八重山農学校の学徒兵

八重山鉄血勤皇隊は、沖縄県八重山農学校と沖縄県八重山中学校の2校の隊があった。八重山高等女学校の女学生が野戦病院従軍看護婦として各部隊に配置された。

 

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発見された新資料

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沖縄と戦争 | NHK沖縄

沖縄戦の学徒の死者5人 資料で判明 これまで「0人」だった八重山中学校、八重山農学校
2019年11月26日

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国立公文書館に保管されている八重山中学校と八重山農学校の学徒名簿と死亡現認証

 

 沖縄戦に動員された学徒のうち、県立八重山中学校、県立八重山農学校の名簿が25日までに見つかり、少なくとも八重山中学校の3人、八重山農学校の2人の名前が記されていることが明らかになった。名簿は旧厚生省(現厚生労働省)から国立公文書館に移管された資料で、亡くなった場所や状況などが記された「死亡現認証」も含まれていた。県は両校の動員数について「不明」、死亡者数は「0人」としているが、公的な資料で死亡した学徒がいたことが裏付けられた形だ。松城中学校(那覇市)の大城邦夫教諭が国立公文書館に資料請求し、公開された。

 

 公開された資料は両校の「学徒名簿」と「死亡現認証」が一つづりとなっている。八重山中学校の部隊編入者名簿には喜舎場信栄さん、玉城現信さん、通事正浩さんの3人の名前があり、喜舎場さんと玉城さんは石垣島内でマラリアによって死亡、通事さんは糸満市摩文仁で銃撃を受けて亡くなったと記載された。

 

 八重山農学校の部隊編入名簿には平田勇助さん、西島本永吉さんの名前があり、いずれも石垣島内でマラリアによって亡くなったとされている。

 

 一方、同資料に含まれ、厚生省が作成したとみられる「沖縄未帰還者連名簿」によると、八重山中学校は喜舎場さん、通事さん、八重山農学校は平田さんの名前しか記載がなかった。そのうち、通事さんは特別幹部候補生として県外の航空兵学校へ入学途中に沖縄戦へ動員されたとの記載があるため、「学徒」の範囲に含まれないとみられる。今後の検証が必要となる。

 

 今回新たに見つかった名簿について、ひめゆり平和祈念資料館の普天間朝佳館長は「名前や部隊名などが記されており、学徒動員されていたことを裏付ける貴重な資料と受け止めている」と語った。大城教諭は取材に対して「学徒は沖縄本島ばかりに目がいきがちだが、離島も関係なく、巻き込まれたことを知ってもらいたい」と語った。(池田哲平)

 

八重山農学校の学徒隊

八重山農学校生徒の体験談:

『5月頃であったろうか、他の隊員たちは開南に移動して特訓が続けられたようであるが、私たち数名の者は旅団本部付きとなった。小学校裏の墓地に通信機材を運びこみ、引き続き激しい特訓を受けつつ軍務についたが、成績が上がらないといっては木刀や竹刀でたたかれることがあった。

… 空襲も激しくなり、旅団本部のある校舎をめがけて機銃掃射やロケット弾が落ちた。校門の近くの松の木の頂上には対空監視班がいて、「〇〇度の方向、爆おーん!」などと大声で叫んでいたことが印象に残っている。…(『市民の戦時・戦後体験記録』第3集より)』(223-224頁)

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 218、221、223-224頁より》

八重山中学校生徒の体験談:

6月上旬、私たちに突然移動命令があり、開南に移動した。そこでは◯と合流して八木中隊に再編入された。直属の上官は大橋勲という東京帝国大学出の見習士官だった。その日から起床ラッパに明け、消灯ラッパに終るという完全な軍隊生活が始まり、飯盒等も支給され、給料も二等兵待遇の13円50銭であった。その次は17円50銭支給された。しかし、それは金額が記入された紙切れに過ぎず、現金を手にしたことはなかった。食事は玄米と乾燥竹の子、ひじき、こんぶの連続で、飲み水事情も最悪であった。ほとんどがマラリア、パラチフスにかかり、元気な者は於茂登の山奥へ弾薬を背負って運搬するのが日課となった。…

7月上旬、また移動命令が下り、私たちは徒歩で於茂登岳の奥深くにあった旅団本部に移動した。そこはさすがに旅団本部とあって、食事も俗にいう銀飯だった。勤務といえば、1日3回の輪番の飯上げ当番以外は、上官のマラリア解熱の看護やドラム缶の風呂焚き程度の日課で日が暮れた。…

8月12日、ついに私たちの鉄血勤皇隊は、当分の間自宅に帰って待機するよう命令が下った。…石垣市史編集室『市民の戦時・戦後体験記録』第1集 石垣市役所より)』(222頁)

《 「人生の蕾のまま戦場に散った学徒兵 沖縄鉄血勤皇隊」 (大田昌秀 編著/高文研) 217、218、222頁より》

 

八重山農学徒隊(女子): 沖縄県八重山農学校

生徒の体験談 ①:

『農学校を卒業したばかりの私たち10数人は、従軍看護婦として、4月から看護学の講義と実技を受けることになり、…軍の指導を受けた。その頃から空襲が激しくなり、何度も墓の中に入ったり出たりしながらの勉強だった。

5月に入ってからは、疎開をした住人のいない茅葺きの家を兵隊が壊していたが、その材料を私たちがリヤカーに積み込んでトラックまで運び、さらにトラックに積み込んで山の中に運び、そこで病室や宿舎を造ることになっていたのである。

6月6日に、私たちは野戦病院の看護婦として於茂登へ行くことになった。丁度梅雨時で、山道は険しく、トラックも途中までしか通らない。それから先は、馬と私たちの手で運ぶしかなかったのだ。ひざの深さまでもあるぬかるみの中を、馬の足跡に足を取られながら、すべったり、転んだり、大変な所へきたもんだと心の中で泣きながら、お互いに励まし合って、やっとのことで、野戦病院にたどり着いた。

翌日から、兵隊たちといっしょになって防空壕掘り。内科用、外科用、薬剤室など数多くの壕掘り作業が続いたが、私たちは工事用材料の運搬や、途中までトラックで運ばれてきた荷物の運搬と、毎日が重労働の連続だった。

看護婦として来たはずの私たちが、ある日荷物運搬に行く途中、敵機と交戦した日本軍の高射砲弾の炸裂にあい、その破片で4、5人の者が負傷をしてしまった。

…やっと落ち着いた頃から、於茂登の病院にも運び込まれるようになり、看護婦も作業班と看護班の二手に分かれての奮闘だった。

患者たちのほとんどがマラリアと下痢患者だったが、…最も気の毒なのは重傷患者であった。薬品不足のせいもあったと思うが、充分な看護もしてもらえず、ただ死を待つばかりの人たち。死亡時刻を確認するため、私たちは患者の脈はくを取り続けるのだった。死亡者が出ると軍医が確認する。あとは私たちの手で処置をし、屍室まで担架に乗せて運ぶのだが、雨の中を山の赤土はとても滑るし、…小川の丸木橋を渡る時に、滑って死体を担架から落としたこともあった。』(222-224頁)

生徒の体験談 ②:

『6月6日、私たち学友はいよいよ於茂登へ出発することになった。16名の従軍看護婦は3班に分けられた。非常袋や頭巾を肩からかけて、…川良山中を通り、開南の野戦病院本部へ着いたのが正午だったと覚えている。

開南病院では、看護婦たちが忙しそうに立ち回っているのを見て、目前に迫る戦闘感をひしひしと感じた。開南を発って、ようやく私たちの職場である於茂登へたどり着いて、覚悟を新たにしたものだ。

終戦も間際になって開南から傷病兵が送られて来たので、交替で病院勤務をさせられた。初めての看護勤務だったが、その兵士は息も絶えだえで、虫の息の状態。…衛生兵が注射器と薬液を持ってやってきた。「これを打っておけ!」と渡されたのを見ると、「強心剤カンフル」と書いてあった。私たちは「まだ、注射をしたことはありません」と答えたところ、衛生兵は「これは皮下注射だから、誰にでもできる」と言って、一針打ってみせてくれたが、患者は顔の筋肉すら動かさない。…戦争はこんなに人の命を粗末にするのかと思うと情けなくなった。この兵士はとうとう明け方、息をひきとった。』(225頁)

《「沖縄戦の全女子学徒隊」(青春を語る会・代表 中山きく/有限会社フォレスト) 222-224、225頁より》

生徒の体験談 ③:

『7月頃、傷病兵が入院するようになった。私たちは1班から順に看護につくようになった。病棟いっぱいに横たわる入院患者、軽い人も中には幾人かいたが、多くは重症患者だった。やせこけて、目だけ大きく見えた。
…夜勤は一人であった。…ふと気がつくと、「看護婦さん、看護婦さーん」と、細い声がする。患者が水を欲しがっているのである。しかし、水は「絶対に、飲ませてはだめ」と、強く言われている患者である。もう少し我慢するよう、なだめ、すかせるが、「死んでもよいから、水が飲みたい。今、夢で水がでてきた。喜んで飲もうと思ったら、目がさめてしまった。もう少しだったのに」と、かすれた声で悔しがっていた。その後、この患者は勤務交替後、2、3日して死亡した。「可哀想に、どうせ、こんな結果になるのであれば、飲みたいだけの水を飲ませてあげれば良かったのに・・・」と、胸を痛めた。』(227-228頁)

生徒の体験談 ④:

『私たち農校女子は、雨にビッショリ濡れての芋の植え付けから糧秣運搬など、於茂登山の道なき道のそれこそドロンコ坂を足をとられないように、足先でさぐりながら一歩一歩踏ん張って登った。…しばらくして病棟の勤務となった時、病院全体が敵に狙いうちされ、毎日のように50キロ爆弾、焼夷弾、機銃掃射があり、戦場のまっただ中であることを実感させられた。

爆音が遠くから聞こえて来ると患者達は大さわぎ。自分よりも大きな体をした傷病兵を支えながら避難壕へ案内し、看護婦は機銃のすさまじい音を耳に手をあて、敵機の去るのをふるえながらじっと待つしかない。歩くことの出来ない傷病兵たちが「看護婦さん、看護婦さん」と叫ぶのだが、何をする事も出来ない。近くに衛生兵は見つからず、看護婦だけの力では、寝ついたままのその人たちは、どんな思いで時を過ごしたのだろうか。』(229-230頁)

《「沖縄戦の全女子学徒隊」(青春を語る会・代表 中山きく/有限会社フォレスト) 227-228、229-230頁より》