特設第1連隊

特設第1連隊とは、飛行場の整備のために編成された部隊。武器装備もほとんどないまま、上陸した米軍の正面にすえおかれた。

その中には農林学校の学徒隊170名も含まれていた。

 

特設第1連隊

連隊長 青柳時香中佐
連隊本部(第19航空地区司令部)  約45名

 

第1大隊

  • 大隊長 黒澤巌少佐
  • 第56飛行場大隊  約370名
  • 第503特設警備工兵隊  約800名

 

第2大隊

  • 大隊長 野崎眞一大尉
  • 第44飛行場大隊      約390名
  • 第504特設警備工兵隊    約800名
  • 要塞建築勤務第6中隊            約300名
  • 農林学校学徒隊        約170名 (2日夜解散)

 

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◆特設第一連隊

特設第一連隊は沖縄戦がはじまった1945年3月23日に編成されました。 伊江島にあった第3飛行場大隊、第502特設警備工兵隊も特設第一連隊の編 成部隊でしたが、沖縄本島へ移転できなくなり、伊江島で戦闘することになり ました。

第一、二大隊の主力である飛行場大隊は航空機の管理、航空部隊への支援、飛行場の整備という役割をもっていました。北、中飛行場の強化のため、台湾からの派遣が計画されていましたが、派遣中止となり、急遽沖縄戦直前に編成されたのがこの特設第一連隊でした。

 

◆米軍上陸

住民を総動員して建設した北飛行場、中飛行場が米軍上陸後に使用されない よう第一、二大隊によって破壊されました。

この両飛行場に駐屯していた第3、4飛行場大隊は米軍上陸時には正面に位置し、米軍の猛烈な砲爆撃をうけることになりました。もともと砲兵部隊をもたない両大隊は、戦闘能力が脆弱な部隊で、援軍、補給もなく、武器もわずかな状態で夜間の斬り込みを行う作戦をとる他にありませんでした。その結果、第一大隊は上陸後2日目にして大隊長以下多数の戦死者を出し、部隊は分散状態となり、生き残った部隊は国頭へ移動していきます。第二大隊のうち第4飛行場大隊は米軍の攻撃によって約 3分の1の戦死者を出し、米軍と交戦しながら、石川岳を経て、4月4日には 恩納岳に到着しました。第4飛行場大隊に所属していた飯田邦光さんは「一人 一人の自動小銃から発射されるおびただしい弾雨が私に集中する。匍匐する前後に弾が土埃をあげてプスプス、土につき刺さる」米軍のすさまじい銃撃につ いて、戦後著した「沖縄血戦」の中で述べています。

 

◆恩納岳に移動

第二護郷隊岩波壽隊長は2つの中隊を石川岳に移動させ、中頭地区での遊撃戦を展開しようとしていました。その後、北、中飛行場から後退する特設第一連隊が石川岳に集まる中、追尾する米軍の攻撃をさけるため、恩納岳へ遊撃戦の拠点を移動させました。この後6月初めの恩納岳撤退まで、第二護郷隊長配下に特設第一連隊の部隊、海軍部隊を置き、遊撃戦を展開しました。

先述した飯田邦光さんは「中頭地区から敗走してきたわれわれ飛行場部隊は 連日の戦闘で頬がこけ、くぼんだ眼だけを獣のように光らせ」ながら、何とか恩納岳までたどりつきました。恩納岳の茅葺き兵舎で、護郷隊の少年兵から「握り飯一個ずつを恵まれ」、「世の中でこんな美味しいものがある」と思い、「涙がでるほど嬉しくて、故郷に帰ったような安らぎを覚えた」ことを書き残して います。

第二護郷隊員の平良邦雄さんは、故郷大宜味で軍に供出するための木の伐採をしていた時に可愛がられた渡辺中尉という将校に、偶然に恩納岳で再会しま した。その将校は恩納岳に来るまでに軍服はボロボロで、帽子、軍刀、銃もなく、持っていたのは飯盒だけで、食糧を探しに来たとしかみえない様子でした。 平良さんが持っていた玄米を少しわけて、缶詰で炊いてあげると、その将校は 「炊き終わらないうちに、熱いのを、待ち切れなくて」食べました。

一方で日本兵が食料を奪おうとする事件も起きていました。字恩納の山城稔さんは自家生産の粉などを運び入れ、祖父母、弟の4人で恩納岳の避難小屋で生活していました。その小屋に日本兵が来て、「君たちは日本軍の米を盗んで きたのだろう」と銃で脅し、米を持ち去られそうになります。山城さんは別の 知り合いの日本兵に通報し、駆けつけた日本兵が、米を持ち去ろうとしていた 日本兵を追い払い、米を持ち去られることはありませんでした。

この他にも厳しい状況におかれた兵士や、「敗残兵」と化した日本兵を見た 住民証言、護郷隊の証言があり、深刻な食糧不足に陥っていたことがわかります。

 

◆安富祖に立つ慰霊碑

現在、恩納村で戦闘した第4飛行場大隊の慰霊碑が安富祖の第二護郷隊之碑 のそばにあります。

恩納村「広報おんな」2020年7月号(No.469)

 

 

1945年4月3日『日米両軍の作戦変更』

部隊本部付有線分隊長の回想:

はじめこそ同等のように撃ち合っていたが、援軍もなく補給もないわれわれは、長時間つづけるわけにはいかない。

… 敵の優れた兵器と物量の前には、… まったくすべはなく、わが陣地は死傷者が続出して次第に沈黙させられていった。戦闘にならない戦闘をさせた軍司令部の閣下たちや参謀たちに、… 腹の底から噴き上げるような憎しみを覚えていた。(157頁)

薄暮が倉敷の山地帯を包み始めるころ、敵は日本軍の斬り込みを警戒しての準備をはじめたのか、銃声がピタリと止んで山は静かさに返った。血と硝煙の臭いが深くたちこめる陣地内では、生き残り全員が崩れるように、生きている自分をあらためて自覚した。そして「いま脱出しなければ、わが大隊は全滅させられてしまう」と、今日一日を生きぬいて、あらたな不安と焦燥が全軍をおおいはじめた。そのとき、…野崎大隊長から、「北部転進」の命が下ったのである。(158頁)

敵は高感度のマイクを使って、わが陣地の動静を総てキャッチしている、ということで、敵に察知されないよう、静粛に慌しい撤退準備がはじまった。…40数名の尊い戦死体は、そのまま壕に仮埋葬されることになって大隊員の胸は痛んだ。

私は責任上ロウソクを灯して洞窟内を見廻った。洞窟内うず高く積み込まれてある軍需物資や食糧はみなそのまま置き去りだ。それではと乾パンと弾薬を私が雑囊に押し込んでいるとき、重傷を負った補給中隊の草野茂兵長…を拳銃で始末してきたという衛生兵に出会う。彼の真赤に充血した眼が語るところによると、草野兵長は「もう何も言い残すことはない。さあ早く」と急がせ、見事なくらいの最後だったという。(159-160頁)

敵の通過した道を島の北部へ脱出するために、日没を待って生存者は軽装で道路上に集結、山肌に身を寄せて皆が勢揃いした。…行軍順序は尖兵が補給中隊、つづいて部隊本部、患者班、警備中隊の順であったと思う。二重、三重の敵中突破であるために完全な静粛行進である。

隊列が動きだすと、どこにいるか判らない敵は、早やわが大隊の行動を察知してか闇暗の中の隊列の頭上に突然、パーッと照明弾を打ち上げてきた。…山間の中の静まり返った一本道を、北東に向って沈黙の行進をしてゆく。行くての先々には照明弾が絶えず、…消えるほんの束の間だけの行進のために、100メートルいっては停まり、50メートルいっては伏せるで、おまけに重傷者をかかえてのこんな悪条件下では隊列は遅々として進まない。(161-162頁)

照明弾と砲弾に追いかけられながら、それでも隊列は…北東の進路をとっていることは間違いのない事実だ。「北部の恩納岳に辿り着かなければならない」この一縷の希望こそ、軍主力から切り離され激しい戦闘の末に潰滅した特設第1連隊3千名の中で、生き残ったわが大隊将兵の心の支えである。(163頁)

《「沖縄戦記 中・北部戦線 生き残り兵士の記録」(飯田邦彦/三一書房) 157、158、159-160、161-162、163頁より》

 

 

 

 

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