4月22日、伊江島アハシャガマの「集団自決」

 

アハシャガマ

壕はゴルフ場のそばの道路に面しており、またプレートもあるのでわかりやすい位置にあります。現在は崩落の恐れがあり壕の中に入ることはできません。

 

 

集団死の条件

軍と民間人が混じる伊江島の壕では、連続して集団死がおこっていった。沖縄戦における住民の集団死は下記のような幾つかの条件が重なりひきおこされる。

  1. 離島などの孤立した地形で、逃げ道がない
  2. 日本軍の拠点が置かれ「軍官民共生共死」が徹底
  3. 中国などでの日本軍の経験あるいはその話が心理的恐怖となる
  4. 日本軍が捕虜になった住民を実際に虐殺、あるいは殺すと脅迫
  5. 日本兵あるいは防衛隊員が手榴弾などを持ち込む

 

この条件が、アハシャガマでも当てはまる。

 

問題は3番目だが、沖縄戦の集団死の誘因となった、日本兵の中国での「経験」所業というものは、軍に占領され捕虜になるくらいなら、死んだほうがましだ、と確信させるほどのものであったということだ。

 

f:id:neverforget1945:20200329143417p:plain

伊江島の港から車で10分あまりのところに、砲弾が飛び交うなか、住民が避難した壕の1つ「アハシャガマ」があります。アハシャガマは、奥行きが20メートル余り、広さはおよそ100平方メートル、住民らおよそ120人から150人が身を潜めていたとされています。この壕で、生き残ったのは20人あまりでした。亡くなった人の遺骨の収集が行われたのは戦後になってでした。

伊江村 アハシャガマ【戦跡を歩く】|戦争|NHKアーカイブス

 

沖縄県史「アハシャ壕の集団自決」

沖縄県史 第9巻/10巻 沖縄戦証言 伊江島編

包囲される伊江島

包囲され逃げ場を失う。

当時、母と弟と妹が一緒で、弟は十二、三歳で妹が十歳でした。父は昭和十三年の支那事変で亡くなりました。最初自分たちは、子供もいるし自分の希望で、おばあさんも自分から疎開するのはいやだといっていましたので伊江島に残りました。その後からは疎開船はなくなっていました。かいでこぐクリ舟はありましたけど、その時からはもう舟の往き来も危くなっていました。備瀬と本部との間にはもう米軍の船がきていましたので逃げるところもなく自分たちで自然にできたガマ(洞窟)に隠れました。ガマに隠れたのは艦砲の始まる前からで、米軍が上陸すると危い、照明弾のあがる時はもうあぶないと覚悟はしていました。

     

    ガマの中には約百二十人ぐらいの人がいて東江上や東江前の人たちと防衛隊もいました。一番多いのは東江上の人たちでした。壕は昔、石グウ(粉)を掘る所だったらしく、大きくて中が広いし、奥行きもあるので隠れ場所にはもってこいと思ったわけです。地ばんは深くて、上から落盤するばあいにスコップやクワなどでうしろへやっても人間にとっていい所です。

     

    壕へ食糧を運んだのは艦砲前の事態になってからでした。自分のおっかあは食物をこさえていましたが、今腕上陸するというので、緊急に、自分が兄弟で一番上でしたので、自分とふたりで食糧を棒でかついで運びました。ヒャークいくらづめといって、カメや袋に伊江島の黒砂糖をつめて奥の方に置いてありました。水は米軍の上陸前までは、私ひとりで家からガマにかついできて置いてあるカメやおけに入れて使っていました。上陸してからは、水もなくなっていましたので海岸の岩に溜っている潮まじりの水をくんできて、どはんをたいたり、飲んだりしていました。壕の中では家族ごとに、親戚連中は共同で炊きました。

防衛隊が民間人の壕にやってくる

飛行場建設や整備運営のために編成した日本軍の多くの部隊は、現地召集でおおくの地元民を動員したが、上部は本土からの将兵で構成されていた。

    艦砲が始まると、波止場や防衛隊の飛行練習場から、防衛隊の人たちが、米軍に追われて逃げてきて、壕の中にはいってきました。この人たちは、二、三人の本土の兵隊たちで、銃をもっていて、まだ若く、当時、二十三、四、五歳ぐらいでした。すると、壕の中にいらっしゃった当銘というヤブーみたいな薬屋のおじいが、「君たちは戦争をするといって、民間の壕の中に入ってくるじゃないか。軍隊だから、出て行きなさい」といって入れませんでした。

防衛隊員が爆雷の信管を

伊江島のおおくの「集団自決」とよばれる集団死は、防衛隊が混乱のなか住民を集め、防衛隊員がもちこんだ弾薬を爆発させている。

    その後、弾が飛んできて、見たら防衛隊を追いかけて、米兵が目の前まできていました。壕の中から、戦車砲もはっきりと見えました。ガスをまかれて、真黒くして、ワーッといってきました。壕の半分はパラパラと石が落ちてきました。米軍がきたら合図するように入口で衛兵に立っていた伊江島の青年のふたりは、その時の戦車砲の破片でやられました。

 

他の人びとは、捕虜にとられたら、体を一寸切りにされるといって、自分から爆雷で吹っ飛んだんです。自分は、このくらいの爆雷では死にきれないと思い、奥の方へ下がっていました。皆、壕の中心により集まって、家族ごとに並んで...... 。自分らのばあいでしたら、妹をおばあさんがだっこするようにして、自分はこうして、弟はここで...... 。おばあは、いざ、という時になると、兄弟のところがいいといって、兄弟の方に向いて、自分たちとは姿勢を別にしていました。それから、防衛隊の人が爆雷の信管をパーンと押しました。すると、壕の上の壁がくずれて、石などがバラバラ落ちてきて、皆、もう死んだと思いました。気がつくと、自分は生きていました。おばあさんなんかもどこにいるかさえも、全然見えませんでした。他の方も、首から下は埋まっていてわからなくなった人もいました。その時の爆発で、自分は頭と腰、おばあも落ちてきた石で足の骨をやられて、動けませんでした。妹は、だっこしていると、上から落ちてきたものが、ももにドンと落ちてきて、足の骨が折れて、ユラーユラー、していました。その時に生き残ったのが、二十人ぐらいです。当時は、捕虜にされたら、命を一寸切りにされると聞かされていましたので、もう、自決するのはあたりまえだと思っていました。

奇跡的に生き残った証言者は収容所で治療を受ける。    

    自決した日の翌日、伊江島の人の通訳で、アメリカーが、「出てこい、出てこい」したので、皆はけがをしていますし、わたしは歩けませんので、這って出たら皆捕虜にとられました。それは、米軍が上陸してから、三、四日後でした。その時は、ごはんも食べていないので、泣くにも泣けませんでした。ひもじいし、足の折れている子どもに、水をくれてやろうとしても、水もないし、とうとう、水を欲しがって、子どもは血をはきました。

     

    壕から出たのは、昼間ごろで、波止場からずうと西江の方を通って、その西側にある捕虜収容所に、歩けないので、ジープにみんな乗せられて、連れていかれました。収容所についた時は、すでに、親戚連中や他の人もぜんぶ、捕虜にとられていて、収容所は満員でした。

     

    壕から出た時は、妹は足がュラーユラーしているので、アメリカーが包帯をして、座間味島にある野戦病院に、おばあの付添いで、三か月間入院しました。当時、まだ小さかったので、今では完全になおって傷もありません。自分らは慶良間へ捕虜として、連れていかれたわけです。

支那事変帰りの防衛隊員は家族と集団自決

中国での戦線を経験した防衛隊員は、姉二人と母たちをつれて再び手榴弾を使う。中国で日本軍がおこなってきたような所業が自分の家族に及ぶことに耐えきれなかったのだ。

    約二十人の人が、集団自決で生き残ったけれども、前に話したおじさん、あの方の家族は、爆雷が爆発した時にやられたが、防衛隊員であったその方は、自分より年上のおねえさん達二人と、おかあさんたちと、四、五人残って、自分たちが壕を出たその日に、榴弾で自決しました。全員、即死ですよ。家族を追いたい気もあったんでしょうが、何しろ支那事変帰りでしたから。この人が、言っていたんですよ。「あんたがたは出ても、ぼくらは出ない」って。せっかく生きていたのに。そのままでむかえに行っていたら、生きていられたのに...。

     

    当時は、まだ小さいし、自決で生き残っても、慶良間の渡嘉敷島で行なわれたような、あんなむごたらしいことはしませんでした。しかし、もし自分が、二十歳にもなっていて、軍隊教育でも受けていたら、やりよったかもしれません。捕虜にとられたら命を一寸切りにされると聞かされていましたので、自決するのは、あたりまえだと思っていました。

     

    捕虜になってきた時には、村は全部焼けて、未ち墓も石垣も、米軍のブルドーザーで打ちこわされていました。そして米軍は、海岸づたいに道路を勝手につくりました。まだ、収容所にいる時分、自分らは、よくアメリカーの掃除や、道端に死んでいる沖縄の人たちを、穴を掘って埋める作業などやらされました。

     

    城山の海岸では、米軍と撃ち合いがありました。本当の陣地は、独立混成部隊がこの道路をまっすぐ行った、あっち側にあって、城山の下には、陣地はありませんでしたけれど、上陸するおそれがあるといわれていました。それで、警戒して、銃をもっている防衛隊が立っていました。最初、兵隊も民間人も、一緒にまじえてかくれていると、米軍側から撃ってきて、防術隊のもっている二、三ちょうの銃で撃ちかえしました。また反対側から火焔放射器でやられました。こっち側の武器といえば、防衛隊のもっている、小銃二、三ちょうと、爆雷と手榴弾が五個ぐらいでした。

     

    伊江島にいては危いので、阿旦の木をハンマーで倒して、サバニのこわれたもので、イカダをつくって、海をわたって逃げた人もいます。元気のいい人で、防衛隊の方にも、そうして助かったのが二、三人います。

     

    また、わたしの家族では、おばあが、壕の中でなくなりましたので、生き残っているのは四人で、他にはバルのおばあ一人と、カニマイの者と、防衛隊の生き残りの人がひとり、辺土名にもいます。収容所で、特攻機の破片でやられているが、助かった人など合わせて、約二十人ぐらいの人が生き残っていました。自決した人たちの遺骨は、最初青年たちが集めていました。だけど、頭などはバラバラで、アメリカーの連れてきた犬が野良犬になっていて、犬がくわえてるっていったりしていました。おばあの過骨が壕にあることは知っていましたので、いつもお祈りはしていました。遺骨をひろったのは去年で、今では、「芳魂の塔」にまつってあります。

『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 伊江島 - Battle of Okinawa

 

日本の本土が歴史から学んでいないことの一つは、有人の離島を決して軍の拠点にしてはならないという事だ。住民の避難経路は物理的に確保できず、また同時に、包囲されればバックアップ部隊を送ることはできない。海上封鎖され補給もない状態で、軍は住民のリソースに依存するしかなく、食い合いが始まる。軍は住民を守るものではなく、軍と軍令を守るものであるから、軍の武力は、敵ではなく、住民に向けられるという極限状態をも引き起こす。

 

薬屋のおじいさんが言った、「君たちは戦争をするといって、民間の壕の中に入ってくるじゃないか。軍隊だから、出て行きなさい」という言葉は、今も真実である。

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■