伊平屋島の戦争

 

[語れども語れども・うまんちゅの戦争体験](412) 島に米軍上陸 家焼き払う 東江三秀さん(90)伊平屋村前泊 「日本また戦前に」 危機感
2023年6月4日 5:00

 

 伊平屋島で6人きょうだいの次男に生まれた。幼い頃は山間を流れる小川や緑豊かな景色が好きで、よく山に登って遊んだ。周辺の松林に生えていた自然のヨモギやンジャナバー(ニガナ)を採って帰り、夕飯のみそ汁に入れるのがわが家の定番だった。

 沖縄本島に米軍が上陸した1945年4月ごろから、伊平屋島の上空を1日に4~5回、戦闘機が旋回するようになった。どこに爆弾を落とすか見に来ていたんだろう。私はまだ子どもだったが、いつか島にも戦争が来るんだと思っていた。
6月3日の攻撃

 いつものように2~3人の友人と山で遊んでいた45年6月3日日曜日の午前8時ごろ、前泊沖の方に白い波を立てて走る黒い船が見えた。小さい船から大きい船へと順序よく並んでいて、内地に向かう船が通りかかったのだと思った。

 しばらく眺めていると船はどんどん島の方に近づき、戦闘機が爆音を響かせて島の上空を旋回し始めた。すると、東の山に爆弾が落ち「ドドン」と大きな音が鳴った。黒煙が上がり、海岸にいた人たちが一斉に避難する姿が見えた。

 2発目、3発目と、どんどん爆弾が落とされ、これは大変だと思い、松林近くにあった壕に走って逃げた。私の家族を合わせて20人ぐらいが集まった。

 泣いていた2歳の弟を姉があやしていると、壕の真上にも艦砲弾が落ちた。とても怖かったが幸いにも硬い壕だったので、そこにいた全員の命が助かった。

 攻撃が止まった昼前、2人の米兵が壕の前に来た。「デテコーイ。米軍は悪いことしないからデテコーイ」と言い、こちら側に銃を向けていた。全員で壕を出て、島民は皆、収容場所の田名集落に集められた。

 収容先では食事には困らなかったが、家族バラバラでの生活だった。私は母と弟と3人で、父や姉さんたちとは別の場所に振り分けられた。

 寂しくて早く自分の家に帰りたかったが、上陸から2~3日後、かやぶきの家は衛生状況が悪いという理由で米軍は私たちの家を含むたくさんの民家を焼き払った。地域の半分が真っ白になり、やりきれない思いだった。

 米軍が撤退したのは11月ごろ。それから両親はカヤや木を買い、家を作り直した。
体験伝える活動

 その後、名護高に進学し、卒業後は60歳で定年退職するまで郵便局に勤めた。引退後は民生委員として、村内の小中学生に向けて戦争体験を話すようになった。殺し合いは駄目だと伝えたかった。

 最近、日本がまた戦前に近づいている危機感がある。若い人たちには、人の心の痛みが分かる優しい人間になってほしい。戦争を始めるのは人間です。世のため人のために尽くしてください。
編集後記 

 祖父の兄の三秀さんは、歴史的な一日の記憶を風化させてはならないとの思いから、戦後すぐ、米軍上陸の日に見た光景を得意だった絵に残しました。米軍も日本軍も許せないという思いだったそうです。力強く、鮮明に描かれていました。祖父が生まれ育った小さな島で起きた事実を、次は私が次世代に伝えていきます。(政経部・東江郁香)

=日曜日掲載

(写図説明)戦後すぐに小学生だった東江三秀さんが描いた、1945年6月3日の米軍上陸の絵。海からは軍艦、空には戦闘機が飛ぶ当時の様子が描かれている