上原栄子『辻の華』から

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大正4年(1915)6月、沖縄に生まれる。4歳のとき、「辻遊廓」に売られ、昭和19年(1944)までそこに暮らす。戦後、映画、ブロードウェイの舞台で話題となった「八月十五夜の茶屋」(松乃下)という料亭を経営。昭和27年(1952)、米国軍政府勤務のリチャード・ローズ氏と結婚、一児をもうけたが、昭和46年(1971)、夫に先立たれる。平成2年(1990)12月没(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) 

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辻の華・戦後篇(上巻) より

著者: 上原栄子

石川収容所から読谷の兵站施設に軍作業に。

軍作業

毎朝九時になると、米軍のトラックが石川市の入口にずらっと並び、兵舎づくりに駆り出される捕虜住民たちは、たくさんある米軍の各部隊へ回されます。基地で働く報酬として、様々な物資を持ち帰ることが許され、何ひとつない裸の捕虜住民たちには最上の魅力でした。大日本帝国時代には、「欲しがりません、勝つまでは」と教え込まれていた反動か、明るい南国生まれの無欲恬淡なはずの沖縄人たちが、お年寄りさえも身体の動ける者は片っ端から右へならえとばかり働くのです。米軍から無償配給される食物のお陰で命だけは繋いでいても、鍋釜さえない身ひとつの現実に苛まれている沖縄住民たちです。目に入る物はなんでも欲しいというハングリー部隊が各班から寄り集まって、勇んで作業に出て行き、夕暮れには決まって特配の確詰類や野戦飯盒、野外用炊事鍋に、簡便スコップまでひっ下げて持ち帰って来るのです。

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Natives at Ishikawa, Okinawa. About 2000 people waiting for trucks to various units on island.
沖縄本島石川の地元民。トラックを待つ2000名の人。各々が様々な部隊の地に向かうことになっていた。石川 (1945年8月 5日)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 集めた空き躍に汲んできた海水のお汁を飲んで幕らす年寄り二人を見るにしのびず、責任を感じた私は、遊廓で叩き込まれた三原則のうちの報恩の気持ちが、自然にしみ出てきたのです。鍋や釜、食料品、生活必需品のあらゆる物が必要な今、捕虜住民たちの間で始まった物々交換のための着物もなければ金もなく、親娘三人が生まれたままの丸裸です。

 

米兵たちから「バカ野郎!」と言われても、「サンキュー」とさえ答えていれば、腹はへらずにすむと、作業に出た人たちに教えられました。戦後の生活苦は、自尊心より生きることを最優先させるのです。隣組班長さんに頼んでメリケン袋をもらってきて、見よう見まねで袋の底に首の穴を開け、両手の出る方へ穴を開けて逆に着てみると、何ともかわいいブラウスができあがりました。時あたかも沖縄の夏。褐色テントの切れ端でつくったスカートを腰に巻きつけ割り当てもそっちのけで、辻遊廓以外の社会的制度も職業も知らぬまま、大城夫人にくっついて歩き回る私です。大きな軍用トラックの荷台に手をかけるや否や、彼女とともにひょいひょいと飛び乗ったのです。

 

運転台のドアに張りつけた漫画のような米軍各部隊別の印を見ても、遊女の卵であった頃、小学校さえ居眠りの場所であった私には読めるはずもない英語。捕虜住民たちは、次々に並ぶトラックに飛び乗りさえすれば、どこかの作業場へ連れて行かれたのです。トラックの上の人員を数えるアメリカ兵たちは、ワン、ツー、スリーと何度も数えるのに時間がかかり、アメリカ兵は計算に弱いと作業員たちの間でひそひそ......。それもそのはずです。こっちを数えているうちに、あちこちから飛び込んでくる頭数には、コンピュータでも追っつきません。その情景とアメリカ兵たちの顔を思い出すと、まるでチャップリンの映画でも見ているような錯覚が起きます。作業員たちの間から「オーケイ、ハーバハーバ」と片言覚えの声をかければ、米兵たちはそのとおり素直に「オーケーオーケー」と、トラックを動かしていくのです。労務者の中のテーファー(冗談好きの人)や、ナマチヤー(物おじしない人)たちが、米兵たちの口まねをします。米兵たちもまた面白がって、「ヘーイ、ユー」と、戦場での敵味方がいつの間にか明けっ広げの平気な顔で、お互いのお国言葉を使って悪口をぶちながら友達になっていくのです。

 

トラックの行き先は天願 (天願桟橋) でした。部隊建設の作業員たちへ石ころを拾わせている間に、手まね足まねで米兵をまるめ込んだ捕虜班長たちは、GMCの大きなトラックとともに米兵たちを引き連れて、中部や島尻の戦場へ行きます。そして、死体の折り重なっている壕へ入り込んで、避難民たちの残していった様々な品物、衣類、鍋、釜、泥にまみれた茶碗などを探し回るのです。それこそ桃太郎が宝物を積んだ車をひくように、えんやらやー......、意気揚々と誇らし気に持ち帰ってくるのです。

 

捕虜収容所

米兵たちもまた、珍しい物品、例えば軍刀、日本製のピストル、国旗、着物、下駄、草履などをわが戦勝記念、占領記念として持ち帰る喜びにつられて、班長たちの指図するままに、右に左に走り回っていました。

 

戦場馴れした日本人捕虜たちが死体の折り重なっている壕の中から探し出す日の丸の旗や、風俗写真、旧日本円などに米兵たちは魅力を感じているようです。ところが、自分の凱旋土産に欲しくとも、日本製爆弾を恐れて壕の中へ入らない米兵たちは、タバコと交換します。すると男たちは、これを石川へ持ち帰って何倍もの食料品と換えるのです。そのタバコに付けた名前が面白く、ラッキーストライクが赤玉で、キャメルは鹿小、フィリップモリスが黒人と、図柄の特徴を、わが沖縄風に名づけて個性を発揮、面白おかしく物々交換がなされていたのです。

 

楚辺キャンプでの軍作業 - ズボン三本の代償

「作業員たちとともに、トラックに飛び乗って連れて行かれた所は、読谷村楚辺の黒人部隊でした。砲弾に打ちのめされた沖縄のでこぼこの丘陵がブルドーザーで敷きならされて、ジープやトラックや戦車、大砲、上陸用舟艇などが野積みにされています。ずらーっと並んだ幾万の物量を目の前に見せられて、ことさらに今頃戦っているであろう、大日本帝国の先行きを心配させられた沖縄住民たちです。私たちのトラックは、トタンでつくったカマボコ長屋がいくつも並んでいる駐屯地へ着きました。トラックから降ろされて洗濯班に回された二十人くらいの女たちは三人一組に割り当てられたかまぼこ長屋に入って行きました。百坪ほどにも見える建物の作業場の中は、ばかでかくて広く、そこには生まれて初めて見る大型洗濯機がいくつもいくつも並んでいたのです。番人のような黒人兵の前に青黒い兵隊服が山のように積まれており、ゴットンゴットン、音を立てる丸い機械の中でズボンやシャツが生き物のように、上下に重なり合って動き回っています。機械で洗った兵隊服を、縦半分に切って寝かされたドラム誰の中で濯ぐのが女たちの仕事でした。

 

今日の配給は、見るからに丈夫そうな兵隊服かもしれません......。積まれた服の山からわしづかみにして突き出された三本のズボンを喜んで受け取った私は、いきなり黒人に肩をつかまれびっくり。逃げ出そうともがきましたが、仁王様のような大男に抗するすべもありません。顔を殴られて転んだ私の上に、黒人が乗っかってきたのです。遊女生活を過ごしてきた身でも、さすがに天井を見つめている目から涙が流れました。ズボンを抱えて行く出口で、今にも泣きそうな顔を歪めて、同じように出てくる婦人に会いました。それも一人や二人ではありません。行くときはにぎやかだったのに、帰りのトラックでは多くの女たちが黙り込んでいました。もう二度と屋内作業へは行くまい、と決意したのです。

 

結果的にわが肉体と換えてきたズボンを、何も知らない養父様と抱親様(アンマー)が大喜びで奪い合っています。「井戸へ行ってくる」と声を残してテントを飛び出した私は、爪先ばかり見て歩き、落ちる涙が止まりません。運命というのか宿命というのか、実母の病気で尾類の卵に売られた自分が、今はまた、わが身に代えてでも義理ある年寄りたちの衣食住確保に尽くさねばならないのです。自らの宿命を思い、泣き疲れ、歩き疲れて、テントへ帰っても心は晴れません。

 

他人であるべき年寄りたちがにこやかに迎えるその顔を見ても、心は和みません。けれども親と呼ぶことのできるのは、この人たちしか、この世にいないのです。

 

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