昭和19年5月頃から、宮古島にも日本軍の部隊が配備されました。まもなく沖縄県立宮古高等女学校は、軍に接収され、疎開で空き屋になった民家を何か所も借りて教室に当てなければならなくなりました。10月10日の空襲では平良港に碇泊していた輸送船が爆撃され、負傷した乗組員を搬送するため生徒たちは動員されました。昭和20年の年明けからは空襲も度重なり、3年生と4年生は特志看護婦として出身地域にある病院へ配属されるようになりました。続々と運ばれてくる重傷の負傷兵に十分な治療や看護はできず、女子学徒たちは麻酔無しで足などを切断する手術にも立ち会いました。また、水くみ当番だった女子学徒が、空爆の直撃弾をうけて重傷を負い、そのうちの1人は寝たきりとなり10年後に亡くなりました。
1945年3月23日、沖縄県立宮古高等女学校では卒業式が行われるはずだったが、当日未明からの空襲で校舎が破壊されてしまった。卒業生たちは、防空壕で卒業証書を受け取り、在校生共々、陸軍軍属として扱われるようになった。
生徒の体験談 ①:
『昭和19年5月頃から、宮古島にも、陸海軍部隊が上陸するようになり、間もなくして学校は、軍に接収され、民家の仮校舎で授業するようになったが、勉強など全く集中できるような環境ではなかった。
その頃から、級友たちは、一人、二人と現地を離れ、台湾へ疎開することになり姿を見せなくなった。…昭和20年の年明けからは、空襲も度重なり、私たち3年生と4年生は、特志看護婦として、出身地域にある病院へ配属されるようになった。
下地、城辺出身は、第1野戦病院…で看護法を受講し、終了すると4年生と組合わされ、それぞれの任務に配置された。…4月中は空襲に明け暮れ、負傷兵は毎日のように運ばれてくる。ついに5月4日には、艦砲射撃が宮古全島を震動せしめた。防空壕の中で息をひそめ、その夜第1野戦病院は、鏡原の細竹陣地へ移動した。
…防空壕の中には、手術にも手助けできる心構えと訓練がされていたので、手術器具の取渡しは看護婦の役目だった。日課は材料の準備、巡回治療、手術の手助けなどが繰返された。』(202-203頁)
《「沖縄戦の全女子学徒隊」(青春を語る会・代表 中山きく/有限会社フォレスト) 202-203頁より》
生徒の体験談 ②:
『私たちは国のために殉ずる満足感でいっぱいだった。
私は薬剤部に所属していた。戦況は悪くなるばかりだった。船も飛行機も輸送は困難になっていくようだった。
そんな中、私たち学徒3人、兵士4人、班長の大尉合わせて8人は毎日バッタやカエルを取っていり粉にし、栄養剤として与えていた。また木炭を砕いて粉末にし、ふるいにかけて、これも下痢止め剤として3グラムずつ使用した。野原には薬草がたくさん生えていたので煎じて胃薬として使った。毎日一生懸命だった。
その日はよく晴れて爆音ひとつなく、…穏やかで優しい日であった。
…時間は午前11時頃だっただろうか。どこからか鈍い不気味な音がしたと思ったそのとき、轟音を炸裂させながら爆弾が投下されてきた。丁度飯上げの時間帯で、当番の兵隊さんたちが集まっている、そのときだった。皆粉々だった。相思樹並木は人の内臓で覆いつくされた。放心して何の感情もなく、ただ細切れになって散乱している肉片と、臓器を26個の箱に分けて入れた。
日時は別だが、学友の1人も爆風で下半身をやられ、戦後苦しみながら亡くなった。』(201-202頁)
《「沖縄戦の全女子学徒隊」(青春を語る会・代表 中山きく/有限会社フォレスト) 201-202頁より》