第32軍の沖縄県民への根深い差別と不信感 ~ 「沖縄守備軍」の実態

< 1945年5月11日に関するメモ書き >

 

 

5月10日の神参謀の本土派遣と

5月11日の沖縄県の本土派遣団の背景。

 

神参謀が本土に派遣されるという、ちょうどその日、首里城地下にあった司令部壕では、罪のない沖縄の女性が女スパイとして極めて残酷なやりかたで処刑されている。

 

その同じ日、神参謀が本土に派遣される。

 

neverforget1945.hatenablog.com

 

沖縄県民をスパイ扱いしている、という以前に、第32軍は自らの敗北を、沖縄県民のせいだと責任転嫁しているのである。

こちら特報部-元陸軍参謀のメモが語る沖縄戦

東京新聞

2010年2月23日

 「神(じん)日誌」と題した報告書がある。沖縄戦を逃れた元陸軍参謀が残したメモ集で、戦時下の沖縄県民が日本軍にいかに非協力的だったかと告発する驚くべき内容だ。視点を変えれば、沖縄県民の慟哭(どうこく)と怒りの声が文字の向こうから聞こえて来るような貴重な資料でもある。普天間移設問題が迷走中。辺野古陸上案も急浮上した。また沖縄に犠牲を強いる事態にはならないだろうか。結論を出す前に歴史に学びたい。

 

「政府に対する連絡
一 (略)
二 沖縄県人は(略)精神的中核なし 且(かつ)無気力 神社仏閣極少
三 軍隊に対する態度 消極的に協力
 例(一)軍隊が来たから我々が戦闘の渦中に入りたりとするもの頗(すこぷ)る多し
 (二)学徒(防召)は駄目なり 召集しても皆自家に逃げ帰り 召集解除の止(や)むなきに至る(略)」(原文のかなは片仮名)

 

 沖縄戦に関する資料を集めた内閣府沖縄戦関係資料閲覧室(東京都千代田区)にある「神日誌」(写し)。一部の研究者には知られた同書には、沖縄県民が旧日本軍への協力に消極的だったとつづられた部分がある。

 

 「(三)本県人のスパイ 甚だしきは落下傘にて潜入(本県人)を目撃 追跡せることあり 電話線の故意切断
 (四)弾丸の中でも金をやらねば物資を分けて呉(く)れぬ 何を考えているか分からぬ」

 

 報告は沖縄県民をスパイ扱いしている。

 沖縄戦で指揮を執った大田実海軍中将が沖縄県民の奮闘ぶりを伝えた有名な電報と、かなり趣を異にしている。

 大田中将の電報は「県民は青壮年の全部を防衛召集に捧(ささ)げ(略)若き婦人は(略)看護婦 烹炊婦は元より砲弾運び(略)」までしたと伝え、「県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」と訴えた。

 日誌を残した陸軍の神直道中佐とはどんな人物だったのだろうか。

 神氏の著書「沖縄かくて潰減(かいめつ)す」などによると、1911(明治44)年仙台市に生まれ、陸軍士官学校を経て、航空部門を歩み、大本営参謀などを経て、少佐だった1945年3月に参謀として沖縄に赴任。その後、中佐に昇進。98年に亡くなった。

 米軍が沖縄を激しく攻撃していた45年5月末、神氏は上官の命令で沖縄脱出に挑む。漁師の支援を受け、糸満から小舟で夜陰に紛れながら10日あまりかけて鹿屋基地へ。東京に戻り、戦況を伝えて援軍を求めた。

 

お互い不信感

 大田中将の電報と大きく食い違うメモは、このころに書かれたらしい。沖縄戦に詳しい関東学院大林博史教授は、根底には軍と県民側は、沖縄戦前から双方に不信感があったとみる。

 「軍内部には沖縄県民に対して『もともと日本ではなかった。言葉も通じないから、何を考えているか分からない』との不信感があった。沖縄県民側も、最初は日本軍に期待していたが、戦闘が進行するにつれて『軍が来たからこんなことになった』との思いが強くなった。それまでに徴用や食料供給などでひどい目にあってきたので、最後は逃げたのだろう」

 「そんなことを書いていたなんて、信じがたい」。琉球大学名誉教授の大田昌秀・元沖縄県知事は神日誌の内容に驚く。大田氏は沖縄師範学校在学中に鉄血勤皇隊に動員され、沖縄戦を戦った。当時、首里の司令部壕(ごう)で何度も神氏の姿を見かけた。三十代で意気盛んだったという。その神氏と大田氏は終戦後、言葉を交わした。東京で学生生活を送っているところを訪ねて来たという。

 話題は、飛行場を造るために軍が接収した沖縄の農地の返還訴訟だった。「私が農地を取り上げた本人。裁判で証言してもいい」と神氏は語った。言葉から、沖縄への謝罪の気持ちがにじみ出ていた。その時の印象と日誌の記述は、大きく食い違っている。

 さらに、沖縄戦最終盤に神氏が本島を脱出した経緯にも触れる。

 「神氏は敵の包囲を突破し、糸満から東京へ戻った。糸満の漁師ら数人が決死の思いで協力したから、奇跡の帰還が成功した。県民を悪く言うとは思えない」

 沖縄県民には生命、財産など持てる物すべてを投げ出して日本軍に協力したという思いがある。「日誌の内容を知ったら県民はたいへん怒るだろう」と大田氏は語る。

 しかし、日誌が沖縄県民を痛烈に批判しているのも事実。そのように書かれるに至った理由は陸軍内の対立とみる。

 大本営から来た八原博通大佐は持久戦を主張したのに対し、やはり大本営から来た神少佐(当時)は航空作戦だった。そして八原大佐に軍配が上がった。「神氏は地元の人を徴用して飛行場を十数カ所造った。しかし、米軍に使われてはいけないと壊した。そこから住民と対立が生じたかもしれない」と話す。

 では、日誌に書かれた「スパイ疑惑」は事実だったのだろうか。

 「神氏はほとんど壕にこもっていた。分かるはずはない。スパイとして処刑された人はいたが、八原大佐も『根拠はなかった』と認めている」と全面否定する。

 前出の林氏も「日本軍が負けたり、不利になったりするとスパイ論は必ず出てくる。負けるはずのない天皇の軍隊が、スパイのために苦戦しているのだと。シンガポールもそうだった」と話す。

 

 軍と県民と相互に芽生えた不信感。

 大田氏は「沖縄防衛軍ができた時、島外から来た兵隊が『お前らも守ってやる』と偉そうに振る舞っていた。しかし、実際には食料、水を奪われ、自分たちが掘った壕からも追い出された。ぬれぎぬで殺された人もいた」と振り返る。

 沖縄戦での県民の犠牲者は軍の犠牲者を上回ったとする説もある。「米軍より日本軍が怖い」という当時の発言も記録に残っている。

 そして60年以上を経た今も、悲惨な戦争の記憶は消えてはいない。だからこそ県民は基地の存在に敏感だ。

 「沖縄は現在も米軍の占領下にある。安保は国益、アジア、太平洋地域の平和のために不可欠と政府は説明するのに、本土はその負担を引き受けようとしない」と大田氏。実際、日本にある米軍基地の75%が沖縄に集中。港も米軍管理の所が多く、本島の上空域の半分近くが振られている。基地を押しつけられる状況を「沖縄差別」ととらえ、政府への反発が強まっている。

 大田氏は「沖縄独立を主張する政治団体などの看板が公然と掲げられるようになっている」と、現況を説明。「県民は基地にうんざりしている。環境保護の面からも問題がある辺野古普天間飛行場を移設すれば政府、民主党への信煩は失われるだろう」と警告する。

 

翌日の5月11日、県側もまた本土に派遣団をおくる。そうする必要性があったからである。その派遣の目的の内容は、第32軍の派遣団の目的と大きく異なるものだった。

 

島田と荒井が沖縄戦に敗色を感じ、緊急対策を講じ始めるのはこのころからである。…当時、警察部壕内には元・防空監視隊の女子隊員や各課の女子職員、警察部員の家族など、非戦闘員の婦女子が約30人同居していた。島田と荒井はこれら婦女子と、宮古列島多良間島へ帰りそびれて警察部壕に身を寄せていた青木雅英県議を豊見城村字長堂の後方指導挺身隊本部壕へ避難させることにした。』(296頁)

『…島田や荒井の慌ただしい動きから見て、大田少将ら海軍側から切迫した戦況について情報を得たと思われる。なぜなら、…証言によれば、長参謀長はこの期に及んでも、戦況を聞きに来る警察部の情報連絡員や新聞記者に対し「もはや諸君は情報を聞く必要はない。そんな暇があれば、早くちょうちん行列の用意をしろ」とはぐらかし、島田や荒井に対しても、ありのままの戦況を腹を割って話すことはなかったからである。』(297頁)

「戦況は米軍に空、海とも圧倒され、援軍はもちろん軍需物資の補給路も完全に断たれ、県民の必需物資の補給も全く出来ない状態に陥っている。陸上の戦闘でも、米軍の陸海空からの近代兵器による昼夜を分かたぬ砲爆撃が激烈で、我が第一線防衛陣地は日毎に後退し、最前線では混乱迷走の状況にある。首里の球部隊(第32軍)司令部の撤退も間近のようで、友軍の敗北は残念ながら確実のようだ。

内務省への通信手段も制約され、わずかに電信で緊急重要事項だけでは発信しているが、これとて間もなく出来なくなる見通しだ。沖縄戦が始まってから今日まで、県民は砲弾の飛び交う中で時給自足のための食糧の増産に励み、日本軍の後方作戦にも協力し、我が国の勝ちを信じて献身的に働いて来た。この県民の姿を内務省に報告しておかなければならないが、現実はその手段がない」…荒井は思い切ったように、再び口を開いた。

「そこで、内務省への報告の重責を負ってもらう警察特別行動隊(通称・警察別動隊)を編成することにした。君は今、警備中隊の分隊長として活動しているが、別動隊の隊員として沖縄を脱出し、あらゆる手段で東京へ行き、内務省沖縄戦の戦況を克明に報告してもらいたい

…任務の遂行方法について…説明があったが、隊員が最も心強かったのは、「陸、海軍でも同様の任務を持つ行動隊を編成し、陸軍省海軍省への報告を行うことになっている。警察別動隊の脱出用舟艇や食糧は海軍司令部が調達してくれるので、緊密な連絡を取れ」という点だった。また、行動隊の任務については「警察部の直属上司、同僚にも話すな。表向きは住民地域に入り、民心の安定を図る特殊任務につくことにしておけ」、日程は急を要するので、明朗、警察部壕を出発」ということだった。」(300-304頁)

《「沖縄の島守 内務閣僚かく戦えり」(田村洋三/中央公論新社) 300-304頁より》

 

つまり、県側は、第32軍の神参謀派遣の内情を海軍の大田実中将から知り、あわてて使節団を結成した。

 

沖縄戦が始まってから今日まで、県民は砲弾の飛び交う中で時給自足のための食糧の増産に励み、日本軍の後方作戦にも協力し、我が国の勝ちを信じて献身的に働いて来た。この県民の姿を内務省に報告しておかなければならない

 

この強い思いは、大田実海軍中将の最期の伝聞とも呼応している。

 

それだけ、第32軍の県民への根深い差別と不信感とは、相当なものだったのだ。

 

これが「沖縄守備軍」とよばれた軍の実態である。

 

追記。

わかりやすい記事を見つけた。

 

株式会社 高文研

1945年4月1日、米軍は総勢15万5000人の戦闘部隊を投入して沖縄本島に上陸作戦を開始した。

 

対する沖縄守備軍(第32軍)は防衛隊・義勇隊など合わせてもわずか約12万人の劣勢、沖縄守備軍は初めか米軍の本土進攻を遅らせるための「時間稼ぎの捨て石作戦」、つまり「玉砕」すべき運命に立たされていたのだ。
 


守備軍の敗色が濃厚となるにつれて本土では、前記のような「沖縄人総スパイ説」が流されていた。

この状況を憂えた島田知事と荒井警察部長は戦場の県民の実情を日本政府に正確に伝えるために、特別行動隊8名を編成して本土への密使として派遣した。

「鉄の暴風」が吹きまくるさなか、小舟に乗って島伝いに本土へ向かう決死隊が、はたして米軍の包囲網をくぐりぬけて目的地へたどりつくことが出来るか、確率はきわめてきびしかった。
 


この状況下で独自の通信手段で島田知事の意向をサポートしたのが、次に述べる海軍部隊から発信された「沖縄県民カク戦ヘリ」の電文だったと思われたが、沖縄県が派遣した特別行動隊のほうは、8名の隊員のうち本土へたどりついたのは1名だけ、福岡の沖縄県連絡事務所を経て、内務省に県知事の報告書を提出したのは、太平洋戦争が終わって1年もたった1946年夏のことだった。
 


時期はずれの報告書になったが、しかし内容は沖縄県民の名誉にかかわる重要なものだった。

島田知事の報告書で最も強調しているのは「沖縄県民のスパイ行為があったために戦争に負けた」という流言を打ち消すことにあった(荒井紀雄『戦さ世の県庁』参照)。
 


特別行動隊の派遣とは別に、島田知事は5月25日に海軍壕の電信機を借りて「県知事より内務大臣宛」の電文を発信、「県民の戦意は旺盛なので治安上の懸念はないが、食糧は逐次逼迫しており、6月上旬以降は窮乏のため一部の飢餓が憂慮される」という切羽つまった内容だった。

「治安上の懸念はない」云々は、本土で流布している「沖縄人スパイ説」を打ち消す意図がうかがえる。
 


ここで「沖縄人スパイ説」を打ち消すために陰ながら尽力したもうひとりの人物が浮上してくる。

海軍部隊の大田實司令官と島田知事とは、沖縄への赴任が昭和20年1月で同期という因縁もあって、日ごろから親密に情報交換をする間柄だった。

島田知事も十・十空襲で県庁の電信機が使用不能になったあとは、海軍壕の電信機を使用させてもらっていた。

沖縄人スパイ説の流言を打ち消すために決死隊を本土へ派遣する計画や、内務大臣あての報告書の内容などもあらまし聞いていたのであろう。

大田司令官がかの有名な電文を発信することにした主な動機は、「沖縄人スパイ説」に悩まされる島田知事の苦衷を察してのことだろうと推測されるのである。
 


ちなみに、第32軍とは独立して小禄[おろく]海軍飛行場の地下壕に本部をおく海軍部隊(沖縄方面根拠地隊)は、総員約1万人のうち3~4000人は沖縄現地での防衛召集者であった。


なかには沖縄人どうし方言で話す隊員もいたというが、海軍部隊の内部で「沖縄人スパイ」が摘発されたという話は聞いたことがない。むしろ部下に沖縄出身者が多い事情から、大田司令官としては島田知事に対しても一般県民に対しても同情の念が強かっただろうと察せられる。
 


大田司令官は、米軍が小禄海軍壕に迫ってきた6月13日に部隊指揮所で自決を遂げるが、その1週間前の6月6日に、有名な「沖縄県民カク戦ヘリ」の電文を本土へむけて発信している。
 

約800字におよぶ長い電文には「鉄の暴風」へまきこまれた県民への同情とともに、暗に「沖縄人総スパイ説」の汚名を打ち消す意図もあったことが察せられる。
 


論より証拠、電文は6月15日付で全国紙に掲載されたが、記事の前文には次のような解説がついているのだ。

「われわれは今日まで沖縄県民は米軍上陸とともに驕敵の軍門に降りあるひはその行動は皇軍に対し非協力的な態度をとった等々の多くの説を耳にした。しかし、これらの説はこの指揮官の報告により根拠なき浮説であることが明らかにされ、同県民は一人の例外もなく醜敵に立ち向ひ、あるいは皇軍全般作戦に協力しつつあるのである」
 


私がこの記事に注目するのは、「沖縄県民の忠誠心・愛国心を認めてくれた」ことを喜ぶからではない。むしろ逆で、それまでは全国の多くの新聞読者が「沖縄人スパイ説」を鵜呑みにしていたであろうという恐ろしさである。

このころ一般国民の心に植え付けられた「沖縄人」に対する不信感や嫌悪感や憎悪は、その後はたして完全に清算されただろうか、あるいは......と考えると、末恐ろしくなってくる。

 

それだけに大田司令官が全国民宛に発したこの電文が、千金の重みをもって心に残るのである。

 

 沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、県にはすでに通信力なく、三二軍司令部もまた通信の余力なしと認めらるるにつき、本職県知事の依頼を受けたるにあらざれども、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急御通知申上ぐ。

沖縄県に敵攻略を開始以来、陸海軍方面とも防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆んど顧みるにいとまなかりき。

然れども、本職の知れる範囲においては、県民は、青壮年の全部を防衛召集にささげ、残る老幼婦女子のみが、相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、わずかに身をもって、軍の作戦に差支えなき場所の小防空壕に避難、なお砲撃下をさまよい、風雨にさらされつつ乏しき生活に甘んじありたり。

しかも若き婦人は率先軍に身をささげ、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運び、挺身斬込隊すら申し出る者あり。
 

所詮、敵来たりなば老人子供は殺さるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に供さらるべしとて、親子生別れ、娘を軍衛門に捨つる親あり。看護婦に至りては、軍移動に際し、衛生兵すでに出発し、見寄りなき重傷者を助けて共にさまよう。

真面目にして一時の感情にはせられたるとは思われず。さらに、軍において作戦の大転換あるや、自給自足、夜の中にはるかに遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者、黙々として雨中を移動するあり。

これを要するに、陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物資節約を強要せられて、御奉公の一念を胸に抱きつつ遂に...(不明)...報われることなくして、本戦闘の末期を迎え、実状形容すべくもなし。

一木一草焦土と化せん。糧食六月一杯を支えるのみとなりと謂ふ。

沖縄県民かく戦へり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを」