中隊長、部下をもっと可愛がれ! そんな中隊長おるもんか...・・・伏せえ、伏せえ、伏せえ!」と大声で叫んでから死ぬものもいましたよ。ただ、水が欲しい水が欲しいと言いながら死ぬものもいるし、兵隊たちは次々とさまざまな死に方をしていましたね。


そこのは野戦病院でしたけどね、ほとんど助かりそうもない負傷者だけが入れられていたようです。こんな沖縄出身の兵隊もいましたよ。彼は水を欲しがってね、ウチナーグチ(沖縄口)で、十円で水を売ってくれって何度も頼むもんだから、私が水筒に水を持っている兵隊に頼んでね、あれはもう死ぬから水を飲まして満足させてやったらどうか、と茶碗一杯の水を貰って、飲ましてやったらね、こんなに水が欲しかったのにねえ、昨日から水が欲しかったのに......昨日飲ましてくれればよかったのに・・・・・・と言うんだね。で、私が、もっと飲むか、と訊いたら、いやもう沢山だ、と言ってから、五分も待たないで、すぐ死んだんですよ。

クラガーから真栄里へ

それからいよいよその壕も解散になってね。私は一人でどうにかこうにか歩けるようになっていたから、また私はいつかは逃げて行こうと思って竹の杖を隠して持っていたから、その杖をついて立って、そこから脱け出てね。そこからは富盛を廻って港川の方に行けるし、そう遠くないから、そのつもりで歩いて行って、途中でキビ畑に出会って、そこで坐ってキビを食っておったですよ。そしたらヤマトンチュ(大和人)の二人の兵隊がふらふらしながら通りかかったので、私は声をかけたんですよ。おいどこへ行くのか、本隊へ、本隊はどこか、高嶺だ、そうか遠いな、どのくらいあるか、二里ぐらいあるぞ、お前も行くか、一緒に行くからサトウキビでも食ってから行かないか、と三人一緒にキビを食ったんですよ。雨の降る夜でした。それから、さ、歩いて行こうと思って、立とうとした三人とも立てないんですよ。私は左足、一人の兵隊は右足、もう一人の兵隊は両足怪我していて、最初は三人とも立てなかったんですよ。やっと立ちはしたが、両足怪我している兵隊はどうやら一人で歩けるが、私ともう一人の兵隊は歩けなくなっているんですね。だから私は言ったんです。おい、右の肩を貸すからお前は左の肩を貸せとね、二人は首を抱き合ってね、それから、こっころこっころ少しずつ跳ねるようにして歩いたんですよ。そして一晩かかって、ようやく高嶺についたわけですよ。

 

三人は一生懸命に歩いて、高嶺の橋のあるところまで、やっと辿り着いて、本隊のある壕に行ったら、本隊では負傷兵はいらないと言うんですね。敵はどこまできているのか、訊いてみたら、具志頭村の与座まできていると言うんですね。仕方がないから、島尻に逃げるしか道はない、そう思って、引返そうとするとき、壕の外に木炭の俵があったので、ヤマトンチュがそれを頂いておけと言うもんだから、私は何に使うのかと思ったが盗んでポケットに入れてですね、そしてまた引返して行ったんですよ。

 

そうして三人は、甘藷畑からイモを掘ってから、木炭で火を起こして、イモを焼いて食ったんですよ。明け方だったので、静かな朝でしたよ。それから歩いて、糸満にさしかかったら、急に艦砲射撃がはじまって、私らはあっちこっち隠れながら、沢山の死体を見ながら進んで、避難民が右往左往している中を通って、真栄里の部落に行ったんです。

 

真栄里に着いて歩いていたら、米俵を積んだ日本軍のトラックが停っているのと出会ってね、様子をうかがったら、兵隊は死んだのか逃げたのか、誰もいない。私はとっさに盗む気になって、トラックから靴下の二足分の米を盗んだんですよ。そしてその近くの壕にとじこもって、三日間すごしましたよ。

 

そしてそこにも砲弾がどんどん落ちてくるもんだから、私は一人になって逃げ出して、伊敷へ行ったんです。伊敷の壕は、避難民でいっぱいでした。子供たちがわあわあ泣いていたので、ああ自分の子供たちは、もう死んでしまっただろうなあ、と思いましたね。私は一人で脱け出して、井戸をさがして、水を飲んでから、マブニ岳の方へ行ったんです。

摩文仁で捕虜になる

マブニの今の健児の塔の近くにきたら、照明弾があがってね、そのとき私は、神も仏もあったら助けて下さい、と眼をとじて祈ったら、つづけて砲弾が五、六間先に五発ぐらいぼんぼん落ちて、炸裂したとき、私はいきなり伏せて、それから逃げて行って、山羊小屋を見つけてそこにもぐりこんだんですよ。

 

その山羊小屋にいるとき、避難民が入ってきたので、健児の塔の真下あたりに、水の出るところがあると教えられ、夜が明けないうちに下の海岸までおりて行ったんですよ。水の出るところに辿りついて、水を飲んで、臭くなった傷口を洗ってから、壕を探してうろうろ歩いていたんですよ。

 

そしたら急に、米軍の673という番号のついた哨戒艇が近寄ってきてね、ポンポンポンとすぐ射撃してきたんですよ。私はあわてて岩陰に隠れてから、岩の下の穴を見つけて、そこに三日間もぐりこんでいたんですよ。そのときはもう山羊と同じような食事ですよ。夜になったらンジャヌバー(ホソバワダン)を取ってきて、海で洗って、そのまま食って生きていましたよ。海岸には、ときどき死体が浮いて流れていました。また一度は、リンゴが二、三十個と袋に入ったメリケン粉が二、三個流れていましたね。隠れていた兵隊たちが出てきて、すぐ裸になってメリケン粉を取って行ったもんだから、私はリンゴを取れるだけ取ってきてね。私がリンゴを綴って命をつないでいたら、兵隊たちがきて、リンゴを欲しがるので、彼等の持っているカンパンと交換もしましたがね。残りのリンゴは砂を掘って隠しておきましたよ。

 

それから私は、少しでも港川に近づいた方がいいと思って、海岸づたいに歩いていたら、海から箱が流れているのを見つけたんですよ。その箱を拾ってきて、石で割ってあけてみたら、中にはバターが入っていたんです。私は海外にいたことがあってバターに馴染んでいたので、喜んでですね、これで当分は生きられると安心しましたね。早速、ンジャヌパーをとってきて、バターをつけて食べていたんですよ。そしたら、防衛隊や兵隊たちが嗅ぎつけてきて、それは何か、と頻りに訊くもんだから、私は足も悪いしどうせ一人で担いで持って行けるわけでもないから、そうだ、と思いついて、このバターは栄養のある上等の油だから、君たちの持っているメリケン粉でてんぷらを作ってみんなで食べようじやないか、と話をもちかけてみたら、相談がすぐまとまったんです。それで、飯盒にバターを移して、てんぷらを作って、みんなで食べたんですよ。それはもうご馳走でしたね。

 

それから二、三日したら、アメリカの軍艦から、兵隊は裸になってデテコイという放送があったんですよ。もうその頃は、食べて生きることしか考えていませんでしたね。私らは、さてどうしようかと、みんなで相談し合ったわけですよ。このままの状態ではどうにもならないし、死ぬ気はないし、捕虜になっても、米軍は殺さないかもしれないと、捕虜になる話に落着いたようでした。しかし実際にはその勇気がなくて、すぐには出ませんでしたよ。

百名の収容所と CIC

それから二、三日したら、米軍は昼間また放送をして、出てこないのなら残念ながら全滅するまで攻撃しなければならない、という意味の最後の勧告をしてきたんです。で、私らはその気になって、私は飯盒にバターを一ぱい詰めて、それだけを持って出て行ったわけです。出て行ったら、アメリカ兵がずらりと小銃を構えて待ち受けていましたよ。そして私らはぞろぞろ歩いて、引張られて白水川の側の米軍のテントのあるところに連れて行かれたんです。そこには金網が準備されていて、男はみんなそこに入れられてね。それから調べられたんですよ。二世が一人びとり呼んで、いろいろと訊いていました。私は兵隊たちよりずっと年上だったですから、生年月日を偽って、明治三十年生まれにして、四十八歳だと頑張ったわけです。防衛隊は四十五歳まででしたからね。

 

そこから百名へ移されてからも、九日間も金網の中に入れられて、何回も調べられましたよ。調べる係官の中には、沖縄出身の人たちも何人かいたんですよ。つい一か月か二か月前まで、米軍を敵として日本軍に協力していた沖縄人がですよ。私は具志堅宗精さんがいたことをはっきり憶えています。この爺さんぐゎは、翼賛会に関係していたはずなのに、戦争の指導者として私らに苦労を強要していたくせに、戦争に負けたら掌を返してまた威張りくさってやがる......と私は思いましたね。私らは陽のカンカン照りの中に立たされて、彼らはCIDと一緒になって、日蔭でいい気になって無責任な顔をしていました。このタンメーぐゎは叩き殺してやれと思いましたよ。強い方にすぐくっついて、······日本の不様はなんだ、日本人じゃないみたいな顔をしやがって......と、私はほんとに癪にさわりましたよ。

 

大城直吉

大城直吉 (十九歳) 兵隊

 

うちなんかは、昭和二十年二月十七日に召集を受けて、入隊した場所は、玉城村の小学校で、球部隊の三田部隊でした。

うちなんかは、二十日間しか教育は受けませんでした。それから、三月十日には、玉城村の中山の近くに陣地構築するために引越したんです。米軍が港川から上陸したときのために備えたわけです。

 

ところが米軍が北谷から上陸して、事情が変ってきました。中山には四月十日までいました。その間に、連隊本部からですね、第一線に出場する必要はない、戦争には勝つから、そこで待機しているように、という連絡がきておったんですよ。ところが、四月十日には事情は一変して、山部隊も石部隊もそうとう戦力を失っているから、ぜひ一線に出場せよ、という命令が出たんですよ。それで、うちなんかは、首里へ行ったんです。

 

うちなんかは、高射砲を引張って、真和志(村)の識名へ行きました。夜の八時に出発して、夜明けに着いたんです。一個小隊に四門でした。そして一門を五名で運んでいました。首里にのぼる坂道にきたら、一門の砲を運ぶのに十四、五名かからないと、あげきれなかったんですよ。

 

その日の昼中は識名の壕に待機して、それから運玉森につづいている弁ケ岳に向かったんですよ。そこには、戦車壕があって、戦車も三十台ぐらいあったんですが、大砲を撃つ壕がなかったんです。ですから、うちなんかは、大砲を家屋敷の中に隠して、夜になると、そこから撃つようにしたわけですよ。大山の方に向かって......。そこには、四日間いました。あんまり敵の榴散弾が激しくとんでくるもんですから、どうせそこにいたら二、三日も持ちそうにないということで、作戦を変えて、真和志村の真嘉比に行ったんです

 

真嘉比の壕には、約十一日間おりました。真嘉比には、大砲を撃つ壕があったんです。外からはぜんぜん判らないようなところでした。そこに来てから間もなく、敵の戦車がわずか四、五十メートルのところまで来るようになったんですよ。最初は三台、その翌日は五台、そのまた翌日は十台と日が経つにつれて多くなってきて、こっちよりも後方に向かって激しい攻撃を加えるんですね。見えるんですよ。こっちは、全く撃つことはできませんでした。撃ったら、最後ですからね。昼はじっとしていて、夜になったら、敵は後退しますから、こっちは安謝橋の方に向かってどんどん撃っていました。夜通し撃って、一門で百五十発ぐらい。敵が通ってくる安謝橋を破壊するんです。ところが米軍は一日で橋をかけてしまうんですね。橋をかけてまたやって来るんですよ。それを三日間くり返しているうちに、とうとう四日目には、敵にこっちの場所を発見されてしまって、こっちの陣地は敵の戦車砲三発で破壊されてしまったんですね。砲門も崩れて、班長兵長も落盤で死んで、合計六名戦死しましたね。
夜になってから、大砲を出してみたんですが、潰されていて使用できなくなっているんですよ。砲弾を入れて撃つところが一番大切な部分ですが、そこの映写機を取って、隊長の命令で壕の中に穴を掘って埋めておいたんです。

 

真嘉比あたり一帯にいた二百五十名あまりの兵隊は、約六十名ぐらい生き残っているという報告がありましたね。そこで、中隊本部には、全部移動命令が出たわけです。ところが、あくる日になると、敵はすでにの上を乗り越えているんですよ。砲門は落盤していますから、後の抜け穴から覗くと、敵がどんどん様の上から進んで行くのが見えたんです。だからもう出られませんから、自分たちはまる一週間、完全に孤立した状態で、飲まず食わずで壕の中にじっと閉じこもっていたわけです。

 

八日目に大雨が降ってですね、隊長の命令が出たんです。壕から脱け出て、首里の坂下の連隊本部に行くように、ということでした。最初に中隊長と小隊長とうちと、戦友の防隊とが、雨の降る中を、壕から出て行ったんですよ。出てはみたものの、砲弾が激しくて、なかなか前に進めないんですよ。周りには、石よりも死んだ人間の方が多いくらいですからね。四、五時間の間に、別の部隊も入れて、六百名ぐらい死んでいるんですから......。だからもうどこにでも死体があったんです。うちなんかときどき死体に抱きついで、死んだまねして一、二分じっとしていてから、照明弾が消えるとまた進んで、それをくり返して少しずつ進んで行ったんです。

 

進んで行っているうちに、連隊本部から応援にきた四十名ぐらいの兵隊たちと出会ったんです。中隊長たちは兵隊たちに案内されて連隊本部に引返して行ったんですが、うちなんか後を追っているうちに、雨はじゃんじゃん降るし方向は判らないし、とうとう前方を見失って、はぐれてしまったんですよ。うちなんかあくる日になってから、連隊本部を尋ねて行ったんです。連隊本部の壕には、将校だけが二、三十名おりましたね。自分らは初年兵ですから、そこにいるのが窮屈で、何もすることはなかったので、うちは戦友二人に、もうこの際は逃亡しようじゃないか、と話を持ちかけたわけです。八日間も食事はしてないし、体は衰弱しているし、ここにいても死ぬほかはないと思ったからでした。逃げたら銃殺だよ、と防衛隊が言うもんだから、銃殺でもいいじゃないか、どうせいつかは死ぬんだから......むしろ、どこかでイモでも掘って食ってから死んだ方がましだよ、と言い返してやって、誘い出したんです。

 

そして三名は、軍服も武器も捨てて、裸になってですね、連隊本部の裏から、雨の降る日中、識名の方へ逃げて行ったんですよ。そしてうちなんかが、識名のもとの陣地を覗いてみたら、負傷者だけが残っていましたね。外は砲弾が激しいし、逃げようにも逃げられないので、そこでまた脱ぎ捨てられた軍服を着たんですよ。わずかながら食糧もあったので、三名はそこに五日間ぐらい閉じこもっていました。そのうちに、兵隊たちが寄り集ってきて、十四名になったんですよ。そこでみんな一緒に、南部へさがって行ったんです。

 

十四名は玉城村の前川にある陣地壕に行ったわけですが、後でうちなんかの中隊長もきたんです。そこに集まった生き残りは、二十五名でした。そこにも間もなく敵の攻撃が迫ってきて、とうとう全員一緒に、そこから具志頭の玻名城の前のタタナジョウ(具志頭城趾)の側にある大きな自然壕へ入ったんです。

 

タタナジョウの壕には、無電器が置いてありましたね。そこは恐らく軍の施設のある壕としては最後の場所だったと思いますね。そこにも一週間ぐらいしたら、敵が攻めてきたんですよ。敵の戦車がきてですね、火焰放射器で、そのへん一帯をぜんぶ焼き払ったんですよ。そのときに、壕の入口で、戦闘配置についていた兵隊たちは、みんな焼き殺されたんですよ。別の部隊の兵隊たちも入れて約百名、そのときに死んだんですよ。二十分間ぐらい、人体が黒こげになるまで燃えていましたね。幸にうちなんかは、足を怪我していたもんですから、壕の奥に入っていたので、助かったんです。

 

それから生き残った二十名あまりは、夜になってから、飯を炊いて食べて後、小隊長の命令を受けたんです。お前らは兵器もなにもないんだから、三、四名ずつ一緒になって東風平方面に行って、弾薬を探して、斬込み隊になって敵の戦車を攻撃してこい、と言われたんですよ。それで、うちなんか三名は、出て行ったものの、東風平方面はすでに敵が完全に包囲しているんですから、行けるはずがないので、兵長の指揮でギーザバンタへ行ったんですよ。

 

もうその頃になると、うちなんか敗残兵の気持だったし、戦どころではなく、眠ることと食うことだけしか考えてないんですよ。ギーザバンタでは、避難民の入っている壕に入れて貰って、三日間いました。ヤマトンチュの連れの兵隊二人に、お前はイモを掘ってこい、おれたちは水を汲んでくるから、と言いつけられて、うちは明方出かけてイモを掘って持って帰ってきたんですよ。ところが、ヤマトンチュの二人は、帰ってこないんですね。あの二人がマッチを持っていたし、水がないとイモも煮ることができないので、私は探しに行ったんです。井戸端まで行ってみたら、あっちこっちに死体があるだけで、二人は見つかりませんでした。

 

諦めて壕に帰ってみたら、別の兵隊たちがきていて、うちが準備しておいたイモを、取って食っているんですよ。うちが怒って、なんで人のイモを勝手に取って食べるのか、とたしなめたら、一人の兵隊が、誰のでもいいよ、一緒に食おうじゃないか、と言われて仕方なく、うちも一緒になってなまイモを食べたんです。

 

そしてその翌日、兵隊たちがうちに訊いたんです。ここから喜屋武岬までは何十里あるか、で、うちが約二里ぐらいしかないだろうと答えたら、馬鹿云えと怒鳴りつけられ、お前はどこの人間か、と訊かれたので、自分は具志頭村の港川の出身だ、と答えたら、すぐ顔を殴られて、馬鹿野郎、と怒鳴りつけられたんですよ。いいかげんなことを言っていると思われたんでしょうね。うちも腹が立って、じゃ一緒に行ってみましょうか、と詰問したら、もっと侮辱されたんです。お前なんかと一緒に行動できるか、お前は沖縄人だから、死んでもいいが、自分らは内地の人間だから生きなくちゃならない、と言うんですよ。それで、うちもこいつらとは一緒におれないと思い、あんたたちと一緒にいたら犬死するにきまっているから、こっちから逃げるよ、と彼らが見ている前で逃げ出したんですよ。そして山の中に隠れて、夜になってから、水のある所を探しに出かけたんですけど、疲れてもいたし、途方にくれた気持になって、ギーザバンタの、今の水源地のある所の崖の上の、一番てっぺんに坐っていたんです。

 

そこへ避難民がきて、どこに行ったらいいかしら、と方言で訊いていました。九名ぐらいの家族で、女と子供ばかりでした。その話し方から、具志頭の人たちと判って、自分も具志頭村の川の出身だが・・・と打明けて、急に親しくなったんです。その人たちも男手がなくて困っているらしかったし、うちも一人では心細かったので、一緒にさせてくれませんか、と頼んでみたんです。そして一緒になることになって、その代りうちは、その人たちの荷物を担いで、そこの崖をおりて、海岸に出たわけです。それから海岸の岩の間の穴を見つけて、そこに一週間ぐらいいました。食糧といえば、その人たちが持っているだけでした。夜だけ御飯を炊いて、みんなで分けて食べていましたが、もう米は残り少なくなっていました。うちはその人たちと一緒にいるのが辛くなっていました。ちょうどその頃、アメリカの軍艦から捕虜になるようにという呼びかけの放送があったんです。それでうちは、あんたたちは一般住民だから捕虜になった方がいい、自分は兵隊だから捕虜になるわけにはいかないので、港川の方へ逃げるから......と言い残して、うちは一人で出て行ったんですよ。

ギーザバンタで捕虜になる

一人で港川の方に向かって歩いて行ったら、もう進めない所にきていました。前方は昼も夜も、激しく弾を撃ちこんでいるんですよ。片っぱしから日本兵を撃ち殺しているようでした。うちは身の危険を感じて、軍服を脱ぎすててパンツ一枚になって、海岸のあっちこっち逃げ廻りながら、を探して歩いたんです。やっとを見つけて、入ってみたら、そこにはちょうど港川の人たちが入っておったんです。女子供だけで十四、五名でした。同じ部落の者同士というわけで、いろいろと親切にして貰い、うちが裸なので女の着物も貰ったんですよ。米軍は何度もデテコイデテコイと勧告していました。そこでうちは、みんなに言い聞かせたんです。どうせ死ぬのなら、捕虜になって、飯でも食ってから死んだ方がいいじゃないか。もうこれ以上ここにいても、飢え死にするんだから...そしたら若い女の人が、あんたは男だからいいけど、私たち女性はどうされるか判らないんだから...・・・・・黒るんだったら、あんた一人出て行ったらいいでしよう、と言ったんです。それでためしに出てみようという気になったんです。よし、じゃ子供を貸して下さい、ぜったいに子供は殺さないから......と母親に頼んで承諾させたんですよ。そしてうちは、二歳になる子供をおんぶして、四歳になる子供の手を引いて、片手を揚げて、出て行ったんですよ。出て行ったら、アメリカ兵がすぐ撃とうとしました。うちは手を揚げたまま立っていました。アメリカ兵は撃ちませんでしたね。二世が、みんなデテコイ、と叫びました。うちも壕に向かって、大丈夫だから、みんな出てきなさい、出ないと手榴弾をぶちこまれるよ、早く出なさい、と言ったんです。すると、女子供たちは、わあわあ泣きながら、ぞろぞろ出てきたんです。その日は、六月二十七日でした。

 

アメリカ兵たちは、ひとりびとり抱いて崖の上にあげてくれました。そして上の原っぱに集められ、うち一人だけは別にされて、うち一人だけジープに乗せられ具志頭小学校の前の橋のところにおろされたんです。そこの広場には、男だけの捕虜が大勢集められていましたよ。周りには、アメリカ兵が軽機関銃を向けて立っていました。


うちは、そこから当山の収容所に入れられてから、後で志喜屋に移されたんです。志喜屋では一般住民も一緒でしたが、兵隊だったものは殺されるという噂がとんで、うちは大変なことになったと思い、民家の天井裏に二週間ぐらい隠れていましたよ。

 

ところが後で、十六歳から四十五歳までの男はみんな引張り出されて、百名の金網の中に入れられたわけですよ。そこでは、兵隊だったか防衛隊だったか、いちいち訊問され、厳しく調べあげられたんです。嘘をついてばれた者は、したたか叩かれていましたよ。

 

うちなんかも、嘘をついて、兵隊には行かなかったと押し通して、一週間で調べは終って、港川出身ということで、漁業班として十四、五名の中に入れられて、海岸の側の新原部落に行かされたんです。そこで毎日のように魚をとる仕事について、とった魚は、配給に出していました。

 

長嶺 栄

長嶺栄(十六歳) 農林学校三年

農林鉄血勤皇隊 ~ 嘉手納からの撤退と解散

ぼくなんかは、学校から組織されて鉄血勤皇隊として、学徒動員されてですね、今の嘉手納飛行場、当時は中飛行場といっていましたが、そこへ三月下旬に派遣されました。そして弾薬や食糧運搬などをやっていたわけです。

 

四月一日に、アメリカさんが北谷に上陸したので、その晩に、もう飛行場は危険だからというわけで、国頭に移動を開始したわけですよ。それは強行軍で、一晩で金武の鐘乳洞、あの自然壕に辿りつきました。それから一時間後には、四、五名で隊を作って各自思い思いに国頭へ進んで行け、という命令があって、解散したわけです。ぼくは壕の中で一休みしているときに、親戚の人たちと出会ったんですよ。その金武の洞窟には一般の住民も避難していましたから・・・。あり得ることでしたが、それにしても偶然でした。二日目に、親戚の人たちと一緒に、ぼくたちは宜野座方面に向かって出て行ったわけです。ぼくは従兄と二人で、天秤棒を担いで油を入れた大きな甕を運んで行ったんです。途中でときどき砲弾がとんでくるもんだから、ぼくたちは夢中で伏せたりして進んで、親戚の人たちの後を追って行ったわけです。宜野座についてから、甕が頭だけになっているのに気がついて、なんだは割れてしまっていたのか、こんなものを運んでいたのか、とぼくは自分ながら呆れたものでした。

 

それから四月三日に、古知屋について、山奥に壕を見つけて、入っていたんです。食糧は持てるだけ持ってきていましたから、節約して食べてはいたものの、それほど不自由しませんでした。

 

そのうちに、壕の外を見たら、すでにアメリカさんが小銃を構えてきているんですよ。そして、デテコイ、デテコイ、するんですね。そのときぼくは非常に慌てましたよ。ぼくは軍服を着ていたもんですから、これは大変なことになったと思い、急いで軍服を脱ぎすてて、女の着物を借りてその場で着たんです。

 

またアメリカさんは、デテコイ、デテコイしました。出ないと、手榴弾を投げこまれるかもしれないから、出ようということになって、親戚の人たちから先に恐る恐る出て行ったんですよ。ぼくも従いて出てみたら、アメリカさんは、チューインガムと煙草をみんなに渡していました。それから、男だけ一列に並ばせて、二世を通じていろいろと質問したんですよ。そしてぼくには、お前は何歳かと訊きました。十六歳と答えたら、両手を揚げる、と命令されて、両手を揚げたら、ぼくの腋毛を見て、お前は一人前の大人だから、十六歳じゃないだろう、と言うんですね。ぼくは学生だと言ったんですが、ぜんぜん信用しないんですね。

石川民間人収容所 ~ 読谷飛行場での軍作業

それから、選び出された男たちだけは、トラックで石川へ運ばれたんです。
石川では、男だけの収容所に入れられて、そこから、米軍の作業に強制的に出されたんです。その頃、男はそのうち殺されるという噂があったもんですから、ぼくは金網越しに民間の人に頼んで、女の物をつけて風呂敷で頭を覆うて、しばらく女装していたんです。女装しているのは、ぼくだけじゃありませんでした。だけど、女と間違えられて、収容所から出されるというようなこともなく、また殺しそうな気配もありませんでした。

 

一週間したら、みんなに作業服が支給されました。そしてぼくたち二百名あまりの若い男は、読谷の飛行場につれて行かれてですね、そこの雑多な作業に出されたわけです。

 

米軍が占領したその飛行場は、あれはてていたので、整地したり、またアメリカの輸送機からおろされた食糧や兵器を、自動車に乗せたり、一定の場所にかたづけたりする作業でした。

 

戦争がどうなっているのか、まったく判りませんでした。読谷の飛行場内と石川の収容所内とを往復しているだけでしたし、どんな情報も入ってきませんでした。

 

ただ一度だけ、勇敢な日本の特攻機を見ましたね。真昼間、日本の特攻機が一機飛んできて、読谷の飛行場に着陸したんですよ。見ているうちに、特攻隊は、アメリカの飛行機にガソリンをふっかけて火をつけて、次々燃やしてから、飛んで行ったんですよ。もう大騒ぎでしたから、後はどうなったか判りません。ただぼくたちは、後でアメリカの飛行機の残骸を片づけるのに、一週間かかりましたけどね。片づけながら、特攻隊はよくやったなあと思い、感激したことがありましたよ。

 

その後はアメリカの飛行機しか見なかったし、戦争の恐ろしさを感じるような機会もありませんでした。ただ精神的な屈辱感はありました。アメリカさんのために、ただ働きしているんですから...。

 

食糧には困りませんでしたね。収容所には、炊事班があって、朝昼晩の食事をちゃんと準備してくれていました。ただ味噌汁がなくて、塩味の汁だけでした。米も罐詰も、そうとうありました。また仕事場で、アメリカさんが石鹸やらガムやら煙草やらくれるんですよ。その頃、ぼくは読谷の飛行場で、アメリカさんの看護婦の世話役を一か月させられました。一種の下僕みたいな仕事でしたね。若い金髪の女でしたが、ぼくのことを、なんと思っていたんでしようかね? 兎に角、部屋の掃除、走り遣い、洗濯、なんでもさせましたね。暑いときは、自分は椅子に腰掛けて、背後から扇であおぐように言いつけられました。また、入浴するときは、三助みたいに彼女の軀を洗ってやらなければなりませんでしたよ。

 

石川の収容所に三か月いるうちに、日本が戦争に負けたというのは、一般の住民の様子やアメリカさんの態度で感じていました。石川からは宜野座へ移されました。宜野座にも、男だけの収容所があり、そこに一か月おったんです。それから突然、もう各自、自分の家族の所へ帰ってもいいという許可がおりたんです。

港川へ - 百名収容所と CIC

それでぼくは親戚の人たちと一緒になって、九月上旬に、玉城村の志喜屋に帰りました。ところが、志喜屋でもまた、取り調べを受けたんですよ。お前は兵隊だったんだろう?戦車は何台ひっくり返したか?アメリカさんを何名殺したか?と、頭から決めてかかったように、すぐそんな質問を受けて、びっくりしましたがね。かまかけて、訊くんですよ。馬鹿ばかしいくらいでした。取り調べる人たちは、アメリカさんと二世と沖縄人の三名でした。やっとぼくは、学生に間違いないということになって、放免されたんです。

 

その後、ぼくは知念高校に入学しました。
港川に帰ってきたのは、翌年の五月頃でした。部落は、どこもかしこも土が掘り起こされたようになっていて、樹も家も石垣も、何もかもなくなっていました。

 

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