「特設第1連隊」 ~ 第32軍が上陸軍の面前にすえおいた部隊とは

 

特設第1連隊

特設第1連隊

連隊長 青柳時香中佐
連隊本部(第19航空地区司令部)  約45名

 

1945年4月1日『米軍、沖縄島に上陸』

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特設第1連隊とは、飛行場の整備のため米軍上陸直前の3月20日に編成された部隊。沖縄守備軍第32軍はこの臨時編成した部隊を、武器装備もほとんどなく、バックアップもないまま、無血上陸した米軍の正面にすえおいて、飛行場の破壊と米軍侵攻の遅滞を命じる。

 

なぜだろうか。

 

特設第1連隊の構成は、将校クラスをのぞき、実質そのほとんどが、飛行場建設・管理維持などの目的で地元から臨時に「防衛召集」された沖縄人部隊「防衛隊」で構成されていた。もちろん戦闘訓練もほとんど受けていない。

 

… 怒濤のような敵大陸軍の真只中に戦力零に等しい私たち飛行場大隊だけを追いやり、自分達は南部の堅城に拠っている軍司令部の冷酷な仕打は、特設第1連隊将兵が、決して忘れることができないのだ。体の底からこみ上げてくる怒りを、私は火焰を見つめながら必死に抑えていた。

1945年4月1日『米軍、沖縄島に上陸』 - 〜シリーズ沖縄戦〜

 

特設第1連隊に関しての、この明らかに差別的な態度は、多くの記録に残る。

これらの部隊に大きな抵抗は望んでおらず、警戒と前進遅滞を期待した程度で、北、中飛行場付近の戦闘に増援はもとより砲兵による支援も計画していなかった

『沖縄方面陸軍作戦』269頁

 

アメリカ軍が、もし嘉手納に上陸すれば、烏合の衆に等しい特設第一連隊を一蹴し、

八原博通『沖縄決戦: 高級参謀の手記』149頁

 

32軍の高官は、無理矢理仕立てあげられたこれらの6個連隊を「烏合の臨編部隊」と呼んで憚らなかったが、そのくせ火砲も持たないこの部隊を、上陸が早くから予想された地区に配置している。

《「沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田實海軍中将一家の昭和史』(田村洋三 / 光人社NF文庫) 376頁より》

 

読谷と嘉手納にとり置かれたのは、この特設第1連隊と賀谷支隊であるが、その配置や証言をみれば、飛行場建設に使役した地元の住民で多く構成された部隊を決死隊として米軍の面前に押しだしているのがよくわかる。

 

これらの部隊の中で唯一、本来の地上戦闘部隊である (賀谷支隊の) 第12大隊は、最も南に位置し、米軍に抵抗しながら南の第62師団の主陣地に後退することとなっていたが、それ以外の部隊は、最前線にとり残される形で配備されていた

林博史沖縄戦における軍隊と民衆 ― 防衛隊にみる沖縄戦

実際、賀谷支隊の第12大隊は4月5日に第62師団の主陣地に退却した。

 

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恩納村「広報おんな」2020年7月号(No.469)

 

四月一日に米軍が上陸してくると、圧倒的に優勢な米軍の前に、夜になると斬り込み隊が組織され投入されたが、はとんど成果なく、四月二~三日には特設第一連隊の主力は撃破され、残りは遊撃戦に移るとの名目で敗残兵同様に国頭地区へ後退していった。一方第一二大隊は、四月五日には第六二師団の主陣地に後退した。 このようにこれらの部隊は、当初より軍からはまったく期待されず、支援をうけることもなく、そして米軍の前に短期間で撃破され,ほとんど意味のない犠牲となった。飛行場大隊や防衛召集者がほとんどの特設警備工兵隊などの非戦闘部隊が、軍主力温存のための捨て石にされたのである。

林博史沖縄戦における軍隊と民衆 ― 防衛隊にみる沖縄戦

 

林博史氏は、こうした一般市民を軍の盾とする日本軍のやり方を、フィリピン・マニラで全滅した在留邦人部隊と共通するものと指摘する。

 

マニラの防衛という重大任務が、銃の射ちかたさえろくに知らない在留邦人部隊にあたえられたのだろうか。……そして本職の部隊は、山の拠点に逃げこんでしまった。  いったいなぜだ。

小林勇「マニラ 最後の日」201-202頁

 

正規兵ではない一般の日本人を盾にして自己保全をはかろうとする日本軍の体質はフィリピンでも沖縄でも共通にみられるのである。

林博史沖縄戦における軍隊と民衆 ― 防衛隊にみる沖縄戦

 

特設第1連隊 第1大隊

大隊長 黒澤巌少佐

  • 第56飛行場大隊  約370名
  • 第503特設警備工兵隊  約800名

読谷飛行場から後退し、喜名の陣地にて全滅。

 

数えで15といえば、14歳の少年である。そんな地元の少年までもが特設第1連隊として送り込まれていた。以下の証言は、全滅したといわれている特設第一連隊の当時の様子を伝えている。

 

米軍の面前に置かれた賀谷支隊と特設第一連隊

喜名東の壕で  伊波○○(喜名)昭和六年生
 私は当時、軍の用務員で座喜味のトーガーにある壕にいた球9173部隊 (註・第56飛行場大隊 = 特設第1連隊) におりました。数え15歳です。その頃は郷土を守るというので徴用の年齢に満たない16歳以下でも用務員という形で軍に雇われていたのです。この隊は本田主計大尉を隊長に120人ぐらいいましたかね、とにかく100名を超えていました。物凄い空襲が続き、敵の艦船が海を覆っていたので今にも上陸するような状況になっていました。3月31日の夕刻、敵が上陸した前日です。アメリカーの空襲は午後5時を過ぎると決まって途絶えていましたから、その空襲が途絶える頃を見計らって座喜味のトーガーからイチャバーヤを通って喜名東の壕に逃げ込んだのです。部隊全部です。上陸スンドーしてね。兵隊たちも先を争うように走っていました。イチャバーヤから県道を越えて山に入り、山道を駆けて海軍が南部に移動したために放棄されていた壕に移ったのです。そこは一般にアバラーヤシチと呼ばれていましたが、泉川(イジュンジャー)からウフドーに行く道の背後の山です。
 山をぶち抜くように掘られたとても奥行きの長い壕で、壕の中には缶詰などが入った箱が所狭しと放棄されていました。兵隊はその缶詰箱を寝台代わりにしていた程でした。ところが4月2日にはアメリカ軍はもう壕の前まで迫っていたのです。そして昼前には私たちの入っている壕も迫撃砲の攻撃を受けるようになったのです。壕の外は機関銃や迫撃砲、爆弾の音がもう何の音かわからないぐらいにがなり立てていました。ちょっとの切れ目もないほどです。でも、壕の奥の方では土嚢を積んで三人の兵が入口にむかって銃を構えていましたからね。米兵も入ってこないわけですよ。ですから敵は入口に向かって迫撃砲を撃ち込むのです。炸裂する轟音が耳をつんざき壕の中に白煙が立ち込めてね。それが間断なく続くのです。ちょっとの間ですがその煙が晴れるとちょうど壕の中からは、泉川からウフドーに行く道が見え、その道を歩いている米兵の姿が見えるんです。二~三人の米兵が悠然と歩いているのが見えるんです。突然、壕の中から眼鏡をかけた一等兵が壕の入口近くまで走って行くと銃を構えてその米兵を撃とうと構えたとき、壕の入口から手榴弾が投げ込まれてね。轟音とともに入口は白い煙で見えなくなり後で見ると、この兵隊は首がもぎれ、顔が背中に向いているむごい死にかたでした。あのむごさは今でも思い出すと身震いがします。思い出したくありません。この様に敵に包囲されている状況ですからね。敵の投げ込む手榴弾迫撃砲で次々と死者が出るので、この死んだものは横穴に引きずり込むのです。ですからもうその頃からは、兵隊たちも生きられないと諦めていました。があけられ、ラッパ飲みであちらこちらでも回し飲みをする兵や低い声で歌を歌う兵隊もいました。故郷の歌を歌っているようでした。人間死ぬ間際になると故郷や家族を思い浮かべるのでしょう。そんな中にも日の丸鉢巻に白たすきをした四~五人単位の斬り込み隊が弾雨の中に飛び出していきました。斬り込み隊ですか?何度も何度も出て行きましたよ。当然だが行ったきりです。出ると同時に銃声がけたたましくがなり立ててすぐに静かになるのです。ですから出て行った斬り込み隊が全滅したことは壕の中でも分かりました。暗い壕の中は死が刻々と迫ってくる、まさに追い詰められた地獄でした。斬り込み隊は「もう鉄兜は必要ない」と鉄兜を放り投げて鉢巻を締めるのがおり、将校の中には「もう鞘は必要ない」と鞘を放り投げるのもいました。私は壕の奥のほうにいました。一人の兵隊が寄ってきて「君は子どもだから或いは助かるかもしれない、やるよ」とお金の入った財布をくれて立ち去っていきました。もうみんな生きられないと知っていたのです。壕は馬乗りの状態でしたからね。夜になったら脱出しようと思っても照明弾が昼のように壕の外を照らし、砲音も銃声も夜になっても全然途絶える気配はありませんでした。耐えきれなくなってただ死にに行くだけの斬り込み隊が次々と壕を飛び出して行きました。そのうちどこからともなく「壕を爆破するためダイナマイトの穴を掘っている」「明日の朝まで壕は持たない」との声が口づてに伝わってきました。ダイナマイトの穴を掘っていたかどうかはわかりません。多分恐怖がつのってそんな話になったのでしょう。どうせ死ぬなら壕の中で生き埋めになるよりは弾にあたって死んだほうがいいですからね。兵隊たちは次々と飛び出していきました。五人単位ぐらいが弾のとぎれるのを見計らって飛び出していくのです。
 後の話ですがこの兵隊たちは全部やられてね。やられると水が欲しくなるのか川の水に顔を突っ込むようにして、四~五体が折り重なるように死んでいました。私たちは兵隊ではないから脱出するのも一番後でした。壕の中には歳が私と同じくらいの沖縄出身の少年四人がいたのです。中城の人で朝光というのも一緒でしたがね。この朝光とは戦後も何回か会うことがあります。この用務員だった沖縄出身の少年四人は「生きるも死ぬも一緒だよ」と言ってね。午前一時ごろだったと思いますが、カシガーイール(かますをほどいた紐)を四人が握って一列になって壕を飛び出したのです。ところが壕を飛び出すと同時に照明弾がポーンとあがり辺りが昼間のように明るくなったものですから、一番最後にいた私は反射的にいま出たばかりの壕に飛び込んだのです。結局自分ひとりになったものですから心細くなってすぐに壕から飛び出しました。あのシージャーガーラ(喜名東にある川)の川沿いを無我夢中で逃げました。あの川沿いには撃たれた日本兵の死体がたくさん転がっていました。惨めなものでした。後で考えると、たとえ壕から脱出できた者でも軍服を着けた者には生き延びることはできなかったでしょう。なぜなら何処に行ってもアメリカ軍がウヨウヨしていましたからね。 

それから私の家族はヤンバルに避難していましたから、ヤンバルに行けば会えるだろうというので山づたいに石川に向かったのです。ところが伊波から仲泊に通ずる道があるでしょう、その道は米軍のトラックが引っ切りなしに通るものだから渡れないのです。しばらく木に登って様子を見ていましたが、とても突破できないと諦めてまた喜名に舞い戻ったのです。喜名に来ると牛山内のおじいさんに会ってね。その頃喜名の人たちはすでに米軍に保護されていたのです。それで喜名の人たちと一緒になったのですが、戦争の話はなるべく話したくないです。

(『喜名誌』より)

 

捕虜の尋問 - 特設第一連隊「玉砕」の真実

月2日に喜名の海軍壕で「玉砕」したと伝えられる第1大隊に所属し4月7日に捕虜となった兵士は、ある「命令」について語っている。

第56飛行場大隊(長黒澤巌少佐)通信隊 (埼玉県出身23歳) の尋問記録

50人が負傷し、五体満足な兵士が負傷者を処置 (to kill)することが求められた。その命令から逃れることは出来なかったこの命令は、自傷者を壕内のある場所に閉じこめ入口にダイナマイトを仕掛けることで事足れり (gratified) となった。その捕虜と軍曹は、他の退却可能な兵士らと別れた。彼は、軽傷を負っており、軍曹に対しすまない気持ちを感じ、そのまま後方に残して欲しいと伝えた。軍曹は、彼の申し出を受け入れ、彼だけそこに留まった。4月3日までは現在地に留まり、その後那覇をめざそうと捕虜は考えた。捕虜は、海兵隊斥候隊が急襲した際、自決用に手榴弾1個を持っていた。それは、失敗に終わった。彼は、あわれなほど恥じ入り、日本には絶対帰還したくないと思っている。むしろ彼は、遠く日本から離れた異国で働くことを望んでいる。」

《保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言 上 針穴から戦場を穿つ』紫峰出版 2015年 p. 184.》

 

終戦直後、喜名の周辺には700人あまりの遺骨が見つかる。嘉手納弾薬庫としてフェンスが引かれる前に、喜名の住民はそれらの遺骨を集め、「梯梧の塔」を建立した*1。「山吹の碑」には第56飛行場大隊の最期が記されている。「負傷者に脱出するように命じた」とあるが、動けない重傷者に対しては上記のような「命令」が下されたと思われる。

 第2次世界大戦中、私たちの中隊長黒澤巌氏は第56飛行場大隊長に転任配備されて、部隊は球9173部隊と呼ばれました。
 昭和20年4月1日未明、強大なアメリカ軍が近くに上陸しますと、ただちに応戦しましたが、昼間までには兵員の半ば以上を失い、仕方なく夜間斬り込みを行って警備に当っておりました。
 明けて2日、敵の重火器(機関砲や迫撃砲)による包囲攻撃を受けました。敵味方の勢力の差はあきらかで、黒澤部隊長は負傷者や補給隊の兵隊などに脱出することを命じ、自分は残った手勢を率いて出撃し(敵中)突破口を作られましたが、午後3時ごろ、ついに部下の将兵たちとともに戦死されました。
 やがて戦火はやみ、地元喜名の住民たちは大変な戦争被害を受けて苦しい生活状態の中にありましたが、山野に散乱している(私たち将兵の)遺骨収集にあたり、洞窟に納めて慰霊碑を建て、〈梯梧の塔〉と命名して鄭重(ていちょう)に祀って下さいました。
 しかし、その地は米軍用地で立ち入り禁止地区となっており、参拝もままなりませんでした。それで昭和31年7月15日、現在の地に石碑を建立し、落成しました。その後、30年余り、供養のための香華(こうげ)は絶えることなく、ただただ感無量であります。
 ここにつつしんで石碑を建立して立派な心を顕彰し後世に伝え、あわせて当時をしのび、部隊長はじめ戦没者のご冥福を祈り、恒久平和を念願し誓うものであります。

読谷村 戦跡 24 山吹の碑・梯梧之塔

 

(強制収容されていた喜名の住民の) 帰村から間もない1948年5月、喜名東の遺骨収集が青年会を主体にして行われた。収集した遺骨があまりに多く、洗った川の水が白く濁ったという。収集した遺骨は700余にのぼり、骨を葬ったその地に旧梯梧之塔を建立した。(嘉手納弾薬庫として) 喜名東に金網が張られ立ち入り禁止になった1956年、梯梧之塔は現在地に移された。1959年5月、梯梧之塔が建つ地に、喜名出身戦没者167柱を祀ってさくら之塔を建立した。

読谷村史字ガイドマップ 喜名編

 

特設第1連隊 第2大隊

大隊長 野崎眞一大尉

第44飛行場大隊      約390名

第504特設警備工兵隊    約800名

要塞建築勤務第6中隊            約300名

農林学校学徒隊        約170名 

 

 

嘉手納飛行場から倉敷の壕に後退する。現在、倉敷は嘉手納弾薬庫と倉敷ダムに阻まれ、アクセスすることもままならない。

 

1945年4月1日『米軍、沖縄島に上陸』

米軍上陸と同時に秘密兵器である桜花(人間爆弾)と航空燃料を爆破するために、石山の洞窟陣地内に潜んで決死の重要使命を帯びて待機していた藤波晴喜少尉の率いる1個小隊50名が、いよいよ夜を待って決行したのに違いない。… 藤波少尉以下は石山を死場所と定めてか、ことごとく玉砕した。

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 144-148頁より》

 

しかし飛行場にあった桜花は無傷のままで米軍に鹵獲されている。バックアップもなく斬り込みをさせられた部隊は、目的を果たすことなく全滅している。先に桜花を破壊しておけば、無為に切り込みをする必要はなかったはずの犠牲だ。

 

怒濤のような敵大陸軍の真只中に戦力零に等しい私たち飛行場大隊だけを追いやり、自分達は南部の堅城に拠っている軍司令部の冷酷な仕打は、特設第1連隊将兵が、決して忘れることができないのだ。体の底からこみ上げてくる怒りを、私は火焰を見つめながら必死に抑えていた。わが特設第1連隊、第2大隊は、いま天をも焦がすばかりの嘉手納飛行場の燃えさかる火焰を後にして、北へ北へと無灯火トラック数両を先頭にして、長蛇の列を連ね、艦砲弾がやたらに炸裂する中を目的地、倉敷へと向った。

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 144-148頁より》

 

1945年4月3日『日米両軍の作戦変更』

部隊本部付有線分隊長の回想:

はじめこそ同等のように撃ち合っていたが、援軍もなく補給もないわれわれは、長時間つづけるわけにはいかない。… 敵の優れた兵器と物量の前には、… まったくすべはなく、わが陣地は死傷者が続出して次第に沈黙させられていった。戦闘にならない戦闘をさせた軍司令部の閣下たちや参謀たちに、… 腹の底から噴き上げるような憎しみを覚えていた。(157頁)

薄暮が倉敷の山地帯を包み始めるころ、敵は日本軍の斬り込みを警戒しての準備をはじめたのか、銃声がピタリと止んで山は静かさに返った。血と硝煙の臭いが深くたちこめる陣地内では、生き残り全員が崩れるように、生きている自分をあらためて自覚した。そして「いま脱出しなければ、わが大隊は全滅させられてしまう」と、今日一日を生きぬいて、あらたな不安と焦燥が全軍をおおいはじめた。そのとき、…野崎大隊長から、「北部転進」の命が下ったのである。(158頁)

敵は高感度のマイクを使って、わが陣地の動静を総てキャッチしている、ということで、敵に察知されないよう、静粛に慌しい撤退準備がはじまった。…40数名の尊い戦死体は、そのまま壕に仮埋葬されることになって大隊員の胸は痛んだ。私は責任上ロウソクを灯して洞窟内を見廻った。洞窟内うず高く積み込まれてある軍需物資や食糧はみなそのまま置き去りだ。それではと乾パンと弾薬を私が雑囊に押し込んでいるとき、重傷を負った補給中隊の草野茂兵長…を拳銃で始末してきたという衛生兵に出会う。彼の真赤に充血した眼が語るところによると、草野兵長は「もう何も言い残すことはない。さあ早く」と急がせ、見事なくらいの最後だったという。(159-160頁)

敵の通過した道を島の北部へ脱出するために、日没を待って生存者は軽装で道路上に集結、山肌に身を寄せて皆が勢揃いした。…行軍順序は尖兵が補給中隊、つづいて部隊本部、患者班、警備中隊の順であったと思う。二重、三重の敵中突破であるために完全な静粛行進である。

隊列が動きだすと、どこにいるか判らない敵は、早やわが大隊の行動を察知してか闇暗の中の隊列の頭上に突然、パーッと照明弾を打ち上げてきた。…山間の中の静まり返った一本道を、北東に向って沈黙の行進をしてゆく。行くての先々には照明弾が絶えず、…消えるほんの束の間だけの行進のために、100メートルいっては停まり、50メートルいっては伏せるで、おまけに重傷者をかかえてのこんな悪条件下では隊列は遅々として進まない。(161-162頁)

照明弾と砲弾に追いかけられながら、それでも隊列は…北東の進路をとっていることは間違いのない事実だ。「北部の恩納岳に辿り着かなければならない」この一縷の希望こそ、軍主力から切り離され激しい戦闘の末に潰滅した特設第1連隊3千名の中で、生き残ったわが大隊将兵の心の支えである。(163頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 157、158、159-160、161-162、163頁》

 

嘉手納飛行場から倉敷の壕に後退する。現在、倉敷は嘉手納弾薬庫と倉敷ダムに阻まれ、アクセスすることもままならない。

 

 

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