八重山の鉄血勤皇隊は、沖縄県立八重山農学校と沖縄県立八重山中学校の2校の隊があった。八重山高等女学校の女学生が野戦病院の従軍看護婦として各部隊に配置された。
日本軍はアメリカ軍の進攻を阻止するため、旅団を置いた石垣島で徹底抗戦の作戦に出ました。しかし、空襲は日増しに激化。このため、八重山旅団司令部は、八重山高等女学校の生徒たちを看護に従事させるための措置をとります。看護指導をしたのは陸軍病院の軍医ら。3月に入ると空襲を避けながら墓地や松林の中で行われました。
女生徒たちはその後、野戦病院や陸軍、海軍の病院に配属され、空襲の犠牲者やマラリア患者の看護に従事しました。当時、生徒たちが、飲み水や看護術に利用した井戸。当時の松林は住宅街となり井戸だけが残っています。
八重山高女学徒隊
八重山高女学徒隊: 沖縄県立八重山高等女学校
生徒の体験談 ①:
『昭和20年4月、八重山高等女学校の1期生60余名は、陸軍病院、野戦病院、海軍病院の3カ所に配置された。私は第28師団第3野戦病院に配置された。
…野戦病院に運び込まれた患者は負傷兵より、マラリア患者が多かった。マラリアは、蚊によって媒介されて高熱がつづき、脳症をおこす怖い病気である。マラリアには、三日熱、四日熱、熱帯熱があり、三日熱は三日に一度高熱が出る。四日熱は四日に一度高熱が出る。熱帯熱は毎日高熱が出ると教えられた。石垣でのマラリア患者は、ほとんどが熱帯熱であったらしい。熱が出る前は背中がぞくぞくと寒くなりブルブルと震え出し布団を2、3枚かぶせ、その上から人がおさえないと、震えは止まらなかった。そのあと高熱が出る。水も無いので井戸水を急須に入れ、ジョロジョロと頭にかけ通しであった。ようやくなおっても顔色は非常に青ざめ、頭の毛は抜け、やせこけていた。戦時中、蚊の多い原野や山中に避難したのでマラリア患者が多かった。野戦病院でのマラリア患者には、投薬されたが民間人には、薬がなく死亡する人も多かった。』(206-207頁)
生徒の体験談 ②:
『昭和20年3月頃、私達1期生は陸軍病院と野戦病院に配置され、私は陸軍病院班になり、石垣国民学校の裏の墓地でひき続き看護術教育を受けた。空襲が頻繁になり、その度ごとに墓の中に避難した。
ある日、私達の中から海軍病院へ10名行く事になった。…海軍病院は、バンナ岳の麓にあり、海軍警備隊の井上部隊が駐屯していた所であった。早速医務室勤務に回され一般看護婦と共に医療業務についた。…バンナでは、1、2回の空襲はあったが、不思議と少なかった。多分敵機はバンナ上空で反転し、飛行場への攻撃をねらっていたと思われる。各部隊からの負傷者が毎日のように運ばれてきた。看護術教育を受けたが、軽傷患者ならともかく、いざ手術となると気弱な私にとっては、見る事さえ大変だった。…特に手足等の切断の際は、逃げるにも逃げられず、執刀医にメスや手術用器具を手渡しては手術台から離れ目を閉じたりした。
ある日艦砲射撃があり4、5人の負傷兵が担ぎ込まれて来た。その中に40才位の瀕死状態の兵士がいて、かすかな声で「水、水」と要求した。軍医は脈をとったりしたが「駄目だ」と言うなり「水を飲ませてあげなさい」と言われた。衛生兵は水を飲ませた。しばらくして、その兵士が、はっきりした声で「天皇陛下万歳」と言うなり、こと切れた。まわりは、水を打ったようにシーンとなった。
…日がたつにつれ、私達も恐ろしさ等に馴らされ、死亡した兵隊の爪や髪を切ったり棺桶に入れる事や死体処理も苦にならなくなった。』(204-206頁)
《「沖縄戦の全女子学徒隊」(青春を語る会・代表 中山きく/有限会社フォレスト) 204-206、206-207頁より》
生徒の体験談 ③:
『戦況が次第に厳しくなってくると、石垣国民学校の裏にある墓を開けて、病院の代わりとして使われた。病院と化した墓には、腕を切断された兵隊や発熱した兵隊などが次々と運び込まれてきた。
…私は田本家の大きな墓に入り、そこで作業をするほか寝泊りをした。墓の中には湿気が広がり骨壺があるが、死を覚悟しているので、何も怖くなかった。
…墓は病院の代替施設になっており、私たちは患者を看病するために、機銃掃射を避けて、墓の間を往来した。石垣国民学校の裏には洞窟があったが、そこに爆弾が命中して亡くなった人もいた。爆弾投下で墓の入口が破壊されたこともあった。
空襲が段々激しさを増すと、陸軍病院は石垣国民学校から於茂登岳に移転することになった。開南集落から於茂登岳の入口までは陸軍のトラックで行ったが、…その後は徒歩で行くしかなかった。
…於茂登岳の旅団司令部は、兵舎として使われていた八重山高女の校舎を壊し、その資材を用いて建てられた。…河川の側に陸軍病院の看護舎があって、私たちはそこで学友とともに寝食を共にした。』(209-211頁)
生徒の体験談 ④:
『…30代の兵隊が壊疽で左腕の付け根から切断することになった。広い亀甲墓の中は、手術準備で駆け回る人や、患者の呻き声で重苦しい雰囲気になっていた。通常は麻酔をして手術に入るが、麻酔薬がないので生身の手術となった。患部を残し、白布で体を覆い、両足、右手、頭が動かないように押さえた。私も衛生兵とともにその任務に当たった。軍医は、「日本軍人なら我慢しろ」と言うや否や、メスで肉をバサッと切り、鋸でゴシゴシと骨を切り落とした。私は患者の絶叫や悶えに倒れてしまい、「これぐらいのことで倒れて看護婦が務まるか」と軍医に叱られた。
…彼は何日か後にも右手を切断し、身動きのできない状態になっていた。この患者の包帯交換が大変だった。2日おきから3日おきの交換になると、傷口の包帯は膿で被われ、その上を蛆虫が所狭しと這い回っている状態であった。
…その他、顎のケガで下顎が外れ、ぶら下がった人、腹部を機銃弾が貫通し腸が飛び出ている人、骨と皮の痩せ細った人など、様々な患者が次々と担ぎ込まれた。』(218-219頁)
生徒の体験談 ⑤:
『陸軍病院に配置されて、まもなくして米軍機による空襲があり、全身黒焦げに火傷した人、両足のない兵隊などが担架で運ばれて来た。私はその光景を見た途端、卒倒してしまい軍医に叱られた。宮鳥御嶽の西方には空家が並んでいたが、病室はそこを使用した。病室には負傷兵やマラリアにかかった兵隊がずらりと寝込んでいた。私たちは負傷兵らの体温を測定し、井戸水を運んで頭を冷やしたりした。
石垣国民学校の北側だと記憶しているが、自然の洞窟があった。そこには多くの兵隊が山入りしていて、私たちもそこを利用した。
…空襲になると私たちは、洞窟には入れなかった。洞窟は全て兵隊が使っていた。私たちは周囲にある墓を使用した。
…昼夜を問わず、米軍機は飛んで来た。…街中には人影などはなくなり、病院もそれぞれ山奥に移転することになった。私は陸軍病院から開南にある野戦病院に配置替えを言い渡されたが、その前に親との面会を許され、小浜島に行くことになった。…私は島には帰ったものの、再び石垣島に行く親の許しを得ることができず、故郷に残ることになった。「親子が別れて死ぬことはできない」と母が泣きすがった。私は島に残る決心をしたが、学校のことが心配で、1日たりとも落ち着くことができなかった。
小浜島にいる間は、島に駐屯している海軍の奉仕作業や病院の手伝いをした。当時、島の住民は空襲を避けるため、避難小屋での生活を余儀なくされており、私も住民と同様の生活を送っていた。』(214-216頁)
《「沖縄戦の全女子学徒隊」(青春を語る会・代表 中山きく/有限会社フォレスト) 209-211、214-216、218-219頁より》