持たされた武器は、竹やり1本と手りゅう弾、自決用の青酸カリ

三枝利夫さん 南西諸島海軍航空隊小禄基地
巌部隊 山下 元海軍二等整備

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75年後の証言~播磨人の戦争(6)沖縄戦を生き抜いた 三枝利夫さん(上)捕虜になるよりは潔く死を

神戸新聞 2020/08/16 05:30

「よう来てくれたね、ご苦労さん」

 

 のどかな田園地帯が広がる兵庫県佐用町の自宅で、三枝(みえだ)利夫さん(92)が朗らかに出迎えてくれた。手には30年前にしたためた自身の戦争体験記。地上戦が繰り広げられる沖縄で約1年間を過ごし、何度も死線をくぐり抜けた。

 

 少しページをめくり、表情をゆがませる。「ほんまはもっと早くに書き残しておくべきだったんや。でも、自分があの沖縄におったと考えるだけで嫌でね。思い出したくなかったし、周囲には絶対に知られたくなかった

 

 「それでも、戦争を知らない世代に、あの時のことを知っててほしい」。真っすぐなまなざしで語り始める。

    ◇

 旧三河村(現在の佐用町上三河など)からの志願兵として三枝さんが手を挙げたのは、16歳の時だった。誰もがいつかは戦争に行かなければならない。そう考えていた三枝さんは、飛行機の整備兵として千葉県の海軍航空隊に入った。1944年9月、南西諸島航空隊への派遣を命じられ、30人ほどの仲間とともに出発。翌10月に沖縄に到着したが、乗っていた船が魚雷攻撃に遭った。

 

 爆風で目や耳を負傷し、顔はぱんぱんに腫れ上がった。衣服はぼろぼろで、帽子も靴もない。自分の姿が恥ずかしくなって、日が暮れてから小禄(おろく)(那覇市)の指令壕(ごう)へ向かった。歩くたびにサンゴの破片が足に刺さり、惨めな気持ちになった。

 

 整備兵の三枝さんは到着後、嘉手納(かでな)の飛行場に派遣された。特攻兵器「桜花」を組み立てる任務に就いたが、45年3月、米軍が上陸を始めると帰隊命令が下り、小禄の基地周辺での任務に移った。米軍のキャンプを襲う「切り込み隊」に入れられたが、持たされた武器は、竹やり1本と手りゅう弾、自決用の青酸カリだった。

 

 「こんなもんでどう戦えっていうんや」。米軍の飛行機や軍艦を前に、あぜんとした。夜間にキャンプに近づき、寝静まったのを見計らって手づくりの爆弾を投げ込む。そんなわずかばかりの反撃を繰り返した。

 

 その後、整備兵長となり海岸を警備する任務に就いた。6月4日に小禄に上陸した米海兵は、その2日後、三枝さんらの壕にやって来た。小隊を3班に分けて逃げたが、他の2班は壕を火炎放射器で焼き尽くされ、全滅した。

 

 三枝さんらが身を隠したのは、石垣の一部を引き抜いて入るタイプの壕だった。翌朝、頭上でカーン、カーンという音が響いた。米軍が石垣をたたいて調べている。気付かれたら、焼き殺されてしまう。

 

 生きた心地がしなかったのでは-。しかし、三枝さんの心に死への恐怖はなかったという。

 

 「『華々しく散った』なんて、とてもじゃないけど言えんような戦い方や。それでも捕虜になって恥をかくよりは、一思いに死んだ方がいいと心から思っとった」

 

 幸いにも米軍は石垣の探索に見切りをつけ、去って行った。わずかな武器を手に、仲間との合流を目指して、米軍の攻撃から逃げる日々が始まった。(勝浦美香)

 

沖縄戦】太平洋戦争末期の1945年3月、米軍が沖縄の慶良間諸島に上陸して始まった地上戦。旧日本軍の組織的戦闘は6月23日、牛島満司令官の自決により終わったとされるが、局地戦はその後も続いた。現地軍が降伏調印したのは、8月15日の終戦から約3週間後の9月7日。多くの沖縄県民も巻き込まれて犠牲になり、日米双方で計20万人を超える死者が出た。

 

75年後の証言~播磨人の戦争(7)沖縄戦を生き抜いた 三枝利夫さん(下)人間の心理状態ではいられない

神戸新聞 2020/08/18 05:30

1945年春。沖縄本島に上陸した米軍の攻撃を、当時17歳の三枝(みえだ)利夫さん(92)=兵庫県佐用町=は何とか生き延びた。小禄(おろく)基地近くの大嶺集落から2キロ離れた大隊本部を目指して歩き始めたが、命を落としかねない場面に何度も遭遇した。

 

 夜になって、三枝さんは仲間の一等兵らと3人で壕(ごう)を出発した。しばらく歩いた所で、弾薬を積んだ米軍のトラックが1台、木陰に止めてあるのを見つけた。一等兵は殺気立ち、「これを爆破する」と言い出した。木箱に火薬を詰めた手づくりの爆弾を背中から降ろそうとしている。「おい、やめとけ」。そう言おうとした瞬間、弾丸が飛んできた。8メートルほど先から、米兵2人が自動小銃を向けている。

 

 一等兵はその場に倒れ、動かなくなった。三枝さんは無我夢中で、手に持っていた手りゅう弾を米兵めがけて放り投げた。命中したのか、攻撃がやんだ。倒れ込んだ仲間に声を掛けることもなく、一目散で走り去った。

 

 「仲間を見捨てて逃げてしまったのは心残り。手りゅう弾が米兵に当たったのなら、大けがをさせたか、死なせてしまったかも分からん。でも、それは全部後になって考えたこと。あの時は、何も思わんかった」

 

 大隊本部周辺は既に米軍に包囲され、近寄れなかった。仕方なく、糸満市方面に向かって歩を進めた。

 

 三枝さんは6月19日、摩文仁(まぶに)にある軍司令部の壕にたどり着いた。沖縄戦が終わったとされる23日以降も、戦闘状態は続いた。陸軍の参謀らと共に壕を出たが、攻撃は昼夜を問わず緩むことがない。一日一日を夢中で生き抜くうちに、感覚はまひしていた。

 

 陸軍兵の遺体が投げ込まれた壕でも平気で数日間を過ごした。雨が降り続いてぬかるんだ地面に足を入れると、腐った人肉がぬるぬると絡みついた。「かなわんなあ」。雑巾でぬぐい落とし、再び身を隠す。ボウフラが湧いた水も飲んだ。まるで野生動物のように。

 

 「汚いとか怖いとか、戦場では一切感じなかった。人間の心理状態では到底いられなかった」

 

 大里村に到着し、しばらくした夜、突然、陣地という陣地からえい光弾が打ち上がった。空は真っ赤に染まり、花火のようだ。「これは何事だ。まるで祝賀会やないか」と言い合ったが、まさかそれが米軍の勝利を知らせる祝砲だとは夢にも思わなかった。

 

 三枝さんはその後も約1カ月戦場をさまよい、9月13日、屋嘉(やか)収容所へと連れて行かれた。あれほど捕虜になることを屈辱的に感じていたはずなのに、既に何人も収容されている日本兵たちを見ると、そんな気持ちは消えていった。

 

 シャワーで体を洗い終わる頃には「命だけは助かった。もう逃げ回らんでええんや」と実感した。少しずつ、人間らしさが戻り始めた。

 

 「僕たちは小さい頃から兵隊さんの歌を歌い、戦争ごっこで遊んだ世代。学校では軍事教育も受けた。兵隊に憧れるのは自然なことだった」と三枝さんは振り返る。「若い人たちは、戦争の不幸さ、悲惨さを知って、平和を尊ぶ世代であってほしい」。静かに語り、目を伏せた。(勝浦美香)

 

糸満市摩文仁沖縄戦終局の地。司令部があった首里城が陥落した後、日本軍は本島南端の摩文仁へ撤退。陸軍中将の牛島満司令官らが自決し、組織的戦闘は終結した。現在は沖縄平和祈念公園があり、平和の礎(いしじ)には国籍や軍人、民間人の別を問わず、沖縄戦の全戦没者約24万人の名前が刻まれている。

 

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