アハシャガマ
壕はゴルフ場のそばの道路に面しており、またプレートもあるのでわかりやすい位置にあります。現在は崩落の恐れがあり壕の中に入ることはできません。
集団死の条件
軍と民間人が密接に混在する伊江島の壕では、連続して集団死がおこっていった。沖縄戦における住民の集団死は下記のような幾つかの条件が重なりひきおこされる。
- 離島などの孤立した地形で、逃げ道がない
- 日本軍の拠点が置かれ「軍官民共生共死」が徹底される
- 日本兵あるいは防衛隊員が手榴弾などを持ち込む
- 日本兵が語る中国などでの性暴力の話などが住民に恐怖を植え付ける
- 日本軍が捕虜になった住民を実際に虐殺、あるいは殺すと脅迫
この条件が、アハシャガマでも当てはまる。
4月22日のアハシャガマでの集団死の翌日、アハシャガマのすぐ西側にある一ツ岸ガマでも、住民が米軍の捕虜にならないよう、防衛隊員が壕内での手榴弾での住民の集団死を主導的に導いている。むろん、防衛隊員が上からの指示なく勝手に手榴弾を持ち出せる訳がない。集団死は決して「米軍に追いつめられて」発生するのではない。
伊江島の港から車で10分あまりのところに、砲弾が飛び交うなか、住民が避難した壕の1つ「アハシャガマ」があります。アハシャガマは、奥行きが20メートル余り、広さはおよそ100平方メートル、住民らおよそ120人から150人が身を潜めていたとされています。この壕で、生き残ったのは20人あまりでした。亡くなった人の遺骨の収集が行われたのは戦後になってでした。
沖縄県史「アハシャ壕の集団自決」
包囲される伊江島
島が包囲され逃げ場を失う。
備瀬と本部との間にはもう米軍の船がきていましたので逃げるところもなく自分たちで自然にできたガマ(洞窟)に隠れました。… ガマの中には約百二十人ぐらいの人がいて東江上や東江前の人たちと防衛隊もいました。
日本兵が民間人の壕に入ってくる
ここで語られる「防衛隊」は飛行場建設や整備運営のために編成された部隊のことを指していると思われる。日本軍の多くの部隊は、現地召集でおおくの地元民を動員したが、上部は本土からの将兵で構成されていた。年配のおじいさんは戦争とは何かを知っていた。
艦砲が始まると、波止場や防衛隊の飛行練習場から、防衛隊の人たちが、米軍に追われて逃げてきて、壕の中にはいってきました。この人たちは、二、三人の本土の兵隊たちで、銃をもっていて、まだ若く、当時、二十三、四、五歳ぐらいでした。すると、壕の中にいらっしゃった当銘というヤブーみたいな薬屋のおじいが、「君たちは戦争をするといって、民間の壕の中に入ってくるじゃないか。軍隊だから、出て行きなさい」といって入れませんでした。
防衛隊員が爆雷の信管を
伊江島のおおくの「集団自決」とよばれる集団死は、日本兵から虐殺や強姦の話で恐怖を植え付けられたうえ、防衛隊員らが弾薬もちこむことで起こっている。
その後、弾が飛んできて、見たら防衛隊を追いかけて、米兵が目の前まできていました。… 他の人びとは、捕虜にとられたら、体を一寸切りにされるといって、自分から爆雷で吹っ飛んだんです。自分は、このくらいの爆雷では死にきれないと思い、奥の方へ下がっていました。皆、壕の中心により集まって、家族ごとに並んで...... 。自分らのばあいでしたら、妹をおばあさんがだっこするようにして、自分はこうして、弟はここで...... 。おばあは、いざ、という時になると、兄弟のところがいいといって、兄弟の方に向いて、自分たちとは姿勢を別にしていました。それから、防衛隊の人が爆雷の信管をパーンと押しました。すると、壕の上の壁がくずれて、石などがバラバラ落ちてきて、皆、もう死んだと思いました。気がつくと、自分は生きていました。おばあさんなんかもどこにいるかさえも、全然見えませんでした。他の方も、首から下は埋まっていてわからなくなった人もいました。その時の爆発で、自分は頭と腰、おばあも落ちてきた石で足の骨をやられて、動けませんでした。妹は、だっこしていると、上から落ちてきたものが、ももにドンと落ちてきて、足の骨が折れて、ユラーユラー、していました。その時に生き残ったのが、二十人ぐらいです。当時は、捕虜にされたら、命を一寸切りにされると聞かされていましたので、もう、自決するのはあたりまえだと思っていました。
奇跡的に生き残った証言者は収容所で治療を受け、そののち、島の外に移送される。伊江島は米軍基地として占領され、住民は帰還を許されなかった。
自決した日の翌日、伊江島の人の通訳で、アメリカーが、「出てこい、出てこい」したので、皆はけがをしていますし、わたしは歩けませんので、這って出たら皆捕虜にとられました。… 壕から出たのは、昼間ごろで、波止場からずうと西江の方を通って、その西側にある捕虜収容所に、歩けないので、ジープにみんな乗せられて、連れていかれました。収容所についた時は、すでに、親戚連中や他の人もぜんぶ、捕虜にとられていて、収容所は満員でした。
壕から出た時は、妹は足がュラーユラーしているので、アメリカーが包帯をして、座間味島にある野戦病院に、おばあの付添いで、三か月間入院しました。当時、まだ小さかったので、今では完全になおって傷もありません。自分らは慶良間へ捕虜として、連れていかれたわけです。
支那事変帰りの防衛隊員は家族と集団自決
中国での戦線を経験した防衛隊員は、投降の呼びかけを拒絶すし、姉二人と母たちをつれて手榴弾を使う。日本軍が中国でおこなってきたような殺戮や性暴力が、女ばかりの自分の家族に及ぶことに耐えきれなかったのだ。
約二十人の人が、集団自決で生き残ったけれども、前に話したおじさん、あの方の家族は、爆雷が爆発した時にやられたが、防衛隊員であったその方は、自分より年上のおねえさん達二人と、おかあさんたちと、四、五人残って、自分たちが壕を出たその日に、手榴弾で自決しました。全員、即死ですよ。家族を追いたい気もあったんでしょうが、何しろ支那事変帰りでしたから。この人が、言っていたんですよ。「あんたがたは出ても、ぼくらは出ない」って。せっかく生きていたのに。そのままでむかえに行っていたら、生きていられたのに...。
島が軍事拠点となったとき
多くの日本の人々が戦争から学んでいないことの一つは、有人の離島を決して軍の拠点にしてはならないという事だ。住民の避難経路は物理的に確保できず、また同時に、包囲されればバックアップ部隊を送ることはできない。軍事拠点は標的となり、海上封鎖され補給もない状態で、孤立した軍は住民のリソースに依存するしかなく、食い合いが始まる。軍は住民を守るものではなく、軍と軍令を守るものであるから、軍の武力は、敵ではなく、住民に向けられるという極限状態を引き起こす。
薬屋のおじいさんが言った、「君たちは戦争をするといって、民間の壕の中に入ってくるじゃないか。軍隊だから、出て行きなさい」という言葉は、今も真実である。
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