「防衛隊」という民間人の根こそぎ召集 

米軍の捕虜記録には、日本軍が地元の民間人を根こそぎ召集し、戦力として消費した防衛隊とよばれる部隊の生き残り証言も多く残されているが、地元民への差別や、理不尽な前線への投入、そして捨て駒のように切り捨てられた人々の慟哭が刻まれている。このような残虐な仕打ちから、部隊を捨て逃亡する者も多かった。

 

防衛隊とは

社説[戦後70年 地に刻む沖縄戦]防衛隊 ひんぎーしる ましやる
2015年3月17日 05:30

 

 八重山の大浜国民学校に勤めていた石垣正二さん(沖縄戦当時32歳)が防衛隊に召集されたのは、10・10空襲から1カ月後の1944年11月のことである。

 

 酒屋、写真屋、食堂の亭主、商店主、農民、漁夫。指定された登野城校に集まった人たちは、寄る年波から体が硬くなって動作もぎこちなく、「兵隊という観念からはおよそ遠い存在だった」(石垣正二『みのかさ部隊戦記』)。

 

 県立中央図書館の司書だった池宮城秀意さん(当時38歳)は45年2月、防衛召集を受けた。「17歳の少年と47歳のおやじに、同じように行動しろといっても、無理である。それは軍隊にはならない。ただの集団であった」(池宮城秀意『沖縄の戦場に生きた人たち』)。

 

 45年3月上旬にも、県内各地で大がかりな防衛召集が行われ、どこの地域でも、男という男はほとんど、根こそぎ軍隊に取られた。「現地自活に徹し、一木一草といえどもこれを戦力化すべし」-それが沖縄守備軍の方針だった。 一木一草とは決して比喩ではない。戦闘の足手まといになると判断した老幼婦女子や病者以外の、学徒を含む動ける男女すべてを、補助兵力として根こそぎ動員することを意味した。

 

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 防衛隊は沖縄戦を語る際に欠かせない存在であり、ある意味で学徒隊以上に沖縄戦を象徴する存在である。だが、本土ではその実相はほとんど知られていない。

 

 防衛隊は「陸軍防衛召集規則」に基づいて召集され、各部隊に配属された人々のこと。17歳から45歳までの兵役にもれた男性が対象だったが、実際には人数をそろえるため部隊の判断で対象年限を広げている。

 

 沖縄戦史家の大城将保さんによると、約2万5000人が防衛召集を受け、そのうち約1万3000人が戦死したという。

 

 米軍上陸前は、飛行場建設や陣地構築などが主な任務だった。防衛隊員は自分たちのことを自嘲気味に、「棒兵(ボーヒー)隊」、「苦力(クーリー)隊」「みのかさ部隊」と呼んだ。

 

 米軍上陸後、戦闘が激しくなると、防衛隊員は、守備軍の正規兵が壕の奥深くに身を潜めているときも、弾薬・食糧運搬、夜間斬り込みの案内など、危険な仕事を割り当てられることが多くなった。

 

 戦況が悪化するにつれて戦線の至る所で防衛隊員と正規兵の関係が崩れ始めた。浦添では、食事の配給をめぐって防衛隊員と正規兵が衝突し、壕のろうそくを消して殴り合うという事態も起きている。

 

 「ボーヒー隊どぅ、やるむんぬ、ひんぎーしる、ましやる」(どうせ棒兵隊なんだから、逃げて家族のもとに行ったほうがいいさ)。

 家族を残して召集された防衛隊員の中には戦線を離脱し、家族のいる壕に駆け込む人が少なくなかった。

 

 学徒隊と比べると、防衛隊のこの戦場での行動は際立っている。なぜ、このような違いが生じたのだろうか。

 

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 琉大名誉教授の米須興文さんは、あるインタビューで、身近で起きた「事実」を紹介している。

 

 「私の曽曾祖父は沖縄戦で迫りくる米軍第一線から逃れて南部に向かう途中、山羊(やぎ)に餌をやるのを忘れたことに気づいて家に戻ったところを米兵に射殺されたのです」。戦線を離脱した防衛隊もこのような行動規範を持っていた人々ではなかっただろうか。

 

 将来を担う島のエリートとして皇民化教育のシャワーをたっぷり浴びた若い学徒隊。多くが家族持ちで、負け戦のために命を捨てるのはばかばかしいと感じ、家族と一緒にいることを選択した防衛隊。両者の違いをどう解釈し、今後に生かしていくか。この課題の切実さは増すばかりである。

 

新川シズコの証言

米軍調書

「看護婦がいうには、(西原村の)民間人は、作業部隊として徴兵されたのではなく、斬り込み隊として動員されたという。これら人々は、米軍が村に侵入すれば、斬り込みすることになっていた。」

新川看護婦が指摘するとおり、西原村からの防衛隊は歩兵第63旅団だけでも200人が配属され、さらに近隣の宜野湾村から同旅団への防衛召集者270人を加えると500人余が、西原村一帯に配置されている。特に西原村出身の防衛隊員は、第63旅団独立歩兵第14大隊に集中的に配置され、西原集落そのものの守備に任じていた。新川証言によれば、彼等は作業部隊ではなく、文字通り必死の「斬り込み隊」であったという。

《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言-針穴から戦場を穿つ-』紫峰出版 2015年 p. 123. 》