1947年5月1日、特別行政区「みなと村」の設置 ~ 那覇の占領と軍の都合

 

1947年5月1日 - みなと村の設置

1947年5月1日、那覇軍港の周辺に特殊行政区「みなと村」がつくられた。

壷屋と牧志の一部を除いて、旧那覇地区が軍事占領され、住民は「排除」されていた時期のことである。

1945年の沖縄戦の後、米軍専用となった那覇港 での米軍需物資や民間の食料品等の荷役作業は、当初日本軍捕虜によって行われていたが、捕虜の解放、本土への引揚げにより、沖縄県約2千人那覇港湾作業隊が組織された。この作業隊及びその家族を含めて約1万人の生活・労務管理等を円滑に行うため、1947年5月1日、当時の沖縄民政府によりみなと村が設置された。

みなと村役場跡(ミナトソンヤクバアト) - Monumento(モニュメント)

 

軍作業と捕虜収容所

1945年の沖縄戦当時から、米軍は日本兵捕虜を軍作業に従事させた。屋嘉捕虜収容所以外の6か所の捕虜収容所がすべて米軍基地内外に設置されているのはそのためである。那覇港の港湾作業に従事させたのは、おもに奥武山捕虜収容所の収容者だった。

奥武山捕虜収容所 米兵と捕虜 那覇市歴史資料室収集写真

 

しかし日本兵捕虜の本土への復員がすすむと、当然、労働力が足りなくなる。ところが米軍は那覇を軍事占領し、住民を排除している状態にある。米軍としては、どうやって住民を排除し管理しつつ、必要な労働力を確保できるかということを、村と呼ばれる管理地区を設置することで解決しようとした。それが「みなと村」という特殊行政区だった。

 

国場幸太郎と「みなと村」

米軍から初代の村長に指名されたのは、あの國場組の創設者「国場幸太郎」だった。

人物/国場幸太郎 : 那覇市歴史博物館

初代の村長には那覇港湾作業隊総支配人となっていた国場幸太郎が就任した。国場は戦前は沖縄の日本軍飛行場の多くを請負い、沖縄戦当時は本土に出向き、1946年にいち早く密航船で沖縄入りしていた。役場庁舎は奥武山の世持神社が使われた。那覇港湾作業隊との兼務が許されており、村職員の大半が那覇港湾作業隊の関係者で占められていた。 

みなと村役場跡(ミナトソンヤクバアト) - Monumento(モニュメント)

 

国場幸太郎とは

國場組と基地建設

国場幸太郎は、1931年に國場組を創設、日本軍から多くの飛行場基地建設を受注した。

すでに小緑飛行場整地並ぴに拡張工事を皮切りに、読谷飛行場新設工事という大工事を成し遂げていた國場組は、沖縄の飛行場関係工事のその大部分(嘉手納飛行場滑走路新設工事、伊江島飛行場新設工事、西原飛行場新設工事、城間飛行場滑走路新設工事)を受注し、予定通り竣工させた。(予定通り竣工しておらず、また城間、西原は完成してもいないので、読む際に注意が必要)

沖縄基地建設と國場組の歴史 ~ 沿革『國場組物語』 - Battle of Okinawa

 

こうして建設された日本軍の軍事拠点は沖縄戦の標的となり、四人に一人の命が失われ、伊江島飛行場に関して言えば、住民の半数の命が奪われていくのであるが、

当の国場幸太郎は、沖縄戦直前に東京に飛ぶ。また幹部とその家族140人は、国場組の沿革『國場組物語』によると、国頭地方の山中に「仮小屋をつくって避難」した。多くの避難民がヤンバルで餓死、行き倒れになるなか、このコミュニティーには、140人が生存できうる食糧などの備蓄が備わっていたようだ。

直前に東京の陸軍航空本部に赴き、不在の幸太郎に代わって、解散後は幸吉を頭に、幸いにも日米の地上戦に巻き込まれることなく、無事に終戦の日を迎えることができた

沖縄基地建設と國場組の歴史 ~ 沿革『國場組物語』 - Battle of Okinawa

 

基地を作る側は、逃げ道を用意し生きのびるが、

基地を押しつけられた側の人間は、何も知らされないまま、生活ごと「生きた砦」にされてしまう。

 

 

さて、国場幸太郎は熊本で終戦を迎え、1946年7月、いまだ米軍占領によって封鎖されている沖縄に密航船で帰還した。9月には、民政府の中心地であった石川市(現うるま市)に國場組の看板を掲げ、12月には那覇港湾の荷役作業隊の支配人に任命される。

 

こうして1947年5月1日、特殊行政区「みなと村」の発足とともに、国場幸太郎は荷役作業に従事する人々が住む特別行政区の村長も兼ねるようになった。

 

「みなと村」荷役作業隊の支配人、兼村長

規格住宅の町並み : 那覇市歴史博物館

村の行政区域は、奥武山を中心に戦前の那覇市山下町、真和志村の楚辺・松尾・壺川など約23万坪にも及んだ。また米軍のテントカバーで作られた規格住宅 が1世帯に1棟づつ割り当てられ、奥武山など区域内には規格住宅が立ち並んだ。

みなと村役場跡(ミナトソンヤクバアト) - Monumento(モニュメント)

那覇軍港で働く労働者が多く集まり、みなと村(後に廃村、村長国場幸太郎)が生まれ護国神社の境内に教室があった。運動場は現奥武山陸上競技場あたりだった。

みなと中学校 卒業記念(昭和25年) : 那覇市歴史博物館

写真集那覇百年のあゆみ/写真番号508/P143/中央は村長国場幸太郎氏。

みなと村創立2周年祝賀会記念写真 : 那覇市歴史博物館

 

その当時の空中写真をみてみよう。沖縄戦当時の1942年、米軍は破壊された南側の橋をベイリーブリッジをかけてつないだが、米軍占領が終わる1973年までには奥武山周辺が埋め立てられていることがわかる。このように沖縄の埋め立ては多く米軍基地の土地収奪に関連する。

国場幸太郎は、米軍の許可を得て1947年4月から翌年の12月のあいだ2400平米を埋め立て造成し、ゆえにここにある国場幸太郎の邸宅は自分に占有権があると主張している*1。むろん、労務者の「飛び地」であった特別行政区において、米軍の指令あるいは許可なく埋め立てができたとは思えない。

 

軍港周辺に密集する住宅。

沖縄 37年のあゆみ : 復帰 10周年記念行政記録写真集

 

那覇の解放と「みなと村」の解散

1949年12月9日、米軍政長官シーツ少将は、沖縄の首都を那覇にすると発表し、それから数年以上かかって、軍占領されていた旧那覇市街を段階的に解放、住民が帰還できるようになった。

 

1951年には辻、松山、久茂地、久米、天妃、牧志などが、1952年には西新町や若狭などが返還された。1944年の十・十空襲、1945年の沖縄戦以来、人々はこれほどの年月を土地を奪われた状態で過ごしたことになる。

 

みなと村は、それにさきがけ、1950年8月1日に那覇市編入される。こうして、那覇市の解放によって「みなと村」は解消する。

 

米軍の都合でつくられ、米軍の都合で消滅した「村」だった。

 

1956年、那覇は沖縄の「首都」となる。

 

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さて、國場建設の果敢な公式『國場組物語』、サイトから消えていたのでアーカイヴしてさしあげました。

 

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