琉球新報「東村有銘で住民2人虐殺 日本兵、米兵を銃殺後」

 

本部半島から敗走しつつ、次々と住民を虐殺していった宇土部隊は、到着した先の東村有銘でも避難していた罪なき住民を虐殺する。

 

有銘の住民虐殺について。

二つの証言を比較してみたい。

 

ひとつは 1993年の沖縄タイムス第二次世界大戦時、軍と行動をともにした新聞記者がその真相を克明に記録した沖縄戦記の古典的名著」といわれる「沖縄戦記 鉄の暴風」1970年初版。「怒った伝書鳩隊の准将が、てっきり米兵と通じたものと思いこみ、海岸近くの小舎に住んでいた那覇から避難してきた親子づれを拳銃で射殺」という日本兵側からの詳しい記述がある。

もうひとつは 2010年の琉球新報の記事。三中から学徒兵として徴用された少年の記憶。斥候の米兵三人が日本兵によって殺害され、中南部出身の二人も殺害されたこと」など、上の記述と共通点が多く、地理的にも有銘と三原でほぼ隣接している。

 

 

沖縄タイムス沖縄戦記 鉄の暴風」1970年

(宇土部隊) … 源河部落を経て、25日には有銘の山中まできた。有銘につくと、宇土大佐は、「部隊がやってきたからもう大丈夫だ」と付近の住民に触れ廻らせた。喜んだ付近の農家からは、二頭の豚と、野菜類が本部に供出された。ー 淡い希望を燃やして住民はもう、増産を始めていた。米軍は、北部山中に潜む日本軍の残兵掃討を開始したらしく、三原の山にも斥候が入り込み、そのために、何かにつけ住民達と接触しようとする日本軍隊との間に、悲劇がかもされた。三原に入り込んだ3人の米兵が、住民と話しているのを、怒った伝書鳩隊の准将が、てっきり米兵と通じたものと思いこみ、海岸近くの小舎に住んでいた那覇から避難してきた親子づれを拳銃で射殺した。

《「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編) 315頁より》

 

琉球新報「東村有銘で住民2人虐殺 日本兵、米兵を銃殺後」2010年

琉球新報 2010年6月13日

 沖縄戦さなかの1945年4月、東村有銘で日本兵が住民2人を殺害したとみられる虐殺事件があったことが12日、明らかになった。当時、県立第三中学校から独立混成第44旅団第2歩兵隊(国頭支隊)に動員され、撤退の途中で事件を目撃した大城晃さん(81)=西原町=が12日、名護市教育委員会が主催し、本島北部で行われた平和体験学習で証言した。大城さんが事件を公の場で発言するのは初めて。
 大城さんによると、45年4月26日ごろ、米軍の斥候兵3人が有銘集落に入り、日本兵と銃撃戦になった。米兵2人が銃で撃たれて死亡。米兵1人は逃げる途中、海岸沿いの避難小屋で生活していた10代半ばの中南部出身とみられる避難民の男性2人を人質に取った。


 日本兵は、2人を連れて海岸を南へ逃げる米兵を追い、泳いで沖合に回り込んで射殺。さらに、2人の避難民を山まで追って殺害したとみられる。同日、大城さんは2人の遺体が日本兵によって山から下ろされるのを目撃した。
 石原昌家沖縄国際大名誉教授は「初めて聞く事件だ。米軍上陸直後で緊迫した状況が、追いかけてまで殺した行為に表れている。日本軍で『方言を使う者は処分する』との方針が既に出ていた時期で、その流れの中で起こった事件だろう」と話した。(宮城隆尋)

 

◆遺体け飛ばす日本兵 残虐行為を批判
 東村有銘で日本兵による住民虐殺を証言した大城晃さん(81)=西原町=は「人質を助けるどころか、殺すとは。今でも信じられない思いだ」と事件の衝撃を振り返る。日本軍は不審に感じた住民をスパイ視する状況があり、大城さんは「避難民もスパイの嫌疑を掛けられたのかもしれない。好んで人質になるはずはない」と残虐行為を批判する。


 有銘に入った国頭支隊に同行していた大城さんは1945年4月26日ごろ、隣接する故郷名護市の有津(ありつ)に住む家族と面会。有銘に戻る途中、人質の避難民2人を連れた米兵に遭遇した。米兵が銃を向けたため大城さんは有津へ引き返した。その日の夕方、丘の上から有銘方面を見ると、日本兵にけ飛ばされ、山から下ろされる避難民2人の遺体を目撃した。


 大城さんは戦後、殺害された避難民2人と米兵3人の身元を調べるため有銘を訪れ、米兵を埋葬したという住民らから当時の状況を聞いた。米軍にも問い合わせたが、確かな情報はないという。「身元が分かれば平和の礎で花束を供えたい。遺族に会えれば彼らの最期を伝えたい」と語る。

 

 大城さんが証言した12日の平和体験学習(名護市教育委員会主催)には県立第三中学校同期で国頭支隊に所属した3人も参加。北部8高校の生徒ら約80人と伊豆味国民学校跡など国頭支隊の移動経路をたどった。

 

 東江新太郎さん(81)=名護市=は国頭支隊の部隊内で、上官の命令で兵士が殺害された事件を証言した。本部半島から多野岳へ撤退する途中、今帰仁村湧川付近のサトウキビ畑を通る際、日本兵の1人が畑に下りてキビを折った。
 上官が「勝手な行動は隊を危険にさらす」と激怒。キビを折った兵士をあぜ道にひざまずかせ、隣にいた兵士に銃剣で突き刺すよう命じた。腹を刺された兵士は「残念」と言って絶命した。東江さんは「軍隊の非情さを感じた。その後は皆、一言も発せなかった」と振り返った。
(宮城隆尋)

 

<用語>国頭支隊(宇土部隊)
 沖縄戦で本島北部の守備に当たった独立混成第44旅団第2歩兵隊。部隊長宇土武彦大佐以下500人。非戦闘員(民間人)を戦力化することを構想。日本軍の組織的戦闘が終わった1945年6月23日以降も北部山中で秘密戦を展開、住民スパイ視虐殺や食糧強奪を起こした。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-163433-storytopic-153.html

 

撮影日:     1964年 4月22日

戦後に設置された有銘海岸の護岸

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

 

 

 

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