西岡一義 (師範学校女子部長 / 県立第一高女校長) についてのメモ

 

女子学徒が動員されることになったのは、西岡一義師範学校女子部長兼県立第一高女校長が女子学徒の協力を強く主張したからだという証言がある。
「県立第二高等女学校の校長は、西岡女子部長がそうした提案を軍にしたとき、内心では反対だったが、それを言うことはできなかった。『あの男が軍へのへつらいであのような提言をしなければ、女生徒たちを戦争に巻き込まないですんだものを』とうらめしがっていた。*1

 

「そのころ、軍は女子学生を看護要員として、非常に備えて訓練する方針を明らかにした。女師・一高女は沖縄陸軍病院のために約二百名を確保し、訓練を行なえと言うのであった。西岡部長は、私に師範のほうからおよそ百二、三十名を確保するよう指示した。私は、当時本科二年生は教育実習中でもあり、三月には卒業を予定されていたのでこれを除き、本科一年以下予科二年まで約百三十名をもってこれに当てるよりほかないと答えた。一高女のほうはこれに即応して三、四年生を中心にして計画された」(元女師・一高女教員・西平英夫)*2

ひめゆり学徒隊引率教師たちとその時代(3)pdf

 

3月24日夕刻、女師・一高女の生徒が南風原陸軍病院に入隊。一方西岡女子部長は、軍の招きを受け第32軍司令部へ、残った職員生徒は陸軍病院へ出発。

3月29日夜、野田校長、西岡女子部長がやってきて、三角兵舎で卒業式が執り行われる。港川方面での激しい艦砲射撃が、三角兵舎の周辺にも時々弾着し、轟音と爆風にゆれた*3

 

卑劣な師範女子部長  

 「月刊・潮」1971.11月号

「生き残った沖縄県民100人の証言」より 仲里まさえ (当時沖縄師範女子部「ひめゆり部隊」・20 歳、現在主婦)      

 

 私たち沖縄師範女子部の生徒は、南風原の陸軍野戦病院へ看護婦として従軍するその晩、師範女子部長兼県立一高女の校長である静岡県出身の西岡一義部長の官舎の庭に集まったのをおぼえている。

 

 最後に部長は「私はこれから第三十二軍の命によって、軍司令部の参謀室に行くことになった。君たちは、先生方といっしょになって極力軍に協力してもらいたい。自分もいっしょに行きたいが、軍命では仕方がない。日本の国のために、とにかくがんばってもらいたい」という意味のことをいって、私たちひとりひとりと激励のつもりか握手を交わした。

 

一同は感きわまった表情で、訓辞を聞いていたが、その後、事実関係が明らかになると、西岡部長はもっとも安全な首里の軍司令部に避難するために参謀室付けになるウラエ作を必死になってやっていたのである。しかも彼は、当時彼の住宅当番であった師範付属の訓導で、八重山生まれの独身の某女をともなって避難していたということも、その後明らかにされた。

 

 … 女生徒たちは、いっさいを知らずに、戦場へ臨む自らの運命にただ涙するばかりであった。

 

  約二適間の看護訓練を受げた後、私は手術室(第一外科)に配属が決まった。そこで最初に経験したのは腕の切断である。ノコギリで骨を切るのだ。血があたりにとびかう。なれない私は、その情景だけで気分が悪くなっだ。しかし、兵隊さんは国のために戦ってこんなケガをして……と思うと、気分が悪いなどともいえず、必死に看護に努めた。足を切断するときは、患者の足を引っ張らなければならない。そして、切った足は壕の入り口近くに埋めるのである。足を持って壕を出ようとすると、兵隊さんが疲れきって寝ていてどいてくれない。しかたなく、「足が通りますよ」といって、やっと通してもらうのだ。

 

米軍の爆撃が、手足を埋めた場所に落ちると、手足が地面から飛び散って、木の枝などにぶら下がったりする。ほんとうに、この世のものとは思えない情景だった。

 

 南風原の三角兵舎も危くなり、摩文仁に避難して行くとき、すでに死を覚悟していた私たちは「靖国神社で会おうネ」ということばを合いことばに避難して行った。心から少しでもお国のために役立ちたいという気持ちだった。「ひめゆり部隊」の体験は、そのまま沖縄住民ぜんぶの体験の原形だと思う。私たち生き残った者は、一人でも多くの人たちに、このひめゆりの精神を伝えていきたいと思うのである。  

 

野田校長 (師範学校男子部と女子部両方の校長) の証言

部下の仲村男師部長が日本へ逃げ去り、西岡女師部長が軍にとり入って軍司令官付きになったので、両部長を失った野田校長は,男師女師両校の生徒を率い、しかも一方は鉄血勤皇隊、一方は従軍看護婦として、戦線に身を晒している。その悲痛感に打たれて流石の野田校長も、時たま顔を曇らせ、深い思いに浸っている姿を見受ける時があった。そ の胸中を察して記者達が、「西岡は酷い奴ですね。」と云うと,、野田校長は興奮の色を包みかねたように、「全く酷い奴ですよ、生徒をほったらかして、軍にくっつき、しゃあしゃあと御馳走にあずかっているかと思うと、全く嫌になる。あいつはどうも怪しいと前から睨んでいた。 此の際に及んで教え子を見殺しにするとは教育者の風上にも置 けぬ。 仲村といい、西岡といい、酷い連中を部下にもった僕がつくづく不運だと思うよ、僕は戦死を覚悟しているがその事を誰かに遺言したいと思っている。」 と答えた。

沖縄タイムス『鉄の暴風』 pp.84-85

 

米軍上陸の可能性がいよいよ濃厚となった緊張した空気の中で, 西岡部長から握手された生徒達は,そのとき感激の面持ちをしていたが、職員たちは、西岡部長が参謀室にいくための工作をしていたことをうすうす知っていたので、この際に、生徒達に対する責任を職員に押しつけて、自らは最も安全な首里の軍司令部に避難しようとする彼の態度に,割り切れないものを感じていた。彼は当時、彼の住宅当番であった師範附属の訓導で、八重山生れの銘刈という独身の女性を伴いすでに首里の洞窟に去っていった。

沖縄タイムス「鉄の暴風』 p.188。

 

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読売新聞 1949年9月7日 「記録文学また波紋 西岡氏 (学芸大学文芸主事)を排斥 虚か実か沖縄 の 『白百合部隊』 当時の行動 学園の紛争に油を注ぐ」

 

 

*1:池宮城秀意『沖縄に生きて』 サイマル出版会 1970

*2:西平英夫『ひめゆりの塔―学徒隊長の手記―』雄山閣出版2015

*3:読谷村史 「戦時記録」下巻 第六章 証言記録 女性の証言